なんで、こんなことになったんだ。
まるで他人事のように俺は目の前の光景を見ていた。

「これで、あんたはあたしのもの……」
俺に跨ったまま凄絶な笑みを浮かべる女――てゐ。
体中に飛散した体液が、ここで何が起こったかを証明している。
「あの女よりもあたしの方が良いでしょ? ねぇ?」
てゐが何かを言っている、でもそれを理解できる程の余裕はもう残っていなかった。
「ほら、早く言いなさいよ! 言えよ!! あたしの方が好きだって!!!」
ガクガクと体が揺さぶられる。それでも、思い浮かぶのはただ一人――

「鈴仙……」


「てゐ、鈴仙を見なかったか?」
「……知らない」
「そうか、分かった」
ある日、俺は鈴仙を捜していた。
人里で買ったプレゼントを渡そうと思っていたんだけど、どこだろうか。
「喜んでくれると良いんだけどなぁ」
想いを寄せている彼女――鈴仙が喜ぶ姿を想像すると自然とニヤけてしまう。
「そんなんで喜ぶとは思えないウサ」
「うるさいな、これでも随分悩んだんだぞ」
人様の想像を邪魔するんじゃない。
「ふん、どうせ振られるウサよ」
そう言うと、てゐはドスドスと足音を立てながらどこかに行ってしまった。
「……機嫌悪いな、あいつ」
普段から色々とからかわれているが、最近は妙に機嫌がよろしくない。
「っと、それより鈴仙はどこかな」
早く渡して喜ばせたいぜ。
改めて決意した俺は、とりあえずてゐとは反対方向に向かうことにした。


だから気付かなかった。
てゐが、怨嗟を込めた表情で俺を眺めているのを――


それから数日経ったある日、俺は夢見心地の気分で竹林を歩いていた。
なんと鈴仙が俺に話があると言うのだ!
それを伝えてきたのはてゐなので信憑性には欠けるが――もし本当なら期待せざるを得ない。
この前のプレゼント――ちなみにネクタイピン――はとても喜んでもらえたからだ。
てゐのことだから嘘も十分あり得るのだが、鈴仙が絡むとやっぱり気になってしまうのだ、俺は。

そして、鈴仙が待っていると言われた、竹林の中でも一際目立つ大きな竹が見えてきた。
だが肝心の鈴仙の姿は見えない。まだ来てないのか。
まぁすぐに来るだろうと、地面に腰を下ろす。

それからしばらくすると、ガサガサと近くから音がした。
その方向から現れたのは――

「やっほー、お馬鹿な○○君」
てゐだった。ってことは……、
「嘘だってことか……。畜生、やられた」
ここまで期待させといてこの始末か。やっぱりそう上手くいかないよなぁ……。
1人でぶつぶつ言ってる間に、てゐはいつの間にか目の前まで迫っていた。
「本当、あんたって鈴仙が絡むと簡単にひっかかるよねー」
「うるせぇ。俺はもう帰る!」
ゲラゲラ笑いやがってこん畜生が。
こうなったら帰って本人に癒してもらおう。
そう思って立ち上がり、道を引き返そうとして――

「逃がさないよ」

気付いたら俺は地面に押し倒されていた。
その犯人はもちろん――てゐだった。
「何しやがる!」
「せっかく2人っきりになったんだからさぁ、楽しもうよ」
「何言ってんだ、退け!」
「嫌」
「おい、からかうのもいい加減に……!」
必死に抵抗するものの、凄まじい力で抑えつけられて動けない。
「あたしが冗談でこんなことすると思う?」
「はぁ? いきなり何を……」
「あたしがこんなに想ってるのに、あんたはちっとも気付かないし」
そう言って顔を俯かせるてゐ。
「えっ、おい、それは」
おいおい、今のはどう考えても告白にしか聞こえないんだが。
「口を開けば鈴仙、鈴仙、鈴仙! 本当に腹が立つんだよね」
ここでバッ、と顔を上げるてゐ。その表情は――あまりにも歪だった。
目は虚ろで光を宿しておらず、笑みこそ浮かべているものの、歪んだ笑みと称するのにふさわしい笑みだった。
「だからさぁ、一生懸命考えたのよ。どうやったら○○が手に入るのか」
ニタァっと笑いかけられて、俺は背筋が凍りつきそうになるのを感じると共に、
あっけなく「罠」にハマってしまったのに気付き――
「やっっと捕まえたんだからね。あたしの良さを一杯教えてあげるわ」
「た、助け」
助けを叫ぼうとした唇は、てゐのそれで塞がれた――


ここで話は冒頭に戻る。
てゐに散々貪られた俺は、もう何をする気力も無くなっていた。
「うふふ、こんなに汚したのは○○なんだからね。責任取ってね」
「……」
「何とか言ったらどうなの?」
「お、俺は鈴仙のことが……」
好きだと言うとした所で、バチン! と乾いた音が響くのと同時に頬に鋭い痛みが走った。
「まだ分からないの? こんなに愛し合ったのに」
「……っ、お、俺は鈴仙が」
そこまで言いかけて、またバチン、バチン、とさっきよりも力を込めて頬を叩かれる。
「分からないなら、分かるまで何回でも愛してあげる」
キッ、と光の無い瞳で睨みつけ、てゐは再び俺に覆い被さってきた。
「絶対にあんな女なんかに渡さない! あんたは私と一緒にならなきゃいけないの!!」
涙を流し、狂ったように叫びながら俺を求めるてゐ。
その光景はあまりに壮絶だった。
本当にこれは現実に起こったのか、自分は悪夢を見ているのではないのか。
もし夢ならば早く覚めてくれ、一秒でも早く。

だが叩かれた頬の痛みが教えている――これは夢ではないと。
ジンジンと痛む頬が訴える――これは現実なのだと。

「鈴仙……」

諦観に支配されつつある頭の中で、鈴仙は笑っていた。

それは俺を嘲け笑っているようにも、残された希望のようにも見えた。



全て受け入れれば、幸せになるかもしれない。
しかしそれは全てを諦めることでもある。
全部綺麗に丸く納まる選択肢ってのはないのだろうか。

「うふふ、○○、○○……」
甘ったるい声を出しながら俺に擦り寄るてゐ。
その蕩けきった表情から察するに、幸せに満ちていることは想像するのに難くない。
だが断じて言っておこう。

俺は幸せではない。

「好き好き好き、大好きぃ」
壊れた玩具のように何度も愛を囁かれるのも、
「○○の良い所は何でも知ってるんだから、まずね……」
馬鹿みたいに俺を褒めちぎるのも、
「あぁ、あたしだけの○○……。絶対に離さない、誰にも渡さない……」
こうして異常なまでに束縛されるのも――もう、うんざりだ。

ちなみに、ここは竹林のどこかで永遠亭から遥か遠くに位置している所らしい。
詳しくは俺も分からない。はっきりと把握しているのは目の前の兎だけだろう。
ここから逃げ出せば良い、なんて考えるだけなら簡単だ。
実行するのはえらく困難だからな。
何故ならば、俺の片手は手錠で封じられている上に、唯一の出入り口には鉄格子まではめられている。
加えて、ここが地下室――てゐ曰く「新居の小屋」の地下――であるとも言っておこう。

だが、1つだけここから出る方法がある。
それはてゐを愛すること。心から愛し、自分のものだけになると誓えば出してやると彼女は言った。
もちろん上辺だけの言葉は通用しない。
要するに、全てを捨てて自分だけと生きろってことだ。
「ここから出たいでしょ?」
「分かってるなら出せ」
「じゃあ、あたしのこと好き?」
「好きなら解放されてるだろうな」
もっとも、解放と言っても地下から出るだけで終わるだろう。
異常なまでに俺を求める彼女を愛したところで、結局更に求められるだけだ。
それに俺はこんな状況でも鈴仙のことを忘れられていなかった。
今頃、永遠亭では捜索が始まっている頃だろうか?

「あんな女のことなんて考えないで!!」
頬を両手で掴まれ、無理やり顔を向かされる。
「あんたはあたしだけ見てれば良いの。他に何も要らないの!」
ヒステリックな叫びをあげたかと思えば、唇を塞がれる。
それはまるで自分の存在を押し付けるようで――儚いものにも見えた。

もし、これが鈴仙だったら俺はあっさりと受け入れていたかもしれない。
誰よりも愛している彼女に愛されるなら、俺は……。

「どうして○○はあたしを見てくれないの?」
不意に言葉がかけられる。
「こんなに好きなのに、大好きなのに……」
虚ろな表情で寂しそうに呟くてゐ。
俺を捕えてから今まで――俺と居る時は――ずっと笑っていたというのに。
こんな顔をされるのは初めてだ。
その様子に思わずチクリと胸が痛む。だが、それでも俺は――
「俺は鈴仙が好きだ」
「どうして!!」
「どうしてもだ」
「何で、何であたしじゃ駄目なのよ。あたしなら何でもしてあげるのに……」
ポロリ、ポロリと涙を流して訴えられる。
彼女に毎日求められるのには確かにうんざりしていた。
でも、今更ながら彼女の想いが痛いほど伝わってきて――
「ねぇ、○○。あたし○○の言うことなら何でも聞くよ。愛してくれるならすぐに出してあげる。手錠も外してあげる」
捕えられているのはこっちなのに、逆に懇願されるなんて。
「お願いだから、あたしを見てよ。好きになってよ。あたしは○○以外要らないの。あんたしか要らないの」
いつも吐くような嘘ではない、本心からの叫び――
「あたしには○○しかいないの。○○だけ、○○しか、○○、○○、○○……。
せっかく、あんたを独り占めできると思ったのに。やっと手に入ると思ったのに」

静かにしゃくり上げるてゐを見て、俺は不意に抱きしめたい衝動に駆られ――寸でのところで抑えた。
このまま抱きしめても、只の偽善にしかならないからだ。
彼女も恐らくそれを理解しているだろう。
自分を愛さない男に抱かれたところで、余計虚しくなるだけだ。
では、どうすれば良いのか? 彼女を心から愛せばそれで良いのか。
そんなことは無理だとずっと前から分かっているのに。

俺は鈴仙しか愛せない。
それは俺の中で不変の真理と化していた。


それから、しばらく経った後。
「ねぇ○○、あのね」
泣きやんだてゐが何か伝えようとした、その時――

バァン! と急に扉が弾けた。
ガラガラと周りの壁も崩れ、砂煙がモウモウと立ちこめる。
何だ、何が起きたんだ!?
俺もてゐも何が起きたか分からず、凝視するしか出来ない。
するとコツコツを靴音を立てて、誰かが近づいてくるではないか。
そこでハッとする。
もしかして――俺は誰が来たのか即座に思いついた。

「やっと見つけた……。○○、てゐ」
砂煙の中から、聞き覚えのある声と共に姿を現したのは――
「あ、あんたは!?」
てゐが驚きの声を上げるその人物は――

鈴仙・優曇華院・イナバだった。

俺は目の前の光景に驚愕と同時に喜びを感じた。
待ち焦がれた助け――鈴仙が来たのだ。

「ここまでよ、てゐ。貴方も○○も連れて帰るわ」
ゆっくりと歩を進めながらこちらに近付いて来る鈴仙。
連れて帰る、その言葉の意味を理解したのか、てゐは俺の前に立ち塞がり――吼えた。
「い、嫌だ! ○○はここであたしとずっと一緒に暮らすの!」
「自分のしたことを分かってるの? このままだと、貴方はただでは済まないのよ?」
「そんなの知らない! あたしは○○が欲しかっただけだもん、何も悪いことなんてしてない!」
「てゐ、貴方……」
「あんたこそ分かってない! あたしがどんな思いをしてたのか、どんなに苦しかったのか……!」
声を震わせ、指先が真っ白になるぐらい強く拳を握りしめるてゐ。
「いつもいつもいつも、いつだって!! ○○はあたしを見ようともしなかった! 鈴仙しか見てなかった!!」
「えっ!? それって……」
うわ、言われちまったよ。まさかこんな所でバレるとは。
でも今はそんなことを気にしてる場合じゃないな。
「だからこうしたのに……! 誰も邪魔できないように、○○があたしだけを見てくれるように。
体だって重ねた! 大好きって何回も言った!! それなのに○○はあたしを見てくれない。
それも全部お前のせいだ! お前が居るから○○はあたしを好きになってくれないんだ」
鈴仙への一方的な怒りと憎しみを隠そうともしないてゐ。これはマズい展開だ。
「てゐ、止めろ!!」
声を張り上げて叫ぶ。手錠で動きがとれないのがもどかしくてならない。
「○○はそこで見てて。あたしの方がこいつより良い女だってことを教えてあげるから」
駄目だ、まったく通じていない……!
てゐは既に殺気立っていて、いつ鈴仙を殺しにかかってもおかしくない程になっていた。
どうすればてゐは止まるんだ? 思案しても妙案は思いつかない。

「出来れば話し合いで済ませたかったんだけど……そうもいかないみたいね」
てゐのただならぬ殺気を感知した鈴仙が臨戦態勢に入る。
「鈴仙!」
「大丈夫よ。そんな簡単にはやられないから」
鈴仙は俺に一瞬笑いかけて、すぐさま険しい表情に戻った。
それが気に食わなかったのか、てゐはスペルカードを取り出し弾幕を放とうとして――
「ここじゃ○○を巻きこむから外に行きましょ。貴方だって○○が傷付くのは嫌でしょ?」
鈴仙の一言でピタっと動きを止めた。
「……そうね、○○が怪我しちゃうのは絶対に嫌。それだけは従うわ」
渋々とスペルカードを下げて、俺をちらりと振り返る。
「すぐ戻ってくるから」
そう言い残して、2人は外へと消えて行った。

てゐの一方的な言いがかりではあるが、よりによって2人が決闘するなんて……。
「畜生、俺のせいだ……」
ギリリと奥歯を噛みしめ1人ごちる。
こんなことになるくらいなら、2人に会うべきじゃなかったのかもしれない。
俺が最初から居なければこんなことにはならなかったはずだ。
自己嫌悪に陥り溜め息が何度も零れる。
今頃2人は激しい弾幕を繰り広げているのだろうか。
それにしては外から何の音も聞こえないし、戦いの余波も響いてこない。
余程遠くまで行ったのか、それとも既に決着が付いたのか。
俺がここから出るには鈴仙に勝ってもらうしかない。
鈴仙ならばてゐを殺すということもないだろう。それが一番望むべき展開だな。
だが、もしてゐが勝った場合鈴仙は――俺はそこまで考えて頭を振った。
最悪の結末を想像しかけて、思わず背筋が震える。

「そんなことには絶対ならないでくれよ……」


そうして、ただ待つこと幾許。
俺はぼんやりと天井を眺めていた。
あれからどれくらい経ったのだろうか。
僅か数分間のようで――はたまた数時間も経っている気さえする。
時間の感覚はとっくに失われていて、正確な予想がつかない。

その時だった、不意に階段を下りてくる足音が聞こえてきたのは。
カツン、カツン、と音を立ててゆっくりと誰かが――「勝者」が――下りてくる。
果たしてそれはてゐか、鈴仙か。
固唾を呑んでただ出入り口を見つめる。
緊張と共に胸が高まり、ドクドクと鼓動が激しくなる。
すると間もなく、人影が現れた。
体をふらつかせながら姿を現したのは――

「痛たた……。まさかルールを無視されるとは思わなかったわ……」
戻って来たのは――鈴仙だった。
「鈴仙!!」
彼女の服はあちこちが焼け焦げていて、その下の肌にもたくさんの傷を負っていた。
「言ったでしょ? 簡単には負けないって」
「だけど、その傷は」
「これくらい何てことないわ。心配しないで」
「しかし……」
にこやかに笑うものの、明らかに疲労が隠しきれていない。
「平気平気。それより、ほら。鍵を持ってきたから、これで帰れるよ」
ヒラヒラと鍵を見せつける鈴仙。もちろん、すぐに外してもらった。
「ありがとう。ところで、てゐは……」
「外で伸びてる。しばらくは起きないと思うわ」
その一言にホッとする。
だが、安著している俺とは裏腹に彼女は急に真剣な顔つきになった。
「てゐ、凄く強かったわ。絶対に負けたくないって、気迫も凄かった」
どうしてか分かる? と続けざまに聞かれる。
俺の自惚れでなければそれは……、
「俺と離れたくなかったから、か」
「ええ。ルールを無視する程ですもの。余程貴方を独り占めしたかったのね」
独り占めしたかった――
俺は今までてゐに言われ続けて来たことを思い出した。

――ずーっと一緒だよ?――
――あんたはあたしだけのもの――
――大好き!!――

真っ黒で歪だけど純粋な想い。
うわ言のように繰り返された愛の囁き。
好きな人と一緒になりたい、独り占めしたいがための暴挙。

それを実行するのに迷いはなかったのか、俺には分からない。

「○○……」
何か言いたげな顔をしている鈴仙。
俺はその頭にぽんと手を置いた。
「さぁ帰ろう。てゐを連れて帰って、永琳さんにその傷を見てもらわなきゃ」
「う、うん」

体をグーッと伸ばして歩き出す。鈴仙もそれに続く。


こうして、俺は永遠亭への帰還を果たしたのだった。



あれから一週間が経った。
俺は永遠亭に帰還し、日常へと回帰した――そのはずだった。

今の永遠亭は暗く静かで、そして悲しいムードがどこまでも浸透していた。
いつも騒いでる兎達の姿も今は見かけない。
まるで異変を起こす前に戻ってしまったようだ、とは永琳さんと姫様の談。
どうしてこうなったのかって?
あぁ、それはだな……


地下牢に入れられていたてゐが自害してしまった。
俺と鈴仙が付き合い始めたことを知ってしまい、あまりのショックに。


そのせいで永遠亭は以前の賑わいを失った。
統率者を失った兎達はほとんど出て行ってしまった。
残された者達には深い悲しみだけが刻まれて――何故、どうして、皆口々にそう呟き嘆いた。
まさかこんなことになるなんて。
原因を作ったのが自分となると、悔やんでも悔やみきれない。
胸が張り裂けそうなくらい苦しくて、いっそのこと体全てがもがれてしまえばいいと、そう思ってしまう程に。

それと――

「○○……」
悲観に暮れていると、不意に後ろから声がした。
振り向くとそこには鈴仙の姿が。
「鈴仙か。どうした?」
「うん、ちょっとね」
言葉を濁し俺の横に座る。
伝えたいことがある、でも言いにくい。そんな表情のまま黙り込む。
僅かな沈黙の後に彼女はゆっくりと語りだした。
「てゐなんだけどね……やっぱり彼岸にも冥界にも来てないって」
やっぱり、その言葉が更に俺を不安にさせた。
懸念していた事柄が重くのしかかる。
幻想郷では死を迎えると彼岸を渡り、閻魔の裁きを受けなければならない。
冥界で暮らすにしてもそれは同様である。
しかし、てゐの魂はどこにも見当っていないのだ。
何故「来てない」のか。
辿るべき道を辿っていない魂はどこへ?

「○○……」
鈴仙が不安そうに俺の袖を掴む。
その瞳は不安気に揺れていて、まるで今にも消えてしまいそうで――
「私達、会わない方が良かったのかなぁ」
それは聞き逃すにはあまりにも悲しい一言だった。
「私達が会わなければさ、きっとてゐは死なずに」
「止めろ!」
反射的に俺は叫んだ。
彼女が俺と同じ考えを抱いてるのが悲しくて、切なくて、何より悔しくて――
「そんな悲しいこと言うな! そんな、そんな……」
「○○……」
せめて鈴仙の不安だけでも消してやりたくて、ギュッと抱きしめて包み込む。
「○○、温かいね。凄く落ち着くよ」
小さく溜め息を吐いて、彼女は俺の胸に顔を埋めた。
「今だけはこうしていたい……」
返事には応えず、腕に力を込める。

せめて、今は。今だけは――


だけど時間は緩やかに流れていかなかった。

ある日、鈴仙が体調を崩した。
その日は永琳さんは人里に出かけていて、姫様も退屈しのぎだと言って姿を消していた。
兎達も居らず看病が出来るのは当然俺だけ。

「大丈夫か?」
「ちょっとキツいかも……。ごめんね、こんなことさせて」
濡れタオルを変えてやると、ふにゃりと耳を垂れさせて申し訳なさそうに謝る鈴仙。
「気にすんなって。俺しか居ないんだしさ」
「うん。ありがとう、○○」
恋人を看病するだなんて美味しいシチュエーションだが今はあまり嬉しくない。
今の永遠亭の状況のせいでそれは尚更で。
「他に何かして欲しいことあるか?」
「えっと、師匠の診療室に風邪薬があると思うの。それを取って来てくれる?」
「分かった」
確かに、あの人の薬ならよく効くだろうしな。
「じゃあすぐ取ってくるな」
立ち上がって戸に向かおうとすると、
「○○!」
「ん?」
呼び止められたので振り返る。
「……あっ、ごめん。なんでもないの」
「? そうか」
何か言いたげな様子だ。しかしなんでもないと言うなら大したことではないのかな。
今度こそ戸を潜り、外を出る。
……呼び止められた時に鈴仙の顔が不安そうに見えたのは――きっと風邪のせいだろう。

診療室は鈴仙の部屋から少し遠い所に位置しているので、足早に向かう。
しかし、誰も居ない屋敷は本当に静かでまるで別の世界――ここは幻想郷なのにな――に迷いこんでしまった気さえする。
ふと後ろを振り返ると長い長い廊下が続いていて――俺は少し不安になった。
俺は、本当に鈴仙の所へ帰れるのか? もしかして二度と戻れないんじゃないか?
このまま屋敷の中を彷徨って、誰にも見つからずに――

そこまで考えて、俺は溜め息を吐いた。
馬鹿馬鹿しい。何ヶ月も住んでるのに今更迷うわけがない。
パァン! と頬を両手で叩いて気合いを入れなおす。
早く済ませてしまおう。
気持ちを新たに進んで行くと、「診療室」と書かれた木札が貼りつけてある戸が目に入る。
早速部屋に入り、目的の物を探しにかかる。
薬品棚を探ると綺麗な字で風邪薬と書かれたラベルが貼ってある瓶が見つかった。
「これだな」
綺麗に整頓されていたのが幸いした。これは永琳さんに感謝しなきゃな。

元来た道を引き返し鈴仙への元へと急ぐ。
少しでも早く良くなって欲しいからな。
部屋に着いた時には少し息が切れていたが、気にせず声をかける。
しかし返事はない。寝てしまったのだろうか?
「鈴仙、入るぞ」
部屋に入ると彼女は起き上っていて、外をぼんやりと眺めているようだった。
「鈴仙?」
とりあえずビンを机の上に置いて、改めて声をかける。
「○○……。戻って来てくれたのね」
「そりゃな。でも起きてて良いのか? 寝てないと駄目だぞ」
「寝て……? あーうん。そうね、寝ないとね」
一瞬首を傾げたかと思ったら、今度はクスクスと笑いだす。
何が可笑しいのかよく分からない。分からないが、気にしてる場合でもない。
「ほら、薬持ってきたぞ。飲め」
机上のビンから薬を取り出して渡そうとして、振り返って――

急に足が地を離れる感覚がしたと思ったら、視界が大きく揺らいだ。
続いて後頭部から腰にかけて衝撃と鈍い痛みが走る。
地面に倒された、と気付いた時には鈴仙が体の上に跨っていた。

「ッ、鈴仙、何を……」
「ねぇ○○」
何をするんだ、と抗議の声をあげるよりも早く、彼女は喋りだした。
「私達、恋人同士だよね」
「それがどうしたってんだ?」
「しようよ」
「なに……んむっ!」
何を、と言おうとした唇は彼女のそれでいきなり塞がれた。
いきなりの展開で頭の整理が追いつかない。
何だ、一体鈴仙はどうしたんだ!?
「んん、ぅ、ちゅっ、ちゅっ」
しかし俺が戸惑っている間にも彼女は自らの舌を侵入させ、激しく絡ませてくる。
その甘美な感触に脳髄が蕩けそうになる――が、
「キャッ!」
理性を総動員させ、なんとか押し返す。
「ハァ、ハァ、鈴仙、急に何を……」
濡れた唇を袖で拭い、問う。
「ふふ……。○○ったら恥ずかしがり屋さんね。私は貴方の大好きな『鈴仙』よ?」
何故か自らの名を強調すると、彼女はゆっくりと起き上り、顔を俯かせて笑みを浮かべ――

そこで俺は彼女の異変に気付いた。
彼女の笑みが、酷く歪んでいることに。

それと同時に強烈な既視感と違和感が俺を襲う。
違う、鈴仙はこんな笑い方をしない。これではまるで別人だ。
それにこの光景を、前にもどこかで――
「○○」
「わっ!?」
俺が記憶を呼び覚まそうとしている間に、いつの間にか鈴仙が目の前にまで迫っていた。
思わず後ずさろうとして――体の自由が利かなくなっていることに気付いた。
「ぐっ、か、体が」
「動けないでしょ? でも○○が暴れたのがいけないんだからね」
波長を操作されたのだと気付いても、既に瞬きすら許されなくなっていた。
「うふふ、次はねぇ、私の目を見て?」
今まで俯かせていた顔を上げる鈴仙。
その瞳を見た――見てしまった――時、俺は愕然とした。
ルビーを思わせる鈴仙の紅い瞳は光を失っていて、暗く濁っていたのだ。
これはまるで――

「私の目、綺麗でしょ? ホ ラ 、ミ テ ?」

「うあああああぁぁぁ!!!」
彼女が言い終わるよりも早く、強烈な頭痛に襲われる。
同時に、心の中に何かがズルりと入り込んでくるのを感じ――
「ごめんね、痛いよね? でもすぐに済むから。そしたら○○も分かってくれると思うの」
彼女が何かを言っているが、頭が割れるように痛むせいで何も聞きとれない。

心が、犯される。俺を構成しているものが剥がれ落ちては消えていく。
その代わりに「――」への想いだけが膨らんでいく。
「あ、あ……」
身も心もただ一色に染まっていく。
今までの俺が消えていく――

「ぉ、まえ、は……」
「私のことが好きなんでしょ? 私も○○が大好きよ。
だからこれからも一緒だよ。ずっとずっとずーーっとね!」
「――」
その名を口にしようとしても、もう喋れない。

ガクン、と体全体の力が抜け落ちて前のめりに倒れそうになったのを、「――」に支えられる。
「○○は寝てて良いよ。あたしが連れて行ってあげるからさ。2人だけの秘密の場所にね」

薄れゆく意識の中で最後に見たものは――

「イ ッ シ ョ ニ シ ア ワ セ ニ ナ ロ ?」


笑った「てゐ」の顔だった。

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最終更新:2011年05月15日 02:19