指が青い流紋を描く。

冷たい砂漠の夜の石畳に膝つき、人の肌にそれをするような、かすかで、たどたどしくて、意志のこもった人差し指を垂らして描く。

月明かりが蒼い。影が、濃く、石畳の隙間にこじって入ったかの如く、そんなところにまで闇が染み入る様がはっきり見えるほど、今日の月夜はまばゆかった。道を、延々と葉脈が走っているかのように、その影がひとくさりにつながって形作っている。はめこまれた大小の石の今は幾多の足と風と雨と轍に滑らかに鍛えこまれた表面が、燦々と光をすべやかに湛え、月の光を湛えた水面の揺らぐことなき一瞬の/永遠の波涛をそこに蒼く刻み込んでいる。砂塵が幾重にもそれを化粧じて、石畳に肌を作っていた。

その、肌に、指を垂らして青い流紋を描く。

それは常ならざる文字で施した、ひとくさりの偉大なる無為であった。

奇妙なことに、それを施している人影の詳細は、それほど色濃い光の月夜であるにも関わらず判然としなかった。素裸なのか、全身を衣で覆っているのか、髪は長いのか、顔を露出していないのか、男なのか、女なのか、子供なのか、大人なのか、大柄なのか、小柄なのか、長身なのか、矮躯なのか、常人なのか、異形なのか、目を、あけているのか、いないのか、色さえなにも、わからなかった。ただそこに、ひとかたまりの黒い影があり、白い指があり、それがひざまずいて、延々と石畳の上を、這い、人肌にそれをするように、指を垂らして青い流紋を描きながら移動していることだけは、はっきりしていた。

星がない。

こんなにも明るい月夜なのに、星が、1つも見えない夜。さえぎる雲も、霞んで漂うほどの切れ端程度にしか空を泳いでいないのに、星が1つも見えなかった。

風もない。

雲が、ゆるりと流れる程度にはあるのだが、肌をなぶる感触を、感じない。空でだけ、吹き流れているのだろうか。それが、降りてこない。

冷たい夜だった。きらきらときゃらきゃらと月の光が波打つ石畳の滑らかな波涛に冷たく光り、ひんやりとした空気が、風もないのに、その光に運ばれて、心を冷たく撫ぜるようだった。

しんしんと砂は音を吸い、光沢が雪よりも深く人の心を吸う。見つめることをすら許されない、冷たい死色の蒼が、砂丘、砂漠の漠たる丘に、降り注ぎ、降りかかり、敷き詰められて、人の心に停滞を呼ぶ。

この乾いた雪に手をさしこめば、その手は霜焼けることはないかもしれないが、その心は、冷たく焼けて、二度とは戻らないかもしれない、そういう魔的な冷たさを心に帯びた、世界であった。

命の吐息はどこへ消えたのだろう。砂漠にすらあるその吐息が、今はどこからも聞こえない。そこに道のある限り満ち満ちて往来を止めることない人間たちの足音はおろか、影さえ他に、射すことを知らない。

空気が、死んでいた。

音が、死んでいた。

あらゆるものが、死んでいた。

蒼く蒼く死んでいた。

月が、殺していた。

光の触れ射す限りのあらん限りを時を止めたかのように。

殺していた。

誰もいない。

何もいない。

何もない。

何も起きない。

何も。誰も。

その、平らかな静寂をうごめいて、光破る、影の指は、延々と青い流紋を敷き詰められた蒼い死の上に塗り重ねては紡ぎ広げていた。

言の葉ではない。

葉脈のように延々ぐるり続く石畳の影縫って塗っているのは、言の葉ではない。やわらかな、音も、意味も、何もない、ただの紋様であった。象形ですらない。象意と名乗れば正しかったのだろうか。だが、いずれにせよそれはもはや目にする誰の目にも確かな意味を取らない以上、文字ではありえなかった。

ただ一面の波涛であった。

一葉の言の葉ですらないその流紋は、砂漠に一路敷き詰められた石畳の上に一千散りばめられた月影波涛の上に一心刷き尽くされた、ただ一面の青き波涛であった。

幾重にも積み重ねられた冷たい石畳の上に磨り減るようにして降り染みた足跡と足音と歳月の上にさらに万丈にも降り注ぐ蒼く蒼く蒼い空と光と冷たさの上に、さらにまた、舞い散り刷き詰められた、青い、魔法のような輝きの粒と渦と枝と滴と流線であった。

長い。

果てしのないと思えるほどの、長い距離を、1人の人間が指垂らしそのようにして流紋を描いていく。ぐるり、静寂、通りすがるもの目をかけるもの誰もなく、息づく命の祝福なく、ただひたすらに人差し指先から青を滴らせて描いていく。

それはただ一心不乱に為す無為であった。

誰のためにもならぬ、くだらない祈りであった。

幾つにも紋様のパターンが繰り返される。それがまた一式の紋様を描き出す。それらが延々と敷き詰められた道のりすべての青がまた、1つの大きな形を描く。どこを見ても、どこから覗いても、どこから見ても、どう見ても、綺羅、万華鏡の如くに青いきらめきが意志を瞬いて輝いて焼きつかせるように、その流紋は念入りに描き出されていた。

止まった夜に時は流れない。だからその青は流れ出さない。それはただかくあれかしと願いを留める物語の中でしか許されない幻想の所業であった。だからこれは、本来、仮想ですらない。幻。ただの。祈り。

その、祈りが淡々と刷き続けている。青い魔術よここにあれ。青い魔法よここにあれ。青く青く青い、何よりも青い、未熟な祈りよ、未熟な心よ、その未だ熟さざるを以てのみ成せることがあるならば、どうかここに魔よあれ、その魔なる法を以て、世界よ変われと、そう、1つの指先が、祈り続けていた。

性別も、姿かたちも装いすらも判然としない人影。その人影がひざまずき、ぬかずくが如くに這い、繰り返し、繰り返し、垂らした指先から想いの紋様を垂らして流す、その繰り返し。

石畳の隙間の影すら角の立って見えるほどに光の濃い砂漠の冷たい月夜に、見守るもの、何ひとつなく、星ひとつなく、機織で機をじっくりと一本ずつ織り紡ぐ速度で進んでいく。

人は、このような澄んだ月を、月の氷、と、呼んだ。その天上の氷を、水面に映る月を削って削ろうとするかのように、滑らかな石畳の表面上に散った光の上に青を梳って重ねていく。どこまでも、重ねても、重ねても、重ならず、その青の上にすら、月の氷の冷たさは、浮かんで消えることはない。

その指はひざまずいていた。描きながらにして膝折りぬかずきひざまずいていた。人影の、そうしている様子はどこにも見受けられないのだが、青白く照らし出されたその指を、じっとこうして見つめていると、そうとしか言い表しようのない表情が、その仕草には塗りこめられて、透けていた。

幾重にも歳月の降りこめられた石畳の滑らかな照り返しが、そう、想起させたのだろうか。それとも歳月すらも死んだあとかのようなおそろしく平らかなこの静寂が、そう、見せていたのだろうか。しんしん、青と光に塗り混じる砂が、流紋と指に表情を塗りこめ重ねていく。

どこまで続くのだろう。

どこまで続くのだろう。

この意味のなさは、どこまで続いて終わるのだろう。

終わりなどないのだろうか。

終わりなどないのだろうか。

幾度凝らした疑念か知れない。

それでも指は、描き続けていた。

言葉にならない想いの丈を、仮想にならない幻想の限りを、描き続けて、織っていた。

渦と枝と粒と、そのようなものばかりで構成された紋様は、どこに尖るところもなく、それでいて、やわらかなだけではない、うねるような鼓動、拍動、心拍、心象、青海の波涛のそうするように、高まり、重なり、行き交い、揺り返し、そうして終わることなく果てしなく続く切り取られることなき一枚絵として、成り立っていた。

人は、心のありかを昔、そこに重ねて感じていたという。また人は、心の形をその形に重ねて満たして見ていたという。触れ合うことのぬくみも握りしめあうことの命のリズムも、ずっとずっとそこから吸い上げられて、伝わっていく。

心臓の形。ハートの形。心の形。その大きさには、1つの拳で足りるけど、1つの手ではその形は作れない。2つ、なければ届かない。2人、いなければ感じられない。愛情の形。愛情を、満たして生まれるその形。

ハートマーク。

この国がその形をしていたのは偶然だったのだろうか。この国がその形を体で表す島々でできていたのは、偶然だったのだろうか。

偶然は、幾つ重なれば、魔法に届くのだろうか。

島の輪郭に沿った形で敷き詰められた街道の一面に、青い輝きを満たし、空からそれを見れば月夜に輝く静かなハート型を、大地からそれを見れば月夜に輝く幾億幾万の想いの丈の輝きの乱反射の、いずれに見えても構わぬように、いずれから見ても構わぬように、丹念に、丹念に、その指先は青を綴り続けた。

どれほどの時間が経っただろう。どれほどの青が流れただろう。どれほどの力が費やされた、ことだろう。

人影は空を見上げてつぶやいた。

ごめんね。

許してなんて、くれないよね。

痛かったよね。

もう二度と、見てなんてくれないかもしれないけれど。

けど、それでも。

このままは嫌だから、君に届くよう、小さなハートのマークを贈ります。

星明りにさえぎられることのないように、音に、さえぎられることのないように、ただそれだけを祈ってこめて、描きました。

この物語はフィクションです。フィクションの中ですらフィクションな、幻の中の幻の、ファンタジーです。

それでもいつか君の目にこの物語が届くことを願って、たった1人で贈ります。

みんなで一緒に伝えた方がいいのかもしれないけど、どうやってそれをしたらいいか、勇気も、知識も、心も足りないから、せめて1人で祈ります。

亜細亜ちゃん。

嘘をつくのなら、自分ごと騙したいから。

最後に署名を入れておきます。

道化が1人、君の泣き顔がなくなるために、おどけていたこと、覚えていてくれたらうれしいな。

それじゃ。

青い指先が綴る―――

―The undersigned:Joker as a Liar:城 華一郎

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最終更新:2007年02月21日 02:52