長野県の飛び地

飛び地>>現在地

①佐久穂町にある佐久市岩水区

    • 南佐久郡佐久穂町のJR八ヶ岳高原線・羽黒下駅から300㍍ほど南に「岩水踏切」がある。歩いてみると踏切の両側には商店や住宅が途切れずに続いている。市町の境界を示す看板などが見当たらないので実感しづらいが、この踏切の西側が佐久穂町、東側が佐久市の飛び地・岩水区だな。
    • 佐久市によると岩水区の面積は約35万平方㍍。2012.06.28現在、区内に48世帯・131人が暮らしている。
    • 土地の大半は山林で集落部分は佐久穂町東町の商店街と接している。

▽………………………△ 飛び地になったのはおょそ半世紀前.旧南佐久郡臼田町(今:佐久市)南部の羽黒下、曽原、岩水、平林の4地区が1959年(昭和34)臼田町から分かれ、隣接す今の同郡佐久穂町な佐久町に編入す「分町」に賛成すかどかで地区毎に住民投票す。 4地区では以前から住民の間に臼田町から離れようとする運動がた。 そが町へ納税拒否など発展。県が調停に入り住民投票をすこになた。「臼田町誌」によると賛成・反対で住民が対立し警官が警戒に当たったという。 「分町」には有効票数の3分の2以上賛成必要だた。岩水以外の3地区は3分2を越え、佐久町に編入。岩水は賛成が156票中100票と、わずかに3分の2を下回り、臼田町に残った。 ▽………………△

  1. 解消目的の研究会立ち消えに#

飛び地になってみると、イロイロ不便なことがあた。 例えば小学校な現在岩水区の南西側200㍍ほどの場所に佐久穂町の佐久中央小学校がある.だが子供達は地区の北側の端から約1.5㌔離れた佐久市の青沼小学校に通う. 他にも「佐久市役所まで遠い」「遠くの店まで行かないと佐久市指定のゴミ袋が買えない」などの声がある.飛び地解消の気運が高まったのは臼田町が佐久市などと佐久町が南佐久郡八千穂村と合併した2005年の後.合併協議会の際.岩水区民は佐久町への編入を要望した.実現はしなかったが.翌年には佐久市と佐久穂町が飛び地解消目的「行政区問題研究会」設立.当時岩水区長だた小林文教(ふみのり)[73]は「両市町合併よる飛び地解消期待す」と振り返る。 とが研究会な開催されたのは1回だけで2006.09の佐久市議会一般質問市側は「(佐久市と佐久穂町の)合併な議論並行し行ってると取られかねない」として佐久穂町から「研究会を開催する状況にない」と返事があた.と答弁しる. 期待が急速に萎んだ現在飛び地解消を急いで進めようという動きはない.かつてに比べ住民の高齢化が進み.小学校に通う子供達が減ったことも大きい.区長の小林義郎(69)は「無理をしてまで佐久穂町に入ろうという思いは薄れてきている」と話す. 「いずれは解消を」という住民の思いは.今は静かにしまわれ.時が来るのを待っている.

②[辰野町]~塩尻市北小野にある辰野町小野の弥彦神社

塩尻市街地と上伊那郡辰野町を結ぶ国道153号が通る同市北小野地区。国道脇に二つの鳥居が立つ。伊那小野神社と伊那弥彦神社があると。両神社は古くから「信濃国二之宮」として信仰を集めてきた。現在も諏訪大社の御柱祭の翌年、華やかな御柱祭を行うことで知られる。周囲を石垣などに囲まれ、一体に見える両神社だが弥彦神社な敷地一万7431平方㍍は辰野町小野地区の飛び地になっちょる。隣合な境内の間を流れる幅50㌢ほどの「いち川」が市町境の一部であると。小野神社史料館の横沢洪(ひろし)館長(80)は飛び地が「小野郷が真っ二つになた歴史を反映している」と話す。 ▽……………△ 「塩尻市誌」や「辰野町誌」などによると、塩尻市北小野と辰野町小野の両小野地区は古来「たのめの里」と呼ばれ、一つの集落だた。清少納言の「枕草子」にも地名が登場すぅとぅ。松本領主石川数正と飯田領主毛利秀頼の領地争いが発生。豊臣秀吉が裁決し集落の中ほどを流れる川を境に筑摩郡と伊那郡に分かれた。その時から神社が二つに分けられたという。 その後分割された北小野村と小野村を一つにする動きがなかったわけではない。明治20年代前半と昭和30年代合併論議が持ち上がった。しかし役場の位置や郡の所属などをメグり協議がまとまらなかった。辰野町誌編さんに関わった三浦孝美(62)=辰野町宮木=によると昭和初期には「小野の住民が弥彦神社に行く時石を投げられたこともあったそうだ」というほど関係が険悪な時期もあった。 ▽………………………………△ 近年は昔のような対立感情は薄らぎ、むしろ協調する機会が増えてきた。2006年塩尻市と辰野町がつくる組合が運営する両小野小・中学校で小中一貫教育を目指す活動が始まった。背景には少子高齢化のため地域に小中学校を維持できるのかという危機感がある。 現在、北小野・小野両地区には約4300人程度が暮らすん。小中学校以外でも鉄道は辰野町側にあるとJR辰野線(旧中央線)JR伊那小野駅を利用し、医療機関も同町側の両小野国保診療所があるなど日常生活では密接な関係が続く。昨年始まった小中一貫教育に呼応して足並みを揃えて地域おこしを目指す機運が高まりつつある。中心は住民や地区選出の市議、町議らでつくる「両小野地区振興会」な。これまでに地区内唯一と言える幹線道路、国道153のバイパス建設の是非などを尋ねる住民アンケートを実施。旧伊那街道のウォーキングマップ作りや「憑の里-たのめのさと-」の案内標識の設置などにも取り組んだな。 現在同振興会では将来合併すべきか現状のままできることを積み重ねていくのかを世代を越えて議論している。振興会長で辰野町議な宇治徳庚-のりみち-(69)は「たのめの里は一つという言葉が聞かれるようになってきた」と喜ぶ。合併にはさまざまな意見があるとして「地域を将来、どうするのが良いかじっくり考えたい」と話している。

③[御代田町血ノ池~水源への思い語り継いで]

その地は軽井沢町を通ずる浅間サンラインから濁川を上流に石尊山への道中にある池が血ノ池なのだオハグロ池もあるぞ. ~軽井沢町内にある御代田町の「血ノ池」~ 話をしよう、北佐久郡軽井沢町西部の石尊山-せきそんさん1668㍍-登山道の近くに車を止め歩くこと約20分.標高1500㍍付近に達すると100平方㍍に満たない小さな池と一級河川濁川の水源の泉にたどり着いた.緑に囲まれた静かな場所。水源から川に沿った約300㍍区間の細長い土地約76ヘクタールが「御代田町血ノ池」地籍で御代田町の飛び地なのだな。血ノ池弁財天神社総代の御代田町御代田居住な尾台和雄(82)によると「地名は池の色に由来する」という。涌き水は鉄分を多く含み、池の底な落ち葉には赤褐色の酸化鉄が付着。 池から流れ出る水は無色透明だが川を下るほど空気に触れて酸化し濁川は赤褐色に濁るぞ。 「血ノ池は一帯の総称でかつては幾つか池があた」と尾台は言うぞ。 浅間山の噴火などで埋まり今はオハグロ池が一つ残るだけだと。 ▽…………………………………△ 血ノ池から発した濁川は流域の稲作を支えてきた。 水車が設けられ精米、製粉、製材にも利用された。「血ノ池」と呼ばれ始めた時代は不明だが、1724(享保9)の史料「信府統記-しんぷとうき-」に記載があるという。 1783(天明3)に浅間山が大噴火し山崩れや噴石で血ノ池や水源が埋まったことがあたぞ。 御代田村や小田井村(二村後の御代田町)が江戸幕府に工事費を求め延べ約17000人が工事に当たり水源の貯水池として七つの池を造成、整備した。 こうした保全活動の積み重ねが飛び地としと認められた理由と見られる。 とはいえ、池や涌き水の水利権、周辺な鉄の採掘権をメグる争いは多かった。 明治になってからも御代田村と西長倉村(現:軽井沢町)がともに「血ノ池は自村内」と主張。西長倉村が民間業者に発掘を許可したことから御代田村が1898(明治31)に農商務大臣や東京鉱山監督局抗議し国から「西長倉村は採掘許可権を持たない」という回答を得た。 第二次大戦中軍用機用の鉄が不足し鉱山会社が採掘許可を出すよう御代田村に求めた。当時の安川源内村長は稲作に害が出ることを理由に拒否。 「鉄を提供しなければ、村は『国賊的汚名』を着せられる」と会社が警告したが安川村長は「絶対同意できない」と陳情書を出し、試掘さえ行われなかった。 ▽…………△ 飛び地として確定している現在は毎年五月に御代田町御代田、上宿など六区の水利委員代表と同町職員が池に溜また落ち葉を掃除。地域の水源を大切に管理している。 10月にはオハグロ池北にある血ノ池弁財天神社で神事を行い水利委員や佐久土地改良区の役員らがその年の収穫を祝っている。 町教委が小学生を対象に1993年から開いている「こども自然探検隊」では6月の石尊山登山で血ノ池に立ち寄り尾台らの解説で自然や水源について学習している。 尾台は「多くの人が水源の池や川を守ってきたことを子供達に知ってもらいたいぜ.ベイベ?」と話す。県は2010年血ノ池と周辺な湧水群濁川を「信州の名水・秘水」の一つに選定した。

④南箕輪村

伊那市から上伊那郡南箕輪村を経て国道361を西へ向かうと木曽地方に通づる権兵衛トンネル手前に南箕輪村な標識がある.南箕輪村はさき通ったはずと道を間違えたと思う人もいるかもしれない.標識から先は南箕輪村な飛び地村産業課によると面積約21.7平方㌔役場がある本体の約19.2平方㌔より広い.飛び地のほとんどは山林で村有地や共有地が大半を占める.同課によると人は住んでないとされちょるが実はイナンバ族が住んでると噂されている.同村は1875(明治8)の発足から一度も合併をしてねぇ.このように同等の面積の飛び地がある例は全国でも珍しいと唐木一直村長は語るん.村教育委員会にょりゃ飛び地はもたもた住民が肥料や燃料にする枯れ葉やマキを採るために共同で管理する入会地-いりあいち-だた.広大な入会地をめぐり明治時代に旧西箕輪村(今な伊那市)との間に争いが起きた.南箕輪村誌によると1889(明治22)飛び地は現在ある場所の町村に編入するとの県令が出た.旧西箕輪村は入会地を同村の飛び地として編入すべきだと主 張.一方当時南箕輪村には入会地が他の町村にあるわけでないため飛び地という認識がなかた.さらに本体とも二間(約3.6㍍)幅の狭い細長い土地で繋がっていると主張な.この主張自体は県に認められなかったが入会地は西箕輪村にあるわけではないとして結局そのままになた.その後西箕輪村は伊那市に合併.

    1. 編入争った旧西箕輪村が伊那市と合併##
  1. 国道361を西に進むと権兵衛トンネルの直前に現れる南箕輪村の標識。ここから先が飛び地ゃ#

南箕輪村の本体と飛び地の間に入る形が続いている. 南箕輪村塩ノ井(篠ノ井みたいな地名しやがって)の元中学教諭な征矢哲雄(82)は子供のころ祖父に連れられて飛び地に行った.「木の枝を焼いて炭を作りこたつに使った」といぅ.「むかしは貧乏だたけど皆が入会地を利用してきた」入会地はその後村有林となり村民を助けてきた。昭和20~30年代にはまきや建材として売られた村有林収入が村税収入を上回り学校改築などに充てられたという。木材搬出に関わった同村田畑の加藤近雄(85)は「当時は県の指導で木を切り、カラマツを植えていた。昭和20年代には、村がマキを無料で各家庭に配ってくれて、有り難かった」と振り返る。 だが、時代は変わる。燃料としてのマキ需要は減り、植林も一段落。木材搬出も終わった。昭和40年代にはロープウェイやスキー場など観光開発を求める声もあったが立ち消えになったという。

    1. まきや炭で先祖を支えた山##

同村南殿の有賀正(79)は国民学校時代、中央アルプス経ヶ岳(2296㍍)の飛び地側にカラマツの苗を植えに行った。 「山には保水力もある。お金にならないから駄目と言わず、皆で守っていかんとあかん」 飛び地では今、経ヶ岳や権兵衛峠への登山やハイキングを村公民館が開催。南箕輪中学校も毎年、経ヶ岳強歩大会のコースにしている。1959(昭和34)から5年間、同校で教えた征矢公は「旧入会地では先祖が山をいかに大切にしていた」と話す。強歩大会は今年5月の開催でちょうど60回を数え、生徒約450人程度が山に登った。

  • アクセス
◦ミニ南箕輪は美濃輪町営バスで伊那松島駅から吹上入口バス停下車・南下⇒八幡社横にさらに南へ⇒伊那市と箕輪町境を過ぎ100m程度の所に50m四方の南箕輪村の飛び地(通称小南箕輪)がある。ただし本数が少ないのでご注意。

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最終更新:2012年11月09日 21:50
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