「呪い?」
文族見習いの青年は怪訝そうに聞き返した。
「そうだ。文章は、音や、絵と違って、時間がかかる。くそっつまんねえものを延々と読まされる身にもなってみろ。だから文族は常に面白いものを書くことが要求され続けている。そりゃ既に呪いってもんだ」
法官志望の青年は、そう言い終えるといまだ湯気の立つ熱い珈琲をすするようにして飲んだ。カップを置く、かちゃんと冷たい音が天井の高い室内空間に吸い込まれる。
「この呪いに、いつ、どのタイミングでひっかかるかで、大分違ってくるんだろうと思うよ。はしかみたいなもんで、はしかと違ってたちが悪いのは何度も何度も繰り返し際限なくかかるってことだけどな」
「うー…ん」
聞きながら、考え込む若い方の青年。それを見て、面白くもなさそうに椅子の手すりで頬杖ついて外を眺めたのは、少しだけ年長の青年。
ここはレンジャー連邦のサロン。芸術の都として知られる北の都にレンジャー派が集う、一つの隠れ家的屋敷であった。
砂と岩の不毛の大地であるレンジャー連邦では、自給自足が難しく、ここ北の都にある港からさまざまなものを輸入し国庫をまかなっていたが、そうなると、自然、顔薬や最新の芸術のモードを仕入れるために、芸を志すものたちが集うようになっていき、やがてはこの地に職人街と呼ばれる空間を作り上げ、このようなサロンまで、建てられるようになっていた。
今日、この2人がここに来ているのは非常に珍しいことだった。この北都では主に彫刻や絵画、音楽などが主流であり、文に筆を取るものたちといえば、藩都にある王立図書館近くの喫茶店をサロンがわりに利用しているのが常だったからだ。
今日、ここに来たのはたまたまといってもよい。今度の第五世界小笠原投錨のための技族たちの活動を応援がてら取材しに来ていたから、こんなところまでやってきていた。
「考えても見ろ、書いてる間はいい。自分がそこに文字を刻んでいるんだ、情報を、吐き出して、紡ぎ上げて、何かを作っているんだという手ごたえがあるからな。でも、ひとたび終わってみて、不意に気がつくんだ。つまらないと言われるうちはまだいい。そのうち気にもかけられなくなったらどうしよう、話題の端にものぼらなくなったら、誰にも見向きされなくなったら……そう考え出したらもうおしまいさ。あとはただ、延々と自分の中に生まれた疑念を振り払うために、必死になって走り続けるしかない。心の中にかけられた呪いを、解こう、解こうと必死にね」
「だから、呪い…ですか」
相槌しか打てないのが、なんとなく、雲を掴むような手ごたえの不確かさがあって、居心地が悪かった。
立ち上がって珈琲の御代わりを淹れて来る。歩いて、体を動かしていると、とらえどころのない頭の中だけの話につきまとう、ぼんやりとした感覚がまぎれてくる。いつもと感触の違う、ふわふわとした毛足の長い絨毯が、なんとも言えず足に心地よかった。藩都のサロンでは、本ばかり扱う文族たちに、これほど深い絨毯が必要ないため、ぺったんとした感触ぐらいしかない。よく音を吸って、とても居心地がよい場所だった。
文族は、書き始めたり読み始めると、ほとんど周りのことなんて気にしないからなあ…と、彼は普段の様子を思い出す。そのくせ語りだすと口数が多いから、騒がしいのなんの。
護民官のアイドレスが取得されてからというもの、その傾向は現在ますます強まっており、日夜サロンではアイドレス世界における秩序と法との熱い論争が繰り返されていた。
第一次共通試験が終わった今、だからこその熱さもある。試験前はみな勉強に必死でそれどころではなく、稀有なほど黙々とペンを走らす音、ページをめくり、本を広げ、重ねていく、あの独特の緊張感が漲っていた。
小笠原投錨よりタイミングが一日だけ早かったのも、関係しているだろう。いまや締め切りに追われる技族は、サロンで優雅に芸術を語り合っているひまなどなく、それぞれが自分のアトリエで必死に最後の調整を押し進めている真っ最中なのだ。
それで、珍しく北都の職人街へ取材にやってきていた2人は、うるさいところから離れて、たまにはこっちのサロンに寄ろうぜということになったのだ。
「でも、それだと際限なくないですか?」
「ないよ。終わりがないから呪いなんだ。それを解くには終わるしかない。終わりは、文族にとっても、人生の終わりだよ。リタイア、引退、ご隠居様。あとはみんなの書くものを読んでは批評し指導し教導する、ただのサポート役になっていくのさ。自分では作ることが出来ないけれど、愛着だけは、知識だけは一際深くなっているから、人に物を教えることが出来る。そういう人たちがここの大学で教鞭を取って俺らのような現役を育ててるってわけ」
まだ見習いの身にもかかわらず、やけに物知り顔で語る彼の手には、一冊の本。ここに来る前に、輸入ものの紀行文を古書店で見つけて手に入れてきたものだった。
ページをめくれば、にゃんにゃん共和国の別の藩国のものだろう風景や、ちょっとした物語の要約や、組織、名産、そういったものがどんどん顔をのぞかせていた。
そうやって目につくところだけ拾い読み流しながら、面白そうに青年は笑う。
「こういうのも面白いよな。飽きない。どこの国からどこの国への紀行文だろうと、それぞれ人が違うから、視点が違って、とても面白い。天領にある入国パンフレットなんかよりずっと役に立つ。タマ大統領から政権が変わったら是非導入してほしいね、採用してほしいもんだよ、こういう類の文章は」
「先輩、声、大きいですよ!」
「慌てることはないだろ…あれはもう失脚だよ。あれはもう駄目だ。人の幸せを奪うことにもっぱらの念を注いでいる奴は、もう、人からもらった幸せのことを信じられない。あれはもう、元には戻れないよ。いつからああなったのかは知らないが、かわいそうなものさ」
周りを気にするように慌てる後輩を前に、悠然とページをめくりながら青年は平坦な口調でそう言った。
「同情ですか」
「同情だよ。憐憫さ」
そう口にすることの傲慢さを知った上で、彼は語っているようだった。
ずず…と、奇しくも2人同時のタイミングで珈琲を飲む。ふと、目を合わせてしまう。
「違うサロンなのに、珈琲の味、大して変わらんな」
「そりゃ、同じ人が淹れてますから」
どーも、と肩をすくめる後輩。
大きな窓の外では、よく整えられた庭が広がっている。美的感覚だけで言えば、文族も、技族も、そう違いはないはずなのだが、さすがに普段そういう手作業に費やされている技量が違うということだろうか、目に、実に見事に映えて見えた。
「帰りたくなくなるなー、おい」
「コンプレックスですか?」
「おうともコンプレよ」
「劣等感もありますよね」
「劣等感もあるな」
「優越感は、ありますか?」
「優越感は、ねえなあ…」
「じゃ、先輩が卑屈なだけですよ」
「おいおい言うなあこの野郎」
ぐりぐりーと椅子から立って後輩の頭を締めつける。いてててて、と締め上げている腕を叩いてタップ。いつもと違う場所でも、いつもの光景。
「違うもの同士なんだから、コンプレックスなんて感じなくてもいいと思うんですけどねえ…先輩それでよく法官資格なんて目指しましたね」
「馬鹿野郎、こんなだから護民官資格じゃなくて法官資格目指したんだよ」
「ひがみ根性ですか。うわー、裁かれたくないなー」
「これだから文族は口が綺麗でやなんだ」
「ただ思ったこと言ってるだけですよう」
「それがいやだと言うとるんじゃ、このこの!まったく、少しは建前とか覚えたらどうなんだ、お前」
「理論は知ってます」
「そりゃすげーな」
「ところでそろそろ髪にあとがつくんで離してくださいよー」
「ちっ…」
しょうがねえなあ、と後輩を解放すると、青年は、くるりと背を向けた。
室内は相変わらず閑静で、そうしていると、世界がまるでここっきりしかないような気分になってくる。
これは、いかんな、と思う。
綺麗どころの一人でもくればいいのに。
美しいものを愛でるのはよい。異性の造型を愛でて好むのは、まあ、趣味が悪いとはいえないが、よいともいえないのだけは確かなので、実際に女性がサロンへ入ってきたら、緊張してしまってそれどころではないだろうが。
「文族は魔法使いじゃないんだがなあ…」
「文族は魔法使いであるべきだと思いますけど」
「いや、魔法使いはいやだろう、なんとなく」
「魔法使い、いいじゃないですか。すべての文章家の夢ですよ」
「やな夢だなあ」
「いい夢ですって。ところで会話がさっきからなんか噛みあってない気がするんですけど」
「それはお前、馬鹿、合わせるか流すかしろよ、芸人として」
「芸人じゃないですし」
けちなやつだなー、とぼやきつつ、本棚の方へと向かい、うろ、うろ。文族たちが普段来ない人の領域に来てまず一番にやることといえば、これだった。本棚を見る。
さすがに普段見慣れないものがわんさとあった。美術史、作品図鑑はまだ想像の範疇だが、なんだか読み方もわからんような、芸術道具らしいものの大典だの、専門用語が使われたタイトルのものだの、適当にひょいひょい手にとって開いてみても、さっぱり言っている中身がわからない。
同じ言葉で書いてあんのになんでわからないかなーと思う。そりゃ、実体験を伴わないとわからんよな、専門書だし、と、もう一人の自分がつっこみを入れる。
本を適当なところに戻しておくと、そういえばさっきから後輩が静かだなと思い、振り返ってみれば、テーブルの上に置いておいた紀行文に早くも読み耽っていた。
読むものがなければ牛乳パックの成分表やバーコードまで読むのが文族だ。まして他人が面白そうに読んでいた本が目の前にあって、会話する必要が途絶えたら、そりゃあ読んでしまうというものだ。
わかっていても、邪魔したくなる。
「とりゃー」
「あ!」
本を上からつまみ上げて奪い去る。突然現実に引き戻されて狼狽する姿を見るのは、楽しかった。
「返してくださいよー」
「馬鹿、これ、俺の本だろ」
「読んでるうちは我が本なんです」
「なんだそりゃ」
「読んでる間は文章と人間って、目に見えないもので接続されてるんですよ。いきなりそれを切断するのはひどいですよう」
むー、と、膨れ面するのを見て、しょうがねえなあ、ほら、と返してやる。
「それ、読んだら行くぞ」
途中まで読んだら行くぞ、といっても、どうせその段になれば、あとちょっとで読み終わりますから、と粘ってくるのは目に見えていたのでそう言って、再び椅子に腰掛ける。
いい椅子だった。レンジャー派の作風が見られる。このサロンに通う誰かの趣味だろうか、それとも誰かの作品なのだろうか。
手すりは長く、背もたれは深く、それでいて、尻の落ち着きがいいから、ずり落ちたり、肩が凝ったりしづらい。人間工学をちゃんと考えた奴の仕事だなと思う。
いい仕事に触れると、理由なく元気になる。自分のジャンルのものだとたまに激しく落ちこむが、こういう専門外の場所だと、コンプレックスとか抜きにしたら、素直に感動できて、よかった。
ここに寄ってよかったなと素直に思う。と同時に、今度はここの連中をうちのサロンに連れてきてやろうかな、とも思う。今日は誰もいないところを勝手に入ってのんびりしてただけだが、平日にでも来て、是非ともお邪魔してやろう。普段聞けないような種類の話が聞けて、きっと勉強になるに違いない。
ここまで考えて、おっと、と、気をつける。
どーも後輩の野郎の影響か、無駄に勤勉なことを考える癖がついてきたな…いかんいかん。もっとちゃらんぽらんでいなければ。
プライベートはプライベート、仕事は仕事。2つ、分けてどちらもきちんとやるからこそ、互いにいい影響を与え合って、ほどよく暮らせるというものだ。仕事一直線の人生など…まあ、他人がやる分にはいいかもしれないが、少なくとも俺が自分でやるならもっと愉快な人生だな。
じー、と、理不尽な恨みをこめて、目の前の男を見つめる。
ぴ、ぴ、と、目が文字を細かく追って動いている。本に集中して、こちらの視線になど気付いていないようだ。
しょうがねえなあ、と思う。
どこでこんな奴と仲良くなったんだったかなあ。ああ、俺が適当に声かけて、会話が成立して、顔見知りになって、そのうちなんだかよく一緒につるむようになったんだっけ。人の縁だよなあ、つくづく。
壁にかかっている時計を見る。小笠原投錨のための準備まで、あと、7時間。
絵画は、手をかけると、とても時間がかかる。文章だって均整の取れた人力の機械仕掛けのような美しくも人間臭い美文剛文を描き出そうとすれば手間暇がかかるものだが、肉体的な消耗度は、少なくともこちらの方が下だろう。目に力も入れなければ、手に力をこめる必要もないし。
ちく、たく、ちく、たく。振り子時計を目で追い暇潰し。ちく、たく、ちく、たく。
ふと、思う。
「なあ、物語って、輪で出来てるよな」
「らせんじゃなくて、ですか?」
後輩は、本から顔を上げて聞き返した。
「輪だよ。だって螺旋と違って、必ずどこかに向かって一直線に動かねえもん。ぐるりと一周して、一つ、終わって、それが積み重なって、すらーっと塔みたいに積みあがることもあれば、えっらいじぐざぐで不均衡で、崩れそうというより、既に崩れちゃってて、でも、それが逆に味があるとか、そういう風な感じじゃん。物語の連続性って」
「そういえば、そうですね…じゃあ、今日の俺たちっていう物語は、俺たちにとって、どういう位置に置かれるんでしょうね」
「ばっか、そりゃあ、お前…」
聞かれて、笑う。
「決まってんだろ。日常だよ、日常。朝、起きて、始まって、こうしてぐるりと輪を描いて、眠って、終わる。いつもとほんの少しだけ違う、当たり前の日常…読み終わったのか?」
「ええ」
「んじゃ、行くか」
立ち上がって、二人で飲み残しの珈琲をやっつけ、片付ける。
ぱたん、と扉を閉めて、2人が後にした室内に残る、微かな珈琲の香り……
サロンは、変わらぬ相を呈して、静かにそこに、佇んでいた……。
- The undersigned:Joker as a Liar:城 華一郎
最終更新:2007年02月21日 03:04