突然の雨に降られ帰路を急ぐ○○。
今朝方は見事な日本晴れのおかげで、まさか天気が崩れようなど誰が予想出来ただろうか。
彼の手には勿論傘は持っておらず、周囲には雨を凌げそうな場所もなく、水に濡れるままだった。
いよいよ以って雨脚が強まり視界も悪くなってきた頃、何時の間にいたのだろうか、十間も
離れていない先に人影が見えた。近づくにつれ、傘を差している誰かの姿が大きくなる。
考え込んだ末、
「うらめ―――」
「ああ、スイマセン! どうか、どうか傘を忘れた哀れな男を助けて貰えないでしょうか。
いえ、ほんの少し、雨が弱まるまでの間、あなたの隣を貸しては頂けるだけで結構です。
利子も金利も、手数料も取りません。そうですかお優しいのですね有難うございます!」
「え! あ、あの……」
強行であった。
彼女が何事か言うのを遮り、こちらの言い分を早口で捲し立て、有耶無耶に邪魔させて貰う。
隣の彼女(女性であった)はきょとんとした表情を浮かべているが、まぁ当たり前の反応だろう。
申し訳なくもあるが、こちらも好んで風邪を引くような馬鹿ではないので、このまま押し切らせて貰う。
「えーっと、自分は○○って言うんだ」
「あ、あちきは小傘。多々良小傘だよっ」
「へぇ、小傘ちゃんか。こんな男が急に、びっくりしただろ?」
真っ赤な顔してふるふると頭を振る彼女は小動物を連想させて、会ったばかりだというのに微笑ましい気分になった。
それにしても、
「それにしても立派な傘だなぁ。二人入っても、まだ余裕があるし」
「そ、そうかな!?」
言うと小傘ちゃんは、とても嬉しげな声を上げた。
と、気付いた。男の俺が入りやすいようにと、彼女の腕が不自然に伸ばされるのを。
「あっ!」
無言で柄を掻っ攫い、小傘ちゃんが濡れないように気をやる。おろおろとする彼女を安心させて
やるよう笑い掛けてやると、ぴたりとその動きを止めた。
「重ね重ねごめんな。もうちょっと雨が弱くなったら、すぐにでも出てくからさ」
「べ、別に……いいけども……」
ごにょりと小さく呟く声は激しい雨音に掻き消されて耳まで届かなかったが、大方不満の一つ二つ
に違いない。優しく、押しに弱い子なんだろう。そう思うと、罪悪感が強くなるなぁ……。
それから二人の間には微妙な空気が流れ、会話が飛び交う事が無かった。
どれ程歩いただろうか、そろそろ里も遠くない頃、雲の合間から光が差し込んだ。狐雨と言う奴か、
太陽は見えるが雨は今も降っている。それも微量のもので気にならない程度のものだ。
「それじゃぁ、世話になったね。ありがとう」
大きな影から足が越えた瞬間ぐいと、袖を引っ張る感触が奔った。
何かと思えば小傘ちゃんが弱弱しく摘んでいるではないか。
「……まだ雨降ってるし、いいよ」
ぽつりと、またも小さい声だったが、先程と違い雨音が邪魔することなくハッキリと聞こえた。
むざむざと好意に甘えるのも情けない話だったが、訴えかけるように見つめる彼女の瞳に折れ、
もう暫く一緒に歩くことにした。
彼女の歩幅は小さく男の俺から見ればとても遅かったが、急ぎの用があるでもないので偶にはいいかと、
雨上がりからりとした空気を胸一杯に吸い込んでみた。
「唐傘お化け?」
「ああ。お前が見たのは妖怪だろうな」
外来人の俺は定職を持たない。
今日は里で唯一学問を教えている、寺子屋で資料の整理をしていた。
この教師さんってのが、また偉く別嬪さんでね、彼女と一緒に作業をしているんだが。
黙々と作業をするのも詰まらないので、先日に出会った少女の話題が挙がったわけだ。
彼女、上白沢慧音センセには心当たりがあるのか、名前を話したらすぐに妖怪だと言った。
「人食い妖怪みたいに、人間に直接危害を加える類じゃないがな。人に捨てられた怨念が宿った付喪神さ。
元が元だからな、あまり係わり合いは持たない方がいいぞ○○?」
「……」
雨が小降りになった後、結局人里近くまで行くと彼女は「ここでさよならだね」と寂しそうに
言ったのが印象に残っている。里の人間ではないのか、とあまり疑問に思わずに別れたが、まさか妖怪だったとは。
「小傘……、彼女は、悪い妖怪なのか?」
「うーん、どうだろうな。人を襲ったという話はあまり聞かないが。代わりによく耳にするのは驚かされた、ということぐらいか」
何にせよ、妖怪と付き合うなんて碌な結果にならんよ、と言って慧音は話を締めた。
再び資料に目を落としてしまった彼女の表情は見えないが、今の言葉が自身に向いていることぐらい、俺にも分かった。
慧音はもう話すことは無いと作業に戻ってしまったが、
生憎このまま黙って下がれるほど大人じゃないんでね、言ってやろうじゃないか。
「碌な結果もあるけれどねぇ、何せ美人とお付き合い出来るんだ」
「馬鹿な男だな、お前は……」
微かに聞こえる程度、嬉しそうに呟いたが、聞こえない振りをした。
あの後も資料の整理をしたり、慧音が授業内容に外のものを取り込んでみたいと相談してきたりと、
色々やってすっかり日も落ちてしまった。
家屋から漏れる明かりを頼りに帰路へと着く。外来人である○○の帰りを待つ家族はいないが、
彼は里の離れにあるボロ屋を貰い受けて、気ままな一人暮らしを謳歌していた。立派な自然に囲まれ、
人情味溢れる里人達と過ごすのは、外の世界じゃそうそう味わえぬ幸福だった。
民家も少なくなり、それに次いで火の明かりが減り視界を暗闇が閉める割合が多くなる。
逆にだ、空一杯に広がる星が大地を照らすので、明暗の薄い光景に慣れると先ほどより細部が見える。
ふと、肌に冷たいものを感じた。それは勘違いではなく、降り始めた雨だった。雨足はあっという間に強まり、
家屋の屋根を叩く音が激しく広がる。家まで微妙な距離であったが、身体が汚れるのを厭わず、泥を跳ね飛ばし先を急ぐことに意識を向けた。
だからだろうか。道の先、ぽっと突っ立っている人影に気付くのに遅れたのは。
この先には、里から見て一番端にある我が家しかない。更に通り過ぎると、霧の湖に出てしまう。
それでこんな時間帯に、向こうからやってくるのは一体何者なのだろうか。
幸いここなら里へ逃げ込むにも容易く、大声を出せば誰かしらに聞こえるぐらいだ。
どんどんと近づく影に○○は身構えて、ついに輪郭がはっきりと分かるまでになった。
「うらめし―――」
「小傘ちゃん? やっぱり、小傘ちゃんじゃないか」
「ふぇ!? あっ、人間!」
なんと相手は、先日にあったどうやら妖怪の少女ではないか。
雨でも無いのに大きな傘を差している独特のシルエットで、ちょっと遠くからでもすぐに分かった。
名前は残念だが、彼女の方も覚えていたらしく、すぐに気づいたみたいだ。
「人間て。ヒドいな、○○って名乗ったろう」
「う、うん……。ごめんね○○」
顔を真っ赤にして俯く小傘ちゃん。名前を忘れていたのが、そんなに恥ずかしかったのだろうか?
「そ、そうだ! ○○また傘ないみたいだし、その、迷惑じゃないなら今日も入れてあげるけど……」
渡りに船と言うか、こちらが頼みたいほど、願ってもない話だ。
そうしてまた彼女の隣を失礼して、傘に入る。
「あれ、○○? 里はそっちじゃないよ」
まさか戻るわけにも行かず、苦笑を返して我が家を教える。どうして不便な場所に住んでいるのか聞かれたが、
やはり外来人であることが一番の要因か。里人は皆優しく便宜を図ってくれるが、同じ人間と言えど異邦人であるこの身は、
どうやっても異分子でしかないのだ。
理由を話すと小傘ちゃんは目に涙を溜めて、優しい娘なんだなと、丁度いい高さに頭が置いてあるのでぐしゃと髪を撫で回した。
そんなこんなで、すぐに家に着いてしまい、感謝の意を述べる。
そして先日の礼もしたいと、折角家にまで来たのだ、是非家に上がって欲しい。
「でもあちきは妖怪だから……」
と妙に遠慮するので、手を引いて土間へと招く。
彼女のおかげで濡れ鼠にならずに済んだが、それでも雨は冷えるもので、二人分の湯のみを手に取り茶の準備をする。
「やっすい緑茶だけど、すまないね」
「あ、あちきは……!」
その時である。くぅと可愛らしい音が彼女の腹から自己主張したのは。くすりと笑って訪ねる。
「お腹も空いてるのかな? そうだ、どうせだから夕食も一緒に―――」
「ち、違う! 違うんだから!」
女性にとっちゃそりゃ、恥ずかしいものだろう。理解がある風に振る舞い、自然と食事へ誘うが、小傘ちゃんは必死に否定していた。
「あちき、ほら、妖怪だから! 人間が驚くとお腹が膨れるのっ! ……でも最近は全然」
あー、ってことは何だ? 彼女の食事は人間の驚愕で、めっきりありつけてないと、そういうことか。
でもやっぱり想像しづらくて、疑わしげな視線を彼女に向けると、またタイミングよく腹の音が鳴った。
しかし困った。男の一人暮らしだが、外食なんて文化があまりない幻想今日じゃ、自然と自炊する羽目になるので食料はあまり気味にある。
悩んだ挙句に、俺は提案した。
「……とりあえず、驚かしてみてくれない?」
「えっ、いいの!?」
すると、ぱあと花開くような笑みを浮かべて、言って良かったなと思える。
「ふふん! あちきに驚かされて心臓が止まらないようにね!」
随分自信満々だな。よほど恐ろしい目に合わされるのか、早まったかな……。
「それじゃいっくよー。……うらめしや~でろでろ~」
と、あまりの出来事に頭が真っ白になる。
「あ、あれ? ばぁ! おどろけ~」
と言っても、驚愕からではない。状況に、思考が付いていかないからだ。
おかしいなぁと頭を抱える彼女に、無言でデコピンを喰らわせる。
可愛い悲鳴を上げて後ろに転げる小傘ちゃんを目に、こっちが頭を抱えたい気分だよ……。
「聞くけどさ」
「てて……。、何するの○○!」
「今の驚かそうとしてたの?」
きょとんとしながら、彼女の口から出てきたのは肯定の言葉だった。
あんまりにあんまりな行為に、溜息が出てくるのは仕方ないって。
今時に「うらめしや」なんて幽霊でも言うかどうか、見た目可愛い娘なら尚更だろう。
ん、可愛いか。だったら―――
「そうだ小傘ちゃん。今から君にぴったりの驚かし方を教えてあげるよ」
「ホント!?」
飛び上がりそうな彼女の姿に苦笑が盛れそうになるが、ぐっと飲み込む。この方法は何より雰囲気が重要だからだ。
努めて真剣に左右色違い瞳を、じっと見据える。一言一句見逃さないという心構えか、
はたまた自分の真剣さが伝染したのか、傍から見ても力が入りすぎているが、丁度良いだろう。
ほんの少しの間を置き、お芝居と言えども緊張する、深く一気に肺の空気を吐いた。
「小傘ちゃん、好きだ。結婚してくれ」
「へ―――」
次の瞬間空気が凍り、盛大にやらかしてしまったと後悔の念が襲う。
だってそうだろう?幾ら彼女の為とはいえ、ほとんど初対面の男に告白紛いをされたんだ。こそ、驚くと思ったんだが……。
雨風はきちんと遮っているのに、二人の間につるりと白んだ風通った、そんな気さえする長い々々沈黙の後、彼女の顔が朱に染まった。
「な、なななな何言ってるの!? だ、だってあちきは妖怪で○○は人間で! けっ、結婚!? 誰が、誰と―――!?」
「落ち着いて!」
気の毒なほどに取り乱す小傘ちゃんに茶を勧める。
傘を振り回し今にも弾幕を撃ちそうなので、こっちも必死だ。
ずいと勧めた茶と俺の顔を交互に見やって、二三の後に取って中身を飲み干した。幾分落ち着いた然とした彼女に、
もっとも頬は赤く染まったままだったが、真実を伝えることにする。
「今みたいにさ、突然告白なんかされたら男なんか驚くと思うよ」
「おど、ろ……く……? あ、うん……そっか……」
「そ、そうそう! 君みたいに可愛い子なら抜群だって!」
「か、わぃ……、……」
打って変わって暗い空気を纏う彼女に、すかさずにフォローを入れるが、あまり効果は無いようだ。
ほとほと困り果ててると、放置気味だった食事が音を立てた。端的に言うなら、汁物に火を掛けたままだったので、
酷い勢いで吹き零れてしまっていた。慌てて駆け寄り火を消すが、既に煮立ってしまい出汁処の話ではなかった。
「あちゃー、ごめんね小傘ちゃん。ちょっと貧相に塩辛さが足された料理になっちゃったけど……、小傘ちゃん?」
振り向くと、彼女の姿は見えなかった。
多々良小傘は、本体とも言える茄子色の傘も差さず、雨に打たれるまま歩いていた。無造作に踏み出される足は泥を跳ね、
素肌と服を汚していくが、目に掛かる髪も汚れも、何もかもが気にならなかった。一つ、胸の動悸を除いて。
驚く方法、男は確かに言った。そして聞いた言葉は愛の告白だった。
自分は捨てられた傘で、色恋なんて一度もした事はなかったが、告白が何を求めるものかは知っている。
だから自分の鼓動が、言う通り驚いたものなのか、果たしてこれこそが恋なのか。彼女には知る術を持たなかった。
雨は近年稀に見る勢いだった。三日三晩降り続け、久しぶりに見たお天道様は、傘の付喪神である小傘からしても良い物だった。
あらから幾度も○○の言葉を反芻し、噛み砕き、考え続けた。
いや勿論彼が本気ではないことは知っている。その事実に目を向けるときゅうと胸が苦しくなるのだ。
優しい○○。ひょうきんな○○。明るい○○。ぐるぐると頭を回っては、吐いてしまいそうで。
考え抜いて分かったのは、成る程、突然の告白は驚かせるには打ってつけだ。
好意的に捉えられても矢張り驚くし、恐怖するなら一層儲けものだ。
ふと街道を見ると、一人の男の姿が見えた。一瞬○○だろうか、期待したものだが、よく見ると全然違う男だ。
そうして、何故期待したのか、思考そのものが恥に思えて激しく首を振った。
男の他に周囲に人影は見えず、よし! 試すならいい状況だ。
ふわりと、丁度広げた傘が風を捉えたみたいにふわりと飛んで、音も無く男の背後に降りる。気付いた様子もなく、
しめしめと普段通りに声を掛けそうになって、そうじゃないだろと、ぴたりと喉が張り付き声が止まった
何と言えばいいのか。「初めまして?」そんな馬鹿な。「ねぇ、お兄さん」ふむ、こんな所だろう、それで? 次は? まさか?
―――「結婚して下さい」とでも言うつもりか、私は?
吐き気がした。いや、その時点で腹の中の物をぶちまけていた。
びしゃりと、あまり聞きたくない音を耳にした男は振り返り、目に入った光景にぎょっとする。
声を掛けてきた、「大丈夫か」と。心優しい人間なのだろう、妖怪と知っても心配する程度の心根と平和ボケは持ち合わせているらしい。
「触るなッ!!」
心配そうに伸びてきた手を振り払う。それでも去る気配を見せない男に、苛立ちを隠さずに睨み付けると、
流石に短く悲鳴を上げて逃げ去っていった。
「おぇ、……うっ! っっく、うぷっ!」
まるで気持ちの悪さを吐き出そうと身体が反応したかのように、全部吐き終えても止まらず、
胃液が食道を傷つけたのだろう、今度は血が出てきた。
「○、○……。うっぅ……、○○ぅ!」
苦しさの中、阿呆の様に○○の名前を呼ぶと、不思議と気分が落ち着いていった。
まるで空っぽになったお腹に彼が満たされたようで、感じたことの無い興奮が小傘を襲った。
「んん……はぁー……。○○ぅ……○○、○○!」
何時しか彼女の口から漏れていたのは甘い声に変わっていた。○○の名前を口にする度、更に下の子宮が疼くのだ。
ようやく、小傘は自身の気持ちが分かった。
優しくされたから情にほだされたのか、話に聞く一目惚れだったのか、理由なんてこの感情の前では些細なもの。
気分の悪さは、どこかへ行ってしまった。
今はただ、○○の顔が見たくて、一心に人里を目指すのであった。
夜になり、小傘はぼうと空を、見るでもなく見上げていた。
結論から言うと彼女は○○に会えた、いや、姿を見つけたと言うか。
○○は一人では無かった。彼の周りには多くの人間がいて、その中には親しげに話す女性の姿もあった。
一人妖怪が、人の輪を割って入る勇気も無く、笑いながら話す○○を見て、ぽつんと急に孤独になったのだと感じた。
人間と妖怪では、住む世界が違うのだと、嫌でも見せられた結果が残っただけ。
そうじゃない、元鞘になっただけなのだ。私は捨てられた傘で、始めから一人だったのだ。
そう思うと無性に悲しくなり、涙が溢れてきた。
すると自然思い出すのは、数日前に○○と出会ったこと。話したこと歩いたこと―――。
もう手の届かない輝きで、暖かくなるのは一瞬、さっき以上の涙が出ては止まることは無かった。
止めればいいのに、小傘が思い返すのは○○のことばかり。
こんなことになるのなら、恋など知らなければ良かった……。かと言って全てを投げ出して、本当に一人になるのはそれ以上に怖かった。
暖かさを知った寒さは、独りだった頃の風には到底防げず、絶望と絶望とほんの少しの希望を繰り返し、空が白く染まり始めた。
ああ、一日中ないていたのか、と。随分久しぶりに物を考えたな、なんて冷静に頭が働くと、一つの考えが浮かんだ。天啓とも言っていい。
自分は妖怪だ。何の、傘の……、傘の妖怪だ。ならば一人の女性として○○の隣に立てなくても、彼の役に立ち傍にいることは出来るのではないか!
腫れぼった目で空の向こうを見ると、いい具合に黒い雲が掛かり今にも泣き出しそうな様相であったが、
小傘の心は逆に澄み渡っていた。まさに曇天を裂いた一条の光だと言わんばかりに、自分の考えを一つも疑わず信じていた。
早速急いで○○の家に向かう。
「えへへ……、傘が無いと困っちゃうもんね」
振り出した雨を気にもせず、彼女の表情はよく晴れた笑顔であった。
精一杯に飛ばして家へ辿り着くと、何度ノックしても返事がない。
もう家を出たのか、働き者なんだなぁ。
出てしまったものは仕方ないと、くるりと背を向け人里へと続く道に沿って飛び始める。
郊外から中心に向かうにはこの一本なので、里へと向かっているのなら絶対に見つかるはず。
雨脚は一層激しくなったが、身の丈に合わない大きな傘のおかげで小傘の体は少しも濡れていなかった。
見落とさないようゆっくり飛んでいたが、○○が風邪を引いたら大変だと心なしか速度を上げる。
程なくして、雨の奥に人影が見えた。
あの後ろ姿は……、間違いない! ○○だ!
更に速度を上げ、彼との距離が縮まるにつれ、鼓動はしきりに五月蝿くなってきたが、どこか甘く感じるそれは、させるがままにする。
「○○! やっと見つけ―――え?」
「……小傘ちゃん? また会ったね」
探し求めた○○の姿だが、先程の甘い痺れはなく。代わりに全身を襲うのは氷柱を突き刺された様な―――
「ふふ、また会ったね。君と会うのは雨の日ばかりだけれど」
○○が何か言う。聞きたくて、聞きたくて仕方なかった彼の声だが、耳に入らない。
「ん? あぁ、これが気になるの?」
一点、ただ私の目は一点に注がれていた。
「今日は朝から雨だったしね」
聞きたくない! 聞きたくない!
「傘を持ってきたんだ」
彼の口から絶望が発せられた。
傘―――○○の傘。え、○○の? ○○の傘? おかしいでしょ○○の傘は私で。じゃぁ手に握られてるのはナニ? 柔らかそうな○○の手にニギられて○○におかしいよだって私はここにいるのに傘が○○が濡れてない良かった私ガかさになるの○○が心配そうにミテ私の傘がヌレテ声○○傘ワタシが○○の私の○○で私は○○の物にならなくっちゃいけないのニッ!!
「っああああぁぁぁぁ嗚ぁぁぁっがああアぁあぁァァァッっ!!」
限界を迎えた―――。
突然の咆哮に怯える○○の姿も、気にはならない。気にする頭はとうにない。
連日における衝撃的な出来事と、過度な疲労に晒されていた小傘の精神は、○○の傘を見て容易く崩壊した。
一般的に正気と呼ばれるもので、彼女は○○へと襲い掛かった。正確には○○の持つ傘へと。
「うわああぁぁぁ!」
彼女の変貌ぶりに襲われると思った○○は、持っていた傘を勢いよく投げつけるが、彼女は避けはせずに嬉々として受け止めてぼきりと骨組みを折った。
「う、へひゃははははっ!! この売女がぁ! ○○にっ、近づきやがってっ! クソがクソがクソがあぁぁぁ!!」
折って毟って叩きつけて、踏みつけ踏みつけ、幾度も弾幕をぶつける小傘の狂気に、○○はすぐにでも逃げ出したいが腰が抜けて適わないのだ。
奇声とも嬌声とも取れる声をひとしきり振りまいた後、とんと憑き物が落ちた様にがくんと首を向けてくる、付喪神。
その姿は妖怪と呼ぶにはあまりにも生温く、ガタガタと震えることしか出来ない。
大事な傘を引きずり、出来の悪い玩具の様に近づく小傘であったが、彼に掛ける声音はどこまでも優しいかった。
「もう大丈夫だよ○○。あなたをかどわかす悪い傘はやっつけたからね、大丈夫、震えなくていいんだよ。ほらこうすれば―――」
もう○○はされるがままだった。伸ばされる腕に目を瞑り死も覚悟したが、○○が好きでタマラナイ小傘が危害を加えるはずもなく、最も彼はそんな事知らないが。
「ね、こうして抱き合えば二人とも暖かいよ、寒くない。うん、全然寒くない」
両の手でぎゅっと抱き締めながら、器用にも傘を指し続ける小傘。
男の腕が彼女に回されることは無かったが、降りしきる雨は二度と二人には届かなかった。
この日以降、○○の姿を見た者は一人としていない。
小傘自身も知らないことだが―――既に彼女は傘であろうとは思っていなかった。
嫉妬と独占欲が、それを許すことは無かった。もしの話だが、この日朝早くから雨が降らなければ、
○○が傘を忘れていれば、悲劇は回避されたのかもしれないが、知る機会は失われ二度と訪れることは無い……。
最終更新:2015年03月09日 00:35