巻第一百九十三

資治通鑑巻第一百九十三
 唐紀九
  太宗文武大聖大廣孝皇帝上之中
貞觀二年(戊子、六二八)

 九月,丙午,初令致仕官在本品之上。
1.九月。丙午、老齢で退職した文武官が参朝する時は、現職の時の官品の上位に置くことにした。(で、良いんでしょうか?一応、胡三省の注釈に従ってみました。)
 上曰:「比見羣臣屢上表賀祥瑞,夫家給人足而無瑞,不害爲堯、舜;百姓愁怨而多瑞,不害爲桀、紂。後魏之世,吏焚連理木,煮白雉而食之,豈足爲至治乎!」丁未,詔:「自今大瑞聽表聞,自外諸瑞,申所司而已。」嘗有白鵲構巣於寢殿槐上,合歡如腰鼓,左右稱賀。上曰:「我常笑隋煬帝好祥瑞。瑞在得賢,此何足賀!」命毀其巣,縱鵲於野外。
2.上は言った。
「近頃、群臣は屡々瑞祥を上表して賀している。しかし、家が豊かで人間が足りていれば、瑞祥が無くても堯・舜のような世の中と称することができるし、百姓が愁え怨んでいれば、いくら瑞祥があっても桀・紂と呼ばれるのだ。後魏の世では、官吏は連理の枝を薪にし白雉を煮て食べるほど瑞祥で溢れ返っていたが、それで世が治まっていたと言えるのか!」
 丁未、詔した。
「これからは、大瑞のみを表聞し、自余の緒瑞は所司へ申すだけにせよ。」
 まさにこの頃、白鵲が寝殿の槐の上に巣を作った。その形は腰鼓のようだった。左右は賀を称したが、上は言った。
「我はいつも、煬帝が瑞祥を好んだことを笑っていた。祥瑞とは、賢人を得ることだ。これが祝うほどのことか!」
 そして、巣を壊すよう命じて、鵲は野へ追い出した。
 天少雨,中書舎人李百藥上言:「往年雖出宮人,竊聞太上皇宮及掖庭宮人,無用者尚多,豈惟虚費衣食,且陰氣鬱積,亦足致旱。」上曰:「婦人幽閉深宮,誠爲可愍。灑掃之餘,亦何所用,宜皆出之,任求伉儷。」於是遣尚書左丞戴冑、給事中洹水杜正倫於掖庭西門簡出之,前後所出三千餘人。
3.雨が少なかったので、中書舎人の李百薬が上言した。
「かつて宮人を解放しましたが、太上皇宮や掖庭の宮人は、まだまだ無用の者が多いと聞きます。これは衣食の浪費だけではなく、陰気が鬱積して旱害を呼びかねません。」
 上は言った。
「婦人を深宮へ幽閉するのは、まったく憐れむべき事だ。彼女達には掃除をする以外、どんな仕事があるのだ。これらは皆、民間へ放ち遣って、好きなことをさせるが良い。」
 そして尚書左丞戴冑、給事中の洹水の杜正倫を派遣して、掖庭西門から、里へ帰らせた。前後して三千人の宮女が解放された。
 己未,突厥寇邊。朝臣或請脩古長城,發民乘堡障,上曰:「突厥災異相仍,頡利不懼而脩德,暴虐滋甚,骨肉相攻,亡在朝夕。朕方爲公掃清沙漠,安用勞民遠脩障塞乎!」
4.己未、突厥が辺境へ来寇した。朝臣達の中には、古い長城を修復する為に民を徴発するよう請う者もいたが、上は言った。
「突厥の災いは、いつものことだ。頡利は、将来を懼れて徳を修めるような真似をせず、暴虐はいよいよ甚だしく、骨肉で争っている。奴等は朝夕にも滅亡するぞ。朕は、公等へ沙漠の大掃除を命じるつもりだ。何で民を苦しめてまで障塞を作る必要が有ろうか!」
 壬申,以前司農卿竇靜爲夏州都督。靜在司農,少卿趙元楷善聚斂,靜鄙之,對官屬大言曰:「隋煬帝奢侈重斂,司農非公不可;今天子節儉愛民,公何所用哉!」元楷大慚。
5.壬申、前の司農卿竇静を夏州都督とした。静が司農だった頃、少卿の趙元楷は税金を容赦なく取り立てていた。静は、これを愚行として、官属へ対して大言した。
「隋の煬帝のように奢侈に耽って重税をかき集める主君の元なら、公でなければ司農は務まらない。だが、今の天子は民を愛して節倹に勤しんでおられる。公など要らん!」
 元楷は、大いに恥じ入った。
 上問王珪曰:「近世爲國者益不及前古,何也?」對曰:「漢世尚儒術,宰相多用經術士,故風俗淳厚;近世重文輕儒,參以法律,此治化之所以益衰也。」上然之。
6.上が王珪へ訊ねた。
「近世の国主達は、益々前古に劣っている。何故かな?」
 対して言った。
「漢代は儒術を尊び、宰相には経術の士を用いました。ですから風俗が淳厚だったのです。ですが近世では華麗な文章を重んじて儒を軽んじ、何かと言えば法律を持ち出します。これこそ、政化が衰退した理由であります。」
 上は同意した。
 冬,十月,御史大夫參預朝政安吉襄公杜淹薨。
7.冬、十月。御史大夫参預朝政の安吉襄公杜淹が薨じた。
 交州都督遂安公壽以貪得罪,上以瀛州刺史盧祖尚才兼文武,廉平公直,徴入朝,諭以「交趾久不得人,須卿鎭撫。」祖尚拜謝而出,既而悔之,辭以舊疾。上遣杜如晦等諭旨曰:「匹夫猶敦然諾,奈何既許朕而復悔之!」祖尚固辭。戊子,上復引見,諭之,祖尚固執不可。上大怒曰:「我使人不行,何以爲政!」命斬於朝堂,尋悔之。他日,與侍臣論「齊文宣帝何如人?」魏徴對曰:「文宣狂暴,然人與之爭,事理屈則從之。有前靑州長史魏愷使於梁還,除光州長史,不肯行,楊遵彦奏之。文宣怒,召而責之。愷曰:『臣先任大州,使還,有勞無過,更得小州,此臣所以不行也。』文宣顧謂遵彦曰:『其言有理,卿赦之。』此其所長也。」上曰:「然。曏者盧祖尚雖失人臣之義,朕殺之亦爲太暴,由此言之,不如文宣矣!」命復其官蔭。
  徴状貌不逾中人,而有膽略,善回人主意,毎犯顏苦諫;或逢上怒甚,徴神色不移,上亦爲霽威。嘗謁告上冢,還,言於上曰:「人言陛下欲幸南山,外皆嚴裝已畢,而竟不行,何也?」上笑曰:「初實有此心,畏卿嗔,故中輟耳。」上嘗得佳鷂,自臂之,望見徴來,匿懷中;徴奏事固久不已,鷂竟死懷中。
8.交州都督遂安公寿が、貪婪が過ぎるとして罰せられた。上は、瀛州刺史廬祖尚が文武に秀で廉平公直な人柄なのを見込んで、朝廷へ呼び寄せていった。
「交趾(ベトナム)は長い間、悪辣な長官に苦しんできた。だが、卿なら鎮撫できる筈だ。」
 祖尚は拝謝して退出したが、やがて後悔し、古い病を理由に辞退した。上は杜如晦等を派遣してこれを諭した。
「匹夫でさえも、一言を重んじているのだ。ましてや既に朕の前で許諾したことを翻すのか!」
 だが、祖尚は固辞した。
 戊子、上は再び祖尚を呼び出して諭したが、祖尚は頑なに拒んだ。遂に上は大怒して、言った。
「我が命令を拒まれたら、政治ができぬぞ!」
 そして、朝堂にて斬罪とした。だが、後に悔いた。
 他日、上は侍臣と論じて言った。
「斉の文宣帝とは、どんな人間かな。」
 すると、魏徴が答えた。
「文宣帝は狂暴ですが、しかし人と言い争った時に相手に理があることが判れば、これに従いました。かつて、青州長史魏愷を梁から呼び返して光州長史としたところ、魏愷は赴任を拒否したことがありました。その時、楊遵彦がこれを上奏すると、文宣帝は怒り、これを呼び出して責めましたが、愷は言いました。『臣は今まで大州を任されていて呼び返されたのです。その赴任先で努力もしましたし、過失もありませんでした。それなのに、今度は小州を与えられる。ですから、臣はこれを断ったのです。』文宣は遵彦を顧みて、言った。『筋が通っている。卿よ、これは赦そう。』これは、文宣帝の長所です。」
 上は言った。
「そうだ。先だって、廬祖尚は人臣の義を失ったが、朕がこれを殺したのは、暴虐が過ぎた。これを元に言うならば、朕は文宣に劣る主君だ!」
 そして、彼の子孫へ官位を与えるよう命じた。
 魏徴の容貌は並の人間と変わらなかったが、胆が太く知略があったので、どうどうと苦諫して主君の過ちを是正させる事が多かった。上が激怒することもあったけれど、徴は顔色も変えず、主君の威厳も形無しだった。
 ある時、上が塚へ詣って帰ってくると、魏徴は言った。
「人々は、『陛下が南山へ行こうとしている』と言い、厳重な装備もしたのに、とうとう行かれませんでした。どうしたのですか?」
 上は笑って言った。
「初めはそのつもりだったのだが、卿から叱られるのが恐くて、途中で止めたのだ。」
 上はかつて素晴らしい鷂(はしたか)を手に入れたので肩へとまらせていたが、徴がやって来るのを見ると、懐中へ隠した。この時、魏徴の上奏があまりに長かったので、鷂は懐中にて死んでしまった。
 十一月,辛酉,上祀圜丘。
9.十一月、辛酉、上が圜丘を祀った。
 10十二月,壬午,以黄門侍郎王珪爲守侍中。上嘗閒居,與珪語,有美人侍側,上指示珪曰:「此廬江王瑗之姫也,瑗殺其夫而納之。」珪避席曰:「陛下以廬江納之爲是邪,非邪?」上曰:「殺人而取其妻,卿何問是非!」對曰:「昔齊桓公知郭公之所以亡,由善善而不能用,然棄其所言之人,管仲以爲無異於郭公。今此美人尚在左右,臣以爲聖心是之也。」上悅,即出之,還其親族。
  上使太常少卿祖孝孫教宮人音樂,不稱旨,上責之。温彦博、王珪諫曰:「孝孫雅士,今乃使之教宮人,又從而譴之,臣竊以爲不可。」上怒曰:「朕置卿等於腹心,當竭忠直以事我,乃附下罔上,爲孝孫游説邪!」彦博拜謝。珪不拜,曰:「陛下責臣以忠直,今臣所言豈私曲邪!此乃陛下負臣,非臣負陛下!」上默然而罷。明日,上謂房玄齡曰:「自古帝王納諫誠難,朕昨責温彦博、王珪、至今悔之。公等勿爲此不盡言也。」
10.十二月、壬午、黄門侍郎王珪を守侍中とした。
 ある時、上が閑居して王珪とお喋りをしていた。傍らに美人が侍っていたが、上は彼女を指さして王珪へ言った。
「これは廬江王瑗の姫だ。瑗はこれの夫を殺して、後宮へ納めたのだ。」
 すると、王珪は席を避けて言った。
「陛下は、廬江が彼女を後宮へ納れたのを、是認しますか?それとも悪行と思われますか?」
 上は言った。
「人を殺してその妻を取る。卿はどうしてその是非を問うのだ!」
「昔、郭公は善を善としながらも、用いることができなくて滅亡しました。斉の桓公はそれを聞いて滅亡するのも尤もだと納得しましたが、自分も実践できませんでした。ですから管仲は、桓公も郭公と変わらないと評したのです。今、この美人は陛下の側に侍っておりますので、聖心は廬公王を是認していると、臣は判じたのでございます。」
 上は悦び、即座に彼女を後宮から出して親族の元へ返して遣った。
 上は太常少卿の祖孝孫へ宮人の音楽を教えさせたが、宮人達がちっとも上達しないので、孝孫を責めた。すると、温彦博と王珪が諫めて言った。
「孝孫はただの楽士ですのに、これを教師にして、実績が出ないからと行って叱責なさいました。臣は、これは誤っていると思います。」
 上は怒って言った。
「朕は卿等を腹心とした。だから、常に忠直をつくして我へ仕えるべきなのに、下とグルになって上をたばかり、孝孫の為に屁理屈をこねるか!」
 すると、彦博は拝謝したが、珪は拝礼せずに言った。
「陛下は忠直ではないと責められましたが、今の臣の言葉は、私情で曲げたのではありませんぞ!これは、陛下が臣を裏切ったのです。臣が陛下を裏切ったのではありません!」
 上は黙り込んだ。
 翌日、上は房玄齢へ言った。
「昔から、帝王が諫言を納めるのは、実に難しい。朕は昨日温彦博と王珪を責めたが、今は後悔している。公等はこれに懲りずに言葉を尽くしてくれ。」
 11上曰:「爲朕養民者,唯在都督、刺史,朕常疏其名於屏風,坐臥觀之,得其在官善惡之跡,皆注於名下,以備黜陟。縣令尤爲親民,不可不擇。」乃命内外五品已上,各舉堪爲縣令者,以名聞。
11.上は言った。
「朕の為に民を養うのは、ただ都督と刺史だ。朕はいつも彼等の名前を屏風に書いて、坐伏の間にもこれを観ている。彼等の任官中の善悪の事績を聞けば、名前の下に書き留めておき、黜陟の参考としている。県令は、一番民に近い官職だ。人を良く選ばなければいけない。」
 そして内外の五品以上の官吏へ、県令を任せられる人材を推挙させた。
 12上曰:「比有奴告其主反者,此弊事。夫謀反不能獨爲,必與人共之,何患不發,何必使奴告邪!自今有奴告主者,皆勿受,仍斬之。」
12.上は言った。
「奴隷が自分の主人の造反を告発したとする。これは上下の序列を破る行いだ。だいたい、単独では謀反はできない。必ず共犯者がいるから、どこからか告発してくる。なんで奴隷からまで告発して貰う必要があるだろうか!今後は、自分の主人を告発する奴隷がいても、聞く必要はない。即座に斬罪にせよ。」
 13西突厥統葉護可汗爲其伯父所殺;伯父自立,是爲莫賀咄侯屈利俟毗可汗。國人不服,弩矢畢部推泥孰莫賀設爲可汗,泥孰不可。統葉護之子咥力特勒避莫賀咄之禍,亡在康居,泥孰迎而立之,是爲乙毗鉢羅肆葉護可汗,與莫賀咄相攻,連兵不息,倶遣使來請婚。上不許,曰:「汝國方亂,君臣未定,何得言婚!」且諭以各守部分,勿復相攻。於是西域諸國及敕勒先役屬西突厥者皆叛之。
13.西突厥の統葉護可汗が、伯父に殺された。伯父は自立した。これが莫賀咄利俟毗可汗である。だが、国人は服従せず、弩矢畢部は泥孰莫賀設を可汗に推したが、泥孰は辞退した。
 統葉護の子の咥力特勒が莫賀咄の禍を避けて康居へ逃げていたので、泥孰はこれを迎え入れて擁立した。これが乙毗鉢羅肆葉護可汗である。これは莫賀咄と戦い、内乱状態が続いた。そこで乙毗鉢は唐へ通婚を申し込んだが、上は許さず、言った。
「汝の国は戦乱の最中で君臣の地位はまだ定まっていない。なんで通婚など言い出せるのだ!」
 そして各部族を諭して戦争を止めさせた。
 この事件によって西突厥に臣従していた西域諸国や敕勒達は、皆、西突厥に背いた。
 14突厥北邊諸姓多叛頡利可汗歸薛延陀,共推其俟斤夷男爲可汗,夷男不敢當。上方圖頡利,遣游撃將軍喬師望間道齎册書拜夷男爲眞珠毗伽可汗,賜以鼓纛。夷男大喜,遣使入貢,建牙於大漠之鬱督軍山下,東至靺鞨,西至西突厥,南接沙磧,北至倶倫水;廻紇、拔野古、阿跌、同羅、僕骨、霫諸部落皆屬焉。
14.突厥の北辺に住む諸姓達に、頡利可汗へ逆らう者が増えた。彼等は薛延陀へ帰順し、共にその俟斤の夷男を可汗へ推戴したが、夷男はその器ではないと辞退した。
 丁度この頃、上は頡利可汗を攻略しようと思っていたので、遊撃将軍喬師望を使者として派遣した。彼は間道を通って上の書を届け、夷男を真珠毗伽可汗とし、鼓纛を賜下した。夷男は大いに喜び、唐へ使者を派遣して入貢し、大漠の鬱督軍山の下に牙張を建てた。その支配領域は、東は靺鞨へ至り、西は西突厥へ至り、南は沙磧へ接し、北は倶倫水へ至った。廻紇、抜野古、阿趺、同羅、僕骨、霫の緒部が、皆、これに臣従した。
三年(己丑、六二九)

 春,正月,戊午,上祀太廟;癸亥,耕藉於東郊。
1.春、正月。戊午、上が太廟を祀った。
 癸亥、東郊にて耕籍した。
 沙門法雅坐妖言誅。司空裴寂嘗聞其言,辛未,寂坐免官,遣還郷里。寂請留京師,上數之曰:「計公勳庸,安得至此!直以恩澤爲羣臣第一。武德之際貨賂公行,紀綱紊亂,皆公之由也,但以故舊不忍盡法。得歸守墳墓,幸已多矣!」寂遂歸蒲州。未幾,又坐狂人信行言寂有天命,寂不以聞,當死;流靜州。會山羌作亂,或言劫寂爲主。上曰:「寂當死,我生之,必不然也。」俄聞寂帥家僮破賊。上思其佐命之功,徴入朝,會卒。
2.沙門の法雅が妖言を流布したとして、誅殺された。
 司空の裴寂は、かつてその言葉を聞いていたので、辛未、罷免して郷里へ追い返した。寂は京師へ留まりたいと請願したが、上は言った。
「公の勲功は凡庸だ、こんな地位に就けるものではないぞ!ただ、恩沢が群臣第一だっただけではないか。武徳年間に賄賂が横行して綱紀が紊乱していたのは全て公のせいだが、古馴染みだったので法に照らすに忍びなかったのだ。郷里に帰って墓を護れるだけでも多大の僥倖ではないか!」
 寂は、遂に蒲州へ帰った。
 その直後、かつて狂人の信行が、「寂には天命がある。」と言ったのを、寂は上言しなかったとの告発があった。法に照らせば死罪なのだが、静州への流罪で済ませた。
 後、山羌が動乱を起こした。この時、ある者は言った。
「連中は寂を脅しつけて盟主に推戴しました。」
 上は言った。
「寂は死刑が当然だったのに、我が命を助けて遣ったのだ。賊の盟主になる筈がない。」
 すると、果たして続報が来た。
”寂は家僮を率いて賊軍を撃破しました。”
 それを聞いて上は、寂の佐命の功績を思い、朝廷へ呼び寄せた。寂は、都にて卒した。
 二月,戊寅,以房玄齡爲左僕射,杜如晦爲右僕射,以尚書右丞魏徴守秘書監,參預朝政。
3.二月、戊寅。房玄齢を左僕射、杜如晦を右僕射、尚書右丞魏徴を守秘書監として、朝政へ参与させた。
 三月,己酉,上録繋囚。有劉恭者,頸有「勝」文,自云「當勝天下」,坐是繋獄。上曰:「若天將興之,非朕所能除;若無天命,『勝』文何爲!」乃釋之。
4.三月、己酉、上が牢獄の囚人達の記録を閲覧した。
 囚人の中に劉恭とゆう人間がいた。彼は、首のあざが「勝」とゆう字になっていたので、「天下と戦っても勝てるぞ」と吹聴したところ、罪に当たるとして牢獄にぶち込まれたのだ。
 上は言った。
「もしも天が、天下を彼へ与えるのならば、朕が彼を殺すことはできない。もしも天命がないのなら、『勝』のあざでなにができようか!」
 そして、釈放してやった。
 丁巳,上謂房玄齡、杜如晦曰:「公爲僕射,當廣求賢人,隨才授任,此宰相之職也。比聞聽受辭訟,日不暇給,安能助朕求賢乎!」因敕「尚書細務屬左右丞,唯大事應奏者,乃關僕射。」
  玄齡明達政事,輔以文學,夙夜盡心,惟恐一物失所;用法寬平,聞人有善,若己有之,不以求備取人,不以己長格物。與杜如晦引拔士類,常如不及。至於臺閣規模,皆二人所定。上毎與玄齡謀事,必曰:「非如晦不能決。」及如晦至,卒用玄齡之策。蓋玄齡善謀,如晦能斷故也。二人深相得,同心徇國,故唐世稱賢相,推房、杜焉。玄齡雖蒙寵待,或以事被譴,輒累日詣朝堂,稽顙請罪,恐懼若無所容。
  玄齡監修國史,上語之曰:「比見漢書載子虚、上林賦,浮華無用。其上書論事,詞理切直者,朕從與不從,皆當載之。」
5.丁巳、上が房玄齢、杜如晦へ言った。
「公は僕射となったのだから、広く賢人を求め、才覚に従って仕事を授けよ。これが宰相の職務だ。だが、最近は訴え事を決裁するのに忙殺されていると聞く。これではどうして朕を助けて賢人を求めることができようか!」
 そこで、敕を降ろした。
「尚書の細かい事務は左右の丞へ任せよ。ただ、上奏する必要のあるような重大事件のみ、僕射へ聞かせよ。」
 玄齢は政事に明達しており、文学の心得もあり、一つでも失うのを恐れるかのように深夜まで心を尽くした。法律の適用は寛大で誰かの長所を聞けば自分のことのように喜んだ。(他人へは完全を求めず、自分の長所と比べて他人を貶したりしなかった?)杜如晦と共に登庸する士を探す時は、いつも手落ちがないか兢々としていた。台閣の規則や模範は、皆、この二人が定めた。
 上が玄齢と事を謀ると、玄齢は必ず言った。
「これは如晦でなければ決断できません。」
 そして、如晦がやって来ると、玄齢の策を採用した。玄齢は知恵が回り、如晦には決断力があったのだ。二人は互いに補いあい、心を一つにして国へ尽くした。だから唐代の賢宰相を褒めるときは、房と杜が第一に推される。
 玄齢は恩寵を蒙っていたが、譴責を受けると何日でも朝堂を詣でて罪の赦しを請い、容赦されないのを懼れているようだった。
 玄齢が国史を監修すると、上がこれに語った。
「漢書に載っている子虚や上林賦のように、華麗なだけの文章など無用だ。上書された論文の中で詞理が正しい物は、朕が従う従わないに関わらず、皆、これを載せよ。」
 夏,四月,乙亥,上皇徙居弘義宮,更名大安宮。上始御太極殿,謂羣臣曰:「中書、門下,機要之司,詔敕有不便者,皆應論執。比來唯睹順從,不聞違異。若但行文書,則誰不可爲,何必擇才也!」房玄齡等皆頓首謝。
  故事:凡軍國大事,則中書舎人各執所見,雜署其名,謂之五花判事。中書侍郎、中書令省審之,給事中、黄門侍郎駁正之。上始申明舊制,由是鮮有敗事。
6.夏、四月。上皇が弘義宮へ引っ越し、宮の名前を大安宮と改称した。上は、始めて太極殿へ御し、群臣へ言った。
「中書と門下は機密を扱う役だ。詔敕に不備な点があれば、これを論じ直さなければならない。しかし、最近は従順なばかりで違異を聞かない。ただ文章をなぞるだけならば、誰でもできることだ。何で才覚のある人間を選ぶ必要が有ろうか!」
 房玄齢等は、皆、頓首して謝った。
 故事では、およそ軍国の大事は中書舎人が各々所見を執り、その名を署名する。これを五花判事と言った。中書侍郎、中書令がこれを審判し、給事中、黄門侍郎がこれを比較する。上は、始めて旧制を復活させた。これによって、失政は少なくなった。
 茌平人馬周,客游長安,舎於中郎將常何之家。六月,壬午,以旱,詔文武官極言得失。何武人不學,不知所言,周代之陳便宜二十餘條。上怪其能,以問何,對曰:「此非臣所能,家客馬周爲臣具草耳。」上即召之;未至,遣使督促者數輩。及謁見,與語,甚悅,令直門下省,尋除監察御史,奉使稱旨。上以常何爲知人,賜絹三百匹。
7.茌平の住民馬周が長安へ旅行して、中郎将常何の家に泊まった。
 六月、壬午、旱が起こったので、文武の官へ政治の得失を言上するよう詔が降りた。だが、常何は無学な武人だったので何を言えば良いのか判らなかった。そこで、周が代わりに二十余條を陳述した。
 上は、これが見事だったので怪しみ、何へ聞いてみると、何は言った。
「これは臣が書いたのではありません。臣の客の馬周が、臣の為に描いてくれたものでございます。」
 そこで上は彼を召しだしたが、馬周がやってくるまで催促の勅使が数人やって来る程だった。謁見して数語語ってみて甚だ悦び、監察御史とするよう門下省へ命じ、旨の検校をやらせた。また、何常は人を見る目があると褒め、絹三百匹を賜った。
 秋,八月,己巳朔,日有食之。
8.秋、八月。己巳朔、日食があった。
 丙子,薛延陀毗伽可汗遣其弟統特勒入貢,上賜以寶刀及寶鞭,謂曰:「卿所部有大罪者斬之,小罪者鞭之。」夷男甚喜。突厥頡利可汗大懼,始遣使稱臣,請尚公主,修婿禮。
  代州都督張公謹上言突厥可取之状,以爲:「頡利縱欲逞暴,誅忠良,暱姦佞,一也。薛延陀等諸部皆叛,二也。突利、拓設、欲谷設皆得罪,無所自容,三也。塞北霜早,糇糧乏絶,四也。頡利疏其族類,親委諸胡,胡人反覆,大軍一臨,必生内變,五也,華人入北,其衆甚多,比聞所在嘯聚,保據山險,大軍出塞,自然響應,六也。」上以頡利可汗既請和親,復援梁師都,丁亥,命兵部尚書李靖爲行軍總管討之,以張公謹爲副。
  九月,丙午,突厥俟斤九人帥三千騎來降。戊午,拔野古、僕骨、同羅、奚酋長並帥衆來降。
9.薛延陀の毗伽可汗が、弟の統特勒を派遣して入貢した。上は宝刀と宝鞭を賜下し、言った。
「卿の部族で大罪を犯した者がいれば斬り、小罪を犯した者がいれば鞭打て。」
 夷男は、とても喜んだ。
 突厥の頡利可汗は大いに懼れ、始めて唐へ使者を派遣して臣と称し、公主との通婚を求めて婿としての礼を執った。
 代州都督張公謹が、突厥を攻撃するべきだと上言した。その大略に言う、
「頡利は貪欲暴虐で、忠良を誅殺し、姦佞を保護しています。これが第一。薛延陀等の諸部落が、皆、造反しています。これが第二。突利、拓設、欲谷設は頡利から罪を得て、居場所が無く唐へ帰順したがっています。これが第三。塞北は霜と旱で馬草や食糧が欠乏しています。これが第四。頡利は同類を疎外して胡人を重用していますが、胡人は裏切りを性としています。大軍が臨んだら、必ず内乱が起こります。これが第五。隋末の動乱のため、北へ入った華人は大勢います。彼等はあちこちに集落を作り、山険を保據しています。大軍が塞を出れば、彼等は呼応します。これが六です。」
 頡利可汗は過去、和親を請うたくせに梁師都を援護したことがあった。丁亥、上は兵部尚書李靖を行軍総管として、頡利討伐を命じた。張公謹を副官とする。
 九月、丙午、突厥の俟斤九人が三千騎を率いて来降した。
 戊午、抜野古、僕骨、同羅、奚の酋長が部族を率いて来降した。
 10冬,十一月,辛丑,突厥寇河西,肅州刺史公孫武達、甘州刺史成仁重與戰,破之,捕虜千餘口。
10.冬、十一月、辛丑。突厥が河西へ来寇した。粛州刺史公孫武達と甘州刺史成仁重がこれと戦って、撃破。千余口を捕虜とする。
 11上遣使至涼州,都督李大亮有佳鷹,使者諷大亮使獻之,大亮密表曰:「陛下久絶畋游而使者求鷹。若陛下之意,深乖昔旨;如其自擅,乃是使非其人。」癸卯,上謂侍臣曰:「李大亮可謂忠直。」手詔褒美,賜以胡缾及荀悅漢紀。
11.上の派遣した使者が涼州へ到着した。都督の李大亮が素晴らしい鷹を持っていたので、使者は、これを献上するよう風諭した。すると、大亮は上表した。
「陛下はしばらく狩猟を行われておりませんが、使者が鷹を求めました。もしもこれが陛下の御意向ならば、昔日の想いに違っております。使者の独断でしたら、使者として不適任です。」
 癸卯、上は侍臣へ言った。
「李大亮は忠直と言うべきだな。」
 手ずから詔を書いて褒め、胡の瓶と荀悦の漢紀を賜下した。
 12庚申,以行并州都督李世勣爲通漢道行軍總管,兵部尚書李靖爲定襄道行軍總管,華州刺史柴紹爲金河道行軍總管,靈州大都督薛萬徹爲暢武道行軍總管,衆合十餘萬,皆受李勣節度,分道出撃突厥。
  乙丑,任城王道宗撃突厥於靈州,破之。
  十二月,戊辰,突利可汗入朝,上謂侍臣曰:「往者太上皇以百姓之故,稱臣於突厥,朕常痛心。今單于稽顙,庶幾可雪前恥。」
  壬午,靺鞨遣使入貢,上曰:「靺鞨遠來,蓋突厥已服之故也。昔人謂禦戎無上策,朕今治安中國,而四夷自服,豈非上策乎!」
12.庚申、行并州都督李世勣を通漢道行軍総管、兵部尚書李靖を定襄道行軍総管、華州刺史柴紹を金河道行軍総管、霊州大都督薛萬徹を暢武道行軍総管とした。軍勢は、合計十余万。皆、李靖の指揮下へ入り、それぞれ別道から突厥へ入った。
 乙丑、任城王道宗が霊州にて突厥を攻撃し、破った。
 十二月、戊辰、突利可汗が入朝した。上は侍臣へ言った。
「むかし、太上皇帝は百姓の苦労を思って、突厥へ対して臣と称したが、朕はいつもこの事実に胸を痛めていた。今、単于が首を下げてきた。これでいくらかは、前の恥をそそげたな。」
 13癸未,右僕射杜如晦以疾遜位,上許之。
13.癸未、右僕射杜如晦が病気で辞職を願い出た。上は、これを許した。
 14乙酉,上問給事中孔穎達曰:「論語:『以能問於不能,以多問於寡,有若無,實若虚。』何謂也?」穎達具釋其義以對,且曰:「非獨匹夫如是,帝王亦然。帝王内蘊神明,外當玄默,故易稱『以蒙養正,以明夷蒞衆。』若位居尊極,炫耀聰明,以才陵人,飾非拒諫,則下情不通,取亡之道也。」上深善其言。
14.乙酉、上が、給事中の孔穎達へ訊ねた。
「論語に『才能があるのに、ない者へ訊ね、知識が多いのに乏しい者へ訊ね、有るのにないように、充満しているのに空っぽのようにする』(泰伯第八の5)とは、どういう意味かな?」
 孔穎達は、解釈をつぶさに説明し、言った。
「匹夫だけがこのようにしておけばよいのではなく、帝王もやはりこのようでなければなりません。帝王は、心の内に神のような明哲を包み隠し、外側は何も知らないように見せます。ですから、易経にも、『蒙を以て正を養い、明夷(太陽が地面の下へ隠された象。明哲を覆い隠すことを意味する。)を以て衆へ臨む』とあります。もっとも尊い位にありながら聡明をひけらかして才覚で人を凌ぐ。非を飾って諫言を拒み、下情が耳に届かない。これは滅亡の道です。」
 上は、その言葉を深く味わった。
 15庚寅,突厥郁射設帥所部來降。
15.庚寅、突厥の郁射設が領民を率いて来降した。
 16閏月,丁未,東謝酋長謝元深、南謝酋長謝強來朝。諸謝皆南蠻別種,在黔州之西。詔以東謝爲應州、南謝爲莊州,隸黔州都督。
  是時遠方諸國來朝貢者甚衆,服裝詭異,中書侍郎顏師古請圖寫以示後,作王會圖,從之。
  乙丑,牂柯酋長謝能羽及充州蠻入貢,詔以牂柯爲牂州;党頃酋長細封歩賴來降,以其地爲軌州;各以其酋長爲刺史。党項地亙三千里,姓別爲部,不相統壹,細封氏、費聽氏、往利氏、頗超氏、野辭氏、旁當氏、米擒氏、拓跋氏,皆大姓也。歩賴既爲唐所禮,餘部相繼來降,以其地爲崌、奉、巖、遠四州。
16.閏月、丁未、東謝の酋長謝元深と南謝の酋長謝強が来朝した。諸々の謝は、皆、南蛮の別種で、黔衆の西に住んでいる。詔を下して、東謝を應州、南謝を荘州として、黔州都督の管轄下に置く。
 この頃、朝貢に来る遠方諸国が非常に多くなった。その服装がそれぞれ独特だったので、中書侍郎顔師古はこれを絵にして後世へ遺す為、王會図を作りたいと請願した。裁可される。
 乙丑、牂柯の酋長謝能羽と充州の蛮が入貢した。詔が降りて、牂柯を牂州とした。党項の酋長細封歩頼が来降した。この土地を軌州とする。これらは各々、その酋長を刺史とした。
 党項の土地は、三千里に亘り、姓ごとに別の部となって統一されていない。その中で、細封氏、費聴氏、往利氏、頗超氏、野辞氏、旁當氏、米擒氏、択抜氏などが大姓である。
 歩頼が唐から礼遇されると、その他の部族も相継いで来降してきた。そこで、その地を崌、奉、巖、遠の四州とした。
 17是歳,戸部奏:中國人自塞外歸及四夷前後降附者,男女一百二十餘萬口。
17.この年、戸部が奏した。
「塞外から帰ってきた中国人と四夷で来降してきた者を全部あわせると、男女百二十万人になります。」
 18房玄齡、王珪掌内外官考,治書侍御史萬年權萬紀奏其不平,上命侯君集推之。魏徴諫曰:「玄齡、珪皆朝廷舊臣,素以忠直爲陛下所委,所考既多,其間能無一二人不當!察其情,終非阿私。若推得其事,則皆不可信,豈得復當重任!且萬紀比來恆在考堂,曾無駁正;及身不得考,乃始陳論。此正欲激陛下之怒,非竭誠徇國也。使推之得實,未足裨益朝廷;若其本虚,徒失陛下委任大臣之意。臣所愛者治體,非敢苟私二臣。」上乃釋不問。
18.房玄齢と王珪が、内外の人事を握っていた。治書侍御史の萬年の権萬紀が、その不平を上奏した。そこで上が、俟君集へ調べさせようとしたところ、魏徴が諫めた。
「玄齢と珪は共に朝廷の旧臣で、その為人が忠直だった為、陛下は大権を委任なさったのです。彼等は大勢の人事を担当してきましたので、その中には不当だった人事も二・三はあって当然です。彼等の心情を考えますに、私利私欲で曲げたわけでは決してありません。しかし、もしもここで調べさせたら、皆は彼等を信じられなくなります。そうしたら、どうして今までのような重任に耐えられましょうか!それに、萬紀は今まで彼等を査察する職務にありながら、かつて一度も論駁したことがありませんでした。今回、我が身の利害に及び、始めてこのように論じました。これは、自分の得の為に陛下の怒りを掻き立てようとしたいるのです。誠を尽くし国へ殉じる士ではありません。この人事を糾明して更正できたとしても、朝廷にとってさしたる利益ではありませんが、失うものを考えると、陛下が大臣へ職務を委任することができなくなってしまいます。臣は、政治の大系を愛するのです。決して、両大臣への私情で申すのではありません。」
 上は、遂にこの件を不問に処した。
 19濮州刺史龐相壽坐貪汚解任,自陳嘗在秦王幕府;上憐之,欲聽還舊任。魏徴諫曰:「秦府左右,中外甚多,恐人人皆恃恩私,足使爲善者懼。」上欣然納之,謂相壽曰:「我昔爲秦王,乃一府之主;今居大位,乃四海之主,不得獨私故人。大臣所執如是,朕何敢違!」賜帛遣之。相壽流涕而去。
19.濮州刺史龐相寿が汚職を摘発されて解任された。彼は上がまだ秦王だった頃から、秦王の幕府に仕えていた人間で、今回、かつての縁故を自ら言い立ててたところ、上も彼との縁故の情に惹かれ、元の官職に復帰させようとした。すると、魏徴が諫めた。
「秦王のかつての近習達は、中外に大勢おります。彼等がそれぞれに私恩を恃んでしまったら、善人が懼れてしまいますぞ。」
 上は悦んでその諫言を納れ、相寿へ言った。
「我が秦王だった頃は、一府の主に過ぎなかったが、今は大位に居り、四海の主人となった。昔馴染みへ贔屓するわけには行かぬのだ。大臣がこのように言っている以上、朕が敢えて違うわけにはゆかぬ!」
 そして、地位は復旧しなかったが、帛を賜下した。相寿は涙を零して退去した。
四年(庚寅、六三〇)

 春,正月,李靖帥驍騎三千自馬邑進屯惡陽嶺,夜襲定襄,破之。突厥頡利可汗不意靖猝至,大驚曰:「唐不傾國而來,靖何敢孤軍至此!」其衆一日數驚,乃徙牙於磧口。靖復遣諜離其心腹,頡利所親康蘇密以隋蕭后及煬帝之孫政道來降。乙亥,至京師。先是,有降胡言「中國人或潛通書啓於蕭后者」。至是,中書舎人楊文瓘請鞫之,上曰:「天下未定,突厥方強,愚民無知,或有斯事。今天下已安,既往之罪,何須問也!」
  李世勣出雲中,與突厥戰於白道,大破之。
1.春、正月、李靖が驍騎三千を率いて白邑から悪陽嶺へ進軍した。定襄を夜襲し、これを破る。
 突厥の頡利可汗は、李靖の進軍がこんなに早いとは思わなかったので、大いに驚いて言った。
「唐が国を傾ける程の大軍を出したのでなければ、靖が孤軍でここまで進軍する筈がない!」
 彼等の部下も一日に数回驚愕する有様。遂に、牙帳を磧口へ移した。
 李靖は間諜を派遣して、頡利の腹心達へ離間工作を掛けた。すると、頡利と親密だった康蘇密が、隋の蕭后と煬帝の孫の政道を連れて来降した。乙亥、彼等は京師へ到着する。
 少し前の話になるが、ある降伏した胡人が言った。
「蕭后へ密かに書状を渡した中国人が居る。」
 蕭后が京師へやって来ると、中書舎人の楊文瓘が真相を究明しようと請願した。すると、上は言った。
「天下がまだ定まらず突厥が強盛だった頃には、無知な愚民はそういう事をしたかも知れない。だが、今は既に天下は安定した。過去の罪など、問うまでもないぞ!」
 李世勣は雲中を出て、白道にて突厥と戦い、大いにこれを破った。
 二月,己亥,上幸驪山温湯。
2.己亥、上は驪山の温泉へ御幸した。
 甲辰,李靖破突厥頡利可汗於陰山。
  先是,頡利既敗,竄於鐵山,餘衆尚數萬;遣執失思力入見,謝罪,請舉國内附,身自入朝。上遣鴻臚卿唐儉等慰撫之,又詔李靖將兵迎頡利。頡利外爲卑辭,内實猶豫,欲俟草靑馬肥,亡入漠北。靖引兵與李世勣會白道,相與謀曰:「頡利雖敗,其衆猶盛,若走度磧北,保依九姓,道阻且遠,追之難及。今詔使至彼,虜必自寬,若選精騎一萬,齎二十日糧往襲之,不戰可擒矣。」以其謀告張公謹,公謹曰:「詔書已許其降,使者在彼,奈何撃之!」靖曰:「此韓信所以破齊也。唐儉輩何足惜!」遂勒兵夜發,世勣繼之,軍至陰山,遇突厥千餘帳,俘以隨軍。頡利見使者,大喜,意自安。靖使武邑蘇定方帥二百騎爲前鋒,乘霧而行,去牙帳七里,虜乃覺之。頡利乘千里馬先走,靖軍至,虜衆遂潰。唐儉脱身得歸。靖斬首萬餘級,俘男女十餘萬,獲雜畜數十萬,殺隋義成公主,擒其子疊羅施。頡利帥萬餘人欲度磧,李世勣軍於磧口,頡利至,不得度,其大酋長皆帥衆降,世勣虜五萬餘口而還。斥地自陰山北至大漠,露布以聞。
3.甲辰、李靖が陰山にて、突厥の頡利可汗を破った。その経緯は、以下の通り。
 頡利可汗は敗北した後、鐵山へ逃げ込んだが、手勢は尚も数万を擁していた。彼は執失思力を入見させて謝罪し、属国となって自ら入朝すると請願した。そこで上は、鴻臚卿唐倹等を派遣してこれを慰撫し、李靖へは兵を率いて頡利を迎えるよう詔した。
 頡利は、上辺は言葉を謙っていたが、内心はまだ諦めておらず、草が生い茂り馬が肥えるのを待って漠北へ亡命しようと欲していた。李靖は兵を率いて白道にて李世勣と合流し、共に謀った。
「頡利は敗北したけれども、その手勢はまだ多い。もしも奴等が磧北へ逃げ込み、あそこで勢力を持つ九つの氏族を従えたならばどうなる。道は険しく遠い。追及は困難だ。今、詔使が奴等の牙帳へ行っているので、虜は必ず油断している。もしも精騎一万に二十日分の兵糧を持たせてこれを襲撃すれば、戦わずに擒にできるぞ。」
 そして、これを張公謹へ告げた。すると、公謹は言った。
「詔書が既に降伏を赦しているし、使者が奴等の元にいるのです。なんで攻撃できますか!」
 靖は言った。
「これは韓信が斉を破った計略だ。唐倹など、惜しむほどの男か!」
 遂に、兵を指揮して夜半に出発した。李世勣がこれに継ぐ。陰山にて突厥の千余帳に遭遇したので、これを全て捕虜にして従軍させた。
 頡利は、朝廷から使者が来たので大喜びして安心しきっていた。靖は、武邑の蘇定方へ二百騎を与えて前鋒として、霧に乗じて行軍した。牙帳から七里の所で、虜は敵襲に気がついた。頡利は千里の馬に乗って真っ先に逃げる。靖の本隊が進軍して来ると、虜軍は遂に潰滅した。
 唐倹は、単身脱出した。靖は一万余の首を斬り、男女十余万を捕虜とし、家畜数十万を捕獲した。隋の義成公主を殺し、その子の畳羅施を擒にした。
 頡利は万余人を率いて磧を渡ろうとしたが、李世勣が磧口に陣を布いたので、逃げ込めなかった。麾下の大酋長達は皆、手勢を率いて降伏した。李世勣は五万余を捕虜にして帰った。
 この戦役で、陰山の北から大漠へ至る土地から突厥を斥け、唐の領土としたことを上聞した。
 丙午,上還宮。
4.丙午、上が宮へ帰った。
 甲寅,以克突厥赦天下。
5.甲寅、突厥へ勝利したので、天下へ赦を下した。
 以御史大夫温彦博爲中書令,守侍中王珪爲侍中;守戸部尚書戴冑爲戸部尚書,參預朝政;太常少卿蕭瑀爲御史大夫,與宰臣參議朝政。
6.御史大夫温彦博を中書令とし、守侍中の王珪を侍中とした。守戸部尚書戴冑を戸部尚書として、朝政に参与させる。太常少卿蕭瑀を御史大夫とし、宰臣と共に朝政へ参議させる。
 三月,戊辰,以突厥夾畢特勒阿史那思摩爲右武候大將軍。
  四夷君長詣闕請上爲天可汗,上曰:「我爲大唐天子,又下行可汗事乎?」羣臣及四夷皆稱萬歳。是後以璽書賜西北君長,皆稱天可汗。
  庚午,突厥思結俟斤帥衆四萬來降。
  丙子,以突利可汗爲右衞大將軍、北平郡王。
  初,始畢可汗以啓民母弟蘇尼失爲沙鉢羅設,督部落五萬家,牙直靈州西北。及頡利政亂,蘇尼失所部獨不攜貳。突利之來奔也,頡利立之爲小可汗。及頡利敗走,往依之,將奔吐谷渾。大同道行軍總管任城王道宗引兵逼之,使蘇尼失執送頡利。頡利以數騎夜走,匿于荒谷。蘇尼失懼,馳追獲之。庚辰,行軍副總管張寶相帥衆奄至沙鉢羅營,俘頡利送京師,蘇尼失舉衆來降,漠南之地遂空。
7.三月、戊辰、突厥の夾畢特勒阿史那思摩を右武候大将軍とした。
 四夷の君長が闕を詣でて、上へ天可汗と称するよう請願した。上は言った。
「我は大唐の天子なのに、この上可汗のことまで行うのか!」
 群臣及び四夷は皆、万歳と称した。これ以後、西北の君長へ賜る璽書へは、皆、天可汗と称するようになった。
 庚午、突厥の思結俟斤が部族四万を率いて来降した。
 丙子、突利可汗を右衙大将軍、北平郡王とした。
 昔、始畢可汗は啓民の母の弟の蘇尼失を沙鉢羅設とし、五万の民を与えて霊州の西北へ住ませた。やがて頡利の政治が乱れたが、蘇尼失だけは忠実にこれへ仕えた。突利が唐へ逃げ込むと、頡利は彼を小可汗へ立てた。
 今回敗走した頡利可汗は彼の元へ逃げ込み、共に吐谷渾へ亡命しようと考えた。大同道行軍総管任城王道宗が、兵を率いてこれへ迫り、蘇尼失へ頡利を捕らえて引き渡すよう要請した。頡利は夜半、数騎にて逃げ出して荒谷へ隠れた。蘇尼失は懼れ、追撃して捕らえた。
 庚辰、行軍副総管張寶相が軍を率いて沙鉢羅の営へ迫り、頡利を捕らえて京師へ送った。蘇尼失は部落を率いて来降し、漠南は遂に空白地となった。
 蔡成公杜如晦疾篤,上遣太子問疾,又自臨視之。甲申,薨。上毎得佳物,輒思如晦,遣使賜其家。久之,語及如晦,必流涕,謂房玄齡曰:「公與如晦同佐朕,今獨見公,不見如晦矣!」
8.蔡成公杜如晦の病気が篤くなった。上は太子を見舞いに遣らせたり、自ら出向いたりした。
 甲申、薨じる。
 上は、佳い物を得るたびに如晦を思い出し、使者を派遣してその家へ贈った。この後も、話をしていて如晦の言葉が出てくると、必ず涙を流し、房玄齢へ言うのだった。
「公と如晦は二人で朕の補佐をしていてくれた。今、ただ公独りを見るだけで如晦がいない!」
 突厥頡利可汗至長安。夏,四月,戊戌,上御順天樓,盛陳文物,引見頡利,數之曰:「汝藉父兄之業,縱淫虐以取亡,罪一也。數與我盟而背之,二也。恃強好戰,暴骨如莽,三也。蹂我稼穡,掠我子女,四也。我宥汝罪,存汝社稷,而遷延不來,五也。然自便橋以來,不復大入爲寇,以是得不死耳。」頡利哭謝而退。詔館於太僕,厚廩食之。
  上皇聞擒頡利,歎曰:「漢高祖困白登,不能報;今我子能滅突厥,吾託付得人,復何憂哉!」上皇召上與貴臣十餘人及諸王、妃、主置酒凌煙閣,酒酣,上皇自彈琵琶,上起舞,公卿迭起爲壽,逮夜而罷。
  突厥既亡,其部落或北附薛延陀,或西奔西域,其降唐者尚十萬口,詔羣臣議區處之宜。朝士多言:「北狄自古爲中國患,今幸而破亡,宜悉徙之河南兗、豫之間,分其種落,散居州縣,教之耕織,可以化胡虜爲農民,永空塞北之地。」中書侍郎顏師古以爲:「突厥、鐵勒皆上古所不能臣,陛下既得而臣之,請皆置之河北。分立酋長,領其部落,則永永無患矣。」禮部侍郎李百藥以為:「突厥雖云一國,然其種類區分,各有酋帥。今宜因其離散,各即本部署爲君長,不相臣屬;縱欲存立阿史那氏,唯可使存其本族而已。國分則弱而易制,勢敵則難相呑滅,各自保全,必不能抗衡中國。仍請於定襄置都護府,爲其節度,此安邊之長策也。」夏州都督竇靜以爲:「戎狄之性,有如禽獸,不可以刑法威,不可以仁義教,況彼首丘之情,未易忘也。置之中國,有損無益,恐一旦變生,犯我王略。莫若因其破亡之餘,施以望外之恩,假之王侯之號,妻以宗室之女,分其土地,析其部落,使其權弱勢分,易爲羈制,可使常爲藩臣,永保邊塞。」温彦博以爲:「徙於兗、豫之間,則乖違物性,非所以存養之也。請準漢建武故事,置降匈奴於塞下,全其部落,順其土俗,以實空虚之地,使爲中國扞蔽,策之善者也。」魏徴以爲:「突厥世爲寇盜,百姓之讎也;今幸而破亡,陛下以其降附,不忍盡殺,宜縱之使還故土,不可留之中國。夫戎狄人面獸心,弱則請服,強則叛亂,固其常性。今降者衆近十萬,數年之後,蕃息倍多,必爲腹心之疾,不可悔也。晉初諸胡與民雜居中國,郭欽、江統,皆勸武帝驅出塞外以絶亂階,武帝不從。後二十餘年,伊、洛之間,遂爲氈裘之域,此前事之明鑒也!」彦博曰:「王者之於萬物。天覆地載,靡有所遺。今突厥窮來歸我,奈何棄之而不受乎!孔子曰:『有教無類。』若救其死亡,授以生業,教之禮義,數年之後,悉爲吾民。選其酋長,使入宿衞,畏威懷德,何後患之有!」上卒用彦博策,處突厥降衆,東自幽州,西至靈州;分突利故所統之地,置順、祐、化、長四州都督府;又分頡利之地爲六州,左置定襄都督府,右置雲中都督府,以統其衆。
  五月,辛未,以突利爲順州都督,使帥其部落之官。上戒之曰:「爾祖啓民挺身奔隋,隋立以爲大可汗,奄有北荒,爾父始畢反爲隋患。天道不容,故使爾今日亂亡如此。我所以不立爾爲可汗者,懲啓民前事故也。今命爾爲都督,爾宜善守中國法,勿相侵掠,非徒欲中國久安,亦使爾宗族永全也!」
  壬申,以阿史那蘇尼失爲懷德郡王,阿史那思摩爲懷化郡王。頡利之亡也,諸部落酋長皆棄頡利來降,獨思摩隨之,竟與頡利倶擒,上嘉其忠,拜右武候大將軍,尋以爲北開州都督,使統頡利舊衆。
  丁丑,以右武衞大將軍史大奈爲豐州都督,其餘酋長至者,皆拜將軍中郎將,布列朝廷,五品已上百餘人,殆與朝士相半,因而入居長安者近萬家。
9.突厥の頡利可汗が長安へ到着した。
 夏、四月、戊戌、上は順天楼にて文物を盛大に並べ、頡利を引き出すと、彼の罪状を数え上げた。
「汝は父兄の業を受け継ぎながら淫乱暴虐の挙げ句に国を滅ぼしてしまった。これが罪の一である。我と何度も盟約を結びながら、その度に背いた。これが第二。強盛を恃んで戦争を好み、人骨を雑草のように野にばらまいた。これが第三。我が田畑を蹂躙し我が子女を掠めた。これが第四。我は汝の罪を赦し汝の社稷を存続させてやったのに、ぐずついて来朝しなかった。これが第五。だが、便橋以来、大規模な来寇をしなかった。だから、命だけは助けてやろう。」
 頡利は哭いて感謝し、退出した。太僕の館に泊まらせ、厚く持てなすよう詔が降りる。
 上皇は頡利が擒になったと聞いて、嘆じて言った。
「漢の高祖でさえ白登の困窮へ報復できなかったのに、我が子は突厥を滅ぼした。我は好い跡取りを持った。もう、何の心配もないぞ!」
 上皇は、上と貴臣十余人及び諸王や妃を召し出して凌煙閣にて宴会を開いた。酒がたけなわになると、上皇は自ら琵琶を弾いた。上は立って舞い、公卿は代わる代わる立ち上がって寿ぎを為し、夜まで続いた。
 突厥が滅亡すると、その部落は、ある者は北方の薛延陀へ付き、あるものは西域へ逃げたが、唐へ降伏する者もなお十万口はいた。群臣へ彼等の処遇を検討するよう詔が降りると、朝士の多くは言った。
「北狄は、古来から中国の患いでしたが、今、幸いにして滅亡しました。彼等は全て河南の兗、豫近辺へ移住させ、種落へ分けて州県へバラバラに住ませて耕織を教えましょう。胡虜を農民に変え、塞北の地を長く空虚にするのです。」
 だが、中書侍郎顔師古は提案した。
「突厥や鐵勒は、上古から臣下にできない民でした。今、陛下は既にこれを臣下にいたしました。これを皆河北へ置き、酋長を分立させてその各々の部落を治めさせましょう。そうすれば、永く患いはなくなります。」
 礼部侍郎李百薬が提案した。
「突厥は一つの国とはいえ、その種類は細分され、各々酋長に率いられています。今、彼等は離散したのですから、各々もとの部署のみの君長として、互いに臣従させないようにしましょう。たとえ阿史那氏を立てるにしても、彼にもとの部族のみしか支配させません。国が分裂すれば弱くなり、制圧し安くなります。ドングリの背比べになれば呑滅しあうことが難しく、各々の国が保全され、中国と拮抗する勢力にはなり得ません。そして、定襄へ都護府を設置して、各酋長はその節度を受けさせましょう。これこそ辺域を安泰にする長久の策です。」
 夏州都督竇静は提案した。
「戎狄の性は、禽獣のようなもの。刑法で威圧することも、仁義で教えることもできません。ましてや、彼等は国が滅ぼされた怨みを忘れませんので、これを中国へ置いても損失こそあれ、何の利益もありません。彼等は、一旦変事が起これば、我等が領土を犯します。彼等滅亡の余族へは、望外の恩を施しましょう。彼等へ王侯の称号を与え、宗室の娘を下嫁させ、その土地を分けて各部落を自立させるのです。可汗の権力を弱め勢力を分散させれば、統制が容易です。彼等をいつまでも藩臣と称させ、辺塞を長く保つことができましょう。」
 温彦博が提案した。
「彼等を兗、豫近辺へ移住させても、彼等の習性は我等と異なっていますので、撫育する事になりません。どうか、漢の建武帝の故事に準じてください。建武帝は、降伏した匈奴を塞外へ置き、その部落を保全し、彼等の土俗をそのままにして、空虚の土地を満たし、中国の藩塀としました。これこそ善たる策です。」
 魏徴が提案した。
「突厥は代々寇盗を行い、百姓の仇敵です。今、幸いにして滅亡しました。しかし、彼等が降伏してきたので、陛下が彼等を殺しつくすに忍びないのでしたら、彼等をもとの土地へ帰してやるべきです。中国へ留めてはなりません。それ、戎狄の人間は、人面獣心で、弱ければ降伏するのに強くなったら造反する、これは彼等の習性です。今、降伏した民は十万近くおります。数年経てば倍増し、必ずや心腹の病となります。悔いてはなりません。晋の初めに諸胡は民と中国に雑居しました。郭欽や江統等は皆、彼等を塞外へ追い出して乱の萌芽を摘み取るように武帝へ勧めましたが、武帝は従いませんでした。後、二十余年、伊、洛の地域は遂に毛皮の衣を来て歩くような場所になったのです。これは前事の明鏡です!」
 彦博が言った。
「王者の万物へ対するや、天を覆い地に載せ、残すところ無し、と申します。今、突厥は窮まって我等へ帰順したもの、何でこれを棄てて宜しいでしょうか!孔子も言われました。『教えの違いがあるだけで、人種に違いなど無い。』と。もしも、これを死亡から救い生業を授け、礼楽を教えれば、数年の内に悉く我等の民になります。その酋長を選び宿衞へ入れれば威厳に畏れ恩徳に懐きましょう。なんで後々の憂いがありましょうか!」
 上は遂に彦博の策を用い、降伏した突厥を東は幽州から西は霊州へ至る土地へ住ませた。突利等のもとの統括地は順、祐、化、長の四州に分割して都督府を設置した。又、頡利の土地は六州に分割し、左に定襄都督府を置き、右に雲中都督府を置き、民を統括させた。 五月、辛未、突利を順州都督として、部落を統率させた。上は、彼を戒めて言った。
「汝の祖父啓民は身を挺して隋へ逃れ、隋はこれを大可汗に立て、北の荒野を与えた。それなのに、汝の父の始畢は却って隋の患いとなったのだ。これが天道へ容れられず、今日の汝は乱によってここまで衰退した。我が汝を可汗へ立てないのは、啓民の前事に懲りているからだ。今、汝を都督に命じる。汝は宜しく中国の法を守り、侵略をしてはならない。そうすれば、中国が久しく安泰になるだけではなく、また汝達の宗族も永く全うできるのだ。」
 壬申、阿史那蘇尼失を懐化郡王とした。頡利が亡ぶと諸部落の酋長は皆、頡利を捨てて来降した。ただ思摩のみがこれに従い、遂に頡利と共に擒になった。上はその忠義を嘉し、右武候大将軍に任命し、次いで北開州都督として頡利のもとの部落達を統率させた。
 丁丑、右武衛大将軍史大奈を豊州都督とし、その他の降伏した酋長達も皆将軍中郎将として朝廷へ列席させた。五品以上の者が百余人となり、ほとんど朝士の半ばを占めた。この為、一万家近くが長安へ入居した。
 10辛巳,詔:「自今訟者,有經尚書省判不服,聽於東宮上啓,委太子裁決。若仍不伏,然後聞奏。」
10.辛巳、詔が降りた。
「今後、訴訟した者が尚書省の判決に不服ならば、東宮へ申し出て、太子の裁決を仰げ。もし、それでも不服なら、上聞せよ。」
 11丁亥,御史大夫蕭瑀劾奏李靖破頡利牙帳,御軍無法,突厥珍物,虜掠倶盡,請付法司推科。上特敕勿劾。及靖入見,上大加責讓,靖頓首謝。久之,上乃曰:「隋史萬歳破達頭可汗,有功不賞,以罪致戮。朕則不然,録公之功,赦公之罪。」加靖左光祿大夫,賜絹千匹,加眞食邑通前五百戸。未幾,上謂靖曰:「前有人讒公,今朕意已寤,公勿以爲懷。」復賜絹二千匹。
11.丁亥、御史大夫蕭瑀が、李靖を弾劾した。李靖が頡利の牙帳を破った時、法を無視して軍を動かしたことと、突厥の珍物を略奪したとゆう二件について、法司の裁断を請うたが、上は特敕にて弾劾を禁じた。
 やがて、李靖が入見すると、上は彼を大いに叱りつけ、李靖は頓首して謝った。しばらくして、上は言った。
「隋の史万歳が達頭可汗を破った時、功績はあったが賞されなかったどころか、死罪となってしまった。朕は、そんなことはしない。公の功績を記録し、公の罪を赦そう。」
 そして、李靖へ左光禄大夫を加え、絹千匹を賜り、真食邑通前五百戸を加えた。
 それから間もなく、上は李靖へ言った。
「前は公を讒言する者が居た。今、朕はそれが判った。公も根に持たないでくれ。」
 そして、更に絹二千匹を賜った。
 12林邑獻火珠,有司以其表辭不順,請討之,上曰:「好戰者亡,隋煬帝、頡利可汗,皆耳目所親見也。小國勝之不武,況未可必乎!語言之間,何足介意!」
12.林邑が火珠を献上した。するとある役人が、彼等の言葉が不遜だから討伐しようと請願した。上は言った。
「戦争を好む者は亡ぶ。隋の煬帝や頡利可汗は、皆もその目で見、その耳で聞いているではないか。小国に勝っても武ではない。ましてや、彼等が造反すると決まったわけではないぞ!言葉尻など、なんで気にするほどのことだろうか!」
 13六月,丁酉,以阿史那蘇尼失爲北寧州都督,以中郎將史善應爲北撫州都督。壬寅,以右驍衞將軍康蘇密爲北安州都督。
13.六月、丁酉、阿史那蘇尼失を北寧州都督とし、中郎将史善応を北撫州都督とした。
 壬寅、右驍衛将軍唐蘇密を北安州都督とした。
 14乙卯,發卒脩洛陽宮以備巡幸,給事中張玄素上書諫,以爲:「洛陽未有巡幸之期而預脩宮室,非今日之急務。昔漢高祖納婁敬之説,自洛陽遷長安,豈非洛陽之地不及關中之形勝邪!景帝用晁錯之言而七國搆禍,陛下今處突厥於中國,突厥之親,何如七國?豈得不先爲憂,而宮室可遽興,乘輿可輕動哉!臣見隋氏初營宮室,近山無大木,皆致之遠方,二千人曳一柱,以木爲輪,則戞摩火出,乃鑄鐵爲轂,行一二里,鐵轂輒破,別使數百人齎鐵轂隨而易之,盡日不過行二三十里,計一柱之費,已用數十萬功,則其餘可知矣。陛下初平洛陽,凡隋氏宮室之宏侈者皆令毀之,曾未十年,復加營繕,何前日惡之而今日效之也!且以今日財力,何如隋世?陛下役瘡痍之人,襲亡隋之弊,恐又甚於煬帝矣!」上謂玄素曰:「卿謂我不如煬帝,何如桀、紂?」對曰:「若此役不息,亦同歸于亂耳!」上嘆曰:「吾思之不熟,乃至於是!」顧謂房玄齡曰:「朕以洛陽土中,朝貢道均,意欲便民,故使營之。今玄素所言誠有理,宜即爲之罷役。後日或以事至洛陽,雖露居亦無傷也。」仍賜玄素綵二百匹。
14.乙卯、巡幸(この場合は、遷都を意味するのか?)に備えて、兵卒を徴発して洛陽宮を修復した。すると、給事中張玄素が、これを諫めた。その大意に曰く、
「洛陽は、まだ巡幸の時期ではないのに、予め宮室を修復されていますが、これは今日の急務ではありません。昔、漢の高祖は婁敬の説を納れて洛陽から長安へ遷都しました。これは、洛陽の地形が長安の険阻さに及ばないからではありませんか!景帝は晁錯の意見を用いて七国と戦いましたが、陛下は今、突厥問題に対処されています。突厥は、七国よりも親しいのですか?先の憂いを無視して宮室を造営し乗輿を軽々しく動かすなど、どうして許されましょうか!臣は、隋氏が始めて宮室を造営した時、これを見ておりました。この時は、近くの山に大木がなかったので遠方から持ってきましたが、それは余りに大きくて一柱を曳くのに二千人を要し、車に載せればその重さの余り木製の車輪ならば地面に強くこすれて出火してしまうので、輪の周りを鉄で覆ったほどです。ですが、一、二里も進むと鉄のおおいは破れるので、別に数百人で鉄を交換させました。これでは一日かけても二、三十里としか進まず、一柱の費用は数十万も掛かりました。その他も推して知れます。陛下は洛陽を平定した時、隋氏の宮室があまりに豪奢だったので、これを皆、壊させました。それから十年と経っていないのに、再び造営させます。昔はこれを憎みながら、なんで、今はこれに倣うのですか!それに、今日の財力が、隋の時代ほど豊かでしょうか?陛下は傷ついた人々をこき使って、亡隋の弊を踏襲しております。これでは煬帝よりも甚だしいではありませんか!」
 上は玄素へ言った。
「卿は、我を煬帝以下だと言ったが、桀や紂と同列か?」
「この工事を止めなければ、同じように動乱が起こりますぞ!」
 上は嘆じて言った。
「我は軽く考えていたが、そんなに酷かったか!」
 顧みて、房玄齢へ言った。
「洛陽はこの国の中央にあるので、ここを都にすれば、朝貢がどこからも遠くない。朕は民のために便利だと思って、宮室を造営させたのだ。だが、今、玄素の言ったことも誠に理に叶っている。今すぐ労役を中止せよ。後日、あるいは洛陽へ御幸する事があったとしても、露営したところで構わないのだ。」
 そして、玄素へ綏二百匹を賜下した。
 15秋,七月,甲子朔,日有食之。
15.秋、七月。甲子朔、日食があった。
 16乙丑,上問房玄齡、蕭瑀曰:「隋文帝何如主也?」對曰:「文帝勤於爲治,毎臨朝,或至日昃,五品已上,引坐論事,衞士傳餐而食;雖性非仁厚,亦勵精之主也。」上曰:「公得其一,未知其二。文帝不明而喜察,不明則照有不通,喜察則多疑於物。事皆自決,不任羣臣。天下至廣,一日萬機,雖復勞神苦形,豈能一一中理!群臣既知主意,唯取決受成,雖有愆違,莫敢諫爭,此所以二世而亡也。朕則不然。擇天下賢才,置之百官,使思天下之事,關由宰相,審熟便安,然後奏聞。有功則賞,有罪則刑,誰敢不竭心力以修職業,何憂天下之不治乎!」因敕百司:「自今詔敕行下有未便者,皆應執奏,毋得阿從,不盡己意。」
16.乙丑、上が房玄齢と蕭瑀へ訊ねた。
「隋の文帝は、どんな主君だ?」
 対して答えた。
「文帝は、政治に励まれた方でした。朝廷へ臨むと、あるいは日暮れまで政務が終わらず、五品以上と引き続き事を論じ、晩餐をしつらえて共に食することもございました。仁慈厚い人柄ではありませんでしたが、精励の主君だといえます。」
 上は言った。
「公は一を知って二を知らない。文帝は不明にして明察を喜んだ。不明ならば照らしても通じないことがあり、明察を喜べば猜疑心が強くなり、全てのことを自分で決断して群臣へ任せなくなる。天下は広く、一日に万の事件が起こる。心を砕き体に鞭打っても、なんで一々理に中てることができようか!群臣は主君の意向を知っていたので、ただ決定を実践するだけちなり、失策に気がついても諫争しなかった。これが、二世で滅亡した原因だ。だが、朕は違うぞ。天下の賢才を選び百官に抜擢し、天下のことを思わせ、宰相を忠臣にじっくりと考慮させた後に上奏させている。功績があれば賞し、罪があれば罰する。だから誰もが心を尽くして職業を修めることに努めるのだ。何で天下が治まらないことを憂えようか!」
 そして、百司へ敕した。
「今後、下された詔敕に不備な点があれば、皆、上奏するように、阿諛追従して意を尽くさずに済ませてはならぬ。」
 17癸酉,以前太子少保李綱爲太子少師,以兼御史大夫蕭瑀爲太子少傅。
  李綱有足疾,上賜以歩輿,使之乘至閤下,數引入禁中,問以政事。毎至東宮,太子親拜之。太子毎視事,上令綱與房玄齡侍坐。
  先是,蕭瑀與宰相參議朝政,瑀氣剛而辭辯,房玄齡等皆不能抗,上多不用其言。玄齡、魏徴、温彦博嘗有微過,瑀劾奏之,上竟不問。瑀由此怏怏自失,遂罷御史大夫,爲太子少傅,不復預聞朝政。
17.癸酉、前の太子少保李綱を太子少師とし、兼御史大夫蕭瑀を太子少傅とした。
 李綱には足の病があったので、上は歩輿(歩いて挽く輿)を賜り、これに乗って閣下までやって来させた。また、屡々禁中へ引き入れて政事を問うた。彼が東宮へ至るたびに、太子は自ら拝礼した。太子が事を視る時には、上は綱と房玄齢を傍らに坐らせた。
 少し前の話だが、蕭瑀は宰相と共に朝政に参議していた。瑀は剛直で弁が立ったので、房玄齢等は抗弁できなかったが、上は彼の提案を余り用いなかった。かつて、玄齢、魏徴、温彦博にちょっとした過失があった時、瑀は弾劾したが、上は不問に処した。瑀は、これ以来怏々としてやる気をなくし、遂に御史大夫を辞任して太子少傅となり、朝政へ参与しなくなった。
 18西突厥種落散在伊吾,詔以涼州都督李大亮爲西北道安撫大使,於磧口貯糧,來者賑給,使者招慰,相望於道。大亮上言:「欲懷遠者必先安近,中國如本根,四夷如枝葉,疲中國以奉四夷,猶拔本根以益枝葉也。臣遠考秦、漢,近觀隋室,外事戎狄,皆致疲弊。今招致西突厥,但見勞費,未見其益。況河西州縣蕭條,突厥微弱以來,始得耕獲;今又供億此役,民將不堪,不若且罷招慰爲便。伊吾之地,率皆沙磧,其人或自立君長,求稱臣内屬者,羈縻受之,使居塞外,爲中國藩蔽,此乃施虚惠而收實利也。」上從之。
18.西突厥の種落は伊吾に散在していた。涼州都督李大亮を西北道安撫大使と為し、多くの国から使者が次々とやって来るように、磧口に食糧を備蓄して来る者へ振る舞い、使者を招き慰めるよう、詔が降りた。すると、大亮は上言した。
「遠い者から懐かれたければ、まず近いものを安定させなければなりません。中国は大本で、四夷は枝葉です。中国を疲れさせて四夷へ奉仕するなど、大本を抜いて枝葉を増すようなもの。遠くは秦・漢を考え、近くは隋室を観ても、戎狄へちょっかいを出したものは、皆、疲弊しています。今、西突厥を招致しましたが、これは出費がかさんだだけで、まだ利益がありません。ましてや河西の州県は生気がなく、突厥が微弱になて、始めて農耕生活ができるようになった土地です。それなのに、今、更にこの役を押しつけられては、民は堪りません。招慰は止めるのが妥当です。伊吾の地は砂礫ばかり。中に自立して主君となり臣従を申し出る者が出たならば、手懐けてこれを受け入れ、塞外に住ませたままで中国の藩塀としましょう。これこそ虚恵を施して実利を収めると申すものです。」
 上は、これに従った。
 19八月,丙午,詔以「常服未有差等,自今三品以上服紫,四品、五品服緋,六品、七品服綠,八品服靑;婦人從其夫色。」
19.八月、丙午、詔が降りた。
「今、服装は官位によって差がない。今後は三品以上は紫の服、四品・五品は緋色の服、六品・七品は緑色の服、八品は青の服とせよ。なお、婦人はその夫と同色を着せよ。」
 20甲寅,詔以兵部尚書李靖爲右僕射。靖性沈厚,毎與時宰參議,恂恂如不能言。
20.甲寅、兵部尚書李靖を右僕射にすると詔が降りた。靖は沈厚な人柄で、宰相達と会議をしている時は、恂々として、まるで喋れないかのようだった。
 21突厥既亡,營州都督薛萬淑遣契丹酋長貪沒折説諭東北諸夷,奚、霫、室韋等十餘部皆内附。萬淑,萬均之兄也。
21.突厥が滅亡したので、営州都督薛萬淑は、契丹の酋長貪没折を東北の諸夷へ派遣して説諭して廻らせた。すると、奚、霫、室韋等十余部が皆、内附した。
 22戊午,突厥欲谷設來降。欲谷設,突利之弟也。頡利敗,欲谷設奔高昌,聞突利爲唐所禮,遂來降。
22.戊午、突厥の欲谷設が来降した。
 欲谷設は突利の弟である。突利が敗北すると、欲谷設は高昌へ亡命したが、今回突利が唐から礼遇されていると聞いたので、遂に来降した。
 23九月,戊辰,伊吾城主入朝。隋末,伊吾内屬,置伊吾郡;隋亂,臣於突厥。頡利既滅,舉其屬七城來降,因以其地置西伊州。
23.九月、戊辰。伊吾城主が入朝した。
 隋の末期、伊吾が内属国したので伊吾郡が設置された。しかし、隋が乱れると、彼等は突厥へ臣従した。頡利が滅亡したので、その七城を挙げて来降した。そこで、この地を西伊州とした。(六年に、伊州と改称される。)
 24思結部落飢貧,朔州刺史新豐張儉招集之,其不來者,仍居磧北,親屬私相往還,儉亦不禁。及儉徙勝州都督,州司奏思結將叛,詔儉往察之。儉單騎入其部落説諭,徙之代州,即以儉檢校代州都督,思結卒無叛者。儉因勸之營田,歳大稔。儉恐虜蓄積多,有異志,奏請和糴以充邊儲。部落喜,營田轉力,而邊備實焉。
24.思結の部落は貧しく、飢えていた。朔州刺史の新豊の張倹がこれを招集した。これに応じない者は磧北へ住んだが、親しい者とは行き来しており、倹も、それは禁じなかった。
 やがて、倹が勝州都督となって転任すると、州司が、「思結が造反しようとしている」と上奏した。そこで、倹へ実情の査察に行くよう詔が降りた。倹は、単騎でその部落へ行って説諭し、彼等を代州へ移住させた。そして倹が検校代州都督となった。思結は、結局造反しなかった。
 倹は、彼等へ耕作を勧めた。すると、この年は大豊作だった。倹は、虜が多量の食糧を備蓄すると不穏なことを考えるかもしれないと恐れた。そこで、余った穀物は朝廷が買い上げて、辺境の兵糧として使用するよう上奏し、裁可された。部落は喜び、野良仕事に精を出すようになったので、辺境の兵糧は満ち足りた。
 25丙子,開南蠻地置費州、夷州。
25.丙子、南蛮の地を開拓して費州と夷州を設置した。
 26己卯,上幸隴州。
26.己卯、上が隴州へ御幸した。
 27冬,十一月,壬辰,以右衞大將軍侯君集爲兵部尚書,參議朝政。
27.冬、十一月、壬辰、右衞大将軍侯君集を兵部尚書とし、朝政へ参議させた。
 28甲子,車駕還京師。
28.甲子、車駕が京師へ帰った。
 29上讀明堂鍼灸書,云「人五藏之系,咸附於背。」戊寅,詔自今毋得笞囚背。
29.上が明堂鍼灸書を読んで、言った。
「人の五臓の系列は、殆ど背中にあるのだな。」
 戊寅、今後、囚人の背中を鞭打たないようにと、詔した。
 30十二月,甲辰,上獵於鹿苑;乙巳,還宮。
30.十二月、甲辰、上が鹿苑にて猟をした。乙巳、宮へ帰る。
 31甲寅,高昌王麴文泰入朝。西域諸國咸欲因文泰遣使入貢,上遣文泰之臣厭怛紇干往迎之。魏徴諫曰:「昔光武不聽西域送侍子,置都護,以爲不以蠻夷勞中國。今天下初定,前者文泰之來,勞費已甚,今借使十國入貢,其徒旅不減千人。邊民荒耗,將不勝其弊。若聽其商賈往來,與邊民交市,則可矣,儻以賓客遇之,非中國之利也。」時厭怛紇干已行,上遽令止之。
31.甲寅、高昌王麹文泰が入朝した。唐への臣従を望んでいる西域諸国は、文泰へ使者を派遣して、入貢した。そこで上は、文泰の臣下の厭怛紇干へ迎えに行かせようとしたが、魏徴が諫めた。
「昔、漢の孝武帝は、西域が王子を人質に送るとゆうのを聞かず、都護を設置しました。蛮夷の為に中国を疲弊させない為です。今、天下は平定されたばかり。前に文泰が来た時でさえ、費用がずいぶんと掛かったのです。今、もしも十ヶ国の入貢があれば、その一行は千人を下りません。辺民は耕作を荒らされ、その苦しみに耐えられないでしょう。もしも彼等が通商を求めてきたから辺民と市を開いて交流させるとゆうのなら、よいでしょう。ですが、賓客としてこれを遇するのは、中国の利ではありません。」
 この時、厭怛紇干は既に出立していた。上は、至急命令を下して、これを止めた。
 32諸宰相侍宴,上謂王珪曰:「卿識鑒精通,復善談論,玄齡以下,卿宜悉加品藻,且自謂與數子何如?」對曰:「孜孜奉國,知無不爲,臣不如玄齡。才兼文武,出將入相,臣不如李靖。敷奏詳明,出納惟允,臣不如温彦博。處繁治劇,衆務畢舉,臣不如戴冑。恥君不及堯、舜,以諫爭爲己任,臣不如魏徴。至於激濁揚清,嫉惡好善,臣於數子,亦有微長。」上深以爲然,衆亦服其確論。
32.諸宰相と宴会を開いた時、上は王珪へ言った。
「卿は、鏡に精通しているし、談論が巧い。玄齢以下の臣下達へ、卿は悉く品評を加え、自ら彼等と優劣を比べてみよ。」
 王珪は、答えた。
「御国の為に倦まずに励み、知りて行わないものはない。これは、臣は玄齢にかないません。文武の才を兼ね備え、出ては将軍入れば宰相。これは、臣は李靖にかないません。上奏が詳細で明確、出納が満ちていることでは臣は温彦博に勝てません。煩雑なものも劇的に治め、多くの事務をすっかり片付ける。これは、臣は戴冑にかないません。君が堯、舜に及ばないことを恥じ、諫争を自分の任とする事では、臣は魏徴にかないません。ですが、濁をかきたて清を揚げ、悪を憎んで善を好むことでは、臣は彼等に勝っています。」
 上は、深く承服し、皆もその論評の的確さに感服した。
 33上之初即位也,嘗與羣臣語及教化,上曰:「今承大亂之後,恐斯民未易化也。」魏徴對曰:「不然。久安之民驕佚,驕佚則難教;經亂之民愁苦,愁苦則易化。譬猶飢者易爲食,渇者易爲飲也。」上深然之。封德彝非之曰:「三代以還,人漸澆訛,故秦任法律,漢雜霸道,蓋欲化而不能,豈能之而不欲邪!魏徴書生,未識時務,若信其虚論,必敗國家。」徴曰:「五帝、三王不易民而化,昔黄帝征蚩尤,顓頊誅九黎,湯放桀,武王伐紂,皆能身致太平,豈非承大亂之後邪!若謂古人淳樸,漸至澆訛,則至于今日,當悉化爲鬼魅矣,人主安得而治之!」上卒從徴言。
  元年,關中饑,米斗直絹一匹;二年,天下蝗;三年,大水。上勤而撫之,民雖東西就食,未嘗嗟怨。是歳,天下大稔,流散者咸歸郷里,米斗不過三、四錢,終歳斷死刑纔二十九人。東至于海,南極五嶺,皆外戸不閉,行旅不齎糧,取給於道路焉。上謂長孫無忌曰:「貞觀之初,上書者皆云:『人主當獨運威權,不可委之臣下。』又云:『宜震耀威武,征討四夷。』唯魏徴勸朕『偃武修文,中國既安,四夷自服。』朕用其言。今頡利成擒,其酋長並帶刀宿衞,部落皆襲衣冠,徴之力也,但恨不使封德彝見之耳!」徴再拜謝曰:「突厥破滅,海内康寧,皆陛下威德,臣何力焉!」上曰:「朕能任公,公能稱所任,則其功豈獨在朕乎!」
33.上が即位した頃、群臣と語っているうちに、話題が教化の事へ及んだ。この時、上は言った。
「今、大乱の直後だ。この民を教化するのは大変だろう。」
 すると、魏徴が言った。
「そうではありません。泰平の後の民は、驕慢で怠け者になります。驕怠ならば、教化は困難です。それに対して戦乱の後の民は愁しみ苦しんでおります。愁苦の民は教化しやすいのです。例えるならば、飢えた者は何でも食べ渇いた者は何でも飲む、とゆう事です。」
 上は深く頷いた。
 すると、封徳懿が反論した。
「三代以来、人々は次第に狡猾になってきました。ですから秦は法律を厳しくし、漢は覇道を交えたのです。彼等は、民を教化させたかったのにそれができなかったから、このような詐術で治めたのではありませんか。彼等とて、できるのならば民を教化したかったに違いありません!魏徴は書生で実務を知らないのです。彼の虚論を信じたら、必ずや国を滅ぼしてしまいますぞ!」
 魏徴は言った。
「五帝や三王は民を入れ替えて教化したのではありません。昔、黄帝は蚩尤を征し、顓頊は九黎を誅し、湯王は桀を追放し、武王は紂を伐し、そして彼等は皆太平をもたらしましたが、それは大乱の後を承けていたのではありませんか!もしも、古人は純朴だったが、次第に狡猾になって今日へ至り、今では全員が鬼畜となり果ててまったと言うのなら、人主はどうやって世界を治めればよいのですか!」
 上は遂に魏徴の意見に従った。
 元年、関中が飢饉で、米一斗の値段が絹一匹になった。二年には天下に蝗害が起こった。三年は大水が出た。しかし、上は勤めて民を慰撫したので、民は食糧を得る為に東西へ移動させられたが、怨まなかった。
 この年、天下は大豊作だった。放浪していた民は殆ど郷里へ戻った。米は一斗で三、四銭に過ぎず、刑死した者は一年で二十九人しか出なかった。東は海へ至り、南は五嶺の上まで、民は皆、外出する時に戸締まりもせず、旅行の時には食糧を持たず、道路に落ちてるものさえ拾わなくなった。
 上は長孫無忌へ言った。
「貞観の初頭には、上書した者は皆、言った。『威権は人主が独占するもの。臣下へ委ねてはなりません。』また言う、『威武を輝かせて四夷を征討しましょう。』と。しかし、魏徴だけは言った。『武を止め、文を修めてください。中国が安泰になれば、四夷は自ら服属してきます。』朕は、この言葉を用いた。今、頡利を擒にし、その酋長や帯刀・宿衛や部落の民は皆我が国の臣下となっている。これは徴の功績だ。ただ、封徳彝にこれを見せられなかったことだけが残念だ!」
 魏徴は再拝して言った。
「突厥を破り滅し、海内を安寧にしたのは、皆、陛下の威徳です。秦に何の功績がありましょうか!」
 上は言った。
「朕は公を抜擢することができて、公はその職務を尽くすことができたから、このような業績が得られたのだ。そうしてみるし、この功績が、どうして朕一人の手柄だろうか!」
 34房玄齡奏:「閲府庫甲兵,遠勝隋世。」上曰:「甲兵武備,誠不可闕;然煬帝甲兵豈不足邪!卒亡天下。若公等盡力,使百姓乂安,此乃朕之甲兵也。」
34.房玄齢が上奏した。
「開府庫の武器や兵卒は、隋時代より余程増強されました。」
 上は言った。
「武器や兵卒の武備は、実に不可欠だ。だが、煬帝の甲兵が少なかったと言うのか!しかし、結局天下を滅ぼした。もしも公等が力を尽くして百姓を安楽にさせれば、それこそ我が甲兵だ。」
 35上謂秘書監蕭璟曰:「卿在隋世數見皇后乎?」對曰:「彼兒女且不得見,臣何人,得見之!」魏徴曰:「臣聞煬帝不信齊王,恆有中使察之,聞其宴飲,則曰『彼營何事得遂而喜!』聞其憂悴,則曰『彼有他念故爾。』父子之間且猶如是,況他人乎!」上笑曰:「朕今視楊政道,勝煬帝之於齊王遠矣。」璟,瑀之兄也。
35.上が秘書監の蕭璟へ言った。
「卿は隋の御代に、何度か皇后を見たことがあるか?」
(煬帝の皇后の蕭后は、蕭璟の一族だった。だから、このように訊ねたのだ。)すると、蕭璟は答えた。
「彼の息子や娘でさえ、蕭后を見ることができなかったのです。臣下如きが、どうして見ることができましょうか!」
 すると、魏徴が言った。
「煬帝は、斉王でさえ信じていなかったと聞きます。いつも監視させて、斉王が宴会を開いたと聞けば、『奴が喜ぶようなことがあるのか!』と言い、憂えて憔悴していると聞けば『おかしな事を考えるからそうなるのだ』と言ったそうです。親子の間でさえそうなのですから、ましてや他人なら尚更ですぞ!」
 上は笑って言った。
「朕は、今、楊政道に会っている。煬帝が斉王へ対するよりも、格段に勝っているな。」 璟は、瑀の兄である。
 36西突厥肆葉護可汗既先可汗之子,爲衆所附,莫賀咄可汗所部酋長多歸之。肆葉護引兵撃莫賀咄,莫賀咄兵敗,逃於金山,爲泥熟設所殺,諸部共推肆葉護爲大可汗。
36.西突厥の肆葉護可汗は、先代可汗の子であり、大勢の民が推戴した。莫賀咄可汗の麾下の酋長達も、大勢彼へ帰属した。肆葉護が兵を率いて莫賀咄を攻撃すると、莫賀咄は敗北して金山へ逃げ込んだ。泥熟設が、これを殺す。諸部は、共に肆葉護を推戴して大可汗とした。
五年(辛卯、六三一)

 春,正月,詔僧、尼、道士致拜父母。
1.春、正月、詔して僧・尼・道士を呼び寄せ父母を拝した。
 癸酉,上大獵於昆明池,四夷君長咸從。甲戌,宴高昌王文泰及羣臣。丙子,還宮,親獻禽于大安宮。
2.癸酉、上が昆明池にて盛大に狩猟を行った。四夷の酋長がつき従う。
 甲戌、高昌王文泰及び群臣と宴会をする。
 丙子、宮へ戻る。自ら大安宮へ禽を献上した。
 癸未,朝集使趙郡王孝恭等上表,以四夷咸服,請封禪;上手詔不許。
3.癸未、朝集使の趙郡王孝恭等が、四夷が服属してきたので封禅をしたいと上表した。上は自ら不許可の詔を降ろした。
 有司上言皇太子當冠,用二月吉,請追兵備儀仗。上曰:「東作方興,宜改用十月。」少傅蕭瑀奏:「據陰陽不若二月。」上曰:「吉凶在人。若動依陰陽,不顧禮義,吉可得乎!循正而行,自與吉會。農時最急,不可失也。」
4.役人達が、皇太子の元服を二月の吉日に行うよう上表し、併せてその為の兵備儀杖を請願した。すると、上は言った。
「東方の耕作が忙しい。十月に行うが良い。」
 すると、少傅の蕭瑀が上奏した。
「陰陽に依れば、二月の方が良いのですが。」
 上は言った。
「吉凶は人にある。もしも陰陽によって動き礼儀を顧みなければ、吉を得ることができるか!正しいことを行えば、吉は自ずからやってくる。農事こそ、最優先だ。失ってはならない。」
 二月,甲辰,詔:「諸州有京觀處,無問新舊,宜悉剗削,加土爲墳,掩蔽枯朽,勿令暴露。」
5.二月、甲辰、詔が降りた。
「諸州の京観(?)は、全て削り壊し土を加えて墳として、枯朽で覆って、決して暴露させるな。」(「京観」が何なのか判らないと、かなり意味が通りにくいです。)
 己酉,封皇弟元裕爲鄶王,元名爲譙王,靈夔爲魏王,元祥爲許王,元曉爲密王。庚戌,封皇子愔爲梁王,惲爲郯王,貞爲漢王,治爲晉王,愼爲申王,囂爲江王,簡爲代王。
6.己酉、皇弟の元裕を鄶王、元名を譙王、霊夔を魏王、元祥を許王、元暁を密王へ封じた。
 庚戊、皇子の愔を梁王に封じ、惲を郯王、貞を漢王、治を晋王、慎を申王、囂を江王、簡を代王へ封じた。
 夏,四月,壬辰,代王簡薨。
7.夏、四月。壬辰、代王簡が卒した。
 壬寅,靈州斛薛叛,任城王道宗等追撃,破之。
8.壬寅、霊州の斛薛が造反した。任城王道宗が追撃してこれを破る。
 隋末,中國人多沒於突厥,及突厥降,上遣使以金帛贖之。五月,乙丑,有司奏,凡得男女八萬口。
9.隋の末期、大勢の中国人が突厥に捕らえられた。突厥が降伏するに及んで、上は使者を派遣して金帛で贖った。
 五月、乙丑、男女凡そ八万人を得たと、役人が上奏した。
 10六月,甲寅,太子少師新昌貞公李綱薨。初,周齊王憲女,孀居無子,綱贍恤甚厚。綱薨,其女以父禮喪之。
10.六月、甲寅、太子少師の新昌貞公李綱が卒した。
 ところで、周の斉王憲の娘は未亡人で子供もいなかったが、李綱は彼女を手厚く保護していた。綱が卒すると、彼女は父親へ対する礼儀で彼を葬った。
 11秋,八月,甲辰,遣使詣高麗,收隋氏戰亡骸骨,葬而祭之。
11.秋、八月、甲辰、高麗へ使者を派遣して、隋氏の起こした戦争で戦死した兵卒達の骸骨を回収し、これを葬って祭った。
 12河内人李好德得心疾,妄爲妖言,詔按其事。大理丞張蘊古奏:「好德被疾有徴,法不當坐。」治書侍御史權萬紀劾奏:「蘊古貫在相州,好德之兄厚德爲其刺史,情在阿縱,按事不實。」上怒,命斬之於市,既而悔之,因詔:「自今有死罪,雖令即決,仍三覆奏乃行刑。」
  權萬紀與侍御史李仁發,倶以告訐有寵於上,由是諸大臣數被譴怒。魏徴諫曰:「萬紀等小人,不識大體,以訐爲直,以讒爲忠。陛下非不知其無堪,蓋取其無所避忌,欲以警策羣臣耳。而萬紀等挾恩依勢,逞其姦謀,凡所彈射,皆非有罪。陛下縱未能舉善以厲俗,奈何昵姦以自損乎!」上默然,賜絹五百匹。久之,萬紀等姦状自露,皆得罪。
12.河内の人李好徳が精神錯乱となり妄りに妖言を吹聴したので、詔が降りてこれを詮議させた。
 大理丞張蘊古が上奏した。
「好徳が病気だった証拠があります。法によれば無罪です。」
 すると、治書侍御史権萬紀が弾劾した。
「蘊古の一族は相州に住んでおりますが、好徳の兄の厚徳はその刺史です。彼に諂って、事実を曲げて無罪にしたのです。」
 上は怒り、蘊古を市にて斬るよう命じた。だが、執行の後これを悔やんで、詔した。
「今後は、死罪の時は、即決の命令が下っても三度覆奏してから執行せよ。」
 権萬紀と侍御史の李仁發は、共に告発で上から寵用されるようになった。以来、諸大臣は屡々譴責を蒙ることとなる。魏徴が諫めた。
「萬紀等は小人で大礼を知りません。暴き立てることを直、讒言を忠と考えています。陛下は、彼等が限度を超えていることをご存知の上で、その忌憚ないところだけを尊重して、群臣達への警告としているだけなのでしょう。ですが、萬紀等はその恩寵をバックに自己の権勢を張り、その姦謀を逞しくしています。彼等が弾劾する者は、ほとんどが無実です。陛下は善を挙げて世俗の民を励ましもしないで、姦人と馴染んで自らを損なわれますのか!」
 上は黙り込み、絹五百匹を賜った。
 しばらくの後、萬紀等の姦状が暴露され、皆、有罪となった。
 13九月,上修仁壽宮,更命曰九成宮。又將修洛陽宮,民部尚書戴冑表諫,以「亂離甫爾,百姓凋弊,帑藏空虚,若營造不已,公私勞費,殆不能堪!」上嘉之曰:「戴冑於我非親,但以忠直體國,知無不言,故以官爵酬之耳。」久之,竟命將作大匠竇璡修洛陽宮,璡鑿池築山,雕飾華靡。上遽命毀之,免璡官。
13.九月、上が仁壽宮を修復し、九成宮と改名した。また、洛陽宮も修復しようとしたが、民部尚書戴冑が上表して諫めた。大意は、以下の通り
「戦乱の直後で、百姓は疲弊しており官庫は空っぽ。もしも造営ばかりしていては、公私共に窮乏して耐えられなくなりますぞ!」
 上は嘉んで言った。
「戴冑は我が一族ではないのに、忠直で国を敬い、知ったら言わぬ事がない。故に、官爵を与えねば報いられない。」
 だが、暫くの後、ついに将作大匠竇璡へ洛陽宮の修復を命じた。璡は池を穿ち築山を作り、彫り物などの飾りで実に豪華に築いた。上は、速やかにこれを壊させ、璡を罷免した。
 14冬,十月,丙午,上逐兔於後苑,左領軍將軍執失思力諫曰:「天命陛下爲華、夷父母,奈何自輕!」上又將逐鹿,思力脱巾解帶,跪而固諫,上爲之止。
14.冬、十月。丙午、上は後苑にて兔を逐った。すると左領軍将軍執失思力が諫めた。
「陛下は華と夷の父母となるべき天命を受けられたのです。なんで自らを軽んじられますのか!」
 上はまた、鹿を逐おうとしたが、思力が巾を脱ぎ跪いて固く諫めたので、上は中止した。
 15初,上令羣臣議封建,魏徴議以爲:「若封建諸侯,則卿大夫咸資俸祿,必致厚斂。又,京畿賦税不多,所資畿外,若盡以封國邑,經費頓闕。又,燕、秦、趙、代倶帶外夷,若有警急,追兵内地,難以奔赴。」禮部侍郎李百藥以爲:「運祚脩短,定命自天,堯、舜大聖,守之而不能固;漢、魏微賤,拒之而不能卻。今使勳戚子孫皆有民有社,易世之後,將驕淫自恣,攻戰相殘,害民尤深,不若守令之迭居也。」中書侍郎顏師古以爲:「不若分王諸子,勿令過大,間以州縣,雜錯而居,互相維持,使各守其境,協力同心,足扶京室;爲置官寮,皆省司選用,法令之外,不得擅作威刑,朝貢禮儀,具爲條式。一定此制,萬世無虞。」十一月,詔:「皇家宗室及勳賢之臣,宜令作鎭藩部,貽厥子孫,非有大故,毋或黜免,所司明爲條例,定等級以聞。」
15.初め、上は群臣へ封建制度について議論するよう命じた。すると魏徴が論じた。
「もしも諸侯を奉献したら、卿大夫は自分の収入を上げるために、必ず重税を課します。また、京畿から上がる賦税は少なく、畿外からの税収でまかなっているのが現状です。もしも畿外をことごとく国邑に封じてしまったら、経費が不足します。また、燕、秦、趙、代といった諸国は夷と隣接しています。外敵が侵入したとき、彼等の兵力だけでは撃退は困難かも知れません。」
 礼部尚書領軍将軍百薬は論じた。
「国祚の長短は天命です。ですから、堯、舜のような大聖は国の守りを固めず、他の賢人へ国を譲りました。秦・漢は微賎な性格ですからこれを拒もうと喘ぎ、結局防ぎきれなかったのです。いま、功臣や一族の子孫へ皆封土を与えたなら、数世代の後、彼等は驕淫自恣になってしまい、互いに戦争して滅ぼしあってしまうでしょう。これでは民は一番苦しんでしまいます。守令を選び任せるべきです。」
 中書侍郎顔師古は論じた。
「王の封土は、全ての諸子へ分割相続させて各封土が大きくならぬようにし、それらの領土の間には州県を混在させて諸侯同志が隣接しないようにします。そうして相互に維持させて各々国境を守らせ、協力同心させたならば、京室を扶けることができるでしょう。官僚は省司に選用させ、法令以外には勝手な刑罰を作らせず、朝貢礼儀はしっかりした様式を成文化しておく。このようにすれば、万世憂いはありません。」
 十一月、詔が降りた。
「皇家の宗室及び勲賢の臣は、鎮藩部を作り子孫へ伝えよ。重大な理由がなければ黜免してはいけない。所司は明文化し、等級を定めて上聞せよ。」
 16丁巳,林邑獻五色鸚鵡,丁卯,新羅獻美女二人;魏徴以爲不宜受。上喜曰:「林邑鸚鵡猶能自言苦寒,思歸其國,況二女遠別親戚乎!」并鸚鵡,各付使者而歸之。
16.丁巳、林邑が五色の鸚鵡を献上した。丁卯、新羅が美女二人を献上した。魏徴は、受け取るのは良くないと意見した。上は喜んで言った。
「林邑の鸚鵡でさえも、なお自ら暑い寒いと口にして、その国へ帰りたがるのだ。ましてや二人の女性を親戚から遠く別れさせて良いものか!」
 そして、鸚鵡も女性も、それぞれ使者へ持ち帰らせた。
 17倭國遣使入貢,上遣新州刺史高表仁持節往撫之;表仁與其王爭禮,不宣命而還。
17.倭国が使者を派遣して入貢した。上は新州刺史高表仁へ節を与えて派遣し、これを慰撫させた。表仁は、その王と礼のことで争い、上の言葉を伝えずに帰ってきた。
 18丙子,上祀圜丘。
18.丙子、上が圜丘を祀った。
 19十二月,太僕寺丞李世南開党項之地十六州、四十七縣。
19.十二月、太僕寺丞李世南が、党項の土地十六州、四十七県を開いた。
 20上謂侍臣曰:「朕以死刑至重,故令三覆奏,蓋欲思之詳熟故也。而有司須臾之間,三覆已訖。又,古刑人,君爲之徹樂減膳。朕庭無常設之樂,然常爲之不啖酒肉,但未有著令。又,百司斷獄,唯據律文,雖情在可矜,而不敢違法,其間豈能盡無冤乎!」丁亥,制:「決死囚者,二日中五覆奏,下諸州者三覆奏;行刑之日,尚食勿進酒肉,内教坊及太常不舉樂。皆令門下覆視。有據法當死而情可矜者,録状以聞。」由是全活甚衆。其五覆奏者,以決前一二日,至決日又三覆奏;唯犯惡逆者一覆奏而已。
20.上が侍臣へ言った。
「朕は、死刑は非常に重大なことだと考えている。命令を三度覆奏させるのは、熟慮したいからだ。それなのに、役人の中には僅かの間に三回反覆して、形だけで終わらせてしまう者が居る。また、昔は死刑を執行するとき、君主は音楽を止め膳を減らして追悼した。朕の庭では常に音楽を演奏しているわけではないが、死刑が執行された日には酒も肉も食さないことにしている。今までそれを宣伝しなかっただけだ。また、百司の判決は、ただ法律にのみ依っている。酌量すべき事情があっても、法律を遵守することしか考えない。これで、どうして冤罪をなくすことができようか!」
 丁亥、制が降りた。
「死刑囚は、二日の内に五回覆奏し、諸州へ下ってから三度覆奏すること。死刑執行の日は酒肉を食してはならない。内教坊と太常で音楽を奏でてはならない。法に照らしたら死罪となるものでも、情緒酌量の余地がある者は、その事情を上聞せよ。」
 これによって、死なずに済んだ者が大勢出た。この五覆奏は、決定が下される前日と前々日、そして決定した日に三覆奏された。ただ、悪逆を犯した者は一覆奏のみだった。(隋代に十悪が制定され、その四番目に「悪逆」の項目があり、具体的には尊属殺人を指す。唐も、これを踏襲したようだ。)
 21己亥,朝集使利州都督武士彠等復上表請封禪,不許。
21.己亥、朝集使利州都督武士彠等が上表して封禅を請うた。
 22壬寅,上幸驪山温湯;戊申,還宮。
22.壬寅、上が驪山の温泉へ御幸した。戊申、宮へ帰る。
 23上謂執政曰:「朕常恐因喜怒妄行賞罰,故欲公等極諫。公等亦宜受人諫,不可以己之所欲,惡人違之。苟自不能受諫,安能諫人?」
23.上が執政へ言った。
「朕は、喜怒によって妄りに賞罰を行うことを、常に恐れている。だから、公等へ極諫を求めるのだ。公等もまた、人からの諫めは良く受け入れ、自分の欲を指摘する者を憎んではならない。諫めを受けることができない者が、どうして他人を諫められるだろうか。」
 24康國求内附。上曰:「前代帝王,好招來絶域,以求服遠之名,無益於用而糜弊百姓。今康國内附,儻有急難,於義不得不救。師行萬里,豈不疲勞!勞百姓以取虚名,朕不爲也。」遂不受。
  謂侍臣曰:「治國如治病,病雖愈,猶宜將護,儻遽自放縱,病復作,則不可救矣。今中國幸安,四夷倶服,誠自古所希,然朕日愼一日,唯懼不終,故欲數聞卿輩諫爭也。」魏徴曰:「内外治安,臣不以爲喜,唯喜陛下居安思危耳。」
24.康国が内附を求めてきた。上は言った。
「前代の帝王は、『服遠』の功名を求めて交遊のない遠方の国を招いていたが、これは役に立たないばかりか百姓を疲弊させる。今、康国を内附させれば、彼等へ危機が迫った時に、義として助けずにはいられない。軍隊へ万里の遠征をさせれば、どうして疲弊せずに済まされようか!百姓をこき使って虚名を取るなど、朕は為さない。」
 ついに、これを受けなかった。
 侍臣へ言った。
「国を治めるのは、病を治めるようなものだ。病気が癒えても、しばらくは養生しなければならない。即座に放埒になったら病気はぶり返し、救いようがなくなってしまう。今、中国は幸いにも安定しており、四夷は共に服属している。まことに古来からの理想通りだが、朕は日毎に身を慎み、ただ終わりを良くしないことを懼れている。だから、卿輩からの諫争をいつも聞きたいのだ。」
 魏徴が言った。
「内外が治まって平安なことなど、臣は喜びとしません。ただ、陛下がいつも危機感を持っておられることを喜ぶのです。」
 25上嘗與侍臣論獄,魏徴曰:「煬帝時嘗有盜發,帝令於士澄捕之,少渉疑似,皆拷訊取服,凡二千餘人,帝悉令斬之。大理丞張元濟怪其多,試尋其状,内五人嘗爲盜,餘皆平民;竟不敢執奏,盡殺之。」上曰:「此豈唯煬帝無道,其臣亦不盡忠。君臣如此,何得不亡?公等宜戒之!」
25.上はかつて侍臣と裁判を論じた。
 魏徴が言った。
「煬帝の頃に盗賊が頻繁に起こった事がありました。帝は於士澄へこれを捕らえるよう命じました。士澄は、少しでも怪しい者は拷問にかけて牢獄へぶち込み、凡そ二千余人を捕まえました。帝は、全員殺すよう命じました。大理卿張元済は、其の数があまりに多いことを怪しみ、試みに尋問してみたところ、本当の盗賊はたった五人だけで、残りは全て平民でした。しかし、元済は、遂にこれを上奏せず、二千人を悉く殺したのです。」
 上は言った。
「これは、ただ煬帝だけが無道だったのではない。その臣下達も不忠だったのだ。君臣がこのようになっては、どうして亡びずにおられようか!公等は、これを戒めとせよ!」
 26是歳,高州總管馮盎入朝。未幾,羅竇諸洞獠反,敕盎帥部落二萬,爲諸軍前鋒。獠數萬人,屯據險要,諸軍不得進。盎持弩謂左右曰:「盡吾此矢,足知勝負矣。」連發七矢,中七人。獠皆走,因縱兵乘之,斬首千餘級。上美其功,前後賞賜,不可勝數。盎所居地方二千里,奴婢萬餘人,珍貨充積;然爲治勤明,所部愛之。
26.この年、高州総管馮盎が入朝した。するとすぐに、羅竇の諸洞の獠が造反した。盎へ部落二万を率いて諸郡の前鋒となるよう敕が降りた。
 獠は数万人が険しい地形に據って陣を布いており、諸軍は前進できない。盎は弩を持って近習へ言った。
「この矢を全部射ったら、勝負はつくぞ。」
 続けざまに七発撃つと、七人にあたった。獠は皆逃げ出したので、これに乗じて追撃し、千余の首級を挙げた。
 上はこの功績を称え、恩賞は前後で数え切れないほど賜下された。
 盎の住む土地は、方二千里。奴婢は万余人おり、珍貨は山積みされていた。しかしながら政治に勤しみ明察で、領地を愛していた。
 27新羅王眞平卒,無嗣,國人立其女善德爲王。

27.新羅王真平が卒した。世継ぎがいなかったので、国人はその娘の善徳を王に立てた。


翻訳者: 渡邊 省

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最終更新:2007年01月12日 11:10
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