china

―――全身を包み込む柔らかな感覚。自ら立つ必要は無い。もともと地面など存在しないのだから。
ただ何事も為す事なくこの空間に存在し続けるだけ。
寒さに凍える事は無い。ここに温度など無い。
絶望や苦悩に怯える必要は無い。ここには思考と言う行為は存在しない。
ここで為すべき事はただ一つ。
眠り続ければ良い。胎内の幼子の様に、卵の中の雛鳥の様に。
与えられるままに、深く静かな睡りをいつまでも、いつまでも―――



初めは何も見えなかった。ただ、『明るい』ということが辛うじて分かるだけ。
しかしこの唯一つの感覚は『明るい』で片付けるには足りないくらいの影響を与えて来る。
『明るい』とはこんなにも暖かく、柔らかな感覚だっただろうか。こんなにも心地よく心安らぐ感覚だっただろうか。
もっと冷たく、硬く、鋭利なものではなかったか。まるで研ぎ澄まされた短剣の様な、今にも折れそうな危うさを伴った感覚では無かっただろうか。
この『明るい』は違う。まるでかつてずっと共に在ったかの様な、たまらなく懐かしい感覚。一刻でも早くその存在を確かめたい、そんな衝動が起こってくる。
―――早く。早く、醒めろ。よし、『明るく』なってくる。あと少し―――

「ーっ!」
一瞬視界が白く染り、目の奥に鋭い痛みが走った。
咄嗟に手を目の前に掲げ、光を遮る。それは彼にとっては余りにも眩しく、強すぎる光だった。
ぼんやりと白む視界の隅に厚いカーテンが風にわずかに揺れているのが見える。
…カーテンを締め忘れるなんて、何て間抜けなんだろう。
彼は相変わらず額に手をかざしたまま、ベッドから起き上がった。とりあえず、今が真昼であろうと何だろうと目が覚めてからやる事は決まっていた。
「今、何時かな…?」
ふらふらと覚束無い足取りで机へと向かう。そこにはいつもの色の剥げたまだらの古時計がぶら下がっている筈だった。いつも通りの目覚めならば。
机には銀細工の短剣が一本突き立てられ、差し込む朝日を反射し眩しい光を放っている。刃は、机の木肌よりも先に一枚の羊皮紙を貫いていた。
『今夜、月の出と共に私の個室に来る事 時計の件はその時申し付ける』
差出人の名は記されてなかったが、誰であるかは彼には十分過ぎるほど理解出来た。
「咲夜、様」
目が痛むのは久しぶりに見た太陽のせいだけではないことに、彼は今更気づいた。



屋敷の隅にある小さな庭園。普段使われない施設は段々と手入れが為されず寂れていくものだが、此処はその顕著な例だろう。
何しろ本館から大分離れている上に日当たりが絶好と来ている。昼間、廃墟同然となる紅魔館では無駄そのものと言える。
花々は各々勝手に伸び続け、中には何と果実を実らせている物も混じっている。大昔の女神や怪物を型どった石像達も、伸び続ける蔦に締め付けられ、今にも崩れ落ちそうだ。
渾々と湧き出る噴水は水源を得て繁茂する植物に覆われ、本来の材質すら解らない有様である。
最早、植物に飲み込まれ付近の森と見分けがつかなくなるのを待つしか無い場所。
しかし数年来の訪問者がタイルの苔に足跡を付けながら現れた事で、辛うじてその役割を保とうとしていた。
「ここ、まだ残ってたんだ」
何故、此処に来たのかは分からなかった。ただ時計を無くしてしまった今となっては、例えカーテンを締め切ってベッドに潜り込んだとしても安眠できる自信は無かった。
あの時計は自分でも気づかない程に、自信の大きな一部となっていた様だ。
結局、人気の無い紅魔館を行く当ても無くさ迷う内に、何故か足が此処に向いた。
紅魔館に居着いたばかりの時の幼い日々(といってもほんの三年前までだが)を過ごした思い出の場所に。
「僕の花は…他の花と絡まっちゃってるけど、ちゃんと生きてる」
「姫様の像も怪獣の像も…ふふっ、双子の犬も残ってる」
「噴水も、まだ通ってるんだ。…これ、ほんとに噴水かなぁ?」
荒れた花園も、崩れかけの石像も、古びた噴水も、眩しすぎる太陽も。
どうしようも無く、懐かしい。彼はいつの間にか庭園に向かって駆け出していた。
ひたすら庭園中を走り回って、過去の事物を確かめて回る。陽が天高く登り切るまで彼は夢中で庭園を駆け回った。

「はぁっ…はぁっ…」
錆び付いたベンチに座り、額の汗を拭う。…息が、苦しい。太陽の下であんなに走り回ったせいだろうか。前は一日中走り回ったって平気だったのに。
一体何年間この場所に来ていなかったんだろう。少なくとも咲夜様が部屋をくれた時、三年前からここには一度も来ていなかった。
でも、その前は半分ここが僕の部屋みたいな場所だったんだ。花を育てたり、石像の絵を描いたり。あの時計の鎖も、ここのプランターからこっそりもってったんだっけ。
それに、とても優しい『あの人』がいつも僕の傍に居て遊んでくれて―――――…あれ?
「あの…人?」
…誰のことだろう?咲夜様じゃない。咲夜様は時々様子を見に来てはいたけど、一緒に遊んでくれた事はほとんど無かった。
―――誰なんだろう。花の種をくれたのは。花を枯らしてしまった時、笑顔で慰めてくれたのは。紙と、クレヨンをくれたのは。僕の描いた絵を褒めてくれたのは。
時計に鎖を付けてくれたのは。いつも笑顔で、僕の名前を呼んでいたのは。あの時、この場所でずっと一緒だった人。
何で思い出せないんだろう。こんなに良く覚えてるのに。あの人のこと。僕が、咲夜様と同じくらい大事に思っている人のことなのに―――

「―――○○君」

不意に後ろから、誰かの声がした。いや、「誰か」なんかじゃない。僕は知っている。この優しく、懐かしい声の主を。
何故だろう。何故僕は泣いてなんているんだろう?あの人は三年前と全然変わらない笑顔なのに。
あの人の顔はぼやけて、すぐに見えなくなった。涙が出たのはきっと急に陽の下に出たから。そう思わないと何だかとても格好悪い気がして、やり切れない。
「おかえりなさい、○○君。久しぶりだね」
そう言ってあの人は僕を強く抱きしめた。僕はただ「美鈴お姉ちゃん」と言うのが精一杯だった。


○○君。私の、大事な大事な宝物。
私はあなたのことが一番大事。他の何ものよりも、私自身なんかよりもよっぽど大事なんだよ。
「○○君…」
静かな寝息を立てている○○君の頭をそっと撫でてあげる。○○君はちょっとくすぐったそうに震えて、まるで生まれたての子犬みたい。
「○○君、○○君もお姉ちゃんと一緒の気持ちだったんだよね?」
寂しくて、会いたくて、仕方なかったんだよね?お姉ちゃんもずっとあなたと同じだったんだよ。
昼も夜も、あなたにただ会いたくて。ただ傍に居たくて。ずっと、ずっとおかしくなっちゃいそうだったんだよ?
でも、○○君も苦しかったんだね。きっと私なんかよりも、もっと。ごめんね、あなたをこんなに苦しめてしまって。こんなに駄目なお姉ちゃんで、ごめんね。
これからはまた、いつだって一緒に居てあげられるから。たくさん遊んだり、たくさんきれいなものを見たり。どんな事をするのにも、あなたと一緒だから。
「もう離れないからね、○○君。お姉ちゃんが一緒に居てあげるからね…」
可愛い○○君。私の○○君。私だけの○○君。
「ほら○○君。○○君の大好きなお星様が出てるよ」
私は彼にきれいだねと囁きかけると後はただ、暗くなり始めた空に月が昇って行くのをぼんやり眺めていた。


何で。何で何で何で何で!!
彼がこの時間になって、私の部屋に来ていないなんて。
あんなに厳しく言いつけたのに、時計も取り上げたのに、罰としてカーテンを開けっ放しにしておいたのに。
既に月は高く天に昇り、煌々と輝いている。なのに彼は来ない。
あの子は月の光で目を覚ます。私と一緒だ。
あの子の肌はいつも月光を浴びて、死人の様に白い。私と一緒だ。
あの子には日の光は強すぎる。私と一緒だ。
何もかも、私と一緒にする様にしつけてきたのに。彼に昼を忘れさせる様に、十六夜咲夜の下僕である様に、この三年間徹底した教育を施してきたと言うのに。
「…まだ、忘れられないの」
私は窓を開けると向こうの屋根に向かって跳んだ。一瞬忌まわしい記憶が脳裏によぎる。
―――まさかそんな事はあるまい、馬鹿げた考えだ。暗示が破れる訳が無い。あの女にもきっちりと約束を取り付けたのだ。…絶対に破れない保険も懸けてある。
何を心配している?彼があそこに行くなんてことは有り得ない。あんな寂れた場所に彼が何の興味があるものか―――
そんな楽観的な観測は私が彼の姿をようやく見つけた時、呆気なく霧散した。

「うふふっ、咲夜さんたらそんなに慌ててどうしちゃったんですか?あんまり大きな音を出したら、○○君が起きちゃいますよぅ…」
優しい、ふくよかな声だ。だがそれは酪農家が屠場へと送られる家畜をなだめる声によく似た雰囲気を含んでいた。
「美鈴…三年前に言わなかった?今後一度でも○○の前に姿を見せたら―――」
冷たく、鋭利な声。柔らかい肉の隙間を縫って、内臓まで届きそうな声。まるで水に濡れた研ぎたてのナイフだ。
「○○を殺すって約束、忘れたのかしら?」
丁度彼の首筋に当てられた短剣の様な。



今回はここまでです。予想以上に長く、収拾のつかない話になりそう。この上フランちゃんとかおぜうさまとかパチュ様とか無理っぽくね?
前回の分も読んでくれた方、妄想垂れ流しに二度も付き合ってくれてありがとう!
そして初めて読んでこれ何ぞ?となった方、どうか生温かい目で見てやってください…暇があったら。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2017年12月07日 20:01