黄昏に焼けた空を、歯車色に夕日が廻る。
その下をくるくると、青いドレスを纏った女と青い舞踏服を纏った男が歩いていた。
心に青い、情報の衣を纏って舞踏をステップする、一組の男女。
限りなく機械的なシステムの中を、限りなく人間的な歯車で廻し、くるくると歩く。
女の名は綿鍋ミサ、男の名は矢上総一郎と言った。
鐘の音が夕焼けを渡る。
空一杯をまるで押し包むように、2階建ての校舎の何処から響いてくるのだろう、金属の厚い大音声。
解放されたとばかりにピロティから吐き出される大量の生徒。
その人込みの中に、ミサは居た。
レンズの細い、活発に見えるフレームの眼鏡と、それにも増して活発そうな大きなどんぐりまなこ。健康的に焼けた肌と金髪は、南国の色を示している。涼しげな水色を要点として配してデザインされたプリーツスカートの制服は、いまやうっすらと茜色に輝いていて、眩しいほどの空気だった。
暑い風が髪を弄ぶ。
ヘアピンで赤くサイドにアクセントを施した、後ろ髪を纏めて、もみあげの部分が長く真っ直ぐに下りている、夏色の気候に良く似合った、すっきりとした髪型。
すらりと伸びた両足が、意気揚々と校門の前へと飛び出して、同じように、学生鞄を握り締めた両手が大手を振って体を前に進ませる。
橙に染まった白い壁に、背をもたれかけるようにしてじっと腕組みをして待っている男がいる。
矢上だ。
矢上はミサが正面に来るまで素知らぬ風に目線を遠い地面に投げかけていたが、ミサが正面に来てからも、その目線の遠さは変わらなかった。
大きな声が無邪気に耳を打つ。
「ヤガミーかえろー!道草とか食べない?」
やっほお、と明らかに呼びかける形で片手を挙げながら言われてそこで初めて矢上の目線が上に動いた。黒髪を6:4で左右非対称に分けた、下だけ縁なしの黒い理知的な眼鏡を掛けている。
女子のものとは違う、濃い群青を基調に引き締める形で使ったデザインの制服。ズボンが長く靴まで白いので、バランスを取る形で青が濃くなったのだろう、普段はイエローの特注フライトジャンパーを着込んでいる矢上にも、妙にしっくりと似合っていた。
夕日のせいだろうか。
すべてが黄昏色に染まっていて、その照り返しの眩しさに、人のシルエットばかりが目に染みる。長い影達を引き連れて歩く生徒達の群れが、こうしている間にも流れ、過ぎ去っていく。
矢上はいつもの調子で諦めたように嘆息交じりでミサのことを見返しながら返事をした。
「突っ込んでもいいが、突っ込んだら負けなんだろうな」
それを聞いてミサの顔がほころぶ。
「勝ち負けがあるのね(笑)
わたしはヤガミがどんな手をうってきても返す自信はあるわ~」
無意味に胸を張ったミサを、矢上は一瞬黙りこくってから目を反らした。
「どうかな」
無愛想な口調がそう語る。
ミサはまったく怯まないで楽しそうに表情を躍らせた。
「あ、さては強気ね。負けてられないわ」
「嫌なことでもあったみたいだな」
どうした? と、矢上はその明るい笑顔に問いかける。
真っ直ぐな目線が、それを聞いてうなだれたミサの上に降りかかる。
溜め息をついて、少し不自然に重心を動かした後、結局はその動きを殺してよその方向へと歩き出した。
鞄を持たない方の手がぎゅうと1人で握られている。
「いくぞ」
喋りかけていたミサは、あ、まってまってー、と追いかけながら改めて言葉を紡いだ。
少しだけ、笑顔で凍ったその口元。
「まあ、最近はいいことが続いてるのよ。ここ最近は、随分とね」
2人、連れ立って歩き始めると、左右に小笠原の暑い緑の色合いと潮騒の景色が流れ始める。その白皙を夕焼けに塗り替えられた雲達の居場所が低くて、まるで空が近いような気持ちになる、そんな場所が、小笠原だった。
歩く道筋に影が先回りをしていて、かくんかくんと主のリズムに揺れている。
2つの影はその度に、着いては離れ、離れては着く。
歩くほどに、残った生徒で賑わっていた校舎の喧騒も、下校する足早な人込みも間遠になって、いつしか2人は横に並んでいた。
「そうなのか」
相槌を打ちながらも、会話をしている癖に、自らの横に飛び出てきたミサのことを直視出来ず、矢上の目が正面に泳ぐ。その仕草までも、感情をなるべく露出しないように、無愛想に装われている。
むっつりとした彼の口元を気にすることなくミサは話を続けた。
「うん、考え方もちょっとかえて、気持ちに余裕を持つようにってね」
「いいことが多い割には、今日は良くしゃべっている。元気に振舞っている」
矢上の指摘は鋭かった。
けれども、ミサは一向に動じることがない。嬉しそうに、隣の矢上を見つめながら話している。
「振舞ってる、か~。それはちょっと否定はできないけど」
言いながら、さりげなく手を後ろに組み替えて、鞄を持つ手を交代させる。
すぅ、と空けた矢上側の手が彼の方へと伸びた。
「ヤガミに会えるとね、元気出るのよ。ふふー」
するり、かわされる。
「そうか。一時期の俺みたいだな」
何事もなかったみたいに振る舞う矢上。
距離だけは開かせないで、器用に腕を逃がした成果だった。
あ、こら、逃げないの、と反射的に言いつつも、ミサはそんな矢上の目を見ながら、ふと聞き返した。
「一時期?」
矢上の横顔は夕焼け色の空気に染まり、まっすぐに前を向いている、そのまなざしまでもが茜色をしていた。
どこか遠い色。
この刹那の間だけしか保たれない、儚い色だ。
冷たく濡れたその瞳に、ミサは黙って返事を待った。
「考え方を変えるといっても、余裕を持つといっても、難しいものだ」
矢上のまなざしは変わらず遠い。
手を繋ぐのはもっと学校を離れてからだ、と仏頂面で答えてから、その遠いまなざしがこちらを向く。
「……大丈夫か?」
「そうね。簡単じゃないよね」
最後の問いかけには答えずに、順繰りに言葉を出していく。
「…それでもねえ、自分に言い聞かせていくのが、私は歩いていけるのよ」
矢上の向こうを透かし見るかのような、遠い笑顔。
矢上から、遠くはないのだけれど、それでもその笑顔は、何故だか彼には遠く見えた。
よし、じゃあ早歩きで離れよう、と、はにかみながらミサは実際に足を早めた。
その後ろ姿を目で追いながら、矢上は問い返す。
「本当に?」
「うん。いまは、あんたに甘えてたい。今日は調子がいいから、泣いたりして困らせないもの」
大して歩きもしないうちに、ぴょんとミサは歩いてくる矢上の腕に、飛びつくようにしてしがみついた。
「大丈夫、大丈夫よ。うんと頼らせてね」
肌の感触にもまして、ぴったり寄り添うようなその声、言葉。
男の自分よりもずっと軽くてそれでも重い、たった1人の重みを感じながら、矢上は周囲を見回して、それから彼女の体に腕を回す。
ぎゅう、と抱き締める感触。脳に心地よい、ほのかな香り。
うずきそうになる体の奥を抑え込み、矢上は予め警告した。
「怒るなよ」
「なんで怒るの?」
「いや。なんとなく」
調子がいいから泣いて困らせないか……
半ばひとりごちながら矢上は、信じきった目でぎゅうとしながら自分を見上げるミサの額にチョップを繰り出す。
「んぎゃ」
「調子が悪いときに呼べ」
「悪いときには、会えないんだもん…」
しょぼくれるミサ。
矢上はむっとして少し身を離す。
「何度も何度も、あんたに会って、大泣きしてやろうともおもったわよ…すぐ会いに行けないのがつらかった」
歪む一歩手前の表情で、凍りついたように固まるミサの顔。
こらえるかのように、目は、伏せられる。口はつぐまれる。
矢上は、そんなミサの手に、ズボンのポケットからコインを取り出し握らせた。
「わ、なあにコレ」
手を開いてみると、そこには明るい金色の三日月を浮かばせた、夜色のコインが乗っていた。
しっとりと重い。
「それを使うといつでも逢える。魔法のコインだ。友情の証。優月夜曲だな」
「友情かあ」
夕焼けには似合わない色をしたそのコインを、しげしげとミサは眺める。
矢上は言った。
「これならいつでも逢えるぞ」
「もういっこ、兼ね備えたほうがいいな」
ちょっとしょんぼりするミサ。その目はこれまでより暗い。
矢上はいささか強い語調でその希望を否定する。
「もう一個のは好きなときには逢えない。
それでは、お前を助けられない。
俺は、お前が幸せなら、いいんだ」
「そうなの?それはそれでこっちのがいいかもしれないけど」
ミサの目が、数瞬だけコインにまた落ちて、それから矢上を見つめなおした。
矢上は真剣な顔つきである。
いつもそうだけれど、今はことさらに真剣だ。
長い夏影が擦り切れそうなほどに伸び続ける。
夕焼けが、こうしている間にも、どんどん夜へと伸びている。
ミサは口を開いた。
「ヤガミ、私の幸せ、知ってる?」
「俺のことだろう?」
ふっと笑って矢上は即答する。
「残念だな。そうはいかん。お前と同じように、俺も返せることを忘れるな」
「腕上げたわね・・・!」
唸りながらも、首肯。
「うんそう。あんたと一緒にいて、あとは」
少し、微笑みながら、再び体を向き直させる。
「あたしが素直に、あんたを、ヤガミを愛してるって、言うことよ」
にっこりと笑顔と共に、言葉を添えて。
「できればお互いにね」
言ったそばから顔が赤くなるのを隠そうとして、ミサはちょっとうつむきがちになった。
矢上は笑った。
「嘘が下手だな」
「そうやって逃げるんだから。わたしの精一杯を返せバカ」
むくれて鞄の横っ面で腿をどつこうとすると、すいっとかわされる。
「そっちじゃない。国のことをいいたかったんじゃないのか」
それを聞いて、ミサはもう一度矢上のことを見上げた。
じいっと見上げているその顔に、夕焼けばかりが落ちかかって、心なし、瞳が光って見える。
誰そ彼(たそがれ)時の言葉の通り、人を遠目に見ても誰かはわからぬほどの光の量。
けれどもミサは、近くにいた。矢上のとてもとても近くに。
「この次じゃダメ?」
矢上もミサを見つめている。
明るく大きなどんぐりまなこ。夕焼けの良く似合う、綺麗に淡い金髪。小柄でぎゅっと元気の詰まった体つき。瞳に浮かぶ、声なき声。
「私はね、」
「私は?」
「あなたを単なる頼れる相談相手にしたくないの。もっと、傍で支えて欲しいのよ」
生真面目な。
生真面目すぎるほどに生真面目な、矢上。
真剣すぎるほどに真摯に真面目に答える。
「いつでも逢えるほうがいい。例え、キスできなくても、手をつなげなくても。お前が泣くよりは、ずっといい」
「そう言われると傷つくなあ…」
肩を掴まれた。
瞳に問いかけられる。
まるで瞳を通して自分に問いかけてでもいるかのように、
強く、
「お前もそうなんじゃないのか」
強く、繰り返される、その問いかけ。
「お前も、俺をそう思ってきたんじゃないのか」
答えるのは浮かんだ涙。
「そうであって欲しい?」
矢上は向けられた無言の言葉と有言の言葉、2つの言葉に、ぐっと唇を固くする。
「でも仕方ないじゃないか。お前が泣くんじゃ。仕方がない」
その胸に強い力が掛かる。
しがみつかれて、薄い夏服の布地越しに、すりつけられた涙が透ける。
「私が泣かなかったら良いの?」
ほとんど力一杯の抱擁と言葉を、矢上は苦しそうに抱き締め返した。
「いや……なんというか」
「泣くのをやめたら、ヤガミは応えてくれるの?」
カチリ、心に歯車が鳴る。
矢上はミサの眼鏡を取った。いやいやをするミサ。
「やっぱり泣いていい」
「眼鏡とられたらヤガミの顔、よくみえないよ…」
泣きそうな声をあげるその唇を、重ねてふさぐ唇がある。
ぎゅうう、と、抱き締めながら、矢上はミサを、諦めた。
ミサの涙を諦めた。
イタミよりも微笑みを。
ナミダよりも口付けを。
長い、キスが唇をはんだ。
くるくると舞う心、大小の歯車機関。まるで仕組みは違うのに、ただ一点だけが噛み合って。
カチリ、夕焼けを愛に刻む。歯車狭間に時すら失せる。
誰そ彼時を圧(へ)し潰し、互いの体を抱き寄せる。
心、舞踏は輪動機関。くるくる廻って互いを回し、そうしてアイドレスは青く輝いた。
「俺は酷いヤツだ」
ただ一点だけが絡み合って、解ければ近づくまなざし魔術。
見ずとも思え、触れなば溶け合う、心を水の水魚の交わり。
「お前がこれから先泣いても、キスしたいと思ってる」
「ばか」
もう一度交わす唇の熱、抱きしめる圧、心、歯車を押す歯金になり、
大小の歯車を加速する。
巻くゼンマイは、逢えない時間の流れる重さ。
螺子切れることはないけれど、余る歯車の寂しく廻る。
だから。
「それでいいのよ」
2人はぎゅうと、抱き締め合った。互いをずっと求め合う、心、1つの歯車であるかのように。
「ヤガミ、大好きよ」
涙を浮かべたその心からの微笑みを見て、
矢上の中で、何かがほどけた。
そうして新たに腹の奥底でその何かが固まっていく。
夕焼けに包まれた誰そ彼時の人気のない通学路で、矢上は初めて自分がミサのことを欲しがっていることを認めた。
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署名:城 華一郎(じょう かいちろう)
最終更新:2008年04月27日 12:19