病室の窓の外は青かった。
「綺麗ですね、空」
彼女は、それが自分の名前ではなく、一般的な名詞を指した発言だという事に気付くのに数秒ほどをかけてしまって、その照れ隠しのように皮を剥いた林檎を彼に皿ごと差し出した。
ここはレンジャー連邦王立病院。
レンジャー連邦に所属するフィクションノートの1人である浅葱空は、もう大分回復して、ほとんど本復と言ってもよいほど健康になった少年、グーンの見舞いに来ていた。
グーンとは、先日王宮を襲撃した暗殺者レグ=ネヴァや、その正体であるところの通称ムゥエ少年とは何の関係もない、ただの怪我人である。
と、いう事に、対外的にはなっている。
グーン=メ=ラウド。
竜士の家系であったというムゥエの名前をアナグラムにした、新しい名前だ。

  • Goon=maraud/Dragoon=MuA

そうだねと頷きながら、空はふと、名前の話題で思い出す。
「どうしてMaraudなんて名前にしたの?」
maraudとは、動詞である。略奪する、押し寄せるといった字義を持っている。
新しい門出であるところの名乗りには相応しくない、良くない名前のように彼女には感じられていた。
グーンはその話を聞いて、苦笑とも、微笑ともつかない表情をした。
「忘れたく、なかったんです」
「――――」
「僕が誰かを傷つけようとした事、傷つけた事、忘れたく、なかったんです」
膝の上の、兎型に切られた林檎を見つめながら、グーンは呟くように言った。
「僕はかつて復讐者と名乗っていました。逆恨みの復讐者、まさにその本質に相応しい逆さまの名を。
でも、もうその名前は名乗れない。
かといって本当の名前も名乗れないんですよね。こうやって、罪を赦されてはいるけれど、僕のかつての名前をたどれば誰でもいつかはたどりついてしまう。僕が藩王を襲い、殺そうとした事。
事実、僕はヤガミや宰相や、いろんな人に殺されてもおかしくない。
そういう人達から僕の事を隠すために、僕は新しい名前、新しい戸籍を戴きました。
でも、僕は忘れたくない。
浅葱さん、貴方や、他のフィクションノートの皆に体を張って教えてもらったように、僕は誰かに殺されてもおかしくないほどの事をしてしまった」
そう言って、しばし押し黙るグーン。
胸の中には今でも後悔が渦巻いているのだろう。
そして、後悔だけではない、もっと多くの苦しみも。
どう声をかけたらよいか迷っていると、グーンはにこりと微笑みながら面を上げて、浅葱を見た。
「貴方にこうして出会えてよかったです。
でなければ、僕は父の言葉を忘れるところだった。
僕が本当に父を殺してしまうところだった。
忘れてしまえば、ほとんどが情報で出来たこの世界で、誰かが存在していた証なんて、本当に消えてなくなってしまうのに。
今では、つらいけど、とてもつらいけど、僕はもう、蝶子さんを恨む事はしていません。
仕方のない事だった、そう、諦める事はしていないけれど―――――」
ぐ、と、何かを飲み込むその顔、そのまなざしを、浅葱は正面から向けられながら、ただ黙ってじっと彼の言葉を聞いている。
深い影と傷を負った、その顔に、浮かべた確かなまなざし、その本当の意味での強さを、じっと見守りながら。
「誰かを憎んでも――――父さんはきっと、喜ばなかったから」
それは、彼を知らない人間が聞けば、あまりに安い言葉だと笑ったほどの陳腐な一つのありふれた真理だろう。
けれど、そこに彼という1人の人間がたどりつくまでには、1年という、とても長い時間がかかっていた。
その事を浅葱は知っていたから、何も言わずに黙って彼の言葉を聞いていた。
「林檎、おいしいですね」
「今度はナツメヤシやオレンジジュースも持ってくるね」
沈黙。
その後に交わされた笑顔は、とても気持ちのよいものだった。

/*/

浅葱が退室した後、グーンは再び窓の外を眺めながら考えていた。
HAと名乗ったあの紫の唇の男。
彼が接触して来ないのは不気味だった。
(まだ、何も終わっていないんだ―――この物語は)
その正体は念入りに様々な人物から尋ねられたが、実際自分でも、何も知らないに等しい事に気がついて、驚いた。
HA自身からそれを語ってもらえなかった事に、ではない。
それを語られずとも彼を盲信し、付き従っていた、あの頃の自分の何も見えていない盲目ぶりに、だ。
復讐は何も生まない。なるほど綺麗な言葉だ。
実際今でも口にするのは憚られる。
復讐は、相手の死という結果と、それに付随する様々の事を引き起こす。
何も生まないという事はないのだ。
だが、グーンはこの言葉を今では痛いほどに実感していた。
復讐は、それをする自分の心に何も生まない。
復讐を、しない事により生まれて来る感情はいくらもあった。
どうして自分だけが。
あいつも同じ目にあわせてやらないと気が済まない。
幸せなんか感じられない。
憎悪で感情のキャパシティが焼き尽くされて、普通の生活を送る事すらままならない。
滾々と湧き出る苦しみを、しかし今では、まったく感じていないといえばまだ嘘にはなるが、少しずつ、減らせている事に、グーンは自分で気がついていた。
それもこれも、浅葱が見舞いに来て、話をしてくれるおかげだった。
ただ父の死を悲しめばよかったのだ。
その事に気がつくまで、どれだけの遠回りを自分で強いていたのだろうか。
青空に、ゆるりと流れる小さな雲。
砂漠の国では普段はすぐに消えてしまう雲だったが、雨季が近い事もあり、その雲はいつまでも眺めている視界の中を漂い続けていた。
新たに取り付けられた義腕を動かす。
サイボーグ技術のあるレンジャー連邦の事だ、HAから与えられたものほどの異常な強度や反応性はないようだったが、おかげで日常生活には不自由しないで済む。
補填、なのだという。
あの市場閉鎖の折りに損失をこうむった人達への、ささやかな支援らしい。
その資金がどこから出ているのかは不明だった。
馬鹿にならない義腕代を負担するみたいにして、少しずつ、行っていくつもりらしい。
その腕で林檎をつまみ、また、齧る。
うまかった。
瑞々しい。
甘く、爽やかな汁気が口の中に広がっていく。
一緒に父の死を悲しんでくれたフィクションノートやかつての知り合い達と、少しずつ時間を重ねる事で、グーンの心はこの空のように変わる事が出来ていた。
暗闇もある。
今でも腕をもがれたあの瞬間を夢に見て、飛び起きる。
どうするべきか自分を見失い、HAのところにも戻る事が出来ずに放浪した、あの日々の這いずるような地獄の気持ちを思い出せば、心がそちらに引きずられる。
それでも。
それでも、グーンは変わり始めていた。
元にはきっと戻れないだろう。それは覚悟している。
じきに退院だ。藩国からある仕事にと薦められているが、その厚意を受けるかどうかも迷っている。
雨も降れば、干からびもする。
体のダメージや義腕移植手術のリハビリはほとんど終わっているが、心まではそうはいかない。
「どう、しようかな――――――」
呟いて、また、林檎を齧る。
兎型の林檎を見つめていると、ふと、同じように果物を動物になぞらえて切ってくれた母親の、自分をあやす子守唄が頭をよぎった。
今では顔もよく覚えていない母親。
ある日突然父の元を去ったという。
彼女は今、どうしているのだろうか――――――――
ガラス越しに見上げた空は、怪しく曇り始めていた。

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最終更新:2008年05月27日 22:57