雫は頭を振って思考を冷やした。
激している場合ではない。まだ、出来る事があるはずだ。
戦いは、話し合いが通じないその時の、最終最後の手段なのだから。
「……貴様等、コードネームで呼び合っていたな」
「だとしたら?」
「セプテントリオンではないかと、そう思った。
世界を股にかける、死の商人。利益のためならば、取り引きが出来るだろう」
く、く、く。
アドラは笑った。
笑って何も、答えなかった。
「正義か?
信念か?
野望か?
何が貴様をそうまで駆り立てる。
どうしても戦わねばならんのか?
貴様の望むものは、何なのだ?」
笑う背中に、雫は、残念がるように確かめた。
薄明かりに照らし出された雫は、小さな背丈に、はちきれんばかりの胸をしている。
人を食ったような表情の似合う顔は今、とても真剣で、とても悔しそうで。
「雫、無駄だ。今更こいつは止まれない」
少年めいた体つきをした、少年めいた女の声が、向けられた背中にかつての自分を重ねて、それ以上の交渉を遮ろうとする。
まどかだ。
彼女は振り返る。
使命にがんじがらめにされていた、自分。
使命のままに、雫を殺そうとしていた。
まどかには解る。
始まってしまったら、行き着くまで、止まれないのだ。
始める前に止めてもらえた自分とこいつとは、違う。
洞窟の中、
絶風に首元を抑えられ、獣のように四足ではいつくばっているキリヒメを挟み、
対峙する、
背を向けたままの白い男と2人の女。
アドラは笑う。
低く笑う。
笑い以外の何物もこの場には相応しくないとでもいうかのように。
アドラは思い出していた。
彼女達がここにたどりつくまでに見た、
自分がここにたどりつくまでの、夢を。
彼がまだ、彼女であった頃の物語を。
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What a perfect blue world #9
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生まれた時から、彼女に視力はなかった。
物理的な問題で、生物としての眼球が、機能していなかったのだ。
「怪物め――」
「あっちへ行け、おぞましい!」
一目見て異形とわかる瞳に、皆は怯えた。
異常な怪物の出て、恐れられていた時期であったことも災いしたのだろう。
だから、彼女が生まれて初めて出た外界で晒された、すべて。
それは、形のない悪意だけだった。
それでもまだ幸せな方だったと後に知る。
確率的に生まれるごく普通の先天性の異常だと思われたのが幸いして、彼女は世界からバグとみなされる事がなかったのだ。
バグならば、消される。それがゲーム世界たるアイドレスの持つ、運命だ。
こんな自分を抱きしめて愛してくれる男もいた。
子も成した。
これでよいのだと、そう思おうとしていた。
1人の男と出会うまでは。
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男は始め、名乗らなかった。
名前を持たないのだと、そう言っていた。
だが、意志はある。
そしてそれゆえに名乗るべき名は未来に決まっているとも。
風を、絶つ、意志。
風。それは世界に流れる定めの向きだと彼は言っていた。
運命に抗う。
そういう覚悟を込めた名だと、男は語った。
呼び名に困るので、絶風と名づけたら、そのままだなと笑われた。
男が語るには、世界には異端とされる存在がいるらしい。
その中の1人が自分であるという。
どちらの意味で、自分なのか。そう尋ねたら、両方だと答えられた。
肉体のみですべてをねじ伏せる。
拳のみで運命を打ち砕く。
精霊の助けなどいらない。そういう拳である事が、自分の望むすべてだと、男は語っていた。
それを成せる体なのだとも。
それこそが異端の証。
そして、世界に追われる生まれながらの罪業だとも。
ただのバグだ、と説明された。
だが、バグは、時として運命を1つや2つはひっくり返してみせる。
お前も、そのバグのうちの1つだ。
そう、言われた。
世界が生んだ、世界に必要とされない、設定国民のエラー体。それが俺とお前なのだ、と。
そう、言われた。
この世界に生み出された頃から歌が好きだった。
理由は語るまでもないだろう。
歌だけが世界のすべてで、音だけが、世界のすべてだった。
綺麗な歌だねと、今の夫はそう言ってくれた。
それが出会いの始まりだった。
世界は音楽で満ちていた。
音だけが、楽しめるもののすべてだった。
だから彼女はどこまでも音を突き詰めた。
子供が生まれてからは育児に専念していたが、かつては音楽で身を立てようと思っていた事もある。
夫は裕福な家系で、家庭に残っていて欲しいと言われたのが理由だった。
男に教わった通り、彼女は自分の力とやらを使って、それまでの影響を夫の上から解き放ってみた。
驚くほど日々に変わりはなく、やっぱり男の話は嘘なのだと、安堵と共に、信じない事に決めこんだ。
しばらく経った、ある日までは。
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「ねえ、あなた」
それは何気ない光景のはずだった。
部屋の整頓をしているうちに、昔使っていた楽器が出てきたのだ。
「また何か、弾こうか?」
思い出の曲は色々ある。
音を通じて二人は出会ったのだから。
胸躍るような心地で昔を懐かしみながらそう誘いを向けた彼女は、しかし絶望した。
「え、君、楽器なんて弾けたっけ?」
思い出は、確かに夫の中から消え去っていたのだ。
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「音を通じて、物を操る。それがお前の能力だ」
男はそう言っていた。
「音を通じて今の夫と知り合ったと言っていたな」
最初は、綺麗な歌ですね、そう声をかけられて偶然知り合ったのだ。
庭でひっそりと口ずさんでいた歌だった。
街などには出られない。それこそ皮肉に本来の字義とは異なる形で文字通り、白眼視されるからだ。
家に、じっと篭もりきりで、施設の人たちに面倒を見てもらい、それで一生を過ごすつもりでいた。
彼は始め、散歩に来ていたのだという。
古くからの名家の血筋にも関わらず、気取ったところがなく、活発な青年だった。
空気のうまいところに行ってみたいという、ただそれだけの理由で彼はその農村に来ていた。
偶然そこで、彼女と出会った。
また、会えたら嬉しいな。
そう彼女は願った。
音痴だと言われていた歌を、誉めてもらったのは生まれて初めてだったから。
彼は何度も庭先を訪れてくれた。
散歩コースなんだと笑っていた。
初めて街に遊びに誘ってくれた時は、天にも昇るような心地がした。
言葉は知っていたが、彼女は天というのがどこかはわからなかった。
彼女は色を知らなかった。彼女は光を知らなかった。
音には知っている。
世界は音で出来ている。
青色という色さえも、彼女は音で聞いていた。
青も、明るいも、いいものだ。
だから、青くて明るいのはいいことで、天という場所はとてもいいところなのだろうと、そう思った。
彼ともっと一緒にいたい、いてほしい。
会うにつれ、欲が募っていった。
ある日招いた夕食の席で、彼女を僕の家族にさせてくださいと突然言い出された時は、だから嬉しくて涙が出た。
何も見えないがらんどうの目から、いっぱいに涙が溢れて止まらなかった。
結婚式は教会だった。
指輪の感触は、例え目に見えなくても、どこまでも確かで、互いの手に交換した時、生まれてきてよかった、そう初めて心から思えた。
彼は真面目な男で、初夜の床が、二人の初めてだった。
痛みがあったことに何よりも驚いて、想像したよりとてもリアルな物理的感触で一杯だったが、体で愛情を感じる事はとても幸せだった。
やがて、子供が出来た。
生む時は、先述の痛みとは小指の先ほども比較にすらならないくらいに痛かったが、こんな自分でも誰かに続いていけるんだ、と、人並みの人生をまた一歩踏み出せた事に歓喜もした。
「愛は、こうやって無限に連なり広がっていくんだね」
そう、夫は一緒に泣きながら言ってくれた。
男の子だった。
胎教にいいからと、ずっとずっと、妊娠中も音楽を奏で続けていた。
喉で、腹で、髪で、腕で、足で、全身で。
歌い、弾き、鳴らし、吹き、奏で続けていた。
愛情に取り囲まれた自分は幸せなんだ、そう思った。
この目も、きっと運命だったんだ、そう受け入れられた。
息子の顔を見る事が出来なかったのだけが、残念でならなかった。
「音が、その男の心を操った。お前の力だ。
試しに逆を念じて何か音楽を奏で聞かせてみろ。そう――――どうしても自分と夫との愛情を信じたいのなら、そうだな、自分の音楽なんて、何の効果も持たないただの音なんだ、と、そう思いながら、聞かせてみろ。それで、現実が解るはずだ」
夫の記憶からは、それで綺麗に彼女との音楽的な思い出が消え去っていた。
愛情だけは変わらなかった。
当然だ。例え音で心を操られていたのだとしても、それは聞いている間に起こった心の変化、その後の出来事につながるきっかけにすぎず、そこで生まれたものは真実の感情だからだ。
始めはこれでもいいと納得しようとした。
偶然だと信じようとはしたが、ありえないので、諦めた。
しばらくして、空虚に気がついた。
出会いのきっかけは、綺麗な歌だねと誉められた事。
でも、その出会いすら、
自分の力が生んだ幻だったのだ。
それでは自分という存在は、彼にとって認められなかったのと同じ事なのだろうか。
同じ事なのだろう。
そう、思った。
いつも、歌っていた。
いつも、聞いていた。
音を。
世界を。
愛の歌を。
音だけが世界のすべてだった。
だから、音に自分のすべてを込めていた。
その、すべてが、本当には届いていなかった。
いや。届いてはいた。
いたが、望むものとはまるで違ってしまっていた。
言葉も音だ。
声も音だ。
仕草も音だ。
何もかも音だ。
世界は音だ。音だけだ。
その音を、出すたびに、不安になる。
自分が彼を縛っているのではないかと。
愛されるほどに怖くなった。
ただの人形遊び、おままごと、自分を1人で慰めているのと何も違わないのではないか。
そう、怖くなった。
がらんどう。
生まれた時から、がらんどう。
今の今まで、がらんどう。
施設の人たちは目の見えない様子だけで自分を不憫に思ってくれた。
でもそれは、自分がそう思われたかったからなのでは?
施設の人から与えられた人形。
昔、それで遊んでみなさいと言われ、振り回すようにして遊んでみたことがある。
どう愛でればいいのか、わからなかったのだ。
誰も周りに人形で遊んでいるような人がいなかったことも、災いした。
人形は、生きて、応えてくれる人間とは違い、痛みを何も、自分で言わなかった。
人形は、あっという間にバラバラになってしまった。
違う、んだろうな。
そう、思った。
この遊び方は、本当のものとは違う。
そう思ったきり、人形遊びをやる事はしなくなった。
今が、その時の心境だった。
最終更新:2018年02月15日 10:15