さあて。
長い、長い、昔語りをするかのう…。
昔、昔。…300年は昔の話。
そこに『王国』があった。
『王国』とはいえ、小さな規模じゃ。現代と比べれば、首都ひとつより小さいかもしれん。
緑豊かで、豊富な資源に恵まれた土地。
『王国』に明確な名はなく、ただ、王の統べる国という意味であった。
『王国』は高い壁で囲まれており、獣や他民族の襲撃を阻んでおった。
他民族を受け入れることは、まずありえぬ。
『王国』に住むことそのものが、民のステータスでもあった。
罪を犯せば、当人は処刑され、その一族郎党は『王国』から追放された。
外もそこそこ豊かな土地ゆえに、のたれ死ぬことは少なかったじゃろうがな。
当時、王とは、現代における司祭であった。
『神の声を聞くちからあるもの』が王の資質があるとされ、たとえ血族でも、その能力がなければ王位を継ぐことはできなかった。
実際に、王は神の声を聞いていた。神託を聞き、それに従い統治をしておった。
当時、神は、人のすぐ傍におったのじゃよ。
人々は神を崇めておった。
『王国』に名がないように、神にもまた、名はなかった。
故に、『始原の神』とだけ呼ばれておった。
そして、神には、知恵はあれど、意志や感情、己というものがなかった。
神とは、「膨大なパワーの塊が知恵をつけたもの」にすぎなかったのじゃ。
人間はそれを知ることはなかった。
自らのように、意志があり、感情があり…そう、情けがあると信じて疑っておらなんだ。
神は慈しみ深いと勝手に想像し、想像の産物を崇め敬った。
神託はそこそこ正確じゃったから、自然災害を事前に察知もできたしなあ。
ある日。
すべての始まりの日。
暗黒の第一歩の日。
当時の王に、神から神託が下った。
「 若く 心清らかで 見目美しい 少女を 捧げよ」
王は、口から心臓が飛び出るほどに驚いたそうじゃ。
今まで、神が自ら供物を求めたことはなかった。
というか神が、どうにも感情なき精神であると、一番知っていたのは王じゃ。
民が勝手に供物を捧げるのを受け取り、仰々しく祭壇に祀りはしていたが、真の意味での供物は、この神には無用だと王は理解しておったからな。
神が初めて求めた供物は、人間。
しかも、罪のないうら若き乙女。
王は困り果てた。
『慈悲深き神が、人間を食う』などと民が知ったらどうなる?
信仰も、王の威信も、何もかも壊れてしまうのではないか?
王は怖れた。激しく恐怖した。
自らが、暴動した民に殺されることすら夢に見た。
そして王は、民も神も納得させる方法を思いついた。
かつて、『王国』で罪を犯した男がいた。
その男には、美しい妻と、幼い男女の子どもがいた。
王は、追放はもったいないと、夫の首をはねた後、妻に求婚したほどじゃ。
それを強く断り、美しい妻は子ども達と『王国』を後にした。
なぜなら、夫は冤罪で斬首されたのじゃからな。
美しい妻とその子どもを追放して、はや十数年は過ぎていた。
幼かったあの娘は、母親似の美女となり、神が求めるにふさわしい清い少女に育っているはず。
『王国』からさほど離れておらぬ場所に、母子らが居をかまえておることも、王は知っておった。
国王は国の民に告げた。
「神がお怒りである。
かつて罪を犯した男の血を引く娘が、魔女となって神に牙をむこうとしている。
魔女の名は『メルリース』。
歳は16。金の髪と青い瞳。
この娘を捕らえ、祭壇に引きずりあげよ。
でなければ神は、怒り狂い、我らに災厄という罰を与えるであろう」
少し時間を戻そう。
美しい妻は、名をマリアンヌといった。
彼女は才ある魔術師であった。
魔術を駆使し、どうにか森で小さな小屋を建て、ふたりの子どもと生きていた。
生活は貧しかったが、家族は幸せに満ちていた。
『王国』は他民族を受け入れぬ。
『王国』を遠目に見て、そこで身体を休めようと思った旅人は、皆、門前払いされて途方に暮れておった。
マリアンヌは、そんな者たちを受け入れ、宿を貸し、食事を振る舞った。
金など取る気はなかった彼女じゃが、恩に着た旅人は、彼女ら家族にいろいろな礼の品を差し出した。
マリアンヌは、必ず一度は断るのだが、子ども達が物珍しい品にはしゃぐので、困った顔で受け取るというのが毎回であった。
マリアンヌの子どもは、姉の名がメルリース。弟の名がエティック。
歳がひとつしか違わぬ故か、互いに名前で呼び合うほど仲の良い姉弟であった。
姉に特別な才はなかったが、弟には、母譲りの魔術の素養があった。
エティックは、大きくなるにつれて、家族がいかに理不尽な待遇を受けているかを知り、怒りを覚えるようになった。
魔術師になるとエティックが決めたのは、10才になるかならないかの頃。
母は必死で説得したが、エティックの決意は揺るがなかった。
魔術師として名声を上げれば、また『王国』に戻ることもできるかもしれんと。
事実、マリアンヌは過去、『王国』に使える有能な魔術師だったのじゃ。
母と姉を、自らの才覚で護ろうと、幼子なりに考えたのじゃろう。
弟は、マリアンヌの旧友である魔術師に預けられ、厳しい修行の日々を送り始めた。
年に数回だけ自宅に戻り、母と姉に抱きしめられ、団らんの時間も過ごしておった。
母も姉も、心配で寂しかったが、合う度に強く逞しくなるエティックを応援もしておった。
マリアンヌとメルリースは、家の傍に畑を作り、ほぼ自給自足で生活しておった。
マリアンヌが魔術を使うこともあれど、ほとんどは身体を使っての作業。
鍬を手に、泥だらけになりながら、母娘は野菜が育つたびに喜び合い、笑顔を絶やすことはなかった。
ある日。
猟師が仕掛けたことすら忘れた古い罠に、足が挟まれて動けない狼を、メルリースが見つけた。
森の奥に木の実を取りにいった時のことだった。
狼は激しく威嚇した。
メルリースは、飛んで帰って母に報告した。
マリアンヌは、罠を外して治療しようとしたが、あまりにも威嚇するため近づけなかった。
遠くから治癒の魔法をかけ続けながら、マリアンヌは自分たちの食用肉を狼に分け与えた。
メルリースは狼を心配し、毎日、何度も足を運んで様子を伺い、狼に話しかけた。
マリアンヌは気づいた。
メルリースは、「動物と心を交わし合う力があるのかも知れない」と。
それは本来、魔術師の一部だけが持つ能力。自分もそうであり、エティックもその能力を持っておった。
メルリースは魔術師と言えないまでも、わずかながらに母の才を受け継いでいたのじゃ。
メルリースは、狼の灰色の毛皮を、雪のように綺麗な白だと言った。
メルリースは母にねだった。この子を名前で呼びたい、この子に名前をつけてほしいと。
マリアンヌは、狼に「フリーズフォルト」という名をつけた。
雪のように美しく強いという意味を込めて。
メルリースは毎日狼に語りかけた。
狼は、いつの間にか威嚇をやめ、最初は無視していた餌も、食べるようになった。
マリアンヌが狼の罠を外すことが出来た頃には、狼は、マリアンヌにもメルリースにも、敵意を示すことはなくなっていた。
狼の足の怪我は深く、狼は二度と走れぬ身体になっていた。
狩りが出来ない狼は死ぬしかない。ならば保護しようとマリアンヌは言った。
メルリースは喜んだ。
「お母様、家族が増えたわね!
フリーズフォルト、素敵な雪の貴婦人。
フォルトにはお乳があるから、子育てをした経験があるのよ。
私のもう一人のお母様ね!」
ある日。
『王国』で見世物をして一稼ぎしようと思っていた旅芸人一座が、当てが外れて彷徨っていた。
マリアンヌは彼らを迎え入れ、大人数が飢えないように蓄えまで使って、食事を振る舞った。
旅芸人一座の座長は、マリアンヌの両手を掴んで上下に振るほどに感謝し、なにか礼がしたい、しかし金銭がなくてすまないと告げた。
マリアンヌは言った。
「では、あの獅子を私にくださいませ」
「ええ?あのメスライオン?
ろくに芸も出来ず、懐きもしねえバカですぜ?
檻に入れて竹槍で刺し、悲鳴をあげさせるしか取り柄がねえ。
さばいても食べる場所なんざありゃしねえし、そろそろ殺して捨てちまおうと思ってたってのに。
奥さん、なんでまたあんなものを欲しがるのさあ?」
「皆様が我が家に来て、はや三日。
私の娘は、毎日、その獅子の檻の前に通っています。
娘が泣くんです。あの子の怪我が痛そうだと。
あの子はつらそうな目をしていると。
自分が檻に入ってもいいから、出してあげたいと。
娘がそこまで想うのに、母が願いを聞いてやれないなんて、できません。
あの獅子を、私達の家族として迎えます」
「…いやあ…。出したら噛み殺されますぜ、奥さん…」
「それはありません。
あの獅子は、もう、娘に心を開いてくれているのです。
私も、名前をつけてあげたくてうずうずしております。
今はまだ、所有者はあなた様。勝手に名付けられませんものね?」
乾いた血がこびりつき、毛皮がところどころはげて赤茶けた肌が見える雌の獅子を、メルリースとマリアンヌは「炎のように綺麗な赤い獅子」と褒め称えた。
獅子は、マリアンヌが用意していた名…「フレイムソニア」と呼ばれるようになった。
ソニアは、フォルトよりもはるかにメルリースに懐き、メルリースは、ソニアの腹の上で昼寝をすることもあったくらいじゃ。
ソニアは、子猫を守る母猫のように、いつもメルリースを守っておった。
ある日。
今度の客人は、『王国』にものを売ろうとして門前払いされた商人だった。
商人は、マリアンヌの手料理を食べ、手作りの果実酒に酔い、こんなことをぽろりと言った。
「まったく、馬車の馬も一頭足を折るし、踏んだり蹴ったりだと思いましたよ。
でも、美人さんにお酌されておいしいものが食べられて、最後は良かったと思わないと罰が当たりますね!」
マリアンヌとメルリースは、すぐさま、「馬が足を折った場所」を聞いた。
商人は目を丸くしながら、近くの森だと、時間が惜しかったから肉にせずそのまま捨ててきたと話した。
二人が駆けつけたとき、馬はまだ息があった。
懸命な手当と看護、魔術治療で、馬は、走れはしないが歩けるまでには回復した。
元来は白馬だったのだろうが、長年の酷使と老いで地肌が見え隠れする姿を「素敵な銀青色」とメルリースは讃えながら撫でた。
マリアンヌは、馬に「シルバーブルー」と名付けた。
シルバーブルーは、まるで恩を返そうとするかのように、自ら畑に赴き、耕作の手伝いを担った。
畑を耕す馬と、娘と、母と。
それを見守る狼と、獅子と。
おかしな動物園のような、幸せな家族のありかたじゃった。
ある日。
病におかされた旅人が、母娘の家の近くに行き倒れていた。
母娘は懸命に治療をしたが、旅人は自らの余命を知っていた。
「申し訳ありません…。
誰にも迷惑をかけぬところで最期を迎えようと、決めていたのに…。
それでも、彼を、彼だけは託したかったのです。
私の相棒、旅の伴たる彼を…どうか…。
彼の名は、『カスケ』。
我が祖父の名をつけた、この梟を……」
息を引き取った旅人に、母娘は泣き、ささやかな葬儀をし、遺された老梟を引き取った。
老梟は、しばしの間、かつての主の墓を離れることはなかった。
そんなある日、修行の合間に家に戻ったエティックが、老梟を見つけた。
「わあ、ふくろうだ!
ふくろうさん、俺はエティック。魔術師見習いだよ。
魔術を志す者にとって、森の賢者は尊い存在。
触れてもいいかな?
お前の恩恵を得て、俺は立派な魔術師になれる気がするよ」
その言葉が、なぜか老梟の心をとかしたらしく。
エティックは、老梟を抱っこして自宅に戻った。
母と姉は「どうやってカスケを説得したの」と目を丸くしたのだという。
食いぶちばかりで役立たずの家族が増え続けたが、マリアンヌは、貧しい暮らしをどうにかやりくりして、生計を立てていた。
そんなある日。
気まずそうな、それでも必死の顔で、メルリースが母の前におずおずとやってきた。
メルリースの胸には、黒い子猫が抱かれていた。
マリアンヌは苦笑して、「その子の名前はあなたがつけなさい」と言った。
メルリースは、満面の笑顔で頷いた。
黒猫は「ネロ」と名付けられた。
母と娘には、ネーミングセンスに大きな開きがあったのじゃろう。
メルリースは、呼びやすい名を好んだようじゃった。
しかし、属性名をつけるところ、やはり親子は似ておったようじゃ。
またある日。
今度は狩人がやってきた。
旅人ではない。母娘を心配して、たびたび訪れる森に住む者じゃった。
手土産に獣を狩ってくるので、食という意味ではありがたかったが、母はともかく、メルリースは狩られた獣にいつも複雑な、悲しそうな顔をしていた。
まあ、死んでいるものは助けようがない。感謝して食すのが一番であると、メルリースとて理解はしていただろう。
それでも16の小娘は、命が消えて悲しいという感情を素直に感じておった。
母は、狩人が自分に言い寄っていることに気づいており、正直困っていたが、食糧事情として無下には出来ない。
なにせ、肉食獣が多かったからのう(笑)
「今日は、お嬢ちゃんにもおみやげだ」
狩人がそう言ってメルリースの手の上に乗せたのは、生まれたばかりだろう子兎だった。
あまりに小さい身体は、親なくしては生きられないことを物語っていた。
「すぐ死んじゃうだろうけど、そしたら耳やしっぽでアクセサリを作るといいぜ」
そこからのメルリースの奮闘はすごかった。
エプロンの胸に大きなポケットを作り、いつもそこに子兎を入れ、自分の体温で温め続けた。
子兎が育つよう、こまめに餌を与えた。寝る間も惜しんで世話をした。
自力で草を食めるまで兎が育った時、メルリースは嬉しくて泣いた。
マリアンヌは、時折しか手伝わず、娘が自ら生と向き合う様を見守っていた。
メルリースは、薄茶色の子兎に「ルナ」と名付けた。
「月光色の金の毛皮」と褒め称えていた。
そして、時間は戻る。
『王国』で起きたことを知らず。
毎日を平和に穏やかに過ごしていた動物の園の親子は、突如、危機にさらされた。
メルリースは、不運にも、「若く清らかで美しい少女」に違いなかった。
心は穢れなく澄み、贅沢を望まず、努力を惜しまず、大切な者のために全力を尽くす。
多くを求めず、今を生きることと、家族と、生命を大切に想う少女。
しかし、王の触れが出た今、メルリースは『罪人の娘、神に楯突く魔女』だった。
魔術師たる母は、娘の身に起きたことを、風の声で知った。
マリアンヌにしてみれば、夫の次は娘を『王国』に奪われようとしているのじゃ。
それはもう必死じゃった。
魔術で娘の幻影を作って家に置き、本物のメルリースを、動物たちに「この子を守って」と言い聞かせて森に逃がした。
マリアンヌは、王国の軍勢とたった一人で戦い、ぼろぼろに傷つき、最期は、自らの幸せの象徴だった家に火を放った。
娘と伴に自決したと思わせたかったのじゃ。
メルリースは、自宅付近からあがる火の手ですべてを察し、動物たちを抱きしめながら、声を殺して泣いた。
マリアンヌはすぐれた魔術師じゃったが、『王国』にも無論、有能な魔術師が控えておった。
マリアンヌの死体はあれど、メルリースの死体がないことに気づかれてしまったのじゃ。
だが、マリアンヌの行為は時間稼ぎにはもってこいじゃった。
誰もが、メルリースの行方を追うことは出来ず、メルリースは、森の奥の奥、家族しか知らぬ場所で、動物たちと身を寄せ合って過ごしていた。
動物たちは、マリアンヌの言葉に忠実に従い、あるものは傍で心を癒し、あるものは周囲を見回り警戒し、あるものは狩りでメルリースの食を確保した。
いや、動物たちは、メルリースを愛しておったのじゃろう。
愛する者を守る、その一心での行動じゃったのかもしれん。
『王国』の王は、冷や汗が池にでもなりそうなほどじゃった。
国中に触れを出し、軍まで動かしたというのに、生け贄の娘を取り逃がした。
新しい贄を探す訳にもいかん。魔女だからという言い訳で捕獲を試みたのじゃ。
若い娘なら誰でも良かったなどと、今更言えん。
さらに、王の肝を冷やしたのは、自らの弁だった。
祭壇で、王は神に誓っておったのじゃ。
「○月の○日までには必ず、お望みのものを捧げます」と。
その期日はとっくに過ぎておった。
王は、自らが神に殺されるのではと、食も睡眠もまともにとれぬ有様じゃった。
『王国』の魔術師が、王に進言した。
メルリースには弟がいると。
弟エティックは、自分の旧友の弟子として魔術師を目指していると。
王は飛び起きて喜んだ。
エティックを捕らえ、囮にすればよいとな。
エティックの魔術の師匠は、国どころではなく、世界レベルに高位の術士じゃった。
エティックは、手塩にかけて育てた、孫のような歳の少年じゃ。
マリアンヌが壮絶な最期を遂げたことも、もちろん遠方から気づいておった。
しかし、エティックには何も告げぬつもりじゃった。
何重にも張り巡らせた結界がエティックの気配を遮断し、なにものも干渉できないようにしておった。
マリアンヌの代わりに、師匠は、エティックを守る心積もりじゃった。
しかし。
エティックもまた、魔術の素養に優れた術士。
見習いとは思えぬ才覚で、齢15にして、そろそろ師匠からお墨付きをもらおうとしているほどじゃった。
エティックは何かを感づいた。
それが何かはわからぬまでも、よくないことであると。
師匠が張り巡らせた結界に、エティックは小さな小さな穴を開け、師匠にも悟られずに結界の外へ出た。
母と姉を案じてな。
そこでエティックが見たものは、あたたかかった我が家の残骸。
そして、徘徊する『王国』の兵士。
エティックは、理由も伝えられぬまま捕らえられた。
エティックの能力なら、全力で抗えば逃げられたのかもしれぬ。
しかしその時エティックは、母と姉に何が起こっているか知らなんだ。
わざと捕まり、家族の、動物たちの安否を確認しようと思ったのじゃ。
エティックは『王国』の牢に幽閉され、魔術をすべて封じられた。
そこで、嫌でも真実を耳にしたことじゃろう。
エティックは泣きながら、怒りと呪いの言葉を叫んでおったという。
国王は、国周辺…はるか遠方まで、魔術師の力を使い、自らの声を風に流した。
「魔女の血族、実弟エティックを捕らえたり。
今より5回、夜が来るまでに魔女が姿を見せねば、このものを神に捧げ、ひととき神に怒りを鎮めてもらうこととする。
繰り返し言う。魔女『メルリース』をなんとしても捕らえよ。
歳は16。金の髪と青い瞳。かつて罪を犯した男の血を引く娘。
神はお怒りである。
『メルリース』捕らえ、祭壇に引きずりあげよ。
でなければ神は、怒り狂い、我らに災厄という罰を与えるであろう」
森の奥で隠れ住んでおったメルリースにも、その声は届いた。
自らを守り母は死に、次は、弟が殺されようとしている。
メルリースは決意した。弟を救うため、『王国』に赴こうと。
動物たちは、ものいえぬ身でありながら、必死でメルリースを制した。
メルリースは微笑んで、「さよなら。あなたたちは、これからこの森で過ごしなさい」と告げた。
動物たちは一匹たりとて聞き入れなかった。
結局、メルリースが『王国』の城壁に近づき、軍に捕らえられるまで。いや、捕らえられても、動物はメルリースから離れることはなかった。
メルリースは、その日のうちに祭壇に引き上げられた。
服は破かれ、丸裸で、木の板を十字にうちつけた上に寝かされて拘束された。
メルリースは静かに、何もかも受け入れようと瞑目していた。
しかし。それはすぐにできなくなった。
愛しい弟、動物たちもまた、祭壇にあげられ、拘束されておったからじゃ。
必要なのは自分だけではないのか、なぜ私の愛しいものたちを、とメルリースは叫んだ。
穏やかな少女が、声を限りに叫んだ。
王は告げた。
神に誓った期限を過ぎてしまったゆえ、贄を増やしたのだと。
神がこれでお許しになるかわからぬが、もはやお前だけでは足りぬと。
神はお怒りである。なぜなら、あれ以来、一度も神託が降りぬ。
お前が逃げ回っていたせいで、このものたちも巻き添えで死ぬのだと。
メルリースは暴れた。
拘束された小娘が何も出来ぬと知りながら、暴れ、叫んだ。
助けて、助けてと。
自分ではなく、愛しきものの命を、どうか助けてと泣き叫んだ。
儀式が始まった。
儀式の短剣がうやうやしく王に捧げられた。
王は、メルリースの右足に短剣を振り下ろした。
短剣は杭のように、娘の柔肌に刺さった。
それと同時に、王の従者が、狼の喉笛に短剣を突き立てた。
狼は声をたてることもなく絶命した。
メルリースは、おのが痛みではなく、この儀式の「全貌」に気づき、絶叫した。
メルリースの右手に短剣が振り下ろされ、同時に、獅子が短剣に脊髄を刺された。
メルリースの左足に短剣が振り下ろされ、同時に、馬が短剣に喉を裂かれた。
メルリースの左手に短剣が振り下ろされ、同時に、梟が短剣で頭を貫かれた。
メルリースの胸元に短剣が振り下ろされ、同時に、黒猫が短剣で胸を刺された。
メルリースの下腹部に短剣が振り下ろされ、同時に、子兎が短剣で体躯を引き裂かれた。
エティックは魔術を封じられておった。
祭壇では、声すらも封じられておった。
エティックは、出ない声で叫び続けた。
残酷な儀式を呪った。罵倒した。それでも声はひとことも出なかった。
儀式はわざと、メルリースが絶命しないように、急所を外して行われていた。
激痛に顔を歪め、荒い息を吐き、ぼたぼたと血を流しながら、メルリースは、愛する弟の顔を見た。
涙でぐしゃぐしゃの顔が、視線だけで、姉に、弟に、謝っていた。
エティ。あなたを助けられなくてごめんなさい。
違う、違う!俺が悪い。俺が何も知らずに捕まったせいだ。
いいえ、あなたのせいじゃない。ごめんなさい。あなただけでも助けたかった。
違う、違う、違う!!俺は母さんとメルを助けたかったんだ!!俺は、俺は!!
愛しているわ、エティ。…これ以上、私の姿を見ないで…。
メル!メル!!…姉さん、姉さん、姉さんっ!!!
儀式の短剣は最後の一対。
短剣がメルリースの顔面を打ち抜いたのと、エティックの心臓をえぐりとったのは同時。
儀式の完了に、集う者は歓声を上げ、王は歓喜で涙した。
「神よ、遅れてすまなかった。
あなたが望むものはここに」
王は天に言い放った。
天から未だかつて誰も見たことのない、光の…エネルギーの塊のようなものが降りてきた。
神が、祭壇に降臨したのじゃ。
神の姿は、蛇に似ていた。
身体の長い…「龍」といったところか。
光に包まれた美しい姿じゃったという。
それは、祭壇の上の、無残な遺骸の上へと舞い降りた。
言葉は誤解を生む。
それは、『神』とて例外ではない。
『始原の神』には、知恵はあれど、意志や感情、己というものがなかった。
「膨大なパワーの塊が知恵をつけたもの」にすぎなかった。
だから『始原の神』は、人間と一体になり、自らの力を人間に委託することによって、人間が真に望むことを理解し、的確にかなえようと考えた。
依り代は、自らを宿すにふさわしく純粋なるもので。
肉体年齢は、よりよく若く。
いつか子を為すことができるよう、「女性体」がいいと、『始原の神』は淡々と結論づけ、それをそのまま、神託として告げただけだった。
神託が正しく理解されていたら、『王国』には、光り輝く聖女が誕生していたに違いなかった。
神の力を宿した、けがれなき少女が国を統べる。
『始原の神』は、そうなれば、人間は今よりも良き生を得られると考えた。
『始原の神』は、人間が用意した依り代がなんであるか、確認もせずに舞い降りるほどに、意志や感情がなさすぎた。
全身に短剣を突き立てられ、愛する者を殺され、苦痛と絶望で魂が引き裂かれ死んでいった少女の死体に、『始原の神』は宿った。
暗黒の舞台の幕が開いた。
『メルリース』が意識を取り戻し、最初にしたことは、愛しきものたちの亡骸を抱きしめることだった。
泣いて、泣いて、泣いて。
巨大にふくれあがった自らがなんであるかもわからぬまま、7つの死体を抱きしめた。
それはすべて『メルリース』に取り込まれ、『メルリース』となって目覚め、『メルリース』とすべてを共有するモノとなった。
しかし、それらは、本体たる少女の絶望をなだめる術がなかった。
それどころか、同じ感情に引きずられて、己さえ失った。
少女は、自らが何をしているか理解していなかった。
泣き叫びながら薙いだ腕が、山を削り残骸にし。
へたりこんだ両足の周囲は砂に変わり。
天へ叫んだ声は激しい地割れを引き起こした。
『王国』など、もはやなくなっていた。
例えではない。
消えたのだ。
少女の慟哭ひとつで、塵になったのだ。
かつて、ひとりの司祭がいた。
「神託は間違いではないか。神が贄を求めるはずがない」
そう王に進言し、『王国』を追放された司祭。
司祭は、それでも『始原の神』の敬虔な信者であった。
追放されてからも、掘っ立て小屋に籠もり、王が為そうとしていることの意味、神の神託の意味を考えた。
そして、ひとつの結論に至った。
「王は間違っている。もし贄を捧げたら世界は滅びる」
当時、唯一人、真実を予見していた賢者だった。
賢者は、もしもの時のために、名のある戦士を呼び寄せていた。
古代王国には、今では物語にしかおらぬような怪物も、たまに出現しておった。
それを倒すことができるほどの腕を持つ戦士。勇者と呼ばれし者。
勇者の到着は少し遅かった。
いや、それでも間に合ったほうか。
『メルリース』が覚醒してから、ほぼ一時間もしないうちに、勇者は邪神となった存在の前に対峙していたのだから。
勇者は、人間ではとうていかなわぬものにも、怖じ気づかなかった。
「これ」を放置すれば世界は滅ぶという直感。
勇者の戦いは数十秒たらずだった。
見極めるは、七つの点。
『メルリース』を構築する七つを分断する。それのみにすべてを集中した。
勇者は見事、メルリースを七つに割った。
邪神の狂乱はそこで終わった。
七つに割れたかけら、そのうち三つは、瞬く間もなくいずこかへ飛び去った。
残ったうちのひとつは、唐突に出現した謎の渦に吸い込まれて消えた。
そして、残る三つ。
青いたてがみをした白き雄馬。
赤い毛並み美しき雌獅子。
白銀色に艶やかな毛皮の雌狼。
数奇な運命の下、神の力宿すけものとなったものは、勇者と司祭の前に立ち、礼を述べた。
『よくぞ、我が主を止めてくれた』
少女が破壊など望んでいないこと。
誰よりも穏やかであったこと。
生命を尊び、守ろうとする優しきひとであったこと。
たとえ殺してでも主の間違いを止めることが、我が忠誠だと馬は言った。
あいつが望まないことは何があってもオレが止めてやると獅子は言った。
私はあの子の母からあの子を託された身、間違いを正すのは母の役目と狼は言った。
けものたちは、理解していた。
『メルリースは消えていない、いずれ復活する』
此度は、一時的な封印をしたにすぎない。
神を倒すことなど、よほどの力なくては出来ないと。
司祭と勇者は、人間であるという立場から、けものたちに詫びた。
人間が起こした間違いを詫びた。
罪なき少女を邪神に変えたことを詫びた。
けものたちは、その謝罪を受け入れた。
人とけものは、約定を交わした。
はるか未来、再びメルリースが現れたとき。
『今度こそ、必ず倒す』と。
かなしみを、今度こそ断ち切ると。
忌まわしき儀礼の短剣。
けものたちとともに取り込まれたために、短剣もまた、神格を得ていた。
短剣は、いつしか、それぞれが思い描いた形の柄になっていた。
刃が変わらなかったのは、少女を、そして自分を刺した切っ先を変化させることが出来なかったからなのかも知れない。
狼の短剣は、『メルリースが磔になった木の板』のかたち。
最初に絶命したが故に、一番強く記憶に残ったモノ。
狼は短剣を司祭に預けた。
獅子の短剣は、あるじを拘束する者を攻撃しようとした自らの牙。
最後の最後まで、命ついえる瞬間まで、戦うことを諦めなかった故に。
獅子は短剣を勇者に預けた。
馬の短剣は、みっつの輪が重なり合うかたち。
それは、母と娘と息子の絆を意味していた。永遠の忠誠を誓う、主を思うシンボル。
馬は、「いつか『王』を名乗る者が現れたら、それの監視人に剣を与えよ」と、短剣を司祭に預けた。
勇者と司祭は、けものたちとの約束を守るため、邪神の復活を阻止するため。
『メルリース』の被害を免れた西の地に赴いた。
まるで結界のような配置でみっつの神殿を建て、神のけものの魂を祀った。
300年の時の中。
雪山の奥の神殿だけが、当時の姿を残していた。
新しくできた国、首都の近くにあった神殿は、人間の無知により残骸と化した。
朝日の山岳の神殿は、多雨の時期の地滑りで消失した。
それでも。
狼の剣は、代々、神殿の長の手に。
馬の剣は、代々、騎士団の長の手に。
秘密裏に受け継がれ、真の意味は極秘とされてきた。
人はけものとの約束を守り続けた。
勇者は流浪故、勇者と伴に剣は行方知れずとなった。
神殿と騎士団は、いずれ必ず、『倒す力ある者』に剣が受け継がれると信じた。
必ず、三つの剣は揃うと。
その時こそ、約束を守り、『邪神を倒すとき』なのだと。
いずこかへ消えた、残りの4つの行方は知れず。
かれらがなにを思うのか、知る者はおらず。
しかし、けものたちは、一時は『同じモノ』として『メルリース』であり。
儀式で無作為に選ばれた箇所ではあれど、メルリースの各部位を司る存在でもあり。
だから、解る。
全員が、メルリースという少女を深く愛しているということ。
なにより、誰より、大事だったということ。
故に。
狼と馬と獅子は、他のものを警戒する。
愛故に邪神すらも許容しかねないと。
相対するなら戦う覚悟さえ秘めて。
いとしいあるじ。
どうか、このままめざめなければ。
かなわぬことと解って祈り続けて。
やはり、それは、叶わなかった。
はるかな昔、目の前で殺されゆくものを救えなかった、あの時のように。
願えど願えど、叶わぬ願い。
みっつのけものは、主人を『倒す』と心に決めた。
魂が血を流してでも、そうすると決めた。
だからこそ。
かれらは、自分たち以外の部位を、異常なまでに警戒していたのじゃ。
最終更新:2017年07月07日 10:58