『愛知縣郷土篇』第一篇第二課「躍進愛知とその歴史(一)」
出典:愛知縣教育會編『愛知県郷土篇』(1940年)
- 昭和七年の不況に際し、時の山本内務大臣が地方長官を招集して、これが對策につき協議を行はれた砌である。畏くも 聖上陛下には地方長官に謁を賜ひ、それぞれその地の状況を聞こしめされた。恐懼に堪へずとは思ひながらも、地方長官はその窮状を言上するの餘儀なきに至つたが、獨り我が遠藤愛知縣知事のみは、「本縣は困つてゐませぬ。何卒 叡慮を安ぜられたし。」と申上げた。會畢つて後、山本内務大臣は遠藤知事に向つて、「陛下に御心配をおかけしないのは御身一人であつたぞ。」と語られたといふことである。
- 昭和九年米國を親察した人の話を聞けば、「米國の百貨店には日本品が溢れてゐるが、中にも我が愛知縣産のものがその大部分を占めてゐた。」といふことであり、また印度から歸つた或人は「印度の市場は、我が愛知縣品を以て覆はれてゐた。」と語つてゐる。
- 縣の統計の示す處を見ても、愛知縣の生産高は年額十六億圓に達せんとし、百萬圓以上のもの百十餘種に及んでゐる。就中工産品は最も多く、年額十四億圓に達せんとしてゐるが、そのほか農業の經營、水産の施設等も亦、斷然全國に優越せる地位を占むるもの益々增加し、將に元龜天正以來武人として天下に鳴つた尾三の地は、今や産業を以て鳴らんとしつつあるを思はしめる。
- 惟ふに尾三の地は、地理的に見て既に優秀なる地位を占めてゐゐのである。抑ゝ日本は東西兩半球の文化の綜合的地位に立つてゐる。更にその日本に於ける東西文化の接觸點は實に我が尾三の地であり、坐して東西文化の恵澤を享くるにも、立つて天下の權力を握るにも絶好無二の位置にある。
- このことは決して近來に始まつたものではなく、人文發達の最初からである。尚また更に深く考ふれば既に地質時代からの事實である。三河があらゆる地質の模式を具へてゐて、地質學上稀に見る重要な地であること、尾張の地には十萬年前に於て、現今米國カリフォルニア州に繁茂し、世界最大の樹と稱せられてゐる赤杉が繁茂してゐたこと等の事實は、實に尾三の特殊性を語るものである。この特殊性から出來た尾三の地は、伊勢海・三河灣を抱いて木曾川・庄内川・天白川・矢作川・豐川等の諸川がこれに注ぎ、人類の棲息には最も適してをり、遠く先史時代からの住民を有してゐる。先住民族や原始日本民族の遺蹟・遺物の數量や性質から見ても、他の地方に比較し、早くから文化の進んでゐたことを證することができる。
- 原始日本民族が日本國を建設してから大化改新の頃までを原史時代といひ、氏族政治の行はれた時で、歴史年代の過半を占めてゐるが、この頃尾三の各地に族長を葬つた大きな立派な古墳が今も多數に存在してゐるのを見ても、この時代に勢力ある氏族の繁榮してゐたことを想はしめる。
- 繁榮した氏族の中でも、阿曇氏に率ゐられた海部族は、海岸地方に蟠居して伊勢海や三河灣を中心に遠く海を航して東西に進出し、深く河を遡つて信濃や美濃の内部にも及んでゐる。また武夫として知られた物部の一族は尾張に三河にその土地を開拓し、最もよく榮えた氏族であつた。日本武尊が御東征の時には、まづ尾張氏に寄り建稻種命を軍將として、尾張三河の物部や海部を中心に軍旅をととのへられた。尚また日本武尊の御兄大碓命の御陵は猿投山に存し、御弟の氣入彦命の御陵と稱せらるる古墳は矢作町にある。景行天皇の朝に尾三との関係は特に深きものがあつた。
- 成務天皇の朝に建稻種命の父乎止與命が尾張の國造となり、三河にゐた物部氏の知波夜命が三河國造に任命せられた。當時三河國といつたのは今の西三地方のことで、今の東三地方は穂の國と稱し、穂の國造は雄略天皇の御代に莵上足尼が任命せられた。それ以前に穂別と稱ばれた穂の國造があつたことを説くものもある。
- 佛教博來後には奈良朝以前に既に尾三の地に大伽藍が建てられ、今もその廢寺の址が何箇所も遺つてゐる。ことに北野廢寺の如きは、その礎石から見て、推古期のものといはれ、大和以外の地方には見られない大建築であつたことがわかる。當時尾三の地が如何に榮えてゐたかを想像するに難くない。
- 古事記・日本紀は奈良朝の編纂で千三百年以前に遡つて、それ以來を記述せられたものであるが、書中尾三の記事に特に注意の拂はれた跡のあるのを見ても、編者が如何に尾三の土地について重要性を惑じてゐたかがわかる。
最終更新:2008年12月17日 21:22