<私>・シップ ◆Ee.E0P6Y2U
私は電車で新宿を出て、いつかのように服を買うことにした。
<ポール・スチュアート>でシャツとネクタイとブレザーコートを買い、アメリカンエクスプレスで勘定を払った。
そんなものでも全部身に着けてみると、なかなか悪くない雰囲気を与えてくれた。
ただ鏡の中を覗き込むと、ネイビー・ブルーのフラノのブレザー・コートの片方の袖が、やっぱり一センチ半ばかり短いことが分かった。
正確には服の袖が短かいのではなく、私の左腕が長すぎるのだ。どうしてそうなったかは分からない。気づいたら体がいびつになっていたのだ。
店員は一日あれば袖を調節できるからそうすればどうかといってくれたが、私は今回も断った。
「スポーツなんかはやっていないんだけどね」
断りながら私は言った。店員はアメリカン・エクスプレスの控えを渡しながら私の言葉に頷いた。
過度な運動と過度な飲食を避けることが洋服にとって一番いい。
この前拾い上げた、世界に満ちた多種多様な法則の一つだった。
服を買うのにも飽きると、私はレストランに入りサンドウィッチを食べることにした。
レストランではどういう訳かコンチェルトが流れていて、聞く限りそれは『ブランデンブルク』だった。
しかしカール・リヒターでも、トレヴァー・ピノックのものでもない。
正統派とは言えないが重みものある旋律で、もしかしたらこれがパブロ・カザルスの『ブランデンブルク』なのかもしれなかった。
レストランには私の他には三組の客しかいなかった。
何事か話し合っている男女と、本に読みふける若い男。それにコーヒーカップを前に微動だにしない老人だけだった。
『ブランデンブルク』を聞きながら、私は運ばれてきたサンドウィッチと熱いにコーヒーに手を付けた。
そのサンドウィッチは、新鮮ではりのあるパンを使っていて、レタスもしっかりとしていたし、マスタードも上物だった。
しかしマヨネーズは市販のものだろう。それに包丁がよくない。良いサンドウィッチを作る為には清潔な包丁が不可欠なのだ。
とかく見過されがちなことだけれど、サンドウィッチに対してかなり辛い評価基準をを持つ私にとって、看過することのできない部分だった。
とはいえ食べられないほどではない。私は基準線ぎりぎりのそのサンドウィッチを熱いコーヒーで胃に送り込んだ。
レストランを出ると空に雲が出ていた。
雨が降りそうな気配を感じ取った私は、降られる前に部屋に帰ることにした。
『ドゥー・ナッシン・ティル・ユー・ヒア・フロム・ミー』のユニークなローレンス・ブラウンのトロンボーン・ソロにあわせて口笛を吹きながら車を運転した。
それからピーター・アンド・ゴードンが代わって『アイ・ゴー・トゥー・ピーセズ』という古い、甘くて切ない唄を響かせた。
それからボブ・ディランが『ポジティブ・フォース・ストリート』を唄っている頃になると、私はアパートにたどり着いていた。
彼の唄はすぐ分かる。何といってもハーモニカがスティーヴィー・ワンダーより下手だ。
日はもうすっかりくれていて、すでに雨がその口火を切っていた。カリーナ 18000GT・ツインカスタムターボを止め、私は慣れない自分の部屋に入った。
「いい雨だね」
部屋に入ると待っていたのは彼女だった。
彼女はソファーに深く座り、どういう訳か『スポーツ・ニッポン』を開いていた。
スピーカーからはラヴィン・スプーンフルの『レイン・オン・ザ・ルーフ』の懐かしい唄声が流れている。
そんな中にあって彼女のような若くて美しい娘が『スポーツ・ニッポン』を読んでいた。何の役には立たないが、何も読まないよりは意味があることだった。
彼女はそんな『スポーツ・ニッポン』から顔を上げ、やってきた私を湖みたいな瞳で見上げていた。
「服を買ったんだね。似合ってると思うよ」
「広告会社の若手有望社員みたいにしてみたんだ」
「ふうん。その橙色のシャツは君によく似合っていると思うよ」
「とてもありがとう」と私は言った。「君のセーラーもよく似合っている」
「それはどうも」
「本当のに言っているんだ」
「ところで何か食べたかい?」
「サンドウィッチとコーヒーを少しずつ」
「じゃあ大丈夫だね」
彼女はそう言って私から再び目を逸らし、代わりに『スポーツ・ニッポン』を目を落とした。
やれやれ、と漏らすと、私は冷蔵庫から氷をとりだし、大きなグラスに大量のウィスキー・オン・ザ・ロックを作り、少しだけソーダを加えた。
そのグラスを片手に私はカノジョの向かいのソファーに座り込んだ。
私はつねづねソファー選びにその人間の品位がにじみ出るものだと――またこれはたぶん偏見だと思うが――確信している。
ソファーというものは犯すことのできない確固としたひとつの世界なのだ。
しかしこれは良いソファーに座って育った人間にしか分からない。音楽や本と同じだ。良いソファーはもうひとうの良いソファーを生み、悪いソファーはもうひとつの悪いソファーを生む。
それもまたこの世界に満ちた法則の一つだった。
「ねえ、精液を飲まれるのって好きかい?」
娘が不意に私に訪ねた。
どこかで聞いたことのある問い掛けだった。
『精液を飲むと美容になる』のような記事がまた載っているのかもしれなかった。
世の中の人間はそんなにも精液を飲ませたがるものなのだろうか。私は不思議に思った。
「別にどっちでも」
「でもここにはこう書いてあるよ。『一般的に男はフェラチオの際に女が精液を飲みこんでくれることを好む』って。
マスターは違うのかい。『一つの儀式であり承認である』とも書かれているけど」
「よくわからない」
「飲んでもらったことある?」
「覚えてないな。たぶんないと思う」
「ふうん」
そう彼女は言って、再び『スポーツ・ニッポン』に目をやった。
私の目はそんな彼女に向いていた。
彼女は若くて美しくて、セーラーのグレーブルー・ヴェルヴェットの深い色合いがよく生えた。
袖から覗く腕や脚は肉付きがよく、見ているとそれがまるで冬の雨みたいに思えてきた。
しばらく同じ部屋で過ごすようになって、私はこの娘に対して好感を抱いていることに気付いていた。
好感を持てる女性は私の人生の中でもそれほど多くはなかったので、ちょっと珍しい気分だった。
そんな彼女を見つめながら私はウイスキーを煽った。
何時しかラヴィング・スプーンフルの唄声は消え、『レイニー・デイズ・アンド・マンデイ』がかかっていた。
カーペンターズに重なるように窓の外から雨の音が聞こえていた。
水面には波紋ひとつ残らなかった。
水は獣の目のように青く、そしてひっそりとしていた。
その静寂を眺めていると、自分が宇宙の辺土に一人で残されたように感じられた。
もうどこにも行けず、どこにも戻れなかった。そこは世界の終りで、世界の終わりはどこにも通じてはいないのだ。
そこえ世界は収束し、静かにとどまっているのだ。
だから僕ができることは一つだけだった。
「君は夢を読むことができるんだね」
誰もいない筈の森の中で、彼女は僕に対して語りかけていた。
その声は街の人々よりも色が濃く、森の雪よりは優しかった。
通り過ぎゆく雨――僕は彼女がそういうものに思えた。
「君は夢を、心を読むことができる。そしてそれを一つにまとめることができる。
君が今まで見てきた夢を見つけることができる。そこにあって、誰もそれを奪いとることのできないものを、君はそこに見つけることができる」
彼女は小さく頷いて、それから濡れた目でじっと僕を見つめた。
「君がいたから、あの人は僕をサーヴァントに呼んだんだね。
運命のスリガオ海峡で、扶桑も山城も見ていた僕を。
皆が忘れても、僕だけは絶対に覚えていた……何もかも変ってしまった帝都で、それでも覚えていた僕を……」
僕は彼女の言葉を信じた。
信じることができた。この水を辿って行って、その流れに身を任せて、本当の生命が本来の姿で生きる場所を知ったから。
そしてそこで僕は振り返ったから。
僕は雨ふりのことを考えてみた。
私の思いつく雨は降っているかいないのかわからないような細かな雨だった。
しかし雨は確かに降っているのだ。そしてそれはかたつむりを濡らし、垣根を濡らし、牛を濡らすのだ。
誰にも雨を止めることはできない。誰も雨を免れることはできない。
「僕も今ではあの世界のことを思いだせる。空気や音や光や、そういうものをね。
唄がそんなものを僕に思い出させてくれたんだ」
「立派な世界かなんて、僕には分からなかったけど、少なくともあれは僕達が生きていた世界なんだ。
良いことも、悪いことも、どちらもあったんだね。それを僕は覚えていたいんだ」
雪は何時か止むだろう。春の温かさが来て、それは雨になる。
そのことを確信しながら、僕は踏む雪の軋みを聞いていた。
いつものように、目覚めは隅の方から順番に帰ってきた。
ブックシェルフ・スピーカーが右端に現れたかと思うと、左端ではバスルームのぬっぺりとしたドアが浮かび上がっていた。
やがて視界がだんだん内側へと移っていって、まるで湖に氷が張るときのようにまん中で合流した。
合流した先にあったのは目覚まし時計で、三という数字を挟み込むように二つの針がぴんと伸ばされていた。
目覚まし時計はオリーヴ・グリーンの丸いシンプルな造形をしていて、左わきに小さなボタンがつつましくついている。
私がボタンを押すと、振動してブザーを鳴らしていた時計は、定められた
ルールに従ってぴたりと止まった。
ブザーが鳴り止んだとき、私は自分が時計とマールボロ・ライトの置かれたテーブルを前にして目覚めたことを知り、同時にソファーに座りながら眠っていたことを知った。
そうして目が覚めた私の心を、何かが打った。
それは唄だった。完全な歌ではなく、唄の最初の一節であり、もっと言うならば和音だった。
四つの音がまるでやわらかな太陽の光のように、空からゆっくりと私の心の中に舞い下りてきた。
最初の四音はすぐに次の五音へと導かれメロディーとなった。
『ダニー・ボーイ』
スピーカーから流れ出していたのは、その唄だった。
私は開けたばかりの目を閉じて、そのつづきを聞いた。
メロディーが心にしみわたり、体の隅々から固くこわばった力が抜けていくのがはっきりと感じられた。
久しぶりに『ダニー・ボーイ』を耳にすると、私がどれほど心の底でこの唄を目止めていたかということが分かった。
あまりにも長いあいだこの唄を失っていた気がする。私はそれに対する飢えさえも感じ取ることができなくなってしまっていたのだ。
音楽は長い眠りについていた私の筋肉と心をほぐし、目にはあたたかいなつかしい光を与えてくれた。
ほのかな優しい光を感じた私は目を開いた。そして立ち上がって天井の電灯を消した。
その光は薄暗い電灯の光ではなかったからだ。もっと星の光のように白く、あたたかな光だ。
電灯を消したことでその光がどこから来ていたかを知った。
光は窓から降り注ぐ月の光だった。
月は朝の海のようにやわらかく、静かに輝いていた。
部屋がまるで昼のように明るくなっていた。ずっと月がなかった夜に、月が覚醒しているのだ。
その月を見ながら、私は自分が目覚めたことを知った。
これで私は私が喪ったものをとり戻すことができた、と思った。
それは一度失われたにせよ、決して損なわれていないのだ。
私は目を開けて、その深い月を見つめた。雨は止んでいた。しかし何時かまた降りそそぐだろう。
雨は何時も公正に降り注ぐのだから。
何時しか『ダニー・ボーイ』は終わっていた。
代わりに現れたボブ・ディランは『激しい雨』を唄いつづけていた。
【クラス】
シップ
【真名】
駆逐艦・時雨改二
【パラメーター】
筋力D 耐久E 敏捷A 魔力E 幸運A+++ 宝具E
【属性】
中立・中庸
【クラススキル】
砲撃 D
艦むすとしての砲撃性能。駆逐艦としてはこれでも上位の性能を誇る。
索敵 C
艦むすとしての索敵性能。判定に成功すると命中回避を上げることができる。
【保有スキル】
爆雷 C
戦艦や空母と違い、駆逐艦は潜水艦への攻撃が可能。
先手は取られてしまうが潜水による気配遮断に対応できる。
夜戦 B
夜間戦闘における威力補正。夜間戦闘において火力が飛躍的に上昇する。
また幸運値に依存して命中補正がかかる。
【宝具】
『改二』
ランク:E 種別:対空 レンジ:1-20 最大補足:10
度重なる改修の結果手に入れた強力な対空性能。
佐世保に帰投した際に修理ついでの改装を繰り返していた結果である。
最終形と就役当初の時雨は明らかに別物。
対空攻撃が幸運値に依存して威力・命中に補正がかかる。
【weapon】
22号対水上電探
13号対空電探
【人物背景】
白露型駆逐艦2番艦『時雨』――その艦むす。
開戦時は同型艦の白露、初春型駆逐艦の有明、夕暮と時雨の4隻で第一水雷戦隊第二七駆逐隊に所属していた。
艦むすのモデルになっている白露型の「時雨」は旧神風型を先代にもつ2代目である。
(先代の時雨は旧神風型の10番目として、日露戦争直後に誕生。しかし第1次大戦に参加したという記録も無く、実戦を迎えることなく引退したとされている。ある意味本当の幸運艦だった。)
史実では歴戦をくぐり抜け、「呉の雪風・佐世保の時雨」と言われた超のつく幸運艦となった。
しかしそれは雪風と同じく味方の死を多く見ることでもあった。
扶桑・山城・最上・満潮・山雲・朝雲……多くの味方が散っていき、しかし本国にはそれが『大戦火』と伝えられる。
そんな中にあって時雨は損傷を受けつつも生き残り、その度に改修を受けた。
結果戦争末期には全くの別の艦になっており、それが『改二』として再現されることになる。
戦争末期、幸運を誇った時雨も遂に倒れる。
そして艦むすになった彼女は思う。戦争が終わっても、みなの戦いを、真実の姿を決して忘れはしない、と。
【マスター】
『ハードボイルド・ワンダーランド』の<私>
【マスターとしての願い】
失ったものを手に入れる。
【能力・技能】
決して解けない暗号を作る……が『世界の終わり』がああなった今、この能力は恐らく使えなくなっている。
ただそうでなくとも仕事柄高い暗算能力を誇る。
【人物背景】
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の<私>。
『ハードボイルド・ワンダーランド』の物語の語り部であり、主人公である。
『ハードボイルド・ワンダーランド』の章は、暗号を取り扱う「計算士」として活躍する私が、自らに仕掛けられた「装置」の謎を捜し求める物語である。
半官半民の「計算士」の組織『組織(システム)』と、それに敵対する「記号士」の組織『工場(ファクトリー)』は、暗号の作成と解読の技術を交互に争っている。
「計算士」である私は、暗号処理の中でも最高度の「シャフリング」(人間の潜在意識を利用した数値変換術)を使いこなせる存在である。
ある日、私は老博士の秘密の研究所に呼び出される。太った娘(博士の孫娘)の案内で「やみくろ」のいる地下を抜けて研究所に着き、博士から「シャフリング」システムを用いた仕事の依頼を受けた。
アパートに戻り、帰り際に渡された贈り物を開けると、一角獣の頭骨が入っていた。私は頭骨のことを調べに行った図書館で、リファレンス係の女の子と出会う。
翌朝、太った娘から電話があり、博士が「やみくろ」に襲われたらしいと聞く。
私は謎の二人組に襲われて傷を負い、部屋を徹底的に破壊される。その後、太った娘が部屋に現れ、私に「世界が終る」ことを告げる。
……彼は知る。
「シャフリング」の真実を。
己の意識の中にあるもう一つの世界――『世界の終わり』と名付けられた物語を。
【方針】
???
最終更新:2014年12月21日 15:30