china2
―――汚された。彼が汚された。またあの女に汚されてしまった。
この穢らわらしい雌に、笑顔の仮面を貼り付けた化け物に。
「言っておくけど、躊躇なんてしないわよ」
早く彼から離れろ、薄汚い妖怪め。私の○○を返せ。
「貴方の匂いが付いた下僕なんて…」
離れろ離れろ離れろ。彼にこれ以上匂いを付けるな。折角私の匂いを染付けてきたのに、あと少しで私の物に成りかけていたのに。
これは私の所要物。誰にも渡せない私の一部。例えるなら私の指や、手足の様なもの。
「…いっそ殺してあげるのが彼の為よ」
だからどうにだって出来る。私にはその権利があるのだ。
―――沈黙が流れた。
「…咲夜さん」
やがて、今度は美鈴の方がぼそりと呟いた。表情は木の影に隠れて全く伺えないが、少なくと平常の声である。
「咲夜さんってひどい人ですね。○○君のこと、なーんにも考えてないんですね」
ナイフを握る手に思わず力が入る。この阿呆は何を言っている?そもそも私に物を言える立場なのか。
「…どういう意味かしら?」
どうにか平静を装おうとするが僅かな震えは隠せなかった。
「どうって…そのまんまの意味ですよ」
雲が流れ、月がまた強く光り始める。美鈴の顔を覆い隠していた影も徐々にその範囲を狭めていく。
「自己中心的で、独占欲が強くて、嫉妬深くて、おまけにとーっても残酷な咲夜さんみたいな人に捕まっちゃって…」
銀色の刃が煌めき、彼女の喉目掛けて突っ込んでいく。刃は肉に届くほんの少し前で白い手に掴まれ動きを止めた。
咲夜は少しだけ自分の迂闊さを呪った。そして次の瞬間にはナイフを素早く引き抜こうと考えていた。うまくいけば指を五本とも落とせるかもしれない。
だが、いくら力を込めてもナイフはセメントに固められたかの様にびくともしない。
「その上私とも離れ離れにされて○○君はどんなに辛かったのかな、悲しかったのかなあって意味ですよ」
雲が晴れ月光が地上に惜しみなく振りまかれる。
青白い光の中、美鈴はまるで凶暴な獣の様な瞳で咲夜を睨みつけていた。
このまま、ナイフを砕いて顔を潰そうか。それとも手首をねじ切ろうか。
どっちにしても、出来るだけ早くやらないと。時計を取り出す暇を与えたら負けてしまう。咲夜さんの方でも多分、同じことを考えているに違いない。
『隙を作らなきゃ』。なんでもいいから咲夜さんを怒らせるような事を。もし彼女が馬鹿みたいにナイフを振り回し始めたらもう私の勝ちだ。
「へぇ…貴方でもそんな顔をするのね。てっきり笑う以外に能が無いと思っていたわ」
思わずナイフを握った手を離し、咲夜さんの喉を握りつぶしそうになった。
そう、問題は私も同じということ。咲夜さんをぐちゃぐちゃにしたくてたまらないということ。
○○君の目はまるで猫みたいに瞳が大きくなっていて太陽をしきりに眩しがっていた。肌は死んだみたいに白くて、日の下で少し走り回っただけで息切れを起こしていた。
○○君は私が抱きしめたら安心し切ったのかそのまま眠ってしまった。
私は○○君に悪いところが無いかを全部調べてあげた。○○君が小さい時にしていたように。
お口を開けて、おめめを見て、お靴を脱がせて、服を脱ぎ脱ぎさせて。私はずっとそうして○○君を診てあげてきた。○○君のことで知らないことなんて一つも無いのに。
なのに、咲夜さんがみんな取り上げてしまったんだ。自分からは何一つ○○君に与えてない癖に、私から全て奪っていった。
咲夜さんは○○君に変な魔法をかけていた。私のことに全く気付かなくなる魔法…「あんじ」とか言っていたっけ。
ずっと、ずっと辛かった。○○君は私が目の前に居ても大声で叫んでも全然わからなくなってしまった。でも、○○君の姿を見ていられればまだ耐えられた。
咲夜さん、あなた何て言いました。私の目の前で眠っている○○君にナイフを突きつけて。
『今後、これ以上下僕の部屋を覗いたり近づいたりするようなら仕方がないわ。もう一切貴方が○○の姿を見られなくしてあげる。…忘れないことね』
ええ、一字一句違わず覚えていますよ。三年経った今でも、忘れられるものじゃないです。
あの日から私がどんな思いをして過ごしたのか、咲夜さんは知る由もないでしょうね。
門番の仕事をそっちのけにしてずーっとあそこに通っていました。あの子が戻っているんじゃないかっていつもいつも思いながら。
日が暮れて、やっぱり来なかったんだって毎日毎日がっかりして。それでも諦めきれなくてまた次の日も一日中そこに居て。
憎くて、悔しくて、何よりも恋しくて気が狂いそうでした。貴方を憎むよりも、○○君が恋しくて恋しくてたまりませんでした。
でももう違う。○○君がここに来てくれたから。
だから咲夜さん、この子はもうあなたのものじゃないんです。あなたがいくらこの子を縛ったって無駄。○○君は自分でここに来たんだから。
「何も言わないなら肯定と受け取るわよ?それとも睨みつける位で私が怯えるとでも思っているのかしら」
醜い人。どんなに言葉を飾ってもあなた自身までは隠せないのに。私が憎いんでしょう?この子を取られて悔しいんでしょう?○○君が恋しいんでしょう?
でも全て無駄。あなたは耐えられない。私より、身も心も弱いあなたには耐えられる筈が無い。
私は心の中で躍り上がりそうになりながら、冷たい表情で『お話』を始めた。
「○○君、言ってましたよ。咲夜様はひどい、大嫌いだって。」
美鈴がそう切り出した途端、咲夜の表情が一変した。驚愕、というより呆けたといった方が正しい表情。やがてそれは困惑の色も表し始めた。
「…嘘よ、貴方何を言っているの」
まるで小さな子供がいきなり叱りつけられた様な。自分の意識しない悪事を目の前に突き付けられた、そんな顔。
「咲夜様は僕のことなんてどうでもいいと思ってる、僕の代わりなんていくらでも居るんだって言って泣いてました。
僕は咲夜様のためにずっと頑張ってきたのにどんなことでもやってきたのにって。」
ナイフを持った手ががたがたと震えだした。先ほどまで美鈴を睨んでいた目は、今は彼女の膝で寝息を立てている少年を見つめている。
「嘘…嘘よ…嘘はやめなさい!」
怒鳴り声にも関わらず美鈴は一方的に話を続けた。
「咲夜様が僕を大切にしてくれないなら、僕も咲夜様を大事には思えない。」
「やめなさいっ!それ以上しゃべるなっ!!」
「誰か僕を大事にしてくれる人のところに行きたい。」
「やめなさいって言ってるでしょう…!!」
「でも、咲夜様のところには戻りたくない。もう咲夜様は僕なんていらないんだ。」
「やめて!…もうやめて…」
「だったら僕も咲夜様なんていらない。」
「……○○…私の○○…こんなの嘘よ…」
「僕は机や椅子じゃない。自分の足で歩いていく。」
「………」
「…この子はそう言っていましたよ、咲夜さん。」
美鈴が話し終えると、そこにはまるで糸が切れた人形の様にへたり込む咲夜が居た。
美鈴は○○をそっと木に寄りかからせると咲夜のすぐ傍まで近づき、しゃがみこんだ。
そして満面の笑みを浮かべながら放心状態の彼女に、ぼそりと耳打ちをした。
「ひどいですね、咲夜さん。」
次の瞬間、咲夜はそこには居なかった。その跡には折れたナイフが一本、歪んだ光を放ちながら草露に濡れているのみだった。
「う…美鈴、お姉ちゃん…?」
耳打ちの声に反応したのか、それとも固い木を枕にして安眠を妨げられたのか○○がぼんやりとした目で美鈴を見上げていた。
美鈴は彼の隣に腰を降ろし肩に手を置いて、起きようとした彼をそっと押さえつけた。
「ふふっ、もっと寝てて好いんだよ○○君。私も一緒に寝てあげるから…」
美鈴はそう言って彼の髪をそっと撫でた。○○はまるで母親に舐められた子犬の様に開きかけた目をまた閉じてしまった。
「○○君。○○君。お姉ちゃんの、お姉ちゃんだけの、大事な大事な○○君…」
そう何度も名前を呟きながら、彼女は○○の体にまるで絡み付くように抱きついていった。
何とか一区切りつきました。今回は中国が大勝利を納めましたが、咲夜さんのリヴェンジも近い内に…と考えたりしてます。
さて当初の目論み(?)通り、糞長い話になる事はほぼ確実の様です。中国・咲夜編が終わるかどうかも分からないのに更にフラン編が控えているのですから…。
ストーリーの頭だけ考えてケツを忘れると後になって散々な事になる。そんなお話の典型として読んでやってください…。
最終更新:2022年05月22日 01:03