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ヤガミは蝶子の腰を抱き寄せたまま、今しか味わえないこの景色を存分に体感していた。

「これが…………」

見つめる先で、唇が動く。
ちょっと赤くなりながら、蝶子はヤガミが何を言おうとしたのか想像する。

これが、パーフェクトワールドか。

これが、ゲート。

これが、お前の見ている風景か。

どれもしっくりとは来なかった。

ヤガミは結局何も続けずに、細い蝶子の体を抱えている。

びゅうびゅうと風を切る音だけが響く。

言葉交わさぬままでいれば、それはまるで爆音のようで、2人は弾丸のように、向かい風とさえ呼べないそれを突き抜けていく。

灰色の長い髪が風に持っていかれそうになる。
ヤガミが、ぐい、と胸に蝶子の頭を抱き寄せるようにして、その髪の思う存分乱れてはためくのを、自らの体で遮った。

「眼鏡、なおしますか?」

間近なヤガミの匂いに照れながらも、律儀に蝶子は聞いた。
お返しというよりは、ほとんど会話に困ってのことである。

ちらり、胸の中から見上げたヤガミの目は、掛けたレンズと瞳の両方に、ただただ青空を映し込んでいる。

彼自身も前髪がはためいていて、普段は見られない、おでこの広いヤガミの顔が見られた。

なんだか得をした気分で蝶子は微笑む。もちろん、照れがなくなったわけではないので、顔が内側からまだ熱い。高速の風が際限なく空冷式に、火照る上気を抑えてくれていたけれども、身震いするほどに寒いとは、ついぞ彼女は感じなかった。

腰のところだけ少し離れてくっついているので、そこだけはびゅうびゅうと風が吹きつけて寒かったが、それ以外のぴったりと密着している部分からガンガン発熱しているせいで、全体的にはほかほかである。

ヤガミは、いや、いいとその提案を断って、自らの手で眼鏡を直す。

どこまでも2人は落ち続ける。爆音のような風の中、果てさえも見えない青と青の無限のグラデートの中を。

ヤガミのグリフ、心の境界面なら、落ち続けていくのはどんな心地だったろう。

蝶子はすぐ隣にある頭が、パジャマ一丁で着替えもなしに手ぶらでついてきた彼女をまさかそのまま素っ裸にいさせるわけにもいかないという理由コミであれこれいろいろ自重しているとはついぞ知らずに想像をめぐらす。

ヤガミの星空。
銀河の中心のように、星の白がむしろ多い世界なのだろうか。
それとも、今知る私達の世界のように、星は粒のような空なのだろうか。

無限の黒か、無限の白か、
その、どちらを落ち続けるのでも、きっと自分は驚いただろう。
ヤガミの心の中を目の当たりにしたことで。

普段から、俺は星だとか、知恵者めよくも女を口説くなら星の話をしろだ騙しやがってとか、いろいろ言ってはいる人だけれども。

本当に、彼が見たい、見よう、見ている空を、星空を、
言葉ではなく、風景で見てしまった時、自分はどんな気持ちになっただろう。

きっと、嬉しいだろうな。

ヤガミの空は、ヤガミだ。

それがどんな空でも私は喜んだに違いない。

そんなことを思っていたら、いつの間にか視線は落ち続ける先を見ていた。

「……おい、何を考えていた?」
「色気ってどこに売ってるのか考えてたんです!」

会話の不意に途絶えたのを不審に思って尋ねてみて、返った言葉にむうとヤガミが唸る。

さすがの唐変木も言葉の意図は理解したが、しかし抗弁。

「その、だな。いやらしいと、困るだろう。いろいろと」
「でも、色っぽい方がヤガミの好みなんじゃないですか?」
「色っぽい方がいいとは思うがいやらしい必要はないだろう」
「?」
「ああ、もう」

行き違う言葉に頭を抱える。
それでもヤガミは大真面目だった。

詳細な説明をする愚は繰り返さなかったが、代わりにヤガミはこの話題について打ち切ることで難を逃れる。

「もうすぐ着くぞ」
「そうなんですか?」
「ああ」

景色に変化はないが、ヤガミが言うのならそうなのだろう。
もうどれくらい落ち続けたか、時を計る目安が世界に何もなかったので、感覚がすっかり狂ってしまっている。

ここを、ヤガミは1人で落ち続けるつもりだったんだろうか。
ふと蝶子はそのことに思い至って唇を怒らせる。むぅ、とへの字口。

「着いてからも追いてっちゃヤですからね?」
「安心しろ。そんな危なっかしい真似はしない」
「黙って気絶させて、気がついたら元の世界とかもなしですよ」
「そんなに信用がないか、俺は」
「黙って夜中に出て行こうとしたくせに」
「…………国がなくなれば、お前は悲しむだろう」

ヤガミは言った。

「帰ってきたら、すべては歴史の彼方だ。
 歴史書を紐解けば結果はすぐに調べられる。
 お前が悲しむ顔は、見たくない」

ぐ、と言葉に詰まる。
それは、きっとそうだけれど。

「でも、私が言ったことも本気なんですよ?」
「それもわかってる。ああ、本当に」

しょうがない奴だ、とは、ヤガミは口にしなかった。
かわりに蝶子を胸一杯に抱き寄せて、自分の顔を覗かせない。

「ちょ、ぷわ」

苦しそうにもがく。

「少し、眠っていろ」
「?
 もうすぐじゃないんですか?」
「絶対時間では、そうだ。だが、今の感覚的な相対的時間から言うと、まだまだかかる。俺は絶対時間に合わせていられるが、生身の精神には負荷がかかりすぎるからな」
「むう……」

むくれながらも、蝶子は自分からも抱きつく腕を深くして、離れないようにしっかりと抱きついた。

恥ずかしいという感覚以外にも、確かに無限に続く、同じような景色、同じような風切り音、同じような青に、ストレスのような磨耗が掛けられているのは、わかっていたからだ。

ヤガミの胸に顔を押しつけて、真っ暗で暖かな感覚に包まれていると、その単調な感覚も消えていく。

風の爆音が徐々に消えて、どくん、どくんと、ヤガミの機械の体にめぐる独特な鼓動が耳に染み渡ってくる。

世界を超えるためにかつて生身を捨てた男。

それゆえに、行ける世界に限りがある、制限つきの命。

「……………………」

いつか、この体のやわらかいことをもっと感じていられるだろうか、とか、

機械だけれど、あったかいなあ、とか、

ヤガミって、こんな匂いなんだ、とか、

まどろむ意識の中を、蝶子はそれに対していくつかのとりとめのない思考をしたが、次に目覚めた時には、どれ1つとして憶えてはいられなかった。

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ヤガミの脳裏に無駄な思考が入り混じる。
脱がせたパジャマを体に縛りつけて確保していれば大丈夫だとか、いや、そもそもがキスさえしていないだろうとか、何をしにいくんだ自分は、とか、そういう、男の性ゆえの悲しい自問自答。

暖かな感触が腕の中にある。

鼻をくすぐる男にはないフェロモンの香り、肌の質、何もかもが五感に直接訴える。

蝶子があまりいやらしくない格好だったのは幸いだった。だとしたら、自重するのはもっとしんどかったろう。へそを出した薄着のパジャマ姿ではあったけれども、それは普段のレンジャー連邦の西国人的服装と大差なくて、刺激的とは言えない。

慣れた格好、それでも目に飛び込んでくるうなじや、抱き締めた感触に、女を感じてくらくらしそうになる。

眠っている相手に何を考えているんだ、俺は、と、ヤガミは、それでも彼女から目を離すことが出来なかった。

やわらかくて、華奢で、確かに色気はないけれど、でも、

熱くて高い、命の鼓動がする。

見下ろすちょっとの動きにも、掛かる風圧に持っていかれないよう、眼鏡を押さえながら、する。

胸と顔との隙間からのぞく蝶子の顔は、すぅすぅと安心しきって眠っている。

しがみつく腕の力は強い。実際、機械の体でなければ結構きつかったかもしれないと思うほどだ。

馬鹿と何回言われただろう。記憶を数えて見た。

5回だ。うち1回は大馬鹿とまで言われている。

「……馬鹿め」

ヤガミは寝ている蝶子に、そう言った。

本当に馬鹿だ。

自分で認めている以上の大馬鹿だ。

国を捨てる王。

けれども、捨てさせたのは、自分だ。

自分の意志でそれを選ばせたわけではないけれど、

自分の存在でそれを選ばせたことには違いない。

寝ている蝶子の顔を見つめる。

すぅすぅと口を半開きに表情が止まっている。

「馬鹿め」

もう一度だけ、ヤガミは言った。

けれどもその口元は、

笑っていた。

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限りのない空を見る。

青い。

その青の、輝かんばかりの健やかな白さに、ヤガミは笑う。

見慣れたものにしかわからない、けれども珍しいほどの口元の動き。

俺は、星だ。

絶望の夜に輝くものだ。

こいつは、けれど、違う。

昼の世界に属する、昼に輝く類の住人だ。

寝ている背中をなでる。

背にツバサはないけれど、心に羽根の、ある奴だ。

小さく華奢なその体を守るようにして抱き締めながら、今だけは、よこしまな気持ちを抱かずに済みそうだと、ヤガミは体を寄り添わせた。

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蝶の羽根を持つ女がいる。
けれども風を切ってどこまでも飛び続けることは出来なくて、ぱたぱた忙しないほどに羽ばたいている。

蝶の羽根を持つ女がいる。
華奢で細くて色気がなくて、けれどもその小さな小さな薄い羽根は、太陽に美しい麟粉を舞い散らせる。

男はへたれでいつも女を置いていく。
けれどもどこまでも真面目で、子供のような輝きをその心の中に眠らせている。

夜に臨んで輝くその瞳は、

今は青空にも勝るほど、強いくらいにぴかぴかに輝いていた。

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署名:城 華一郎(じょう かいちろう)
最終更新:2008年04月29日 10:09