その男は威風堂々たる男であった。
風貌を言うのではない。
風を切るどころか、嵐の中の突風をぶち割ってでも進みそうなその屈強は、確かに優れたものであったろう。
服飾を言うのではない。
生まれた時から身に着けていたかの如く似合っている、機能的かつ低彩色の軍服は、確かに威圧的ではあったろう。
だがそれは、それらはその男を外から象っている表象に過ぎない。
その屈強を支えているものは何か。
その服飾を似合わせているものは何か。
意志である。
守るべきものがあると、そう思ったから屈強と化した。
守るべきものがあると、そう思ったから軍に所属した。
それは今でも何ら変わりない。
今に至るまで一貫して変わりない。
その、揺らがぬ意志こそが、男を威風堂々たる存在にしていた。
惚れ惚れとするような筋金の入った胴、腕、足腰は、例えどこを丸太で突いても耐えただろう。並外れた巨躯を支える骨格は、常人の倍ほどにも太いかも知れない。
それほどの男が、彼女の前で、立って、敬礼していた。
眉も太ければ、体に似合いの大ぶりな頭を支える首まで太い。
照る日が清々しいほどに空気を透徹させており、彼との間を遮る粒子は一粒もない。
沢邑勝海は、輝くほどに眩しい谷口の顔を見て、それでついつい照れてしまった。
「軍服、似合ってまますね……お元気そうで何よりです」
「お元気そうでなによりです」
まったく同じ挨拶を返した谷口は、いつもと変わらず乱れぬ口調で応じてくる。
丁寧な、鏡を見ているかのような態度だった。
軍人の鑑のような男である。
いつもと違い、気取らない程度に私服で装ってきた沢邑とはしかし、同じように普段の仕事の癖が抜けない口調。
揺らがなさ過ぎて、それが少し、寂しい気もする。
自分も同じとわかっていたけれど。
彼の偉容に似合いの堂々を誇る宰相府の門前で立ち話をしていた彼等は、二人並べば腕にぶら下げて歩いてもらえそうなほどの体格差ではあったが、ここじゃ何ですからと恥じらったまま歩き出す彼女の後を、足並みよどんだところもなくついて来る彼。
これでもかというほど歩幅は違うのに、距離は離れない。
それでいて、歩く調子に不自然さもない。
そびえる巨樹の如くに穏やかで、真っ直ぐ背筋は揺れなかった。
それを横目に捉え、つい、見とれて足を遅らせてしまった。
並んで歩いて隣を見上げる。
精悍な顔立ちだ。ターニ・キルドラゴンとして荒野を渡り歩くに相応しい、精気漲るそれとはまた違った趣きのある、然るべきところに収められた、弾丸のような精悍さである。
いざ引き金を引けば、音より早く、万難を排してこの大口径の褐色の弾丸は目的を貫徹するだろう。
あまりにもその挙動が穏やか過ぎるがゆえに感じられる、漲るほどの力感。
それはすべて荒れ狂う暴風としてではなく、その正逆の性質を帯びている。
通り過ぎる街並みに、何ら圧を与えないところからも、それは明らかであった。
「自分に、なにか?」
目を合わせられて、見る間に顔が熱くなる。まじまじと見つめていたのでまともに目が合った。
正直に言うにも恥ずかしいし、正直に言わないのも、彼のような実直な人物に対しては落ち着かない。もにょもにょと、素直に格好良いと感じたことを告げたまでは良かったが、照れで顔の毛細血管が健康になるほど沢邑は真っ赤になってしまった。
「いえ、格好いいなぁ、と思いまして……その、まぁ」
語尾と共に泳ぐ視線。
谷口は、その言葉をどう受け止めるべきか、あからさまに迷ってから礼を述べた。
立ち止まりつつも、慎重に。
「そう・・・ですか。
言われたことがないですが、ありがとうございます」
慌てて沢邑は言葉を注ぎ足す。
「いや、お世辞とかじゃないですよ!正直にそう思っただけです!」
伝わらないことが何より嫌で。
だからこそ、先ほどまでの照れは彼方にぶっ飛んでいた。
咄嗟の言葉に自分でも心臓が高鳴っている。
それは緊張というよりは、もっと別の何かが彼女の胸中を揺らしたからだった。
「いやまてよ。言われたことがないからいいのか。ともかくありがとうございます」
彼は律儀にも言葉の意図を反芻し、言葉を受け止めきってから、改めてまた礼を述べた。
今度こそ浮かべた、どっしりと太い笑み。
見下ろしているのに、見下さずに真っ直ぐだ。
こういう男が、谷口竜馬という人物なのである。
今度こそ照れずにその顔を見つめながら沢邑は言う。
「……うん、いいのですよー、男前って奴なのです」
己に揺らぐことなく、きっぱりと。
「他の誰がなんと言おうと、少なくとも私はそう感じます」
ははは、と谷口は笑った。
裏表の無い、爽やかな笑みであった。
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彼のエスコートに揺るぎはなかったが、かといって、警護をしているみたいないかつさも、その態度の内からは感じられない。
丁寧に扱われていることを知ってなおわだかまるのは、わがままなのか、それとももっと別の何物かなのか。
クラシカルな喫茶店で対面に座りながらかしこまる。
谷口はさりげなく店員に注文を済ませ、微笑みながらこちらを見ていた。
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仲間ではない。
友達と言うには距離が近過ぎる。
けれども、無遠慮に振る舞っていいほど親しい間柄ではない。
付き合いが短いわけでもないが、さりとて長過ぎもしていない。
では。
では、この人は自分にとって何なのだろうか。
とても近いところにいる。
しかし、無遠慮に隣り合うほどの近さではない。
それでも隣り合ってもおかしくない位、近い。
不思議な距離感。
それを谷口はごく自然な形で扱っていた。
その距離感の性質を、だが、未だに彼も自覚しているわけではない。
それには少し、まだ早かった。
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オルゴールが鳴り響く。
息が止まりそうなほどに、目の前で踊っている小さな人形は、不意打ちのような効果をもたらし彼女の目を奪っていた。
溢れる花。
テーブルの上を鮮烈に彩る。
どうしてだろう。
適当に選んだお店のはずなのに。
今日という日は何時頃から知られていた?
一ヶ月近くも前だ!
緊張を強いることのない紅茶の香り。
湯に心が溶け込むようなやわらかな味。
時間を跳んで意識が前後する。
谷口さん、今日は本当に会って下さってありがとうございます。いえ、それこそ気を使いすぎです。楽しく過ごしています。そんな、気使わなくていいんですよ。気、ですか?はい、もっと普通に……と言うか、友達みたいな感じで。近くなら案内できそうですが、どこか、いきたいところはありますか?じゃ、近くの喫茶店にでも入りますか。他のところは今度案内して下さい。
ぐるぐる意識が巻き戻る。
伸ばした手の先で、ふいと消えてしまう彼の姿。開かれたドア、待っている彼。するりと横を抜けてしまう彼。引かれた椅子。気安く見えませんか。かなりその、いえ。なんでもありません。
微笑んでいる彼の顔。歩み寄ってくる店員は、一流(クラシカル)に相応しく、無機質ではないのに気に障らない、暖かな質感を漂わせていた。その手の中に、大切そうに抱えられていた、箱と花束。最小限の音しか立てずに目の前に、そっと置かれて小さな会釈。
今日というこの日のために、朝、目覚めてから、支度をするのにどれだけ特別を感じたことだろう。
今日というこの日のために、朝、目覚めるよりも、遥か前、どれだけの準備をしてきたことだろう。
彼のいる風景。
謹厳ながらもその門前からうららかな敷地内を見渡せる、宰相府の建物と中庭、かすかに見えた、働く人達。
砂洲から砂洲を渡り、横切った都市部、渡った橋の一つ一つ、その背景に常にそびえていた水の巨塔のその偉容。
立ち止まりながら彼と話したその場所を取り囲んでいた、とりどりの建物、その高さ。
道のタイルの模様まで、1つたりと忘れてなんかいない。
すべて、彼がいたからだ。
今日という日が特別なのは、毎年のことだったけれども。
今というこの瞬間が特別なのは、今日限りの幸せだった。
鳴り響くあのメロディ。
小さな人形が舞踏をしている。
藩国の、国歌だった。
……今日は、最高の誕生日です。
そう言ったのはいつだったろう。
ああ、ほんの数十秒、いや半分間にも満たない直前が、掻き消されている。
その、やっぱり、誕生日に好きな人に会えると嬉しいですよ、うん。
死ぬほど恥ずかしくて嬉しいその言葉を、口にするより嬉しいことが、いっぺんに彼女を押し包んでいた。
谷口竜馬は威風堂々たる男であった。
呼ばれたから。ただ、それだけの理由でそこにいるような、そんな頼りなげな男ではない。
ましてその日が相手にとって特別な日であると知っていれば、知り合いに、頼んでこっそり手を回してもらうぐらいのことは出来る男であった。
谷口竜馬は威風堂々たる男であった。
馬鹿正直のことを言うのではない。
嘘をつくのが死ぬほどへたくそな不器用男は確かに誠実ではあったろう。
生真面目さのことを言うのではない。
他人にすら嘘をつくのが下手な男は、確かに自分に嘘をついて手抜かりを残すことは出来なかっただろう。
だがそれは、それらは威風堂々とは到底呼べない。
だがそれの、それらの中に宿る意志が、彼を威風堂々たるものに仕立てていた。
心を。
守るべきものの中にある、心をおろそかにせぬからこその、意志であった。
かつて第五世界の生まれた時から常態化していた絶望的な戦争にあって、自らの不在に姉達がショックを受けぬようにと、やがて来るだろうと信じていたその時に備え、家を離れたその意志と同じように。
谷口竜馬の、音より早く目的を貫徹せんというその意志は、驚きという手段でもって、完遂された。
「おめでとうございます。ささやかですが」
彼は相変わらずの口調だが、その言葉に、沢邑の唇は正直震えた。
「あ、ありがとうございます……谷口さんありがとう……」
最後の方はもう、胸にぎゅうっと漏れ出る言葉を押し留めるかのようにくぐもっていて。
面も上げられないほどにいっぱいの気持ちを抱えたその鼻先で、くるくる小さな人形が愛らしい音と共に回っている。
苦しくなった胸から息を吐き出すと、谷口の顔を見る。
「谷口さん、今日は本当にありがとうございます……それと……その、大好きです。惚れてます……」
こんな事、言われても困ると思いますけど……
そう言いながら堅く抱きしめたオルゴールに、心音がどくどくと肌越しに鳴っている。
じっと、熱いまなざしで彼女は見つめた。
「そんなに喜んでいただけるとは、嬉しいです」
谷口の顔に浮かんだ表情は、笑顔に飄々としているように見えた。
どこまでも伝わらなくて、もどかしい。
「いえ、最後のは冗談じゃなくて、本当の話です……
その、好きとか、惚れてる、って辺りが……」
聞きながら、笑われている。
顔が普段は絶対浮かべない位に複雑な動きをしているのが自分でもわかる。
「うう、冗談じゃないんですってばー!」
谷口の笑みが少し落ち着いた。
そうしてゆっくりと口を開く。
「いえ、表情に困っているだけです。実ははじめてなので」
よく見ると、笑顔は照れ隠しのようだった。
どこからだったのだろう。
ずうっと笑っていた彼。
それは確かに揺るがないようでいて。
けれども確実に何割かは違っていた。
そのことに彼女が気付くのは、しばらく経ってからのこと。
ぷしゅう、といろんな感情が高まりすぎて、テンションが弾けてしまっている。
だから彼女はとにかくそれだけは確かな言葉を繰り返した。
「と、とにかく、大好きなんですよ!
だから軍のお仕事でも色々あるけど怪我とかしないで下さい!
……絶対私、泣きますから」
片手でオルゴールを抱きしめながら、そっと指を差し出す。
「私も生き延びますから。……約束、です」
小さな小指。
その指に、太い指が絡められた。
「なるべく努力します」
太く、笑っている谷口。
10年ぶりですよと彼は言って指切りをした。
その日、沢邑勝海は幸せだった。
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ありがとうございました、またのお越しをお待ちしております。
そう、喫茶店の店員が、そつなく見送りの挨拶をする。
しきりにちらちら連れの手を見ている、女性客の後ろ姿。
彼女の両手は鞄とプレゼントで埋まっていて、視線だけが恨めしそう。
微笑みながら彼等は2人を見送った。
威風堂々たる、大きな背中のその男と、肩幅も華奢な、青い瞳のその女性を。
これから2人がどこへ行くのか、それは知る由もない。
ただひと時を、お客様なりに満足してもらうそのためだけに、彼等はいるのだから。
最高級の紅茶を注いだ後の、そのティーカップが、すぅと目にも止まらぬ恭しさで下げられる。
音もなく、重たい蝶番が回って、ゆっくりと2人の去っていった扉は閉じ、
そして、
そして―――――――
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署名:城 華一郎(じょう かいちろう)
最終更新:2008年04月25日 20:29