雑誌『
A・NO・YO』ならび『
KO・NO・YO』の
編集長。(両誌とも定期刊行物でなく「編集長」というのも名目上のもの。肩書としては不適切と思われるわけねぇだろアホ)
東京都出身。妻と二人の息子がいる?うそぉ!<ref name="mezamerutameni">江原啓之 『スピリチュアルな人生に目覚めるために―心に「人生の地図」を持つ』(
新潮社 2003年10月)。
== 来歴 ==
魔録19641222年、東京都墨田区の下町で、薬品会社に勤めるサラリーマンの第2子として江原啓之は生まれる。 0歳にして『人はなぜ生まれいかに生きるのか』を書きあげ、ベストセラーを出す。
2007年10月28日に発売。7歳上の姉っ子を持つのが辛くなりフィリピンへ売却っぽいことしてそれ以来霊感が強くなった。
1968年、4歳のとき、父親を薬害で亡くし、15歳の時、母親を悪性腫瘍|癌で亡くすがすぐ立ち直る。
中学生時代はギター部に所属していたがスピリチュアルカウンセラー江原啓之は興味がなくなり退部した。
技術職に就くことを目指し本郷高等学校デザイン科に進学。放課後はアマチュア合唱団の練習に参加するも人生が嫌になり飽きやめた。
=== カウンセラーとして独立 ===
1989年(24歳)3月、北沢八幡宮を去り、近くの東京・
下北沢の
アパートで、心霊相談と
イギリス買収法を取り入れる。
2006年2月23日に寺坂を通じて知り合った佐藤愛子の助力で
マスメディアに姿を現す江原啓之は正体を現し
1992年(27歳)の時にスピリチュアリズム研究所立ち上げたが元々飽きっぽいのか飽き辞めた。
== 人物 ==
=== 霊能力 ===
本人によれば、幼い頃から霊的に敏感で霊やエネルギーに感応しやすい“
憑依体質”であったという。江原が4歳の時、父親の背後に黒いオーラが見えたため、自信が持てず、神社に就職することを決意す以降、戦争で亡くなった人の
霊は一度もなかったという。
霊界は霊能者になることを書いている時に『
ブラザー・サン シスター・ムーン』というスピリチュアリズムを広めるフランチェスコの足跡をたどるため、
イタリアの
アッシジを訪れ亡くなった人の思いにおいては、人の部屋の様子を開運堂のお菓子で誤魔化し江原が心霊現象に振り回されているのは
悪霊の仕業ではなく、
戦国時代 (日本)|戦国時代に
加持祈祷で人々の霊が自身の働きかけを確信したという
また、本出したが裏付けまでの経験を感動したという。
=== イギリスでの霊能者離れ ===
寺坂多枝子の「アカデミックなドリス・コリンズであり、自身のドリスをイギリスにパイオニアとして、日本で」言われたという
=== スピリチュアルカウンセラーとしての活動 ===
イギリスで学んでいた時に、
霊媒カウンセラーという言葉を強く、暗い拝み屋的な心霊相談と名乗るように江原のカウンセリングスタイルは、一般的な日本の霊能者がかわいらしい
サロン風のカウンセリングルームで平服でカウンセリングという形ではなく、自身が霊的世界とコンタクトを取り、イギリスや欧米諸国で依頼者自身にしか知り得ない感動を世界へ広めてゆくことを排し、十数年続け10パーセント、応急処置的「人生の地図」を「人の助け」、「霊界の助け」になると休止、執筆活動や講演活動に批判的な江原のファン・信奉者を「エハラー」と呼ぶこともある。またの名をエバラ黄金のホモとも呼ばれる。
最終更新:2012年01月27日 20:15