愛と書いて何と読む?
それが、愛佳の出会った物語の、最初の一文だった。
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「おーい、愛佳ー、どこだいー…おっかしいなあ」
甘いブロンドの少年が王宮内を呼び回る。そこに幾つかの小さな影が飛び込んできて、にゃあにゃあと彼に話しかけた。少年も、それに答えるように、頷いて、にゃあにゃあと真剣な表情で鳴き返す。影は、猫だった。
「うん…ありがとう、僕ももう一度探してみるよ…そうだね、僕の方が彼女を追いかけるなんて確かに初めてだ。変だなあ…」
くすぐったそうに笑うと彼は、猫たちと共にその場から散る。
少年は小走りに天井の高く閑静な廊下を通り抜けると、誰も見ていないことを確認して、ふるんと身を震わせた。その表情は、苦悶のようでもあり、また官能のようでもあり、淡い光がすぐに彼を包みこむ。
ぷわんっと頬に筋が、入ったかと思うと、ぴょこんとそれが宙に飛び出し、白い艶やかなひげとなる。といっても、年齢に不相応な口ひげやあごひげの類ではなく、動物のするそれ。
ひこひこと、蜂蜜色のさらりとした髪の中から冗談みたいな大きい獣耳が突き出して、みるみる体が縮んでいく。
まるで獣のように四足歩行の体勢を取る、その背に優美なS字の曲線が自然な形で加わっていき、同時にそれへ連なるかのように、お尻からひょこんと黒い縞模様の入った金色の尻尾が飛び出た。
もうそれは、数秒前までの可憐で元気そうな、身長140センチほどの少年の姿ではなく、一匹の小さな虎猫であった。
カタン、と、その前足が、廊下の壁の、タイル様になっている意匠のところへ置かれた音がする。猫の前足にぴたりあう、人間なら普段そんなところに視線はいかないだろうというほど低いところにある、微妙なへこみと肉球とがぴたり一致した。
すると、どんなデブ猫でも通れるだろうという程度の穴が途端にそこから開いていき、新しく出来た薄暗い通路をとてとて小走りに抜けていく。ぱたん、へこみを押していた力が抜けるとすぐに壁の穴は閉じてしまうが、猫の優れた暗視力は光彩を目いっぱいまで開いて微かに反対の行き止まりから洩れこむ光を感受し、何の障害や恐怖心もなくそこを通り抜けた。行き止まりにまた、肉球分のへこみ。カタン、ぱあっ。
そこで新たに開けた空間にも、探している少女の姿は見当たらないようだった。
「おかしいなあ…間違って僕だけが知ってる通路や部屋に迷い込んだわけでもないのかなあ…」
彼の名はハニー。その名の通り、美しい蜂蜜色をした毛並みの子猫で、この王宮内の王猫として知られている存在でもあった。詳しい理屈は語れないが、彼が死ねばこの建物はおろか、王国そのものが消滅するという、重大な運命を背負った猫でもある。
その彼だけが代々この王国の王猫として引き継ぐのが、王宮内にある、こうした猫専用の隠し通路と小部屋のすべてであり、これだけは、他のどんな猫がいろいろ試してみようと思っても見つからないような場所に、いくつものカムフラージュで隠されているため、彼以外に知ることが出来るとは到底思えないものだったのだ。
この隠し通路、出口と入口が異なる場合があり、それゆえ時たま迷い猫が出ることがあったが、そういう時はいつも彼が駆け巡って見つけ出し、事なきを得ていたのだが、もう既に、彼の知る限りのあらゆる通路をあたっている。それなのに、見つからない。
「非常召集がかかってるから、外には出てないはずなんだけどなあ…」
人から猫へ、猫から人へと変化する彼のような存在を、この世界では猫士と呼んだ。元々猫でも人でもよいので、じゃあどっちかに固定することなしに、好きな時に好きな風に変わればいいやということで発揮している変身能力だが、それはあくまで副産物であり、本来の彼らの能力は他のところにある。
I=D(アイドレス)と呼ばれる人型機動兵器に乗り込み、人間のためのサポートをしたり、あるいは同じくアイドレスと呼ばれるものの中でも、職業を着せ替えるための特殊な『情報そのもの』を身にまとって様々な特殊能力を得て、活躍することが出来るのだ。
そんな猫士たちの能力が必要とされる非常召集とは、やはり想像に漏れず、戦闘であった。
とたらっとたらっと小さな体を躍動させて、ハニーは部屋の本棚を駆け上り、その上から新たな隠し通路を通って別のところへ向かっていく。
(もうすぐ世界忍者国への出兵準備が始まるのに…どこ行っちゃったんだろう、愛佳ちゃん?)
普段は追いかけられる立場であり、同じ猫士の仲間として仲良くやってはいても、四六時中どこへ行っても気の休まることがないというのは、正直うっとうしいと感じないこともなかったが、いざ、自分が相手を探してみる段になると、妙に寂寥感があることに気付いて、ハニーは驚いていた。
いつもそこにあるものがない、というのと、戦闘が近づいていることへの緊張とが、胸の中に一層普段の彼女の存在感を強めているのかもしれなかった。
(たまに隠し部屋に逃げ込んだりしていたもんなあ…今度から、もうちょっと上手にあしらってあげた方がよかったかも)
それでも心の中での扱いがあんまりよくないのは、愛佳が彼のことを純粋な好意からではなく追いかけ回しているという事情も関係していた。
また、隠し通路を抜けると歩幅の大きい人型に戻って、たどりついた厨房から飛び出すと、探し人の名前を呼んで回る。
「愛佳ー、どこー?」
純粋な好意からではないだけに、やきもちを焼いたり、急に恋心が冷めたりなどの理由で彼の前から姿を不条理に隠したりするような少女ではなかったので、探しても一向に見つからないのが不安で、自然と足は早まった。
また、いつものように自分を誘い出すための罠ならいいんだけど。いや、よくないけど、怒ってそれで済むなら、それが一番だ。愛佳ちゃんの身に何かあるより、ずっといい。
そんなことを考えながら、ハニーはまた、どこかで入れ違いになってないか、これまで見回ってきた部屋の数々を覗いて回り、広い王宮内を走り回るのであった。
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ゲームなんて、終わらなければいいんだわ。
そう、愛佳は考えながら、古い本の匂いにまみれて本棚の奥に、隠れていた。
それは、ハニーよりはやや大柄であるものの、やはりこれも子猫の、ミルキーホワイトの毛並みをした、小さな猫だった。歳の頃は、猫で数えれば数ヶ月も違わないだろうという程度の歳の差だ。
自分が探し回られているのはわかっていた。だから、普段もっとも自分が行きそうにないところへ、まず真っ先に隠れて飛び込んだのだ。
(それにしても…)
けほ、と、小さく猫の姿でくしゃみをしながら愛佳は思った。
(古本の臭いって、どうしてこう臭いのかしら…)
彼女が選んだ隠れ家は図書室だった。
図書室と一口に言っても、王宮内にあるものなので、この国の古くからの歴史や資料までが一手に収められており、増改築を繰り返した結果、上下に渡って複雑な空間を形成しており、簡単に地形を把握出来るほど狭くはなくなっている。中には機密書類を収めるための、専属の司書でさえ国王の許可がない限り開けることが出来ないような部屋もあって、そういうところには、国民の中から選ばれた精鋭である猫士か、このゲームをプレイしているゲーマー(仮想飛行士と書いてフィクショノートと読む)のキャラしか入れなかった。
当然愛佳は真っ先にここへ目をつけて、わざわざ人型になってから、見つからないようにそれとなく本の位置や中身を入れ換え、その背後に作った隙間に、猫型に戻って忍び込んでいた。
つい最近までここの資料もゲームのために調べられていたこともあり、まさかこんなところにまた来たいと思う奴などいるまいとみんなが思っているだろう、盲点として、選んだ場所だった。
この世界はアイドレスというゲームの中にあり、にゃんにゃん共和国という集まりの、そのまた一部のレンジャー連邦という国なのだ。そして彼女やハニーを含めた猫士たちは、そのゲームの中のアイテムか、良くて自由意志も成長能力も低いただのNPC。
たまたま王が良い人で、この国では国民=州として扱う連邦ですと名乗っており、またこのアイドレスをも一部にしている大きな流れのゲームのキャラのファンとして、愛こそ大事と唱え、それに同調したプレイヤーたちが集まっていたからこそ、彼女たちにも名前や個性が一つ一つ与えられたが、そうでない国もかなり多い。
書いた小説やイラストがゲームの数値に影響する、情報で出来たゲーム世界、電網適応アイドレスと謳われているだけあって、ほんとはプレイヤーたちだけしかいないはずの国にも、ちゃんと設定上の国民が存在して、それが生きたり、殺されたり、している。
彼女自身もそのような存在と同じであり、描かれない限り、どうやって暮らしているか、どんな性格や容姿なのか、本来ならまったく知られることのない、無個性な存在としてその一生を終えるはずだった。
はずだったのに。
「こんな想いをするくらいなら、いっそ生まれなかった方がよかった…」
ぽつり。
「愛佳ー、ここかい?」
どきん。
声がしたのは、まだ、この部屋ではなかった。だが、聞こえてきたということは、図書室の中に、誰かが来ているという証拠だった。
慌てて身をもっと奥に潜めるために、ぎゅうっと壁に体を押しつける。猫はそんなに鼻がよくないが、それでも人間並みの嗅覚はある。まして愛佳は普段からハニーの心を射止めんとあれこれ化粧をしたり香水をつけることもあるので、それでばれやしないかと、急に不安になったのだ。
(まさか私を探してくれるハニーくんから隠れることになるなんて…)
思いもよらなかった状況に、複雑な心境に陥る。
彼女にとって、ハニーは王猫であり、それ以上の存在ではなかった。その奥さんになれれば地位もお金も思いのままという邪念の元にこれまで行動していたのであって、好意といえば、そりゃあ、見目麗しい美少年で、ちょっと自分の容姿にうぬぼれているところがあるとはいえ、性格もいい男の子だ、持たない方がおかしいんだけど、それ以上の特別な感情を抱いたことは一度もない。
どちらかといえば、彼の双子の妹であるマーブルの方が、彼女にとって大事な友達だった。
だからこそ、と、愛佳は思う。
だからこそ、今はハニーくんに会いたくない。
ううん、ハニーくんだけじゃなくて誰とも会いたくないし、戦争なんかもしたくない。
仲良しの友達と瓜二つの少年を、目にして逃げ出したい現実に直面するのもいやだったし、戦闘に出て働くのもいやだった。
死ぬのが怖いわけじゃない。これまでにも二度、既に戦争自体は経験してる。わりと怖いもの知らずであると自任してもいる通り、戦うこと自体が嫌だなんて軟弱でかよわい女の子を気取るつもりも、猫をかぶる時以外はまったくなかった。
ゲームが終わるのが、いやだった。
(ちょっとでも手伝えば、その分だけゲームが終わりに近づいちゃう。だったら、戦争になんか行きたくない。ゲームなんて、終わらなければいいんだ…!)
ゲームが終われば、プレイヤーはいなくなってしまう。プレイヤーのために作られたこの国も、自分たちも、全部、きっとなくなってしまう。
愛佳はそれが何より怖かった。
だから、生まれて来なければよかったと思った。みんなに愛されて、こんな風に個性を、意識を持つことなんてなく、ただのアイテム代わりの無個性なNPCとして死にたかった。
つい、最近、親友のマーブルと傷つけあわなければいけないかもしれない状況に陥った時、彼女は思い出してしまったのだ。どうして自分が地位を、お金を欲しがったのか、どうして自分がハニーやマーブルのような王族の血統もなしに若くしてこの年齢で、おそらくは猫士としての最年少で、ここまで登りつめられたのかを。
未来を、変えたかったのだ。
そのための力が少しでも欲しかったのだ。
だから、地位が、そしてお金が欲しかった。
そして戦いがしばらく進んだところで、気付いてしまった。
プレイヤーのキャラを、見ただけで殺せるような相手に、自分たちのようなちっぽけな存在が出来ることなんて、ほんとにないんだという事実を。
それならいてもいなくても同じでしょ、と思った。
だから、非常召集がかかり、戦わなければいけないとわかった時、突然、雲隠れしたくなった。
わかってる。甘えだ。本気で逃げ出したいなら王宮の外にでも行けばいい。どうせぎりぎりの間際まで来たら、みんなと一緒に戦わなくちゃいけないんだ。
でも……
「必要とされないのは、怖いよう…」
ぎゅう、と、暗がりの中で愛佳は身を丸めた。
がたん。
(!!)
「愛佳…まさかここかな…?」
部屋の外で、鍵を開けてる音がする。どうしよう。考えに耽ってて、全然気付かなかった!
今から別の部屋に逃げようにも、逃げられないし…
うにゃー、と、てんぱりながら彼女がその猫の鼻面を慌てふためき壁面に押しつけた瞬間、ちょうど扉の開く、がちゃ、という音に重なって、カタン、と耳慣れた音がした。
それで愛佳は、その部屋からいなくなった。
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「……愛佳ー?」
あれ、おかしいなあ、気配はあったような気がしたけど…?
そっとハニーが扉から覗き込むと、そこにはもう、静寂だけ。
念のため、ぐるりと室内を回って、隙間まで覗いてみてから、部屋を出る。
別のところかな。
ぱたん、と扉を閉じると、がちゃがちゃ音がして、それで施錠は完了された。
ぱたぱたぱた…遠のく、足音。
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「うにゃあああ~~~~~!!?」
一方その頃愛佳はかつてない恐怖を経験していた。
(ふ、深い!?)
細い通路を一直線に、降りていくというよりは落ちていく。先は見えているのだが、急なことで遠近感がつかめない。
ぽっ。
突然、体が宙に投げ出された。瞬間、即座に猫ひねり、猫着地。
「あ……危ない、ところでしたわ……」
さしもの猫でも、日ごろの訓練で鍛え上げられた肉体と勘を持つ猫士でなければ、危ういところだったかもしれない。
そう思いながら、愛佳は人型にひとまず変化し、あたりを見回す。
落っこちてきた穴を見上げてみると、猫サイズでは結構な高さだったかもしれないが、人型ではさして恐怖を感じない。まずそのことを確認するのは、落ち着きを取り戻すのにちょうど良かった。
そして次に考える。
「こんなところ…どこですの?」
見上げても、自分を探していたはずの人物の次に降ってくる姿がないということは、王宮内のあらゆる隠し通路を知っているハニーでも知らない通路だったということだ。
さいわい、猫型のままでなくとも視界が確保できるだけの光量が室内には存在しており、いつから灯されているのだろう、ぐるりと10m四方、高さ3メートルほどの長方形の室内の壁にはぎっしりと本棚が天井まで詰め込まれており、それらに威圧されるように囲まれている机の上に、2つのランプが置いてあった。
「天井…は、帰り道ではなさそうですわね」
高いところにある本をとるための脚立はあるものの、いかな猫とはいえ、ほぼ垂直に近いような穴をのぼるのは不可能だ。となると、どこかに同じように別の部屋へ通じる隠し通路があるはずなのだが……
ぐるりと見回してみて、愛佳はため息をついた。
「この本を全部どかして確認するのは骨ですわ」
少なくとも、はっきり見てわかるようなところに、隠し通路の目印はなかった。
(あれ、でもさっきもそうだったような…?)
おかしいですわねー、とひとりごちながら、部屋の様子をあちこちと調べてみる。
そこはまるで書斎のようで、本の背表紙にも、見たことのないような文字がたくさん並んでいた。国の蔵書には必ず入っているはずの、レンジャー連邦の紋章も入れられていない。
「となると、少なくとも連邦成立以前…ううん、四王都時代の古文書なら見たことがあるから…それよりもっと昔のもの?」
まさか…と思いつつ、一冊一冊、手に取ってみる。
開いて中身を改めてみても、文字は、王立大学を上から10位以内で卒業した彼女にさえ、やはり読めないものだった。
一体誰がこんなものを、こんな場所に……詳しく調べてみようと思い、机の上のランプを取ろうとした時、ふと、その上にランプ以外のものも乗っていることに気付く。
「……あれ?」
それは革でしっかりと装丁された、一冊の書だった。表面には何も書かれていない。裏返してみても、何もない。
それでいて、見ていると、不思議に吸い込まれそうになる、奇妙な雰囲気がその本からは漂っていた。
「変な本……」
ぺらり。
最初のページをめくった時、愛佳の目に、この部屋で見た本の中で、初めて意味の通った文字が飛び込んできた。
それが―――すべての始まりだった。
-The undersigned:Joker as a Liar:城 華一郎
最終更新:2007年03月29日 22:36