「世界樹(イグドラシル)って知ってる?」
突き抜けるような青空が彼女の後ろに広がっていた。
「いや…何?」
笑顔で弾けそうな顔したポニーテイルの女の子。
溌剌って言葉はきっと彼女のためにあるんだろう、なんて思いながら僕は、相も変わらないその唐突な質問へと、おざなりな聞き返しを放った。
ふふんと彼女は生き生きしだす。ああ、止まらないんだろうなと諦めをつけて、横の芝生を手で叩き、促した。颯爽と頷くと、スカートの裾を綺麗に畳んで体育座りする。
「どこにでもある樹なんだって」
「そりゃあ、世界って名のついてる樹だしね」
「そうじゃないのよ」
「うん?」
興奮した声の調子に、片眉をぴくんと上げる。
目が、きらきらしていた。なんて目をするんだろう。どきどきが、溢れて僕にまで伝わってきそうな目。
左手を、何かとっておきのものを紹介するみたいに広げて、彼女は遠くを見るまなざしで憧れを語り始めた。
「砂漠にも、氷に閉ざされた冬の大地にも、どんな場所にも生えている樹よ。すごいじゃない」
「それって本当なの?」
思い込みの激しい子だからなあと、疑いの視線を向けたら、むくれられた。抗議しているらしい。
演説みたいに握り拳を作って振り回す。
「本当なの!
この国にもあるの!」
「はいはい」
真面目に聞いてますよというポーズを取るため仕方なく僕は体を起こした。
彼女と並んで座る格好だ。二人揃って体育座りじゃ様にならないので、足を放り出している。
「で、どうしたいの?」
「決まってるじゃない」
横顔は、僕なんかを見ていない。
もっとずっと遠くを見つめている。
めらめらと、きらめく星のようにその目が燃えていた。
「見つけに行くのよ」
ぐっ、と、言葉と一緒に握り拳が作られたのを見て、もう駄目だと僕は観念した。
こうなったら誰にも止められない。たとえ彼女自身にだって。
「世界のどこにでも生えることの出来る、そんな樹を、私は見たい。
どんな姿なのか、どんな花を咲かせるのか、どんなところに生えているのか、見たい。
だから、行こう」
誘いかける声の響きは、冒険に出かける子供のもの。
差し伸べられた手を握り返して僕は一緒に立ち上がる。
力強い、手。
向けられた笑顔が、弾けた。
彼女の後ろにはどこまでも突き抜ける青空が広がっている。
まるで、彼女を通して青空が広がっているかのような、そんな錯覚さえ覚えるほどに。
その少女の笑顔は、僕を知らないどこかへと連れ去ってしまう。
ぐい、と手が引っ張られた。もう、彼女は歩きたいのだ。
「うん」
と、僕は頷いた。
口が勝手に喋り出す。
「行こう、リィヤ」
顔が勝手に笑い出す。
わくわくが、駆け巡って仕方ない。
さあ、始まりだ。
つられて走り出す先は、どこまでも広い空が広がっていて――――――
/*/
サイハテ
/*/
風が吹き始めていた。
ねえ、と振り返られる。
「どんなところなんだろうね」
世界樹に向けて歩き出していた僕らは、髪をそよがせながら視線を交わしている。
道は一本だけれど長い。
ずうっと続く、川沿いの土手。通り過ぎるのは、買い物帰りの奥さんや、小学校に上がっていないような子供達が、そこがどこであるかにも頓着しないとたぱた走りで渡っている橋や、すれ違う自動車ばかり。
「いいところだといいね」
そうでなかった時の彼女が理不尽に怒り出すのは目に見えていたので言う。
ただの街路樹や、庭先に生えているような樹と大して変わらなかったら、そりゃあ確かに幻滅だろう。僕でも怒る。
こうであればいいなという願いを込めて言ってみた。
「きっと、いいところだよ。
見晴らしが良くて、周りには他に何にもなくて、吸った空気の清々しい、そんなところだといいな」
ふふんと彼女は笑った。
行く先を見つめている。
太陽を受けて、眩しい位に輝いているその顔。
「どんなところでも私は構いはしないわ。
だって、私が見たいところは、世界樹の生えている場所なんだもの」
思っていたのと違う反応に、ちょっと驚いた。
本当にリィヤは世界樹を見たいんだ。
気まぐれじゃない。
景色は変わり映えしなかった。
もちろん、知らない場所まで来ているのは間違いないんだけど、どこを切り取っても同じように感じられる。特別の見当たらない、平凡な景色。
けれどもちっとも彼女は飽きない。
ずんずん進んでいく。
背中を少し遅れて追いかける形になりながら、僕は彼女を通して景色を見てみた。
彼女の後ろ姿を一緒に含んだ街並みは、少し、輝いて見えた。
どこかへ向かう彼女がいるから、特別に見えるんだなと、意外にまんざらでもない自分を発見する。
そうして彼女越しに景色を楽しみながら、僕も一緒に歩き続けた。
僕も、飽きなかった。
/*/
彼女のうなじに汗の珠が浮かび始めた。
日は高く、じりじりと暑い。
動き続けている体に熱が篭もる。
「今のうちに買っておきましょう」
自動販売機を指差され、頷いて、二人でそこに駆け寄る。
一本はその場で飲み干して、二人にそれぞれ二本ずつ、さらに買い足す。
僕の脱いだ上着にそれを包んで肩に引っさげる。
暑いからと、脱ぐわけにもいかないリィヤは、少し不自由そうだった。
だから缶は僕が持った。
見えてる景色に、少しずつ、緑が増え始めていた。
/*/
リィヤは綺麗だ。
見ていて純粋な気持ちからそう思う。
流れる汗が、光っている。
薄っすらと開いた唇が、それでも諦めを浮かべない。
疲れているのは僕よりリィヤのはずなのに。
ストイックな顔。
それを見ていると、何故だか僕まで誇らしい気持ちになってくる。
どこまでも、歩き続けられる。
そんな気持ちになる。
/*/
「世界樹ってあるのかな」
初めて彼女がそんなことを言い出した。
休もう。声をかけて、立ち止まる。
「……………………」
くたくたになった膝や足の裏が、道端に座り込むだけでほっとした。
じんじん痛い。
リィヤは飲み物を飲んだ。僕は軽く口をつけただけだった。
黙り込んでいる彼女を見ているのは落ち着かない。
返事が思いつかなかった。
僕は世界樹を信じていない。だから、きっとあるよ、なんて言葉は、彼女には届かない。
信じている人にだけ、その言葉を口にする資格がある。
それでも僕は、何か言いたかった。
「きっと」
唇から押し出す。
「きっと、あるよ」
自分のものとは思えない、力強い声。
立ち上がって、手を差し伸べる。
ぼうっと見上げてくるリィヤの驚いたような目。
それを見て、僕はもう一度はっきりと喉から声を押し出した。
「世界樹は、きっとある。だから」
行こう、と、目で言った。
見えない何かで溢れ返っている気がした。
今の僕は、最初の彼女と同じなんだ。
きっと。
見る間にリィヤの顔は笑い出した。
輝いて、綺麗なリィヤに戻っていく。
掴まれた手に、強い力を感じる。
「そう、そうだよね。世界樹は、ある、あるんだ」
だから、と彼女は言う。
「だから―――――」
そのまなざしが、再び遠くを見つめ始めた。
今なら分かる気がする。
その先に、彼女が何を見ていたのかが。
/*/
気がつけば、手をつないで歩いていた。
痛みより先に来る、この手の握りあう感触の確かさに、僕らの足は止まらない。
同じ景色を見ている。
夕焼けが、山の向こうから顔を出し始めていた。
「!」
はっ、と、握った手の動きから、彼女が何かに気付いて、何かを見上げたのがわかった。
「見て」
握りあうのとは反対側の手で指差した、その山の頂上には、確かに夕陽を遮る一本の樹のシルエットが浮かんでいた。
握りあう手に、緊張が篭もる。
「あそこまで行ってみよう」
僕は言った。
頷きあう。
/*/
その山の麓にまでたどり着いた時には既に真っ暗になっていた。
「足を、まっすぐ下ろして歩くんだよ」
「どうして?」
「つまづかないで済むし、もし枝や何かあれば、その上から踏みしめることが出来るから」
「そっか」
何も見えなくても、登るだけなら出来た。
体が感じるまま、ただ、上へ、上へ、斜面を登っていけばいいだけだ。
手が塞がっていると危ないので上着は着直した。
飲み物はとっくの昔になくなっている。
お互い、黙って道を歩くことに集中している。
ふと彼女が急に吹き出した。
「こんなに近いのに、顔、見えないね」
「そういえば」
僕も笑った。
それでもお互い、見えていた。
汗まみれでくたくたの笑顔。
そんなもの、今更目で見なくったってわかる。
僕達二人なんだから。
「ねえ」
「うん?」
「どうしてついて来たの?」
ぱき、と枝を踏み折る音。
登る足は止めないので、耳に聞こえる声は揺れている。
当たり前のように不思議そうな口調だ。
本当、勝手なお姫様だ。自分から誘ったくせに。
嫌味にならないよう爽やかに言う。
「もちろん、君の行くところならどこへでも」
ぱき、と枝を踏み折る感触。
登る足は止めないので、今ので息継ぎが乱れて、変なところで区切れて聞こえたかもしれない。
「あんたって、最高」
「君って極上」
笑いあいながら、歩いた。
先は全然見えなかった。
/*/
もう何度目になるかわからない休憩、月の光が差し込む中で僕は、せっせとふくらはぎを揉んでほぐしているリィヤの横顔を見つめた。
汗と、汚れできらきら光っている。
切り株に腰掛けていると尻に落ち着きを感じられる。
きっと樹が、今も死んではいないからだ。
切られても、生きている。
息づいて、命が通って、水を循環させている。
だから、生き物の体にしっくり来る、ぬくもりを宿すことが出来るんだ。
そのぬくもりは自分達の体から伝わったものだ。
「あんたはしなくていいの?」
「うん、いいんだ」
目が合った。
男って頑丈。そう、リィヤはちっとも自分が苦には感じていないみたいに笑った。
弾ける様な、リィヤの笑顔。
月の青がそれを明るく彩る。
とてもとても穏やかな青で、僕は、その青がきっと海から来たに違いないと思った。
リィヤに言ってみたら、笑われた。
「馬鹿ね、そんなこと」
「ちぇっ」
むくれる僕のほっぺたを突く、綺麗な指。
「合ってるわよ」
「え?」
「この空が青いのは、空に大気があるからで、空に大気が満ちてるのは、この星に、海があるから」
水の分子が光の屈折率をどうとか、リィヤは楽しそうに話してたけど、僕はそんなこと、頭に入らなかった。
楽しそうなリィヤを見るので、目が、いっぱいだった。
何笑ってるのよと言われたので、行こうと促す。
そうねと彼女は立ち上がった。
僕らは再び、手をつなぐ。
/*/
注意して進みあっていたので、足をどこかに踏み外すようなアクシデントもなく、代わりにたらふく時間だけは食って、それでもどこまで来たのかわからない。足が、くたくたで、いつもの感覚じゃないから進んだ距離がわからない。
「いつまで歩くのかしら、私達」
「そりゃ、決まってる」
らしくもない。疲れが頭に回ったか?
思う一方で、いつもより関係の優位な自分が楽しくてしょうがない。
僕は言った。何も見えない暗闇の向こうを見ながら。
「世界樹の見つかるまで、さ」
「…言うじゃない」
「言わないからだよ」
「言おうと思ってたのに」
「言わなかったくせに」
「言ってたのよ、心の中で」
「じゃあ僕が、代わりにそれを口にしたわけだ」
「ええそうよ、文句ある?」
「もちろん、ございません」
「ふん」
「ふふ」
こんなに近くて暗くて顔も見えないけれど、こんなにでこぼこで声さえ揺れる道だけど。
握りあう、手から確かに揺れない声が、互いの中に、届いていた。
「「あ」」
ハモった声。
光が見えた。
山に生い茂っていた森の、切れ目だ。
「こういう時、走るものじゃない?」
「お話とは違うよ、実際10mだって走りたくないほどくたくただろ?」
「うん、まったく」
「だったら、歩こうよ」
僕は彼女の顔を見て言う。
「ここまでずっと、歩いてきたんだしさ」
「…いいこと言うじゃない」
「まあねえ」
くすくす、笑いあう。
一歩一歩、大地に向かって直角に。
握る手と手を揺らしながら。
やがて光が強くなり、互いの顔を照らし出すほどになって、そうして僕らは森を出た。
そこには、一本の樹がそびえ立っていた。
/*/
「…………」
「…………」
樹の、前に立つ。
手を、肌につけてみる。
やわらかく、しかしごつごつとした樹皮の感触だ。
「これが、世界樹?」
彼女は言った。
「ごく普通の楢に見えるけど」
僕は言った。
顔を見合わせる。
「さわると危ないらしいわよ、世界樹って」
「さわる前に言おうよ、そういうことは」
まだ片側の手を握りあい、見つめあいながら、喋る。
「なんともないじゃない」
「なんともないね」
「…………」
「…………」
沈黙が、ぎゅっと二人の目と目の間に詰まる。
「あは、あっはははは!」
「あ、こら、先に笑うなよ、自分で探しに行こうとか言い出しておいて」
「だ、だって、丸々一日かけて、おかしいじゃない、こんな」
「くそー、爆笑されるとこっちが笑い出しづらいじゃないか」
「あはははははははは」
滅茶苦茶おかしそうにリィヤは腹を抱えて大笑いしていた。
目に涙まで浮かべている。
ポニーテイルが揺れっぱなしだ。
「さ、酸素、酸素。笑いすぎて、も、死にそう」
「ここにはいっぱいあるよ。好きなだけ吸えばいいじゃない」
しょうがないのでふてくされてみる。
置いてけぼりはつまんないぞ、リィヤ。1人だけ、ずるい。
「ひー」
本当にひーひー言いながら、僕の肩に手をかけて、笑いをこらえていた。
げほっ、げほっ、とむせこむ。
「おい、そこまで笑うことは…」
様子が心配になって、覗き込んだ。
その瞬間、顔がこっちに飛んでくる。
「…………」
「へへ」
キスされた。
颯爽と笑っているリィヤ。
その顔を、僕はただびっくりした顔で見つめるしか出来なくて。
「いいじゃない。ここが、世界樹で」
「ここが?」
これが、じゃなく?
「そう。ここが、私達の世界樹」
とん、と踵を鳴らし、両手を広げて彼女はその樹を背に、爛々と目を輝かせながら言った。
生き生きとした口元。綺麗に並んだ白い歯が見える。
「いい空気で、いい見晴らしで、周りには他に、何にもなくって」
「でも」
それでいいの?と、聞こうとした時、彼女は不意に微笑んだ。
月影に青い、柔らかな微笑み。
とても綺麗で、そして優しい顔。
「いいんだよ」
踊るように、くるり、回る。
「ここが、私とクゥの世界樹で、いいんだよ」
両手を胸の中央に重ね、ぎゅうっと大切なものをその中に包み込んでいるように、彼女は目を閉じた。
汗と埃で汚れた顔。静かに輝いている。
「私は、見つけた。私の世界樹。
クゥは、違うの?」
「…………」
この野郎。
いっつもそうだ。最後の最後で、おいしいところはみんな持っていっちまう。
だから僕は、もう何も言えなくて。
代わりにリィヤの口を、自分の口で重ねるようにしてふさいだ。
「……!」
「そういやまだ言ってなかったっけか」
びっくりしたように目を丸くする彼女に、にやり、僕は笑う。
「君のことが、好きだよ」
「…そんなこと」
知ってらい、と、可愛らしく口調を変えたリィヤを抱き寄せ頷いた。
「世界樹、見つけたね」
「うん」
両手を正面から握りあって、屈託なく笑いあう。
心はここに、この中に。
握る手と手の隙間から、伸びる影一つ。
長い長い、二人の影に、それはまるで枝のよう。
疲れきって同時にすとんと尻餅。
「さあて、これからどうやって帰ったものか……」
見上げた空は、群青に青い。
満天に瞬いていた、星の光―――――
/*/
署名:城 華一郎
最終更新:2008年04月02日 09:57