「おかーさま、どうしてみんなしななくちゃならないの?」
すずろな砂漠の夜の家、白い髪をしたむくむくの子供が母親の膝にすがりついて見上げていた。
アイドレス世界の命の始まりもまたこの世界と同じようにずっと昔から続いている。また、それと等しくプレイヤーたち仮想飛行士が思い描いたその瞬間から誕生したとすることも間違いではない。
「それはね、愛佳、大切な人のために今いる場所を譲ってあげるためなのよ」
やさしい手が頬をなでる。すりすりと、自分よりも二まわりは大きなその手に手を重ねてほお擦り甘える。
「わかんないよ」
素直な問い返し。
きゅ…と、頬をなでていた手が、考えこむように止まった。
「お父様も、お母様も、そのまたお父様のお父様も、お母様のお母様も、みんなみんな、いつか、あなたとおんなじことを、おんなじように聞いてきたわ」
「うん」
指に、しがみつくようにして握りしめながらうなずく。きらきらとおおきなまんまるの目で、同じ猫科の瞳を見つめる。夜灯りに美しくきらきら輝く緑色の瞳。深い、密林の色を思わせる、命に溢れた緑色の瞳。
「いつかあなたも、それを大切な人に伝えていくようになるの」
「? わかんないのに?」
「命はつながってるの。つながって、一つだから、どこかで増えたら、どこかで減らないと、つりあいがとれなくなるでしょう?
足し算と引き算よ、こないだ習ったわよね。
だから、大切な人に自分の居場所を譲って、みんないなくなるのよ」
「みんないっしょのほーがたのしいのに」
ぶー、と口をとがらせて文句を言う。おかしそうに笑う母親。
「そうね、その方が楽しいのにね」
そうしてまた、子供の髪を、なでてやる。
「んー…」
「?」
小首をかしげて、子供の疑問を促してやる。きらきらと、まんまるおめめで彼女は訊いた。
「それじゃ、アイドレスのゲームが終わった時、私たちはどうなるの?」
* * *
「…………」
レンジャー連邦の小さな猫士・愛佳は、その日珍しく窓辺に腰掛けて陽炎の立つ城外を黙って眺めていた。
ふわふわ柔らかいくせ毛に猫耳、髪の毛は背中の半ばまであり、同じ色をした白のワンピースと重ねてみても、一際綺麗で光沢のあるミルク色がよく映えた。きょるんとした口元は、普段は猫の格好をしている猫士ならではのチャーミングな愛敬、背丈は140cmをようやく超えたか超えないか、小さな手足のパーツは既に幼いふくよかさを脱しきっており、といって、幼い瑞々しさを失ってはいない。目鼻立ちが程よくきりりとしていてやわらかいので造形としてはよく整っていると言えた。年の頃と比べてみても、小柄な方だろう。
まだ歳若いながらも、猫の女性的なしなやかさと曲線に余すところなく恩恵を受けた、少女だった。
ぽた、ぽた、気だるげに尻尾が壁を音もなく打つ。
先日の訓練以降、愛佳はふさぎこみがちになった。王猫であるハニー少年を追いかけ回す頻度も一日に十回と格段に落ちこんでいる。
人々は、愛佳もついに乙女になった、恥じらいを知る年頃か、などと噂しているが、別段本人にしてみれば、そんなもの、ぺぺぺのぺーですわ、だった。
相変わらずお金のにおいに敏く、玉の輿のチャンスに媚びを忘れず、文字通りの猫っかぶりに余念なく毎朝毎晩スキンケアから髪のお手入れまで、フィクショノートの美形大好きっ子・小奴に、プレイヤーの世界の最新の流行まで確かめて爪の手入れに至るまで怠りないつもりでいる。にゃあにゃあと天然で爪を研いで毛づくろいしてそれで美人のジョニ子や、もうすっかり人型でいることの方が多く、その振る舞いや習慣も人間のものに染まっているじにあと違い、自分は最大限の努力をしているつもりだった。
でも、思い出したのだ。
この間、同じ年頃である友達・マーブルと戦わなくてはならないかもしれないと考えた時に、どうして自分が地位やお金を一番に求めるようになったのか、そのきっかけを。
「思い出すんじゃありませんでしたわ…」
はーあ、と大きなため息をつく。腕を組んで頬杖。
ゲームが終われば私たちの物語も終わる。フィクショノートの人たちもいなくなるし、残ってくれたとしても、きっと自動操縦だ。
今はもう子供じゃないからわかってる。終わりのないことなんてない。
お金があればいい。地位があればいい。えらくなって、えらくなって、そうすれば、世界を変えられるかもしれない。だから私はここまで自分を磨いて猫士になったんだった。
藩国に、多くても二十匹ほどしか選ばれることを許されない、アイドレス国民の精鋭の中の精鋭。他の国ではどうなってるか知らないけれど、天領からその名を賜り働くことを許されているのは、今、この国では私を含めたたったの十匹だけ。
やっとここまで来た。
それとも、もう、ここまでしか行けない?
猫士に与えられる根源力はない。わんわんで出没しているという、おそるべきオーマとの対決で活躍できるのはきっとプレイヤーであるフィクショノートだけ。私たちができるのは、介添えの介添えの、そのまた介添えぐらいまで。
「現実って酷ですのね」
「酔っているのか?」
誰もいないと思っていた愛佳は驚いてぱっと振り返る。ぴょん、と一匹の黒猫がテーブルに飛び上がった。
ぶるん、と身震い。黒猫は、テーブルの上に片足を組んで腰掛けた、一人の青年に変化した。
認識が変われば姿も変わる、それが情報を通貨とし基盤とし全てとする、アイドレス世界の理。猫士が猫であるか人であるかは、法則で定められていない。だから認識でその姿を変えられる。
なればこその、芸当であった。
「ヒスイ…失礼ですわよ、レディの昼下がりを邪魔するなんて。それに行儀の悪いこと」
「ここはみなの談話室だ。行儀については許せ、俺はあまりそういうものに馴染みがない」
「よくまあそれで猫士になれましたこと…酔ってるってなんです? これでも私、見た目通りの少女なんですけれども」
「自分に酔っているのか、と聞いたつもりだった…どうやら違ったらしいな、すまない」
黒髪短髪黒衣の青年、その瞳に宿る蒼は碧色に蒼く翠。猫士・ヒスイ。しなやかな肢体に伸びる尾までもが黒。同じ漆黒でも、夜をその名に冠するもう一匹の猫士とは違う、智色に深い黒。
ぷりぷり怒って窓枠から飛び降りると、愛佳は彼を指差し問い質す。
「答えて、ヒスイ。生きているとは何?」
「…うつろうこと。万象の在。非在ならざること。世界のそこにあると感じること。すなわち対話」
「難しいわもっと噛み砕いて言って」
「……」
普段はやれ辛気臭いだの日がな遠くばかり見てないで働きなさいだの視力10.0ってほんとですのだの目の色が気にいらないだの好き放題言うくせに、とは、口答えせずに、ヒスイは再び口を開いた。
「お前が尋ねるところの命がなんであるかの定義を俺は知らない。おそらくそれを尋ねたいだろうことを知っていて、だから俺はそれについては答えられない。なので、俺は、俺の思ったところによる、命が生きているということについてを説明している。
命とはうつろうものだ。生まれてやがて死んでいく。その死した命がまた別の命を育み新しく命が生まれていく。無から有は生まれる。有が無に還るのかどうか、俺は知らないし、今のところ興味はない。だが、世界ですらそのようにして生まれることがあるのなら、死ぬこともやはりあるのだろう。
万象とは世界だ。世界が存在するのを、普段お前は当たり前だと思っているだろう」
「そうでも、ないけど…」
「うん? それは意外だな…まあいい、それにしても、自分以外の存在が世界にいなければ、自分の存在そのものがあるかどうかわからない。下らない初歩の認識論だが、例えば俺たちアイドレス世界の住人は、外から観測されることによって初めてその存在を確認される。逆説的に言えば、観測されるまで俺たちは存在していないとも言えるわけだ。もっとも、こうして存在している以上、少なくとも誰か一人は俺たちのことを観測した、あるいはしているから、俺たちは今、こうしてここに存在している」
「あの平たく言ってくれませんこと? 話が長くて聞く気になれないんですけども」
「聞いたのはお前だろう…要するに俺たちが小説の登場人物なら、少なくとも書き手という読者が最低一人はいるということになる。書かれてない間も俺たちはもちろん普段生きているし、そのように自己認識しているが、こと、情報存在であるところの俺たちにとって、描かれすらしないというのは生きていないのと同じということになる。命とはうつろうものなのだとしたら、うつろっているかどうかすら、確認できないわけだからな。描かれたことだけが確かな現実で、それ以外はご想像にお任せする、といった次第になるわけだ」
「やなこと言いますわね」
先ほどまで考えていたことの結論をずばりと出されて気分が悪くなる。なるほど、それならゲームが終われば私たちは生きてるとも死んでるとも言えなくなるし、そもそも世界が終わることだってあるってわけね。
「世界が無に戻っても、また有は生まれますの?」
「さあな。だが、生まれないと決めつける方がおかしいだろう。一度起きたことが二度起きないというのは不自然だ」
「それが世界の始まりでも?」
「それが世界の法則だろう」
「例外というものがあるんじゃなくって?」
「その例外すら世界そのものの中に含まれる。二度、同じ世界が生まれるかどうかについてだけは、それこそ保証の限りではない」
「たった一度のかけがえのない人生…といったところですわね。ありがたみもない」
「真実に意外性を求めるな。現実は娯楽でもなんでもない。ゲームであろうとな」
トン、とヒスイがテーブルから降りる。優美な物腰。
「この場合、シュレーディンガーの猫というのはぴったり当てはまるわけですのね」
「帝國側にしてみればそう言われてしまうといい面の皮だろうがな。別に箱の中にいるのが犬だろうと猫だろうと竜だろうと構わないのだから」
「この場合、どちらにしても例えが悪すぎます。生きてるか死んでるかではなくて、せめて男か女かにしてくださればよろしいのに。気が利きませんわね、シュレーディンガーさんとやらも」
「竜は死ねという向きもあるようだが?」
「TPOというものがあるでしょう。むやみと血を好むのは野蛮ですわ」
「血よりは智を好め、というわけか…」
「ケンカが嫌いなだけです」
ふう、とため息をつく。
「で、結局生きてるってなに?」
「よくわからん、ということだ。一言二言でわかってたまるか。俺にしても生涯の命題だよ。ひょっとしたら、言葉にすれば意味がない類の問答なのかもしれないな」
「あら、あら、あら…まあ、それはどうもありがとうございました。とても参考になりました」
「礼はありがたそうに言うものだぞ、愛佳」
まだ何か言おうとするのへ、ついと手を振って背中を向ける。どろん。猫に戻って、とてとて秘密の通路用の猫用扉を頭で押し開け歩いていく。
聞くだけ無駄だった。むしろ一層絶望した気がする。
ううん、絶望なら、まだ、いっそ思いきりがよくてわかりやすい。今ので深まったのは諦めだわ。
私たちの側からは、なんにもできない。その事実を再確認するだけだった。他人に選択を委ねるのは、いつだって自分の手で未来を掴み取ってきた私にとって、とても歯がゆい。何もすることがないから諦めて待てと言われて待てるなら、玉の輿なんてとっくの昔に諦めてる。
ああ、気分が悪い。ヒスイの奴。ハニーくんのところにでもいって、また押しかけ女房ごっこでもしようかしら。
くきー、と扉をまた押し開ける。どろん。そうと決まったら、人間モードでいくに限るわ。だって猫だと首の後ろをつままれてぽいってされちゃうし。
キャラを演じるのは楽だった。
こんなキャラだから、こう振る舞えばいいだろう。こんなキャラならこう振る舞っても不自然ではない。生きてるんだから当然たまにはお決まりのパターンを抜け出したい時だっていくらもあるし、気まぐれだってする。でも、何をやったらいいかわからない時は、パターン通りに行動すると、みんなのリアクションも、自分がどうすればいいかもわかりやすいから、とっても楽だ。
それ、いつもの通りに、藩王の執務室の前まで行って、ばたーんと勢いよく扉を……
「何をしてらっしゃるんですの?」
そこにいたのは藩王だけではなくて、フィクショノートの浅葱さんと小奴さんもだった。なぜかおでこにわかばマークをつけている。
「しー! しー!」
「今みんなでわかばごっこしてるの、、みんなには内緒ね!」
「はあ…」
「みんなに見られたら恥ずかしいから」
「あ、でも、みんなも一緒になってやりたがるんじゃないかな?」
「どうしよ、わかばマーク量産しておこうかな?」
わいわいわい…
どうやら新しいフィクショノートのわかばの人が来たとのことで、それなら自分たちも気分だけでも、と、つけちゃってみたらしい。見た目はこんなだけど、今は共和国全体の規格統一に伴う大きな動きの真っ最中なので、ハニーくんは邪魔にならないようにとどこかに出かけたという話だった。
「じゃあねー、愛佳ちゃん」
「うーん…ここの色の具合は、もうちょっと変えた方がいいかな…」
「一度もとに戻してみますか?」
会議に没頭する三人を置いて、愛想よく笑って執務室を後にする。藩王の蝶子さんともなれば、いわば国母。国母ということは、王猫のハニーくんのお母さんと言っても過言ではない。目一杯人当たりを良くしておいて、これからの姑関係に備えておくことも大事な布石。
その新人のわかばの人がこの光景を見たら、きっとぎょっとするだろうなあと思いながらも、親しみやすい国だと思ってくれればいいなと、愛佳は自然に考えていた。
少しでも、このアイドレス世界に愛着を持ってくれれば、それだけ長く私たちは一緒にいられる。あのことも考えなくて済む。いつもふらふら取材と称してあちこち出没してる華一郎を除けば、フィクショノートの人たちはみな忙しい人たちばかりだから、なるべく一緒に遊んでくれるといいな。
王城の長い廊下をてふてふ歩きながら、窓の外を見る。こっちはさっき見てたのと反対側だから、眼下に広がる街並みがよく見えた。
…いい、街だなと思う。私は好きだ。
高い空に砂の舞う、空気の黄色い街。それでいてしおからい海風が吹く、不思議な街。政庁や大学のような落ち着いた建物中心なので、浮ついたところもなくて、私は好き。
もちろん、いろんなもののある北の都だって好きなんだけど、人が多いとはしゃいで見せないといけないから、くつろげるこの街が、私は一番好き、なのかもしれない。
ぐるりと街を囲った塀の向こうには今もびゅうびゅう砂が吹きつけてるんだろうな。人間てすごい。よくこんな塀を作っちゃえるよね。発想自体が普通思い浮かばないし。
「……」
憂鬱だな。
フィクショノートがいなくなったらこの国はどうなるんだろう。
電網世界から、この国があったことの痕跡は、いつか必ず失われてしまう。
私たちアイドレス世界の住民も、その時消える。
戦場に出た時、死ぬのは怖かったけど、それでもまだ誰かのために戦って死ぬなら無駄じゃないと思えた。でも、消えてしまうって、それは、私がいた証拠さえ、なくなってしまうって、ことだから。
……それはもう、悲しいとか、怖いとかいうような感情じゃない。
さみしかった。
いてもいなくてもいい存在。いてもいなくてもよかった存在。自分がそんなものだと認めてしまうのが、とても、さみしかった。
-The undersigned:Joker as a Liar:城 華一郎
最終更新:2007年03月07日 05:06