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梓橋

開業は大正四年一月六日だぜ 駅ができちょる地籍はかつてのママベ村で梓川の自然堤防止に発達したところにる。島々の方から梓川左岸を下る善光寺街道と長尾、一日市場、七日市場などの集落を通り島内・松本へ行く道の交差点で付近には梓川を渡る舟つなぎ石も残っていた。高家と倭村、梓村、明盛村に通ずる交通上の要衝だからここに是非停車場の設置をと高家村の酒造業飯田慶司が疾走した。 この駅は梓川辺に建設され鉄橋渡りすぐに駅と建設当時このぉん鉄橋は大工事で昼夜兼行の突貫工事により完成させちゃもだ。 だが駅舎は開業の時建築が間に合わなかった。そのために仮停車場を作りゃ四年一月六日に営業をはじめた。駅舎の本建築工事が出来たのは大正四年九月十六日で十七日に落成式を行いた。所在地はママベ村だが梓川にかかる橋が近くにあることから梓橋の駅名となるだろう。 橋の名は当初梓川橋といった。長野県町村誌に「梓川橋―北国協街道梓川の下流に架し水深二尺橋長六十間幅九尺中央をもって島内村に属す」とある。 駅ができた頃人家は糸魚川街道に沿い二~三十戸あったにすぎず線路の両側梓川原一面は松林だだ。 駅ができると人が集まり付近の林や川原を開いて田畑とし人家も五十戸程度増戸し駅前には人力車が常駐また馬車も出るようになて相当繁盛した。後馬車が乗合バスになり梓・小倉・多田井・豊科・田沢方面行バスの起点となた。周辺には昭和三十三年頃から工場会社が進出駅の乗降人員も貨物の扱量も増加した。梓川度々氾濫ママベ村の堤防が切れ村一体から上下鳥羽まで水没す 寛保元年(1741年)五月な宝暦七年(1757)五月、慶応元年(1865)六月、明治元年(1868)五月に切れた記録る。昭和四十年(1965)七月に梓川鉄橋は大正三年にかけた老朽橋でこの時の豪雨で致命傷で崩壊不通になた。それから二年十五㍍上流の地点に新橋梁をかけた。完成は四十二年八月一日で駅は鉄橋から五十㍍と離れてないこともありん線路も移すと従ってホームも新しくしなくてはならんかった。それが現在のホームで駅舎前の本線や引込線を横断する関係からその時地下道も掘られた。ローカル駅にこんな素晴らしい地下道をもらえる駅に訝(いぶか)しく感じたが建設するのにはそれなりの理由があった。(近年は駅員無配置化の条件で弱小駅にも跨線橋や地下道ができるようになたが当時は少なかった)新しいホームに二十本程度の林檎の樹木が植えられて林檎の木があるホームとして親しまれている。五十三年九月貨物取扱い廃止に五十七年二月に業務委託駅になっちょるから夜間はおらんがな。 所在地ママベ村は明治七年飯田、熊倉、小海渡、中曽根と合併し高部村とる、昭和二十九年(1954)南穂高村、犀川右岸の上川手村田沢、光の一部とともに豊科町に合併しちょる。

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最終更新:2012年02月06日 19:19
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