恭兵は、もう随分長いことのんびりしていた。
「あんまり長いことここにいると、太っちまいそうだな」
なあ、と手持ち無沙汰に、テーブルの上で丸まってる雉トラのヒゲをいじる。
遊んでもらったと思ったのか、きょうへい2はてしてし前足を繰り出して恭兵の指をキャッチ、かじりつく。恭兵、もう片方の手で尻尾をつつく。ぴょこんと機敏にきょうへい2はそちらへ向き直った。
そうして楽しそうに猫とじゃれあいながら、ふと、いつでも心に浮かべている相手の顔が、むすぅっと膨れていることに気がついて、今更ながら手を止める。
「りんくがいなくて寂しいよ」
お前もそうか?と、きょうへい2に聞く。
にゃあ、と雉トラは一声鳴いて、頭をこすりつけ、餌をねだるだけだった。
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秘宝館SS:『りんくのいない日々』
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宰相府の秘書官保養地は、いつ夜襲を受けるか心配する必要もなければ、銃声や爆音で目を覚ます心配もない、幸せな場所だった。
彼が心配するまでもなく、彼より腕利きのACEや、彼が今まで恩恵を受けたこともないほど高い警備レベルが敷かれており、風光明媚で至れり尽せり、まったく大層なリゾートなのだ。
人が少なくても、閑散としているという雰囲気を感じるより、贅沢に空間を使わせてもらっているような気になれる、本当に幸せな場所だった。
おまけにメシはうまいし、やることはない。
これでは折角落ちた贅肉が、季節の変わる頃には半分ぐらい盛り返しそうな勢いだ。
生きるための術として習慣が身に染み付いているので、トレーニングは怠らなかったが、それにしても性根がだらけてしまいそうになる。
「りんくが聞いたらまた心配しそうだな」
名字は変わっても、それだけは変わることのない、自分の根底に笑う。
戦場では大勢の人間が死ぬ。
その中で、自分だけが特別だ、などと思ったことは、一度もない。
だから戦闘になれば命を投げ出してしまう。それが戦場における、ごく当たり前のルールだと思っているからだ。
戦場に立つものなら、守って当然の暗黙の了解。
当然死にたい奴なんざいやしない。そういう憂鬱を気取れる奴は、大抵本当の戦場には来ないか、何かの間違いで紛れ込んだとしても、初陣で人が変わるもんだ。
命は、火花のよう。
弾けて消える。たったそれだけ。
誰しも自分の命の種火を、後生大事に抱えている。抱えるその手が銃弾で吹っ飛び、爆撃でちぎれ飛ぶ、その光景を目にしてなお、自分からその種火を手放したいなんて言える奴はいないのだ。
だから、人が変わる。
でなければ、本当に死ぬだけだ。
生き延びるために手入れは怠らない。自分という技術の塊と、武器の手入れを怠れば、それだけ偶然が遠のいていく。
流れ弾に当たって死ぬのに技術は関係するのか。
する。するのだ。
難しいことは考えたことがない。だが、確実に、生き延びようと努力する奴には、それなりの見返りがある。
その代償として、一瞬たりと、気を緩めてはいけない。
その一瞬が、何もかもを奪うからだ。
だから戦場では常に消耗し続ける。20kg、痩せただけでは僥倖と言わざるを得ないほどに。
一瞬も気が休まらない。
それを習慣として当たり前のことにしなければならない。
それが、ここではなくてもいいものになっている。
なでる尻もなければキスする唇もないと、何をしたらいいやら、わからなくなる。
「散歩でもしてくるか」
寝てしまったきょうへい2を置いて、奥羽恭兵は別荘を出た。
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保養地を出るのは案内人がついて面倒なので、敷地内を回ることにした。
本当は、また、冬薔薇園に行きたかったのだが、そのためにわざわざりんく以外の誰かと二人で歩くというのもつまらないと思ったのだ。
いつも嬉しそうな顔をしているりんく。
その顔を、見ているだけで幸せになれる。
好きだ、と言えば、好きです、と返してくれる。
何度でもだ。
それが嬉しくて、楽しくて、恭兵は幸せだった。
最初は無理だと思った。
戦場のことを知らない人間とは、わかりあえない。
そう思っていた。
最初、りんくは子供に見えた。実際の年齢を聞かされた後も、やはり違う世界の人間のように思っていた。
実際そうだった。
死ぬつもりがないどころか、絶対死なせないつもりで助けに来たのだ。
その時、恭兵は理解した。
わかりあう必要なんざ、別にない。
きっとこれからも、何かあるたびに心配をかけるのだろう。それでいい。
でも。
でも、りんくはいてくれるのだ。
いなくならないで、いてくれる。
何もかもが不確かな戦場で生きた男は、たった一つの確かなものを手に入れて、それで、幸せになれた。
うお、いかんと思う。
りんくのことを考えるだけで頬がにやけてきてしまう。
ひげのあるあごをつるりとなでて、自重する。
実際俺は、幸せものだ。
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プールでひと泳ぎすると、少しさっぱりした。
つい、りんくのことになるとテンションが上がってしまう。
幸せな自分というものに慣れていないせいだろう。
何度も求めてしまう。
ついつい、二人でいることに浸ってしまう。
それでまた、りんくがまんざらでもなさそうな反応を返すのだから、たまらない。
ごしごしタオルで体を無造作に拭い、服を着直すと、壁掛け時計を見る。
きょうへい2は猫だけあって、寝ると長い。もうしばらくは戻らないでも大丈夫だろう。
泳いでいる間、最初にりんくと会った時のことを思い出していた。
今から思えば、もう少しまじまじと見ておくべきだった。
多分、今、頼めば、それくらいはしてくれるだろう。
今度会った時にねだってみようか、いやさすがにそれは自重するべきかと、微妙な計算をしながら恭兵が更衣室を出ると、外は折りよく綺麗な夕焼けが出ていた。
「おー」
声が出る。
こういう感性も、りんくと一緒にいる間に育ったものだ。
かつての自分なら、ぼんやりと光源を背にした襲撃のことでも思い出していただろう。
ロマンというものに浸るのは、思ったよりずっと快いものだった。
りんくの肩を抱き寄せたいな、と思う。
まだ、ほんの一週間も経っていないのに、物足りなさを覚えている自分がいた。
耐えることには慣れているつもりだったが、1人でいて、減らず口を叩いても仕方ない。
「会いたいぞ、りんく」
呟きながら見る夕焼けは、妙に胸に迫るものがあった。
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たまには自分でも料理をしてみようかと、近くの市場で買い物をしたが、結局面倒になって素材を片っ端から丸焼きにした。
それでも美味いのだから、実際ここは大したものだった。
膨れた腹を撫でながら、デッキチェアに座り込み、明かりに照らされている海辺を眺める。
きょうへい2は夕食のご相伴に預かって、すっかりご満悦の様子である。
ぼんやりしていると、思い出すのはりんくとのことばかりだ。
たまには銃の分解整備でもしようかと思ったが、潮風が銃に悪いし、何より持込を許可されていないので、そもそも手元にないことに気がつく。
困って笑う。
恋人が働いているのに、自分だけ何もしないでいるというのも格好がつかない。
かといって、物騒な仕事を受ければりんくが泣く。
傭兵というのは本当に潰しの利かない職業だ。
いっそここの警備のアルバイトでもしようかなと思った時、きょうへい2が膝の上に飛び乗ってきた。
「おお、なんだ。どうした?」
しかし、珍しくきょうへい2はにゃんとも鳴かない。
じいっとこちらを見上げているだけだ。
「相手をして欲しいのか?」
指を出す。
きょうへい2の様子は変わらない。
「おいおい、どうした」
言いながら、とりあえず手を落ち着かせるために頭をなでてやる。
ぷいっときょうへい2は、膝から降りてしまった。
「変な奴だな」
その日、きょうへい2は結局相手をしてくれなかった。
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ベッドの上に寝転びながら、コテージの天井を見つめる。
完全な闇ではない、自然な夜が入り込んできているので、神経が尖らなくてよかった。
これくらい光があれば、彼にとって昼間とほとんど変わらない。
「…………」
それまでしたこともないような仕草で、自分の掌を眺めてみる。
この手で、何度りんくを抱きしめただろうか。
担いで走ったこともある。
頬にも、唇にもさわった。
自分にしては、出来すぎなぐらいに幸せだ。
りんくの前で格好をつけようとして張り切った時は失敗した。あの引越しの時は、でも、たまらなかった。
りんくを感じられるだけで嬉しいのだが、つい、もっと、もっとと、体の中で火がついてしまう。
まだ正式にはどうともなっているわけではないのだから、手は出せない。
そこまで考えて、ふと、思い至った。
「そうか。俺が、言わなくちゃな」
案外と古風な価値観を持つこの男は、これまでずっとのばしのばしにしていたそれを、決意にして胸にしまいこんで、目を閉じた。
ぴょこん、とその枕元にきょうへい2が飛び乗って丸まる。
「お前…」
きょうへい2は、それまで相手をしなかったことについてはうにゃんと何食わぬ顔である。
苦笑しながら、奥羽恭兵は眠りに落ちた。
寝つきはすぐだった。
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翌日、どう言おうか、どう切り出そうか、あれこれ考えながらぼんやりきょうへい2と遊んでいると、りんくがひょっこり顔を覗かせた。
「恭兵さ~ん…いますかー」
「もちろんいるとも。どうした?」
落ち着いた口調で受け答えしてはいるが、内心落ち着かない。嬉しいやら、嬉しいやら、嬉しいやらで、とにかく嬉しくて仕方がない。
おそるおそる近づいてくるりんくの、寂しかったなぁ、のあたりで我慢が出来なくなり、ぎゅってしてもいいですか、のあたりで実行に移した。
抱きしめる。
幸せな感触が腕の中と胸に広がって、にこりと笑顔になる。
「正直でいいな。俺もそう思ってた」
寂しさが、一気に埋められていく。
「我慢されるとさびしいじゃないですか。もっとずっと一緒にいたいのに」
りんくの切なそうな声が胸の中から響いてきた時には、抑えられない衝動を我慢して嘘をついた。
「やせ我慢が好きなんだ」
睦み合いながら、衝動を、ちょっとずつ解放してやるように、まずは髪に触れ、耳元でささやいて、指をいとおしげに愛でる。
他愛ない会話が心地よい。
誕生日の話題、好きなものの話題、キス。また、キス。
その都度りんくの見せる表情の、1つ1つが愛しくて仕方ない。
自分のことだけを見てくれている言葉が、胸をうずかせて、仕方ない。
最後の質問なんですけど、と、りんくがわざわざ区切って言い出した時、恭兵は、ん?と思った。
急にりんくがもじもじし始めたのだ。
「えっと、その…今、私、お家を買おうと思ってがんばってるんですけど…」
俯きながら話し出す。
「私と、け、けっこんしてくれませんか」
顔が真っ赤だ。
「…………」
恭兵は笑った。
また、言われたか。
クリスマスの時に食べたケーキは、うまかった。
「クリスマスの時に答えた覚えがあるぞ」
そう言って、キス。
「でも、ちゃんと面と向かっては言ってなかったから…」
りんくが恥ずかしそうにする。
その顔を見つめながら、思う。
あの時から、返事は何一つ変わらない。
ただ、言葉を受け取った時の、嬉しい気持ちだけが増えていて、それが何より、幸せだった。
「イエス。指輪はいつでも」
笑って答える。
「指輪は、恭兵さんにもらったのがちゃんとありますから。いっつもしてます」
見せられた右手の薬指に、幸せを感じながら、また、キス。
「『俺と結婚してくれ。何のとりえもないが』って、俺が言うはずだったんだけどな」
「いま、いってくれたじゃないですか…」
じんわり嬉しそうに頬を抑えて泣き始めるりんく。
言ってよかったと思う。よしよしと、頭を抱いた。
「も、もう返品不可ですからね。絶対、離さないでくださいね?」
そう言って、慌てて確認するようにぎゅうっとした抱擁は、多分彼女の精一杯なのだろう。
りんくの力一杯を感じた体が、心地よく締め付けられる。
その力の、あまりの小ささに、恭兵は嬉しくなって抱きしめ返す。
「逃げられないようにな」
「いっつも逃げるの、恭兵さんじゃないですか…もう、離しませんからね」
泣き笑う、りんく。
そうだったな、と思いながら、恭兵は、今度こそりんくを安心させるために抱きしめ続けた。
抱き合いながら流れる、ゆっくりした時間。
今、ここに、時計はいらない。
奥羽恭兵は、コンマ以下単位で正確に時間の経過を計ることの出来る体内時計をうっちゃって、ただただりんくとの抱擁だけを感じ続けた。
「幸せすぎて、夢みたいかも……」
ため息のように言葉を紡いだりんく。
「こんな時を手に入れられるとは。俺も思っていなかった」
正直な気持ちだった。
だが今は、この言葉を言えることが、誇りだ。
「好きだ」
そんな恭兵に、そっとりんくは目を閉じながら応えた。
「私も好きです、恭兵さん」
自分だけを待っている顔。
そこにキスをするのは、とても気恥ずかしくて、でも、嬉しくて。
思いを込めながら、ゆっくりと唇を重ね合わせ、離していく。
「不束者ですが、これからよろしくお願いします、恭兵さん」
照れつつも小さな体でお辞儀する、りんくのその姿にいらえながら、最後の最後、恭兵は我慢が出来なくなって、思いの限りをりんくに伝えようと、
「ああ……」
これまでで一番、抱きしめた。
今はただ、りんくと一緒にいたい。
それは何もかもが不確かな戦場で生きた男が出会った、たった一つの確かな思い。
時間よ、止まれ。
畜生、俺は、幸せだ。
奥羽恭兵は、奥羽りんくを、愛してる。
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The undersigned:Joker as a Jester:城 華一郎(じょう かいちろう)
最終更新:2008年03月16日 17:25