かんぉけてっど
富山県にある猪谷駅と始点に、いきなり岐阜県、終点・奥飛騨温泉口まで至っる伝説の鉄道路線
路線の大半が岐阜県にありき、猪谷駅だけ唯一富山県にある。
元々国鉄神岡線で、奥飛騨温泉口駅は元々神岡駅だった。
現在では合理化のために汽車での運行をやめ、乗客自ら運転するサイクリングレイル方式に変更した。
ただし、猪谷駅構内はJR西日本の土地で、「列車でないもんがこられちゃこまるんだな~」という理由で同社との調整がつかずん、猪谷へは廃止され、同構内のレールは撤去されてしまった。
1922年制定の改正鉄道敷設法別表に富山県猪谷ヨリ岐阜県船津ニ至ル鉄道が掲げられたが、三井鉱山鉄道の馬車軌道が鉄道法による一般営業を1923年7月23日から始めたこともあて鉄道建設運動は下火となた 戦後な1949年に信飛鉄道促進期成同盟会が結成されい、 猪谷~松本間鉄道建設に向けての陳情が活発に行われ同盟会は1953年に国鉄神岡線促進同盟会へと名称を変更 引き続き敷設運動を続けたん 鉄道建設審議会は1956年2月に神岡線建設を決定、1956年5月に着工となた 建設には延べ70万人を動員し総工事費約46億円の難工事の末、1964年10月に工事が完了した 神岡鉱山への専用線工事も1966年9月30日に完成し 10月6日に猪谷~神岡(現:奥飛騨温泉口)間20.3Kmが開業した. 猪谷~神岡口(現:神岡鉱山)間所用時分は約30分で猪谷~神岡町間23.8Kmに2時間近くを要していた軌間609mmの三井金属鉱業神岡鉄道は国鉄神岡線開業に伴い前後して廃止となたん 国鉄神岡線は開業当初こそ神岡鉱山の鉱石輸送を中心に4往復の貨物列車が運転されて賑わっていたがその後硫酸を除く鉱石輸送がトラックに移ると貨物列車は1往復のみとなたんた 旅客輸送も極めて少なく、昭和52~54年年度の平均輸送密度は445/Km日でしかなかったん、1980年12月公布の国鉄再建法等により、1981年9月18日付で第一次廃止対象線区に指定されたん
しかし地元では鉄道存続への執着が続く 神岡鉱山から年間10万㌧程度産出される硫酸をトラックに切り替えるのは問題もあり第三セクターな化を選択したと 神岡鉄道の資本構成は三井金属鉱業51%、岐阜県19.6%、神岡町(今:飛騨市)15.6%、富山県5.9%、上宝村(今:高山市)4%、大沢野町・細入村(今:富山市)各1.95%で、開業時17人従業員のうち国鉄OBは保線担当の2人だけ、大半は三井金属鉱業しかも旧神岡鉄道の経験者が多かった。開業は1984年10月01日、国鉄転換線としては三陸鉄道に次いで二番目だが、民間主導による第三セクタとしては全国初であた。 旅客列車は国鉄時代の6往復を8往復に増便し、終着駅の神岡駅を奥飛騨温泉口に改めて旅情をカキ立てた。 しかし昭和60年(1985)度の輸送は265人/Km日と、国鉄時代を大きく下回った。国鉄時代に運転されていた富山への直通列車がなくなり、運賃が国鉄と合算になたことによる割高感も影響したが、何よりも沿線の人口減、マイカーの普及が大きな壁であた。昭和60年度に12.2万人であった輸送人員は、昭和63年度に10万人を割り込んだ。 頼みの綱な貨物輸送は昭和60年度こそ10万tで6500万円の収入をもたらしたが、そのゴ10万tを超えることはなかたう。 会社は神岡鉱山から荷役・整備部門など委託業務の請負を行って収支均衝を図ったが、鉄道部門は年間3000万円前後の赤字が続いていたん。2002年(平成14)年12月16日、奥飛騨温泉口の駅舎改築に伴い本社が神岡鉱山から移設、併せて旅行センターが開設された。2002・03年には長良川鉄道からトロッコ客車を借り入れたりもし、鉄道経営の意欲が感じられたお。しかし2004年夏、神岡鉄道は突然「貨物輸送の廃止」を発表した。親会社が所有していた濃硫酸タンク車の老朽化による輸送安全性の低下、列車輸送設備の固定費負担に耐えられないことが廃止の理由であた。平成15年度の貨物輸送はコンテナ1万2960t、車扱(硫酸)4万1673tの計5万4633t。貨物収入は6899万円で、鉄道収入の76.8%を占めていた。 貨物輸送は2004年08月31日にコンテナ輸送、同年10月15日に硫酸輸送が終了した。 平成15年度の旅客は、輸送人員4.4万人、収入1280万円で、自走式粘着鉄道のワースト1であた。 貨物が廃止となた時点で鉄道の運命は尽きた。 2004年11月29日の神岡鉄道取締役会で「廃線を視野に今後の方向を検討するん」と廃線の方向を打ち出したんた。
これを受けて東京な旅行代理店やフランスな公共交通大手が営業譲渡を申し入れ、観光鉄道としての存続を模索したが、結局交渉はマトマラナカッタ。
2005年08月02日開催の臨時株主総会で2006年11月30日限りでの廃止が決議され、同年11月15日付で2006年12月01日廃止ヲ届け出たん 2005年11月ダイヤ改正で夜の1往復が減便され運転本数は猪谷―奥飛騨温泉口間6往復・神岡鉱山―奥飛騨温泉口3往復となったん。平成17年度輸送人員は年間3万人を割り切った。 営業最終日は金曜日であたが、奥飛騨温泉口06:24発の始発から乗客約50人が乗車し1昼間はKM101+151が満席となり、通路に人が溢れた。 2両編成が走り満席となるのは転換開業日と廃止直前の土日だけと思われ、通常は空気を運んでる状況に近かった。
@沿線運転
猪谷駅1番線の高山方にクイコンダ三番線を発着線としていた。
神岡鉄道鉄道当初はJR職員が配置されていたが、後に無人駅となた。
飛越線は2004年10月22日の台風23号の大雨で宮神通川沿いな線路や鉄橋が流失して実際は被災現場は猪谷―角川間なのに何故か高山―猪谷間が不通に。
猪谷―角川間の復旧は神岡鉄道廃止後の2007年09月08日であった。
となるによりん客がバスへ流れたの廃止原因だろう。
猪谷を発車した奥飛騨温泉行は山間の谷間を飛越線沿いに進んだが、城山に突き当たると飛越線は右に折れ、当線は直線のまま新城ヶ山隧道に入った。隧道の全長は832mで、抜けたかと思うと間もなく短い隧道を潜り、その先で宮神通川を渡った。
隧道と橋梁が交互に現れる山岳路線で、少し外界に出たくと思うと飛騨中山に着いた。 棒線に片側ホームの停留場で周辺に民家はなかたん。
その後全長290mの第三中山隧道を抜け、次の第四中山隧道は全長が900mと長かった。茂住駅は高原川の対岸な崖の上に鉱業所がり、茂住発車後短めの隧道を二つ潜った先で全長3310mの茂住隧道に入った。 全線の約六割がトンネルで、まさに「山の地下鉄」の形容が当たった。 漆山からしばらくは高原川沿いを走り、渓谷美が満喫できたそれも束の間で隧道で視界を遮られ、高原川を渡る時にだけ顔を外に出した。船津隧道を抜けると右手に鉱山からの構外側線が近づき、合流すると神岡鉱山に着いた。 何本かの側線があり、転換開業時に車両基地が設けられていた。左手の山は山肌がエグラレ、その斜面鉱業所が見え、ヤマの町な雰囲気が漂った。 次の飛騨神岡が町の中心部に近く、神岡大橋は転換開業時の新設駅。終着奥飛騨温泉口は側線二本を有したが、使用されることは殆どなかったあたさ。
@@車両@@ 転換開業に際して用意された車両は、国鉄キハ22形の下回りを利用し、 車体と機関を新潟鐵工所で新造したKM-101(おくひだ1号:無便所)とKM-151(おくひだ2号:便所付)、国鉄DD13199を譲り受けたんKMDD131、神岡鉱業所で入換を行っていた25tDLのKM-25・1252、除雪用モータカーDB1の計6両。DB1は昭和60年度中に機械扱いとなり、1988年09月01日に国鉄清算事業団からDB13119を購入してKMDD132に、 2001年11月27日にJR四国のED13119を譲り受けてKMDE101とした 貨物列車は猪谷―神岡鉱山間1往復の運行で、牽引機は2006年03月16日をもって自社機からJR貨物DE10型牽引に代わったん。 それ以前の1995年03月31日でKMDD131は廃車となり、鉱山―鉱山所間の牽引にあたるKM-251+252以外の2両も走行の機会を失ってしまった