巻第一百九十八

資治通鑑巻第一百九十八
 唐紀十四
  太宗文武大聖大廣孝皇帝下之上
貞觀十九年(乙巳、六四五)

 六月,丁酉,李世勣攻白巖城西南,上臨其西北。城主孫代音潛遣腹心請降,臨城,投刀鉞爲信,且曰:「奴願降,城中有不從者。」上以唐幟與其使,曰:「必降者,宜建之城上。」代音建幟,城中人以爲唐兵已登城,皆從之。
  上之克遼東也,白巖城請降,既而中悔。上怒其反覆,令軍中曰:「得城當悉以人物賞戰士。」李世勣見上將受其降,帥甲士數十人請曰:「士卒所以爭冒矢石、不顧其死者,貪虜獲耳;今城垂拔,奈何更受其降,孤戰士之心!」上下馬謝曰:「將軍言是也。然縱兵殺人而虜其妻孥,朕所不忍。將軍麾下有功者,朕以庫物賞之,庶因將軍贖此一城。」世勣乃退。得城中男女萬餘口,上臨水設幄受其降,仍賜之食,八十以上賜帛有差。他城之兵在白巖者悉慰諭,給糧仗,任其所之。
  先是,遼東城長史爲部下所殺,其省事奉妻子奔白巖。上憐其有義,賜帛五匹;爲長史造靈輿,歸之平壤。以白巖城爲巖州,以孫代音爲刺史。
  契苾何力瘡重,上自爲傅藥,推求得刺何力者高突勃,付何力使自殺之。何力奏稱:「彼爲其主冒白刃刺臣,乃忠勇之士也,與之初不相識,非有怨讎。」遂捨之。
  初,莫離支遣加尸城七百人戍蓋牟城,李世勣盡虜之,其人請從軍自效。上曰:「汝家皆在加尸,汝爲我戰,莫離支必殺汝妻子。得一人之力而滅一家,吾不忍也。」戊戌,皆廩賜遣之。
  己亥,以蓋牟城爲蓋州。
  丁未,車駕發遼東,丙辰,至安市城,進兵攻之。丁巳,高麗北部耨薩延壽、惠眞帥高麗、靺鞨兵十五萬救安市。上謂侍臣曰:「今爲延壽策有三:引兵直前,連安市城爲壘,據高山之險,食城中之粟,縱靺鞨掠吾牛馬,攻之不可猝下,欲歸則泥潦爲阻,坐困吾軍,上策也;拔城中之衆,與之宵遁,中策也;不度智能,來與吾戰,下策也。卿曹觀之,必出下策,成擒在吾目中矣!」
  高麗有對盧,年老習事,謂延壽曰:「秦王内芟羣雄,外服戎狄,獨立爲帝,此命世之材,今舉海内之衆而來,不可敵也。爲吾計者,莫若頓兵不戰,曠日持久,分遣奇兵斷其運道,糧食既盡,求戰不得,欲歸無路,乃可勝也。」延壽不從,引軍直進,去安市城四十里。上猶恐其低徊不至,命左衞大將軍阿史那社爾將突厥千騎以誘之,兵始交而僞走。高麗相謂曰:「易與耳!」競進乘之,至安市城東南八里,依山而陳。
  上悉召諸將問計,長孫無忌對曰:「臣聞臨敵將戰,必先觀士卒之情。臣適行經諸營,見士卒聞高麗至,皆拔刀結旆,喜形於色,此必勝之兵也。陛下未冠,身親行陳,凡出奇制勝,皆上稟聖謀,諸將奉成算而已。今日之事,乞陛下指蹤!」上笑曰:「諸公以此見讓,朕當爲諸公商度。」乃與無忌等從數百騎乘高望之,觀山川形勢,可以伏兵及出入之所。高麗、靺鞨合兵爲陳,長四十里。江夏王道宗曰:「高麗傾國以拒王師,平壤之守必弱,願假臣精卒五千,覆其本根,則數十萬之衆可不戰而降。」上不應,遣使紿延壽曰:「我以爾國強臣弑其主,故來問罪;至於交戰,非吾本心。入爾境,芻粟不給,故取爾數城,俟爾國脩臣禮,則所失必復矣。」延壽信之,不復設備。
  上夜召文武計事,命李世勣將歩騎萬五千陳於西嶺;長孫無忌將精兵萬一千爲奇兵,自山北出於狹谷以衝其後;上自將歩騎四千,挾鼓角,偃旗幟,登北山上;敕諸軍聞鼓角齊出奮撃。因命有司張受降幕於朝堂之側。戊午,延壽等獨見李世勣布陳,勒兵欲戰。上望見無忌軍塵起,命作鼓角,舉旗幟,諸軍鼓譟並進,延壽等大懼,欲分兵禦之,而其陳已亂。會有雷電,龍門人薛仁貴著奇服,大呼陷陳,所向無敵;高麗兵披靡,大軍乘之,高麗兵大潰,斬首二萬餘級。上望見仁貴,召拜游撃將軍。仁貴,安都之六世孫,名禮,以字行。
  延壽等將餘衆依山自固,上命諸軍圍之,長孫無忌悉撤橋梁,斷其歸路。己未,延壽、惠眞帥其衆三萬六千八百人請降,入軍門,膝行而前,拜伏請命。上語之曰:「東夷少年,跳梁海曲,至於摧堅決勝,故當不及老人,自今復敢與天子戰乎?」皆伏地不能對。上簡耨薩以下酋長三千五百人,授以戎秩,遷之内地,餘皆縱之,使還平壤;皆雙舉手以顙頓地,歡呼聞數十里外。收靺鞨三千三百人,悉阬之。獲馬五萬匹,牛五萬頭,鐵甲萬領,他器械稱是。高麗舉國大駭,後黄城、銀城皆自拔遁去,數百里無復人煙。
  上驛書報太子,仍與高士廉等書曰:「朕爲將如此,何如?」更名所幸山曰駐驆山。
  秋,七月,辛未,上徙營安市城東嶺。己卯,詔標識戰死者尸,俟軍還與之俱歸。戊子,以高延壽爲鴻臚卿,高惠眞爲司農卿。
  張亮軍過建安城下,壁壘未固,士卒多出樵牧,高麗兵奄至,軍中駭擾。亮素怯,踞胡床,直視不言,將士見之,更以爲勇。總管張金樹等鳴鼓勒兵撃高麗,破之。
  八月,甲辰,候騎獲莫離支諜者高竹離,反接詣軍門。上召見,解縛問曰:「何痩之甚?」對曰:「竊道間行,不食數日矣。」命賜之食,謂曰:「爾爲諜,宜速反命。爲我寄語莫離支:欲知軍中消息,可遣人徑詣吾所,何必間行辛苦也!」竹離徒跣,上賜屩而遣之。
  丙午,徙營於安市城南。上在遼外,凡置營,但明斥候,不爲塹壘,雖逼其城,高麗終不敢出爲寇抄,軍士單行野宿如中國焉。
  上之伐高麗也,薛延陀遣使入貢,上謂之曰:「語爾可汗:今我父子東征高麗,汝能爲寇,宜亟來!」眞珠可汗惶恐,遣使致謝,且請發兵助軍;上不許。及高麗敗於駐驆山,莫離支使靺鞨説眞珠,啗以厚利,眞珠懾服不敢動。九月,壬申,眞珠卒,上爲之發哀。
  初,眞珠請以其庶長子曳莽爲突利失可汗,居東方,統雜種;嫡子拔灼爲肆葉護可汗,居西方,統薛延陀;詔許之,皆以禮册命。曳莽性躁擾,輕用兵,與拔灼不協。眞珠卒,來會喪。既葬,曳莽恐拔灼圖己,先還所部,拔灼追襲殺之,自立爲頡利倶利薛沙多彌可汗。
1.六月、丁酉。李世勣は白巖城の西南を攻め、上はその西北へ臨む。城主の孫代音は密かに腹心を派遣して降伏を請うた。城へ臨めば、刀鉞を投げて証とし、言った。
「奴は降伏したいのですが、城中に従わない者がいるのです。」
 上は、唐の幟をその使者へ与えて、言った。
「降伏するのなら、これを城の上へ建てれば良い。」
 代音が幟を建てると、城中の人は唐兵が既に城へ登ったと思い、皆、これに従った。
 上が遼東に勝った時に白巖城は降伏を請うたのだが、やがて後悔した。その時上は、その反覆を怒り、軍中へ宣伝していた。
「城を得たら、城内の男女財宝を全て恩賞として兵卒へ賜下するぞ。」
 今、上がその降伏を受けようとしているのを見て、李世勣は甲士数十人を率いて請願に来た。
「士卒が争うように矢石を冒して死ぬことをも顧みないのは、捕虜を捕らえて自分の財産にしようとゆう欲望からです。今、この城は陥落寸前なのに、何故降伏を受け入れ、戦士達の期待を裏切るのですか!」
 上は、下馬して謝り、言った。
「将軍の言葉は正しい。だが、兵卒達へ虜の妻や娘をほしいままに殺戮させるのは、朕の心に忍びない。将軍の麾下で功績のある者は、朕は官庫の財宝で賞しよう。そうすれば、将軍もこの城一つを贖うに近いだろう。」
 そう言われて、世勣は引き下がった。
 城中の男女万余人を得た。上は水に臨んで幄を設けて降伏を受け、彼等へ食糧を賜下した。八十以上にはそれぞれに差を付けて帛を賜下する。白巖城に滞在していた他城の兵は、全て慰諭し、食糧を渡して好きなところへ行かせた。
 話は少し遡るが、遼東城の長史が部下から殺され、その省事は妻子と共に白巖城へ逃げ込んでいた。上は彼の義心を憐れみ、帛五匹を賜下する。長史の為に霊輿を造り、これを平壌へ帰した。
 白巖城を巖州とし、孫代音を刺史とした。
 契苾何力の傷は重かった。上は自ら薬を塗ってやった。そして何力を刺した高突勃を探し求めて何力へ引き渡し、殺させようとした。すると、何力は言った。
「彼は自分の主の為に白刃を冒して臣を刺した。これは忠勇の士だ。今回が初対面でもあるし、怨讐はない。」
 遂に、これを解放した。
 ところで、莫離支は、蓋牟城の守備のために、加尸城から七百人を派遣していた。李世勣はこれを全て捕らえたが、彼等は唐に従軍して命を捧げたいと請願した。すると、上は言った。
「お前達の家族は、皆、加尸城に住んでいる。お前達が我が為に戦えば、莫離支は必ずお前達の妻子を殺すぞ。一人の力を得ても一家を滅ぼしてしまうのだ。我には忍びない。」
 戊戌、皆へ賜下して立ち去らせた。
 己亥、蓋牟城を蓋州とした。
 丁未、車駕が遼東を出発した。丙辰、安市城へ到着し、これを攻撃する。
 丁巳、高麗の北部耨薩の延寿と恵真が高麗、靺鞨の兵十五万を率いて安市を救援に来た。上は侍臣へ言った。
「今、延壽達に三つの策がある。兵を直前まで率い、安市城まで塁を連ね高山の険に據る。城中の粟を食べ、靺鞨には我が牛馬を掠奪させる。そうすれば、これを攻めてもすぐには落とせないし、帰ろうとしても泥沼に行く手を阻まれ、我が軍は窮地に陥る。これが上策だ。城中の衆を救い出して共に夜に紛れて逃げる。これが中策だ。考えもなしに我等とただ戦う。これは下策だ。卿等よく見ておけ。奴等は必ず下策に出る。我等の擒になるのも目前だ!」
 高麗には対盧とゆう官があり、年老いて世知長けた人間がなってた。彼が、延壽へ言った。
「秦王は、内は群雄を取り除き、外は戎狄を征服し、独り皇帝に立った。これは天命を受けた人間だ。それが今、海内の兵を動員して来寇した。とても敵わない。我が計略は、ただ一つ。兵を留めて戦わず持久戦に持ち込んむ傍ら、奇兵を出して敵の糧道を絶つ。糧食が尽きれば、戦おうとしてもできず、帰るにも術がない。こうすれば勝てる。」
 延壽は従わず、兵を率いて直進し、安市城から四十里の所へ陣取った。上はそれでもなお、敵が怖じけついて来襲しないことを恐れ、左衛大将軍阿史那社爾へ突厥兵千騎を与え、これを誘わせた。
 社爾が命令通り、少し戦って偽りの退却をすると、高麗兵は互いに言い合った。
「弱兵だ!」
 先を争ってこれに乗じ、安市城の東南八里まで追撃し、山に依って陣を布いた。
 上は諸将を全員召集して計略を問うた。すると、長孫無忌が言った。
「『敵に臨んで戦う時には、まず士卒の情を見よ。』と聞きます。臣が諸営を見回りますと、兵卒達は高麗軍が来たと聞くや、皆、刀を抜き兜の緒を結び、喜び勇んでいます。これは必勝の兵卒達です。陛下は元服前から戦陣に出張られました。奇策を出して勝ちを制するのは全て上様の聖謀で、諸将はその計略に従っただけ。今日のことも、どうか陛下のご指導のままに!」
 上は笑って言った。
「諸公が花を持たせてくれるなら、諸公の為に謀ってみるか。」
 そこで上は長孫無忌等数百騎を率いて高みに登って戦場を見下ろし、山川の地形を見て伏兵などの場所を決めた。
 高麗、靺鞨の兵は合流して陣を造る。それは四十里も連なった。江夏王道宗が言った。
「高麗は全力を挙げて我等を拒んでおります。平壌の守りはきっと希薄です。どうか精鋭五千を貸して下さい。根本を覆して見せます。そうすれば、数十万の軍は戦わずに降伏します。」
 上は応じなかった。そして、使者を派遣して延壽へ言った。
「汝の国の強臣が主君を弑逆したので、我はその罪を詰問に来たのだ。交戦に至るのは、我が本心ではない。汝の国境内へ入り兵糧が欠乏したので、汝の城をいくつか取っただけだ。汝の国が臣礼を修めたら、奪った城は必ず返す。」
 延寿はこれを信じ、防備をしなかった。
 上は、夜半、文武官を呼んで事を計った。李世勣には歩騎一万五千を与えて西嶺に陣取らせる。長孫無忌へは精鋭一万一千を与えて奇兵とし、山北から峡谷へ出て敵の背後を衝く。上は歩騎四千を率いて軍鼓や角笛、旗幟を擁して北山へ登る。軍鼓や角笛を聞いたら総攻撃を掛けるよう、諸軍へ敕した。官吏は命令を受けて、降伏を受け入れる幕を朝堂の側へ張った。
 戊午、延寿等は、ただ李世勣軍の陣だけを見たので、勇んで戦おうとした。上は、無忌の軍が塵を巻き上げるのを見て、鼓角を鳴らすよう命じ、旗幟を盛大にはためかせた。諸軍は軍鼓を鳴らしながら進撃する。延壽等は大いに懼れ、兵を分散して防ごうとしたが、その陣は混乱した。
 この時、雷電が起こった。龍門の住民薛仁貴が煌びやかな服を着て大声で叫びながら暴れまくれば、向かうところ敵は総崩れとなった。高麗兵は薙ぎ散らされ、大軍がこれに乗じた。高麗軍は大いに潰れ、二万余級の首を斬る。上は仁貴を望み見て、召し出すと游撃将軍に任命した。仁貴は、安都の六世の孫である。名は禮。しかし、字の方が有名である。
 延寿等は敗残兵を集めて山に依って守備を固めた。上は、これを包囲するよう諸軍へ命じた。長孫無忌は橋梁を悉く撤去して、高麗軍の退路を断った。
 己未、延寿と恵真は三万六千を率いて降伏を請うた。軍門へ入り膝足で進み、伏し拝んで命令を待つ。上は言った。
「東夷の少年が海曲で跳梁しても、真っ向から決戦すれば老人にも及ばない。それでも敢えて天子と戦うのか?」
 皆、伏したままで答えることが出来なかった。
 上は、耨薩以下酋長三千五百人へ戎秩を授けて内地へ移し、その他は皆釈放して平壌へ帰した。皆、諸手を挙げて喜び、歓呼の声は十里先まで聞こえた。靺鞨兵三千三百人は捕らえて、全員穴埋めとする。馬五万匹、牛五万頭、鉄甲一万領、その他沢山の器械を獲る。高麗は国を挙げて大騒ぎとなり、後黄鉞、銀鉞などはサッサと逃げだし、数百里に亘って人煙が立たなくなった。
 上は、駅伝で太子や高士廉等へ書を送った。
「朕は、将軍となってもこのように働ける。どうだ?」
 御幸した山を、駐驆山と改名する。
 秋、七月、辛未。上は本営を安市城の東嶺へ移す。己卯、戦死者の屍には印を付けて、軍が帰国する時に共に帰るよう詔する。戊子、高延寿を鴻臚卿、高恵真を司農卿とする。
 張亮軍は建安城下を通り過ぎた。壁や塁が堅固でなかったので、大勢の士卒が木を伐りだした。そこへ高麗軍が襲ってきたので、軍は大混乱に陥った。亮はもともと臆病者。胡床へ座り込んだまま何も言えなかったが、将士はこれを見て、勇気があると思った。総管の張金樹等が軍鼓を鳴らして迎撃し、これを破った。
 八月、甲辰、斥候兵が莫離支の放った間諜高竹離を捕らえる。軍門に後ろ手で縛り上げたが、上がこれを召し出して、いましめを解いて言った。
「何でそんなに痩せているのか?」
 対して答えた。
「間道を通って、数日何も食べられませんでした。」
 そこで、これに食事を食べさせ、言った。
「汝は間諜に出たのだから、速やかに報告するがよい。我が為に、莫離支へ伝えよ。軍中の有様を知りたければ、我がもとへ人を派遣すればよい。なんで苦労して調べる必要があろうか!」
 竹離は裸足だったので、上は履き物を賜下して、釈放した。
 丙午、本営を安市城南へ移す。上は、遼外へ来てからも、本営を置く場所ではただ斥候を放つだけで、塹壕や塁を造らなかった。その城へ迫った時でさえ、高麗は遂に敢えて襲撃できなかった。軍士は、まるで中国にいる時のように野宿した。
 上が高麗を討伐している時、薛延陀は使者を派遣して入貢した。上は、使者へ言った。
「汝の可汗へ伝えよ。今、我が親子は高麗を東征している。汝が来寇するなら今のうちだ。速やかに行え!」
 真珠可汗は恐惶し、使者を派遣して陳謝した上、援軍を申し出たが、上は許さなかった。
 高麗が駐驆山で敗北するに及んで、莫離支は靺鞨を使者として真珠の元へ派遣し、厚利を食らわせて説得したが、真珠は敢えて動こうとしなかった。
 九月、壬申、真珠可汗が卒した。上は、彼の為に哀を発した。
 話は遡るが、真珠可汗はその庶長子曳莽を突利失可汗として東方に住まわせて雑種を統べさせ、嫡子の抜灼を肆葉護可汗として西方に住まわせて薛延陀を統べさせるよう、請願していた。この時、太宗は詔を降ろしてこれを許諾し、礼册を以て命じた。ところが、曳莽は躁乱な性格で軽々しく戦争をして、抜灼とは協調できなかった。
 真珠可汗が卒すると、彼等は会葬に来た。埋葬が済むと、曳莽は抜灼が自分を図ることを恐れ、先に領地へ帰った。抜灼はこれを追襲し、殺して自立した。これが頡利倶利薛沙多彌可汗である。
 上之克白巖也,謂李世勣曰:「吾聞安市城險而兵精,其城主材勇,莫離支之亂,城守不服,莫離支撃之不能下,因而與之。建安兵弱而糧少,若出其不意,攻之必克。公可先攻建安,建安下,則安市在吾腹中,此兵法所謂『城有所不攻』者也。」對曰:「建安在南,安市在北,吾軍糧皆在遼東;今踰安市而攻建安,若賊斷吾運道,將若之何?不如先攻安市,安市下,則鼓行而取建安耳。」上曰:「以公爲將,安得不用公策。勿誤吾事!」世勣遂攻安市。
  安市人望見上旗蓋,輒乘城鼓譟,上怒,世勣請克城之日,男子皆阬之。安市人聞之,益堅守,攻久不下。高延壽、高惠眞請於上曰:「奴既委身大國,不敢不獻其誠,欲天子早成大功,奴得與妻子相見。安市人顧惜其家,人自爲戰,未易猝拔。今奴以高麗十餘萬衆,望旗沮潰,國人膽破,烏骨城耨薩老耄,不能堅守,移兵臨之,朝至夕克。其餘當道小城,必望風奔潰。然後收其資糧,鼓行而前,平壤必不守矣。」羣臣亦言:「張亮兵在沙城,召之信宿可至,乘高麗兇懼,併力拔烏骨城,渡鴨綠水,直取平壤,在此舉矣。」上將從之,獨長孫無忌以爲:「天子親征,異於諸將,不可乘危徼幸。今建安、新城之虜,衆猶十萬,若向烏骨,皆躡吾後,不如先破安市,取建安,然後長驅而進,此萬全之策也。」上乃止。
  諸軍急攻安市,上聞城中雞彘聲,謂李世勣曰:「圍城積久,城中煙火日微,今雞彘甚喧,此必饗士,欲夜出襲我,宜嚴兵備之。」是夜,高麗數百人縋城而下。上聞之,自至城下,召兵急撃,斬首數十級,高麗退走。
  江夏王道宗督衆築土山於城東南隅,浸逼其城,城中亦增高其城以拒之。士卒分番交戰,日六、七合,衝車礮石,壞其樓堞,城中隨立木柵以塞其缺。道宗傷足,上親爲之針。築山晝夜不息,凡六旬,用功五十萬,山頂去城數丈,下臨城中,道宗使果毅傅伏愛將兵屯山頂以備敵。山頽,壓城,城崩,會伏愛私離所部,高麗數百人從城缺出戰,遂奪據土山,塹而守之。上怒,斬伏愛以徇,命諸將攻之,三日不能克。道宗徒跣詣旗下請罪,上曰:「汝罪當死,但朕以漢武殺王恢,不如秦穆用孟明,且有破蓋牟、遼東之功,故特赦汝耳。」
  上以遼左早寒,草枯水凍,士馬難久留,且糧食將盡,癸未,敕班師。先拔遼、蓋二州戸口渡遼,乃耀兵於安市城下而旋,城中皆屏跡不出。城主登城拜辭,上嘉其固守,賜縑百匹,以勵事君。命李世勣、江夏王道宗將歩騎四萬爲殿。
  乙酉,至遼東。丙戌,渡遼水。遼澤泥潦,車馬不通,命長孫無忌將萬人,剪草填道,水深處以車爲梁,上自繋薪於馬鞘以助役。冬,十月,丙申朔,上至蒲溝駐馬,督填道諸軍渡渤錯水,暴風雪,士卒沾濕多死者,敕然火於道以待之。
  凡征高麗,拔玄菟、橫山、蓋牟、磨米、遼東、白巖、卑沙、麥谷、銀山、後黄十城,徙遼、蓋、巖三州戸口入中國者七萬人。新城、建安、駐蹕三大戰,斬首四萬餘級,戰士死者幾二千人,戰馬死者什七、八。上以不能成功,深悔之,歎曰:「魏徴若在,不使我有是行也!」命馳驛祀徴以少牢,復立所製碑,召其妻子詣行在,勞賜之。
  丙午,至營州。詔遼東戰亡士卒骸骨並集柳城東南,命有司設太牢,上自作文以祭之,臨哭盡哀。其父母聞之,曰:「吾兒死而天子哭之,死何所恨!」上謂薛仁貴曰:「朕諸將皆老,思得新進驍勇者將之,無如卿者,朕不喜得遼東,喜得卿也。」
  丙辰,上聞太子奉迎將至,從飛騎三千人馳入臨渝關,道逢太子。上之發定州也,指所御褐袍謂太子曰:「俟見汝,乃易此袍耳。」在遼左,雖盛暑流汗,弗之易。及秋,穿敗,左右請易之,上曰:「軍士衣多弊,吾獨御新衣,可乎?」至是,太子進新衣,乃易之。
  諸軍所虜高麗民萬四千口,先集幽州,將以賞軍士,上愍其父子夫婦離散,命有司平其直,悉以錢布贖爲民,讙呼之聲,三日不息。十一月,辛未,車駕至幽州,高麗民迎於城東,拜舞呼號,宛轉於地,塵埃彌望。
  庚辰,過易州境,司馬陳元璹使民於地室蓄火種蔬而進之;上惡其諂,免元璹官。
  丙戌,車駕至定州。
  丁亥,吏部尚書楊師道坐所署用多非其才,左遷工部尚書。
  壬辰,車駕發定州。十二月,辛丑,上病癰,御歩輦而行。戊申,至并州,太子爲上吮癰,扶輦歩從者數日。辛亥,上疾瘳,百官皆賀。
  上之征高麗也,使右領軍大將軍執失思力將突厥屯夏州之北以備薛延陀。薛延陀多彌可汗既立,以上出征未還,引兵寇河南,上遣左武候中郎將長安田仁會與思力合兵撃之。思力羸形僞退,誘之深入,及夏州之境,整陳以待之。薛延陀大敗,追奔六百餘里,耀威磧北而還。多彌復發兵寇夏州,己未,敕禮部尚書江夏王道宗,發朔、并、汾、箕、嵐、代、忻、蔚、雲九州兵鎭朔州;右衞大將軍代州都督薛萬徹,左驍衞大將軍阿史那社爾,發勝、夏、銀、綏、丹、延、鄜、坊、石、隰十州兵鎭勝州;勝州都督宋君明,左武候將軍薛孤呉,發靈、原、寧、鹽、慶五州兵鎭靈州;又令執失思力發靈、勝二州突厥兵,與道宗等相應。薛延陀至塞下,知有備,不敢進。
2.上は城巖に克つと、李世勣へ言った。
「安市城は険阻で兵卒は精鋭、城主は勇猛だと聞いている。莫離支の乱でも、安市城は堅守して屈服せず、莫離支が下せなかったのもそのせいだ。建安は弱卒で兵糧も少ない。もしもその不意を衝けば、必ず勝てる。公はまず建安を攻撃するがよい。もしも建安が落ちれば、安市は我が腹中にある。これこそ兵法に言う、『攻める必要のない城もある。』とゆうものだ。」
 対して、李世勣は言った。
「建安は南にあり、安市は北にあり、我等の兵糧は全て遼東にあります。今、安市を飛び越えて建安を攻めれば、賊徒が我等の糧道を絶った時にどうしましょうか?ここは安市を先に攻めて、安市を落としてから軍鼓を鳴らして建安を取るだけです。」
 上は言った。
「公を将としたのだ。公の策を用いよう。我が事業を失敗させるな!」
 世勣は、遂に安市を攻撃した。
 安市の人々は上の旗蓋を見ると城壁に乗って軍鼓を打ち鳴らした。上は怒り、李世勣は、”城を落としたら住民を全て穴埋めにしましょう”と請願した。安市の人はこれを聞き、ますます堅守したので、攻撃してもなかなか落とせなかった。
 高延寿と高恵真は上へ請うた。
「この奴めは既に大国へ我が身を委ねました。どうして誠意を示さずにいられましょうか。天子が早く大功を建て、奴達は速やかに妻子の元へ帰れることこそが、我等の願いです。安市の人々はその家族を思って自ら戦っているのですから、簡単には落ちません。今、奴が高麗の十余万の軍を率い、唐の軍旗を見て総崩れの態を示して見せましょう。国人達は肝を潰しますぞ。烏骨城は老いぼればかり。堅守できません。軍を移動して城へ臨めばその日のうちに勝てます。その他は、道すがらの小城ばかり。必ずや風を望んで潰滅します。その後に、それらの城の資財を収めて軍鼓を鳴らして進軍すれば、平壌は絶対守れません。」
 群臣達も言った。
「張亮の軍が沙城に居ます。これを招聘すればすぐにでもやってきます。そうして高麗軍の恐惶に乗じて力を合わせて烏骨城を抜き、鴨縁水を渡り、直接平壌を取るのです。勝利はこの挙にありますぞ。」
 上はこれに従おうとしたが、長孫無忌だけが言った。
「天子の親征は諸将の遠征とは違います。一か八かの博打を打ってはなりません。今、虜兵は建安、新城になお十万はいます。もしも烏骨へ向かえば、彼等は我等の背後を叩きますぞ。まず安市を破り建安を取り、その後に進軍してこそ万全の勝利です。」
 上は、奇策を止めた。
 諸軍が安市へ猛攻を加えている時、上は城中から鶏や豚のけたたましい鳴き声を聞いた。そこで、上は李世勣へ言った。
「城を包囲して久く、城中からは炊煙が殆ど挙がらなくなった。それなのに、今、鶏や豚の声が盛んに聞こえた。これは、きっと兵士へ饗応して夜襲を掛けようとゆうのだ。警戒を厳重にしておけ。」
 この夜、高麗兵が数百人城から降りてきた。上はこれを聞くと自ら城下へ至り、兵を召して急撃し、数十の首を斬った。高麗軍は逃げ出した。
 江夏王道宗は、衆を指揮して城の東南の隅へ築山を築いた。それは次第に大きくなり、城へ迫る。だが、城中ではその城を高く増築してこれを拒んだ。士卒は交代で一日に六、七回も攻撃し、衝車や石がその楼閣や城壁を壊した。しかし城では木柵を立ててその隙間を塞いだ。道宗は激戦の中、足に負傷した。すると上は、自ら其の傷口を縫った。
 築山の工事は昼夜休みなしで続く。およそ六旬、のべ五十万の労力を用いて、その山頂は城から数丈へ迫り、城中へ臨んだ。果毅の傅伏愛が道宗の命令を受けて兵を率いて山頂に屯営して敵へ備えた。山が崩れて城へ落ちかかり、城が崩れた。だが、伏愛が私用で部所を離れている隙に、高麗兵数百人が城壁の垣間から出撃してきて、遂に山を奪い、これに據り、塹壕を掘って守備を固めた。上は怒り、伏愛を斬って諸将へこれを攻撃するよう命じたが、三日攻撃しても勝てなかった。
 道宗が裸足になって旗下へ出向いて罪を請うと、上は言った。
「汝の罪は死に値する。しかし朕は、漢の武帝が王恢を殺したのは秦の穆公が孟明を用いたのに及ばないと評していた。それに、汝には蓋牟、遼東を撃破した功績がある。よって、特に汝を赦そう。」
 遼東の冬は寒く、草は枯れ水は凍る。士馬の長逗留は難しいと上は考えた。また、兵糧が尽きかけたこともあり、癸未、退却の敕を下した。先に遼、蓋二州の戸口を退却させて遼を渡らせ、安市城下にて大集合して退却を開始する。城中は皆、陰へ隠れて出撃しない。ただ城主は城壁へ登って別れの挨拶を述べた。上は彼が固守したことを嘉し、反物百匹を賜下し、君へ仕えることを励ました。李世勣と江夏王道宗へ歩騎四万を与えて殿とする。
 乙酉、両党へ着いた。丙戌、遼水を渡る。遼澤は泥沼となっていて車馬は渡れない。長孫無忌へ一万人を率いて草を刈って道を埋めさせた。水が深いところは、車を梁とする。上は自ら馬鞘へ薪を縛って手伝った。
 冬、十月、丙申朔、上は蒲溝へ至って馬を留め、衆人を監督して道を埋めさせて、諸軍へ渤錯水を渡らせた。途中、風雨が激しく、大勢の士卒が水に濡れて凍死した。そこで道中に火を焚いてこれを待つよう敕した。
 今回の高麗征伐は、玄莵、横山、蓋牟、磨米、遼東、白巖、卑沙、麦谷、銀山、後黄の十城を抜き、遼、蓋、巖三州の住民七万人を中国へ移住させた。新城、建安、駐驆の三大決戦で四万余級の首を斬った。戦死者は二千人近く、戦馬は七、八割が死んだ。
 上は、成功しなかったので深く悔い、嘆いて言った。
「もしも魏徴がいれば、我にこんな事はさせなかったものを!」
 そこで、徴の墓へ駆けつけて少牢で祀るよう命じ、碑を再び立てさせた。また、妻子を行在所まで召し出して、慰労して賜下した。
 丙午、営州へ到着した。遼東での戦死者の骸骨を柳城の東南へ集めるよう詔し、太牢を設けた。上が自ら文を作って彼等を祭る。哭いた時にはとても哀しそうだった。戦死者達の父母は、これを聞いて言った。
「我が子の死に、天子が涙為された。なんの恨みがあろうか!」
 上は薛仁貴へ言った。
「朕の諸将は皆老いた。新進の驍勇を得て兵に将たらしめたいが、卿以上の者はいない。朕は遼東を得ても嬉しくないが、卿を得たのが嬉しい。」
 丙辰、上は太子の出迎えが到着間近だと聞き、飛騎三千人を率いて臨渝関へ馳せ入り、道にて太子と遭った。
 上は定州を出発する時、着ている褐袴を指さして太子へ言った。
「お前と再会したとき、この袴を着替えよう。」
 遼左では、暑くて汗を流しても、これを着替えなかった。秋になって敗北した時、左右は着替えるよう言ったけれども、上は言った。
「軍士の衣も多くはくたびれている。我一人新しい衣を着て良いのか?」
 ここに至って、太子が新しい衣を進め、これを着替えた。
 諸軍が捕虜とした高麗人は一万四千人。これをまず幽州に集めて軍士への褒賞にしようとしたが、上は、彼等が父子夫婦と離散することを憐れみ、彼等を全員銭布で買い取って平民とした。歓呼の声は三日間止まなかった。
 十一月、辛未。車駕が幽州へ到着した。高麗の民は城東で迎えた。彼等は拝礼し、踊りまくり、歓声を挙げ、転がり廻ったので、立ち上る塵埃が遠くからでも見えるほどだった。
 庚辰、易州の境を通過した。司馬の陳元璹は地室にて民に提灯行列をさせた(?)。上はその諂いを憎んで、元壽を罷免した。
 丙戌、車駕は定州へ到着した。
 丁亥、吏部尚書楊師道が登用した者には無能な者が多かったので、懲罰として工部尚書へ左遷された。
 壬辰、車駕が定州を出発した。十二月、辛丑、上に非常に悪性のできものができたので、御歩輦にて進んだ。戌申、并州へ到着した。太子が、上のできものの膿を吸い取った。そして数日間、歩輦を助けて進んだ。辛亥、上の病が癒えた。百官は皆祝賀した。
 上は高麗を征伐する時、右領軍大将軍執失思力を夏州の北へ配置し、突厥を麾下へ与えて薛延陀に備えさせた。薛延陀の多彌可汗は、即位した後、上が出征して未だ帰ってきていないので、兵を率いて河南へ来寇した。上は左武候中郎将の長安の田仁會と思力を合流させて迎撃させた。
 思力は弱そうに見せかけて偽って退却し、敵を深く誘い込んだ。そして夏州の州境にて、整然と陣を布いて待ち受けた。薛延陀は大敗し、思力はこれを六百余里追撃する。磧北へ武威を輝かせて帰還した。
 多彌は再び兵を率いて夏州へ来寇した。己未、礼部尚書江夏王道宗は朔、并、汾、箕、嵐、代、忻、蔚、雲九州の兵を発して朔州を鎮守し、右衛大将軍代州都督薛萬徹と左驍衛大将軍阿史那社爾は勝、夏、銀、綵、丹、延、鄜、坊、石、隰十州の兵を発して勝州を鎮守し、勝州都督宋公明と左武衛将軍薛孤呉は霊、原、鹽、慶五州の兵を発して霊州を鎮守するよう敕し、又、執失思力には霊、勝二州の突厥兵を発して道宗と呼応させた。薛延陀は塞下まで来て、備えがあるのを知り、敢えて進まなかった。
 初,上留侍中劉洎輔皇太子於定州,仍兼左庶子、檢校民部尚書,總吏、禮、戸部三尚書事。上將行,謂洎曰:「我今遠征,爾輔太子,安危所寄,宜深識我意。」對曰:「願陛下無憂,大臣有罪者,臣謹即行誅。」上以其言妄發,頗怪之,戒曰:「卿性疏而太健,必以此敗,深宜愼之!」及上不豫,洎從内出,色甚悲懼,謂同列曰:「疾勢如此,聖躬可憂!」或譖於上曰:「洎言國家事不足憂,但當輔幼主行伊、霍故事,大臣有異志者誅之,自定矣。」上以爲然,庚申,下詔稱:「洎與人竊議,窺窬萬一,謀執朝衡,自處伊、霍,猜忌大臣,皆欲夷戮。宜賜自盡,免其妻孥。」
  中書令馬周攝吏部尚書,以四時選爲勞,請復以十一月選,至三月畢;從之。
3.初め、上は侍中の劉洎を定州に留めて皇太子を輔けさせ、左庶子、検校民部尚書を兼務させて吏、礼、戸部の三尚書の仕事を統括させていた。
 上は出発する時、洎へ言った。
「我は今遠征し、爾へ太子を補佐させる。安危はお前にかかっているのだ。我が意を深く知れ。」
 対して言った。
「どうか陛下、憂えなさいますな。大臣に罪があれば、臣は謹んで誅します。」
 上は、妄りにそんなことを言ったと思い、これを非常に怪み、戒めた。
「卿の性格は、疎くて剛強。必ずそれで失敗するぞ。深くこれを慎め!」
 上が重病になるに及んで、洎は従内へ出た時、とても悲しみ恐れた顔つきで、同列へ言った。
「病状はこのようだ。聖躬が心配だ!」
 ある者が、上へ讒言した。
「洎が言っておりました。『国家のことは憂えるに足りない、ただ幼主を補佐して伊尹や霍光の故事に倣い、異心のある大臣は誅殺すれば、定まるのだ。』と。」
 上は、さもありなんと得心した。
 庚申、下詔して言った。
「洎は、万一を窺って朝廷の権力を握り、伊、霍に倣って猜忌した大臣を皆殺しにしようと、密かに人と議した。自決するが良い。ただ、妻子は赦す。」
 中書令馬周が吏部尚書の職務を代行し、四時選が煩雑なので従来通りの十一月に人選して三月に終わる形式に戻したいと請願した。これに従う。
 是歳,右親衞中郎將裴行方討茂州叛羌黄郎弄,大破之,窮其餘黨,西至乞習山,臨弱水而歸。
4.この年、右親衛中郎将裴行方が茂州の叛羌の黄郎弄を討ち、大勝利を得た。その余党を窮治して乞習山まで西進し、弱水へ臨んで帰還した。
二十年(丙午、六四六)

 春,正月,辛未,夏州都督喬師望、右領軍大將軍執失思力等撃薛延陀,大破之,虜獲二千餘人。多彌可汗輕騎遁走,部内騷然矣。
1.春、正月、辛未、夏州都督喬師望と右領軍大将軍執失思力等が薛延陀を撃ち、大勝利を得、二千余人を捕虜とする。多彌可汗は軽騎で逃げ去り、部内は騒然とした。
 丁丑,遣大理卿孫伏伽等二十二人以六條巡察四方,刺史、縣令以下多所貶黜,其人詣闕稱冤者,前後相屬。上令褚遂良類状以聞,上親臨決,以能進擢者二十人,以罪死者七人,流以下除免者數百千人。
2.丁丑、大理卿孫伏伽等二十二人を六條として四方を巡察させ、刺史、県令以下大勢が貶黜された。ところが、それらの人々のうち、闕を詣でて冤罪だと訴える者が相継いだので、上は褚遂良へ事情を聴取させ、上自らが裁決した。その結果、二十人が抜擢されたが、死罪となったものは七人。流罪以下罷免までの者は数百千人に登った。
 二月,乙未,上發并州。三月,己巳,車駕還京師。上謂李靖曰:「吾以天下之衆困於小夷,何也?」靖曰:「此道宗所解。」上顧問江夏王道宗,具陳在駐驆時乘虚取平壤之言。上悵然曰:「當時匆匆,吾不憶也。」
3.二月、乙未。上は并州を出発した。三月、己巳、車駕が京師へ帰った。
 上が李靖へ言った。
「我が天下の衆を率いたのに、小夷に苦しまされた。何故かな?」
 靖は言った。
「その訳は、道宗が知っています。」
 そこで上は江夏王道宗を振り向いて尋ねると、道宗は対峙していた時に献策した、虚に乗じて平壌を取る策を具に語った。上は、しょげかえって言った。
「あの時はバタバタしており、憶えてないのだ。」
 上疾未全平,欲專保養,庚午,詔軍國機務並委皇太子處決。於是太子間日聽政於東宮,既罷,則入侍藥膳,不離左右。上命太子暫出游觀,太子辭不願出;上乃置別院於寢殿側,使太子居之。褚遂良請遣太子旬日一還東宮,與師傅講道義;從之。
  上嘗幸未央宮,辟仗已過,忽於草中見一人帶橫刀,詰之,曰:「聞辟仗至,懼不敢出,辟仗者不見,遂伏不敢動。」上遽引還,顧謂太子:「茲事行之,則數人當死,汝於後速縱遣之。」又嘗乘腰輿,有三衞誤拂御衣,其人懼,色變。上曰:「此間無御史,吾不汝罪也。」
4.上の病気が完治しないので、保養に専念することにした。
 庚午、軍国の機密の決裁を太子に委ねると、詔した。ここに於いて太子は、日中は東宮にて政務を執り、それが終わってからは上の側で薬膳の世話をして、片時も離れなかった。上が太子へ、暫く外へ出て遊んでくるよう命じても、太子は外へ出ることを願わなかった。そこで上は寝殿のそばに別院を設置して、太子をそこへ起居させた。
 褚遂良が、旬日に一度は太子を東宮へ帰し、師傅から道義を教わるように請願し、これに従った。
 かつて、上が未央宮へ御幸したとき、辟杖(前触れの兵士へ、露払いさせること)しながら進んでいると、帯刀した男が草むらの中に隠れているのを見つけた。上が詰ると、彼は言った。
「辟杖が来たのが聞こえたので、恐くて隠れ、見つからないように動かなかったのです。」
 上は引き返すと太子へ言った。
「この事を糾明したら、数人が死罪になる。汝は、すぐに逃がしてやれ。」
 また、かつて腰輿に乗った時、三衛が誤って御衣を払ってしまった。当人は恐れて顔面蒼白になったが、上は言った。
「ここには御史がいないから、見逃してやれるぞ。」
  陝人常德玄告刑部尚書張亮養假子五百人,與術士公孫常語,云「名應圖讖」,又問術士程公穎曰:「吾臂有龍鱗起,欲舉大事,可乎?」上命馬周等按其事,亮辭不服。上曰:「亮有假子五百人,養此輩何爲?正欲反耳!」命百官議其獄,皆言亮反,當誅。獨將作少匠李道裕言:「亮反形未具,罪不當死。」上遣長孫無忌、房玄齡就獄與亮訣曰:「法者天下之平,與公共之。公自不謹,與凶人往還,陷入於法,今將奈何!公好去。」己丑,亮與公穎倶斬西市,籍沒其家。
  歳餘,刑部侍郎缺,上命執政妙擇其人,擬數人,皆不稱旨,既而曰:「朕得其人矣。往者李道裕議張亮獄云『反形未具』,此言當矣,朕雖不從,至今悔之。」遂以道裕爲刑部侍郎。
5.陜の人常徳玄が告発した。
「刑部尚書張亮は五百人も養子にし、術士公孫常と『自分の名は図讖に応じている』などと話していた。また、術士程公穎へ『わが肘に龍の鱗が出来た。胎児を挙行しても大丈夫か?』と尋ねました。」
 上は馬周等へ取り調べさせたが、亮は服しなかった。上は言った。
「亮には養子が五百人もいるが、彼等を何のために養っているのか?造反する為ではないか!」
 そして百官へ議論するよう命じた。皆は、亮は造反したので誅殺するべきだと言ったが、ただ将作大匠李道裕だけは言った。
「亮の造反は、まだ具体化しておりませんので、死刑には当たりません。」
 上は長孫無忌と房玄齢を牢獄へ派遣して亮へ訣別の言葉を伝えた。
「方は天下の平、公と共にこれを執ってきた。だが公は謹まず、凶人と付き合って法へ陥った。もう、どうしようもない!公と訣別する。」
 己丑、亮と公穎を西市で斬り、その家を没収した。
 一年余りして、刑部侍郎に欠員が出来た。上が執政へ人選を命じると数人の候補が挙がったが、皆、上のお気に召さなかった。そこで、上は言った。
「朕に心当たりがある。かつての張亮の疑獄で、李道裕は『まだ造反は具体化していない』と言ったが、それは正しかった。朕は従わなかったが、今になって悔いている。」
 遂に道裕を刑部侍郎とした。
 閏月,癸巳朔,日有食之。
6.閏月、癸巳朔、日食が起こった。
 戊戌,罷遼州都督府及巖州。
7.戊戌、遼州都督府と巖州を廃止した。
 夏,四月,甲子,太子太保蕭瑀解太保,乃同中書門下三品。
8.夏、四月、甲子、太子太保蕭瑀の太保を解任したが、同中書門下三品は従来通りとした。
 五月,甲寅,高麗王藏及莫離支蓋金遣使謝罪,并獻二美女,上還之。金,即蘇文也。
9.五月、甲寅、高麗王藏と莫離支蓋金が謝罪の使者を派遣して、二人の美女を献上したが、上はこれを返した。蓋金は、蓋蘇文のことである。
 10六月,丁卯,西突厥乙毗射匱可汗遣使入貢,且請婚;上許之,且使割龜茲、于闐、疏勒、朱倶波、葱嶺五國以爲聘禮。
10.六月、丁卯、西突厥の乙毘射匱可汗が、入貢の使者を派遣し、かつ、通婚を求めた。上はこれを許し、婚礼の引き出物代わりに亀茲、于闐、疏勒、朱倶波、葱嶺の五国の支配させた。
 11薛延陀多彌可汗,性褊急,猜忌無恩,廢棄父時貴臣,專用己所親昵,國人不附;多彌多所誅殺,人不自安。回紇酋長吐迷度與僕骨、同羅共撃之,多彌大敗。乙亥,詔以江夏王道宗、左衞大將軍阿史那社爾爲瀚海安撫大使;又遣右領衞大將軍執失思力將突厥兵,右驍衞大將軍契苾何力將涼州及胡兵,代州都督薛萬徹、營州都督張儉各將所部兵,分道並進,以撃薛延陀。
  上遣校尉宇文法詣烏羅護、靺鞨,遇薛延陀阿波設之兵於東境,法帥靺鞨撃破之。薛延陀國中驚擾,曰:「唐兵至矣!」諸部大亂。多彌引數千騎奔阿史德時健部落,回紇攻而殺之,并其宗族殆盡,遂據其地。諸俟斤互相攻撃,爭遣使來歸命。
  薛延陀餘衆西走,猶七萬餘口,共立眞珠可汗兄子咄摩支爲伊特勿失可汗,歸其故地。尋去可汗之號,遣使奉表,請居鬱督軍山之北;使兵部尚書崔敦禮就安集之。
  敕勒九姓酋長,以其部落素服薛延陀種,聞咄摩支來,皆恐懼,朝議恐其爲磧北之患,乃更遣李世勣與九姓敕勒共圖之。上戒世勣曰:「降則撫之,叛則討之。」己丑,上手詔,以「薛延陀破滅,其敕勒諸部,或來降附,或未歸服,今不乘機,恐貽後悔,朕當自詣靈州招撫。其去歳征遼東兵,皆不調發。」
  時太子當從行,少詹事張行成上疏,以爲:「皇太子從幸靈州,不若使之監國,接對百寮,明習庶政,既爲京師重鎭,且示四方盛德。宜割私愛,俯從公道。」上以爲忠,進位銀靑光祿大夫。
11.薛延陀の多彌可汗は偏屈性急な性格で、猜疑心が強く恩を感じない人間。父の頃の貴臣は廃棄し、自分の親昵な者ばかりを寵用したので、国人は懐かなかった。また、多彌は大勢を誅殺したので、人々はビクビクした。
 回紇の酋長吐迷度が僕骨、同羅と共にこれを攻撃し、多彌は大敗した。
 乙亥、詔して江夏王道宗、左衛大将軍阿史那社爾を瀚海安撫大使と為した。また、右領衛大将軍執失思力へ突厥兵を、右驍衛大将軍契苾何力へ涼州と胡兵を、代州都督薛萬徹と営州都督張倹へ各々の手勢を率いて派遣し、数道から薛延陀を攻撃させた。
 上は、校尉の宇文法を烏羅護、靺鞨へ行かせたが、彼は薛延陀の東境で薛延陀と遭遇した。そこで法は靺鞨を率いてこれを撃破した。薛延陀は国中大騒動となり、言った。
「唐軍が来た!」
 諸部は大いに乱れた。
 多彌は数千騎を率いて阿史徳時健の部落へ逃げた。回紇はこれを攻めて多彌を殺し、その宗族を殆ど殺し尽くして、遂にその土地へ據った。
 諸俟斤は互いに攻撃しあい、争うように唐へ使者を派遣し服従した。
 薛延陀の余衆は西へ逃げた。彼等はなお、七万口が残っており、共に真珠可汗の兄の子の咄摩支を立てて伊特勿失可汗とし、その故地へ帰った。ついで可汗の称号を取り下げ、唐へ使者を派遣して表を奉じ、鬱監軍山の北へ住むことを請願した。唐は、兵部尚書崔敦礼へ招安させて彼等を集めた。
 ところで、敕勒の九姓の酋長は、もともと部落を以て薛延陀の種に服属していた。彼等は咄摩支が来たと聞き、皆、恐惶した。朝議は、彼等が磧北の患いとなることをおそれ、更に李世勣を派遣して敕勒の九姓と共に咄摩支を図らせることにした。
 上は李世勣を戒めて言った。
「奴等が降伏したら慰撫し、造反したら討伐せよ。」
 己丑、上は手詔を下した。
「薛延陀は破滅し、その敕勒の諸部には来降した者も、まだしない者もいる。今、この機に乗じなければ後へ悔いを遺すこととなる。朕は自ら霊州へ詣で、招撫する。去年遼東へ出征した兵は、今回は徴発しない。」
 この時、大使が随従しようとすると、少詹事張行成が上疏した。その大意は、
「皇太子を霊州へ従幸させるよりも、太子を監国とした方が宜しゅうございます。百寮へ接対させ庶政に明習させ、京師の重鎮と為らせて四方へ盛徳を示すのです。私愛を殺して公道へ従ってください。」
 上はこれを忠義と取り、官位を青光禄大夫へ進めた。
 12李世勣至鬱督軍山,其酋長梯眞達官帥衆來降。薛延陀咄摩支南奔荒谷,世勣遣通事舎人蕭嗣業往招慰,咄摩支詣嗣業降。其部落猶持兩端,世勣縱兵追撃,前後斬五千餘級,虜男女三萬餘人。秋,七月,咄摩支至京師,拜右武衞大將軍。
12.李靖が鬱督軍山へ到着した。その酋長の梯真の達官が衆を率いて来降した。薛延陀の咄摩支は、南の荒谷へ逃げた。世勣が、通事舎人蕭嗣業を派遣して招慰すると、咄摩支は世勣の元へ出向いて降伏した。
 その部落はなおも二股を掛けていたので、世勣は兵を率いて追撃し、前後五千級の首を斬り、男女三万余人を捕らえる。
 秋、七月。咄摩支が京師へ来た。右武衛大将軍を拝受する。
 13八月,甲子,立皇孫忠爲陳王。
13.八月、甲子。皇孫忠を陳王に立てた。
 14己巳,上行幸靈州。
14.己巳、上が霊州へ御幸した。
 15江夏王道宗兵既渡磧,遇薛延陀阿波達官衆數萬拒戰,道宗撃破之,斬首千餘級,追奔二百里。道宗與薛萬徹各遣使招諭敕勒諸部,其酋長皆喜,頓首請入朝。庚午,車駕至浮陽。回紇、拔野古、同羅、僕骨、多濫葛、思結、阿跌、契苾、跌結、渾、斛薛等十一姓各遣使入貢,稱:「薛延陀不事大國,暴虐無道,不能與奴等爲主,自取敗死,部落鳥散,不知所之。奴等各有分地,不從薛延陀去,歸命天子。願賜哀憐,乞置官司,養育奴等。」上大喜。辛未,詔回紇等使者宴樂,頒賚拜官,賜其酋長璽書;遣右領軍中郎將安永壽報使。
  壬申,上幸漢故甘泉宮,詔以「戎、狄與天地倶生,上皇並列,流殃構禍,乃自運初。朕聊命偏師,遂擒頡利;始弘廟略,已滅延陀。鐵勒百餘萬戸,散處北溟,遠遣使人,委身内屬,請同編列,並爲州郡;混元以降,殊未前聞,宜備禮告廟,仍頒示普天。」
  庚辰,至涇州;丙戌,踰隴山,至西瓦亭,觀馬牧。九月,上至靈州,敕勒諸部俟斤遣使相繼詣靈州者數千人,咸云:「願得天至尊爲奴等天可汗,子子孫孫常爲天至尊奴,死無所恨。」甲辰,上爲詩序其事曰:「雪恥酬百王,除凶報千古。」公卿請勒石於靈州;從之。
15.江夏王道宗の兵は、磧を渡った後、薛延陀の阿波の達官数万と遭遇した。彼等は拒戦したが、道宗はこれを撃破し、千余級の首を斬り、二百里追撃する。
 道宗と薛萬徹はおのおの使者を派遣して敕勒の諸部を招諭した。その酋長は皆喜び、頓首して入朝を請うた。
 庚午、車駕が浮陽へ至る。回紇、抜野古、同羅、僕骨、多濫葛、思結、阿跌、契苾、跌結、渾、斛薛等十一姓が、各々使者を派遣して入貢した。
 彼等は称した。
「薛延陀は大国に仕えず、暴虐無道で奴等の主になることが出来ず、自ら敗死し、部落は逃散して行く場所もなくなりました。奴等には、各々領土を分かち、薛延陀に従って逃げたりしないで、天子へ帰命いたします。どうか哀憐を賜り、官司を置いて奴等を養育してくださいませ。」
 上は大いに喜んだ。
 辛未、回紇等の使者を宴会で持てなし、官位を拝受させ、その酋長へ璽書を賜し、右領軍中郎将安永寿を返報の使者とするよう詔が降りた。
 壬申、上は漢のもとの甘泉宮へ御幸して、詔した。
「戎、狄と天地を共にして、上皇は彼等と肩を並べていたが、彼等へは禍が相継ぎ、我等のみ運が良かった。朕は小部隊へ命じ、遂に頡利を捕らえた。これから廟略は広まり、既に延陀を滅ぼした。北溟へ散在している鉄勒の百余万戸へ遠く使者を派遣すると、彼等は身を委ねて内属し、我等の民と同列に扱われることを願い、みな、州郡となった。これらの事は、開闢以来前例のないことだ。よって礼を備えて廟へ告げ、普天へ頒示する。」
 庚辰、涇州へ到着した。
 丙戌、隴山を越えて西瓦亭へ至り、馬牧を観る。
 九月、上は霊州へ到着した。敕勒諸部の俟斤が派遣した使者が相継いで霊州へやって来た。その数は数千人。咸に言う、
「天の至尊、どうか奴等の天可汗となってください。我等が子々孫々、常に天至尊の奴隷でいれるならば、死んでも恨みはありません。」
 甲辰、上はこの事を詩序に造って言った。
「恥を雪いで百王へ酬い、凶を除いて千古に報いる。」
 公卿が霊州にて石に刻むよう請い、これに従った。
 16特進同中書門下三品宋公蕭瑀,性狷介,與同寮多不合,嘗言於上曰:「房玄齡與中書門下衆臣,朋黨不忠,執權膠固。陛下不詳知,但未反耳。」上曰:「卿言得無太甚!人君選賢才以爲股肱心膂,當推誠任之。人不可以求備,必捨其所短,取其所長。朕雖不能聰明,何至頓迷臧否,乃至於是!」瑀内不自得,既數忤旨,上亦銜之,但以其忠直居多,未忍廢也。
  上嘗謂張亮曰:「卿既事佛,何不出家?」瑀因自請出家。上曰:「亦知公雅好桑門,今不違公意。」瑀須臾復進曰:「臣適思之,不能出家。」上以瑀對羣臣發言反覆,尤不能平;會稱足疾不朝,或至朝堂而不入見。上知瑀意終怏怏,冬,十月,手詔數其罪曰:「朕於佛教,非意所遵。求其道者未驗福於將來,脩其教者翻受辜於既往。至若梁武窮心於釋氏,簡文鋭意於法門,傾帑藏以給僧祗,殫人力以供塔廟。及乎三淮沸浪,五嶺騰煙,假餘息於熊蹯,引殘魂於雀鷇,子孫覆亡而不暇,社稷俄頃而爲墟,報施之徴,何其謬也!瑀踐覆車之餘軌,襲亡國之遺風;棄公就私,未明隱顯之際;身俗口道,莫辨邪正之心。修累葉之殃源,祈一躬之福本,上以違忤君主,下則扇習浮華。自請出家,尋復違異。一廻一惑,在乎瞬息之間;自可自否,變於帷扆之所。乖棟梁之體,豈具瞻之量乎!朕隱忍至今,瑀全無悛改。可商州刺史,仍除其封。」
16.特進同じ中書門下三品宋公蕭瑀は一本気で潔癖だったので、同僚の多くと反りが合わなかった。かつて、彼は上へ言った。
「房玄齢と中書門下の衆臣は朋党を組む不忠者。がっちりと手を握って陛下へ詳細を知らせません。ただ、造反まで至ってないだけです。」
 上は言った。
「卿は口が過ぎるぞ!人君が賢才を選んで股肱心膂としたら、誠意を尽くしてこれに仕えるのだ。人に完全は求められない。必ずその短所には目をつぶり長所を伸ばす。朕は聡明ではないにしても、頓迷暗愚ではない。何でそこまで至るか!」
 瑀は内心不満で、屡々聖旨に逆らった。上も又、内心これを含んだ。ただ、彼が忠直なことが多いので、罷免するに忍びなかった。
 上は、かつて張亮へ言った。
「卿は既に仏に仕えているのに、どうして出家しないのか?」
 瑀は、これを聞いて自ら出家を請うた。上は言った。
「公が桑門を雅好しているのは知っていた。今、公の望みを無碍には出来ぬ。」
 しかし、しばらくして瑀は再び言った。
「臣は熟慮しましたが、やはり出家は出来ません。」
 上は、瑀が群臣の前で言ったことを撤回したので、むかついた。
 やがて瑀は足疾で朝廷へ出なかったり、あるいは朝堂まで来ても入見しなくなったりした。上は瑀が内心怏々としていることを知った。
 冬、十月。手ずから詔を降ろして瑀の罪状を数え上げ、言った。
「朕は仏教へ対して、その教義に従っているのではない。その道を求める者はまだ将来に福を受けておらず、その教えを修めた者は過去に禍を蒙っている。梁の武帝に至っては釈氏へ心を尽くし、簡文は法門へ意欲を燃やし、官庫を傾けて僧侶へ施し人力を尽くして塔や廟を造った。しかし、三淮はメチャクチャになり五嶺は燃え尽きた。そして武帝は、熊の掌さえも食べられなかった楚の成王や魂を引き裂かれた趙の武霊王のような末路を辿り、子孫はアッとゆう間に滅亡し、社稷は廃墟となり果てた。仏徒の唱える『お布施の報い』など、嘘っぱちである!瑀は、覆車の余軌を踏み、亡国の遺風を踏襲する。公を棄てて私に就き、隠顕の際を明らかにしない。俗世で暮らすくせに口には道を唱え、邪心と正心を弁じられない。累葉の殃源を修め一心の福のみを祈り、上は君主の意向に逆らい下は浮華を扇習する。自ら出家を請うたのに、すぐに翻心するなど、一迴一惑は瞬息の間。可と否を帷扆の内で変えてしまう。これは棟梁の礼に背く。なんで百年を語れようか!朕は今まで我慢してきたが、瑀には改悛の跡が全くない。よって商州刺史として、その封は没収する。」
 17上自高麗還,蓋蘇文益驕恣,雖遣使奉表,其言率皆詭誕;又待唐使者倨慢,常窺伺邊隙。屢敕令勿攻新羅,而侵陵不止。壬申,詔勿受其朝貢,更議討之。
17.上が高麗から還ってから、蓋蘇文はますます驕慢になった。使者を派遣して奉表こそしたものの、その言辞は詭誕だらけ。唐からの使者へも傲慢に対し、常にその辺境の隙を窺っていた。新羅を攻撃するなと屡々敕令を下したが、侵陵を止めない。
 壬申、その朝貢を受けぬように、と詔がおり、更にこれの討伐について議した。
 18丙戌,車駕還京師。
  冬,十月,己丑,上以幸靈州往還,冒寒疲頓,欲於歳前專事保攝。十一月,己丑,詔祭祀、表疏、胡客、兵馬、宿衞,行魚契給驛、授五品以上官及除解、決死罪皆以聞,餘並取皇太子處分。
18.丙戌、車駕が京師へ還った。
 冬、十月、己丑。上は霊州への往還で寒さにやられ疲労もし、今年いっぱいは保養に専念したくなった。
 十一月、己丑(乙丑の間違いとの説あり。多分、乙でしょう)。祭祀、表疏、胡客、宿衛、行魚契給駅、五品以上の授官及び除解、死罪の決定については上聞し、それ以外は全て皇太子へ決裁させるよう詔が降りた。
 19十二月,己丑,羣臣累請封禪;從之。詔造羽衞送洛陽宮。
19.十二月、己丑、群臣が封禅するよう何度も請願したので、これに従った。羽衛を造って洛陽宮へ送るよう詔する。
 20戊寅,回紇俟利發吐迷度、僕骨俟利發歌濫拔延、多濫葛俟斤末、拔野古俟利發屈利失、同羅俟利發時健啜、思結酋長烏碎及渾、斛薛、奚結、阿跌、契苾、白霫酋長皆來朝。庚辰,上賜宴於芳蘭殿,命有司□□□□(厚加給待?),毎五日一會。
20.戊寅、回紇の俟利發吐迷度、僕骨の俟利發歌濫抜延、多監葛の俟利末、抜野古の俟利發屈利失、同羅の俟利發時健啜、思結の酋長烏砕及び渾、斛薛、奚結、阿跌、契苾、白霫の酋長が、皆、来朝した。
 上は芳蘭殿にて宴会を催し、有司□□□□へ、五日毎に一回宴会を開くよう命じた。
 21癸未,上謂長孫無忌等曰:「今日吾生日,世俗皆爲樂,在朕翻成傷感。今君臨天下,富有四海,而承歡膝下,永不可得,此子路所以有負米之恨也。詩云:『哀哀父母,生我劬勞。』奈何以劬勞之日更爲宴樂乎!」因泣數行下,左右皆悲。
21.癸未、上が長孫無忌等へ言った。
「今日は、我が誕生日だ。世俗では皆宴会などで楽しむが、朕は却って胸が痛む。今、天下に君臨し、富は四海にあり、膝下に永く得られないような歓びを承ける。これは子路の言う、『負米之恨がある』とゆうものだ。詩に言う、『哀しいかな父母、我を生んで疲れ果てた。』なんで疲れ果てた日にドンチャン騒ぎをするのか!」
 そして涙を零した。左右の臣下達も、皆、貰い泣きした。
(負米之恨、注)子路は、両親が生きていた頃は貧しくて、粗食を食べ、親の為に米を背負って百里先まで運んだ。親が死んだ後、高貴な身分になり飽食もしたが、「粗食を食べて親のために米を背負いたくてもできない」と言って悲しんだ。
 22房玄齡嘗以微譴歸第,褚遂良上疏,以爲:「玄齡自義旗之始翼贊聖功,武德之季冒死決策,貞觀之初選賢立政,人臣之勤,玄齡爲最。自非有罪在不赦,搢紳同尤,不可遐棄。陛下若以其衰老,亦當諷諭使之致仕,退之以禮;不可以淺鮮之過,棄數十年之勳舊。」上遽召出之。頃之,玄齡復避位還家。久之,上幸芙蓉園,玄齡敕子弟汛掃門庭,曰:「乘輿且至!」有頃,上果幸其第,因載玄齡還宮。
22.ある時、房玄齢が些細なことで譴責を受け、第へ追い返された。すると、猪遂良が上疏した。その大意は、
「玄齢は義旗の当初から陛下の羽翼となり、武徳の末には死を冒して策を定めました。貞観の初めに賢人を立てて政策を定めましたが、この時の人臣の勤務では房玄齢が一番でした。赦されないような罪がなければ、最上の官吏は棄ててはなりません。陛下がもし、彼が年をとったと思われたなら、辞職するよう風諭し、礼節を以て退職させるべきです。些細な過失で数十年の勲旧を棄ててはなりません。」
 上は、すぐに房玄齢を呼びだした。
 この頃、房玄齢は簡易を避けて家へ帰っていた。やがて、上は芙蓉園へ御幸したが、玄齢は子弟に門庭を掃き清めさせて言った。
「乗腰がやって来るぞ!」
 しばらくして、上は果たしてその第へ御幸し、玄齢を載せて宮殿へ還った。
二十一年(丁未,六四七)

 春,正月,開府儀同三司申文獻公高士廉疾篤;辛卯,上幸其第,流涕與訣;壬辰,薨。上將往哭之,房玄齡以上疾新愈,固諫,上曰:「高公非徒君臣,兼以故舊姻戚,豈得聞其喪不往哭乎!公勿復言!」帥左右自興安門出。長孫無忌在士廉喪所,聞上將至,輟哭,迎諫於馬首曰:「陛下餌金石,於方不得臨喪,奈何不爲宗廟蒼生自重!且臣舅臨終遺言,深不欲以北首、夷衾,輒屈鑾駕。」上不聽。無忌中道伏臥,流涕固諫,上乃還入東苑,南望而哭,涕下如雨。及柩出橫橋,上登長安故城西北樓,望之慟哭。
1.春、正月。開府儀同三司申文献公高士廉が重態となった。辛卯、上はその第へ御幸し、涙を零して訣別した。
 壬辰、卒する。上が出向いて哭しようとすると、房玄齢は上も病上がりだからと、固く諫めた。すると、上は言った。
「高君とはただの君臣ではない。故旧の姻戚だ(高士廉は、長孫后の母舅)。その喪を聞いて、どうして哭に行かずにおられようか!公はもう、何も言うな!」
 左右を率いて興安門から出た。長孫無忌は士廉の喪に臨んでいたが、上がやって来ていると聞き、哭をやめて、馬首まで出迎え、諫めて言った。
「陛下は療養中です。喪に臨むのは宜しくありません。どうして宗廟蒼生の為に御自重なさらないのですか!それに、臣の舅は臨終の遺言で、北首や夷衾を望みませんでした(死者は北向きに寝かせ、屍へ衾を掛ける。「屍の安置を望まなかった」とゆう意味か?)。それでどうして陛下の膝を曲げさせることを望みましょうか。」
 上は聞かない。だが、無忌が道に身を投げ出して涙を零して固く諫めたので。上は遂に還って東苑へ入り、南を向いて慟哭し、雨のように涙を流した。柩が横橋を出るに及んで、上は長安の故城の西北楼へ登って、これを望んで慟哭した。
 丙申,詔以回紇部爲瀚海府,僕骨爲金微府,多濫葛爲燕然府,拔野古爲幽陵府,同羅爲龜林府,思結爲盧山府,渾爲皋蘭州,斛薛爲高闕州,奚結爲雞鹿州,阿跌爲雞田州,契苾爲楡溪州,思結別部爲蹛林州,白霫爲寘顏州;各以其酋長爲都督、刺史,各賜金銀繒帛及錦袍。敕勒大喜,捧戴歡呼拜舞,宛轉塵中。及還,上御天成殿宴,設十部樂而遣之。諸酋長奏稱:「臣等既爲唐民,往來天至尊所,如詣父母,請於回紇以南、突厥以北開一道,謂之參天可汗道,置六十八驛,各有馬及酒肉以供過使,歳貢貂皮以充租賦,仍請能屬文人,使爲表疏。」上皆許之。於是北荒悉平,然回紇吐迷度已私自稱可汗,官號皆如突厥故事。
2.丙申、詔して、回紇部を瀚海府、僕骨を金微府、多監葛を燕然府、抜野古を幽陵府、同羅を亀林賦、思結を盧山府、渾を皋蘭州、解薛を高闕州、奚結を鶏鹿州、阿跌を鶏田州、契苾を楡渓州、思結別部を蹛林州、白霫を寘顔州とした。各々その酋長を都督、刺史として、それぞれへ金銀繒帛及び錦袍を賜下した。敕勒は大いに喜び、戴を捧げて歓呼して拝舞し、塵の中を転げ回った。
 彼等が帰るに及んで、上は天成殿へ出向いて宴会を催し、十部の楽を設けてこれを遣った。諸酋長は、奏称した。
「臣等は既に唐の民になりました。天至尊の所へ往来するのは、父母の元へ詣でるようなものです。どうか回紇以南、突厥以北に一道を開き、これを参天可汗道と名付け、六十八駅を設置し、各々馬と酒肉を準備して通過する使者を持てなし、毎年租賦として貂皮を献上し、有能な文人を派遣してくださいますよう、表疏して請願いたします。」
 上はこれを全て許した。
 ここに於いて北荒は全て平定された。しかし、回紇の吐迷度は既に可汗を自称していたので、官号は全て突厥の故事に倣った。
 丁酉,詔以明年仲春有事泰山,禪社首;餘並依十五年議。
3.丁酉、明年の仲春に泰山を祀ると詔した。社首を禅するなど、全て十五年の時の朝議の結果に従うことになった。
 二月,丁丑,太子釋奠于國學。
4.二月、丁丑、太子が国学にて使者への礼を講釈した。
 上將復伐高麗,朝議以爲:「高麗依山爲城,攻之不可猝拔。前大駕親征,國人不得耕種,所克之城,悉收其穀,繼以旱災,民太半乏食。今若數遣偏師,更迭擾其疆場,使彼疲於奔命,釋耒入堡,數年之間,千里蕭條,則人心自離,鴨綠之北,可不戰而取矣。」上從之。三月,以左武衞大將軍牛進達爲靑丘道行軍大總管,右武候將軍李海岸副之,發兵萬餘人,乘樓船自萊州汎海而入。又以太子詹事李世勣爲遼東道行軍大總管,右武衞將軍孫貳朗等副之,將兵三千人,因營州都督府兵自新城道入。兩軍皆選習水善戰者配之。
5.上は高麗を討伐しようと、朝議を開いた。すると、次のような結論になった。
「高麗は、山に依って城としている。これを攻めても簡単には抜けない。しかし前に大駕が親征した時、敵の国人は農作業が出来なかった。我等は陥した城から穀物を全て奪ったし、更に旱害まで起こって彼等の民の大半が飢えた。今、もしも偏師を何度も派遣し、更に奴等の国内を掻き乱して奔命に疲労させれば、奴等は穀物を城へ備蓄できない。数年のうちに千里に亘って荒れ果てる。そうすれば人心が離間するから、鴨緑の北は、戦わずして取ることができる。」
 上はこれに従った。
 三月、左武衛大将軍牛進達を青丘道行軍大総管とし、右武衛将軍李海岸をその副官にして万余人を発し、楼船に乗せて莱州から出航させた。また、太子詹事李世勣を遼東道行軍大総管とし、右武衛将軍孫貳朗をこれの副官として、三千人を率いて営州都督府から新城道を進ませた。両軍共に、水練の達者な戦上手を配置した。
 辛卯,上曰:「朕於戎、狄所以能取古人所不能取,臣古人所不能臣者,皆順衆人之所欲故也。昔禹帥九州之民,鑿山槎木,疏百川注之海,其勞甚矣,而民不怨者,因人之心,順地之勢,與民同利故也。」
6.辛卯、上は言った。
「朕は、古人の取れなかった戎・狄を取ることができたし、古人が臣下とできなかった者を臣下に出来た。それは全て、衆人の望むところに従ったからだ。昔、禹は九州の民を率いて山を穿ち木を断ち切り、百川を海へ注いだ。その労苦は甚大だったが、民は怨まなかった。それは人の思いを基にして、地形に逆らわず、其の利益を民と共有したからだ。」
 是月,上得風疾,苦京師盛暑,夏,四月,乙丑,命脩終南山太和廢宮爲翠微宮。
7.この月、上は風邪をひいたので、京師の酷暑が苦になった。夏、四月、乙丑、終南山の太和の廃宮の修理を命じ、翠微宮と名付けた。
 丙寅,置燕然都護府,統瀚海等六都督、皋蘭等七州,以揚州都督府司馬李素立爲之。素立撫以恩信,夷落懷之,共率馬牛爲獻;素立唯受其酒一盃,餘悉還之。
8.丙寅、燕然都護府を設置し、瀚海等六都督と皋蘭等七州を統べさせ、揚州都督府司馬の李素立をこれに抜擢した。素立は恩と信で民を慰撫したので、夷の人々は彼に懐き、共に馬牛を率いて献上した。素立は、ただ酒の一杯を受けただけで、残りは全て返した。
 五月,戊子,上幸翠微宮。冀州進士張昌齡獻翠微宮頌,上愛其文,命於通事舎人裏供奉。
  初,昌齡與進士王公治皆善屬文,名振京師,考功員外郎王師旦知貢舉,黜之,舉朝莫曉其故。及奏第,上怪無二人名,詰之。師旦對曰:「二人雖有辭華,然其體輕薄,終不成令器。若置之高第,恐後進效之,傷陛下雅道。」上善其言。
9.五月、戊子。上が翠微宮へ御幸した。冀州の進士張昌齢が翠微宮の頌を献上した。上はその文章が大いに気に入り、通事舎人の裏供奉とした。(胡三省、注;資格が浅くて正官にできなかったので、裏供奉としたのである。)
 もともと、昌齢と進士の王公治は、共に文章が巧く、その名は京師に鳴り響いていた。考功員外郎の王師旦が貢挙を行うと、彼等を斥けたが、朝臣達は、誰もその理由を知らなかった。これが第へ上奏されると、上は二人の名前が入っていないので怪しみ、師旦を詰った。すると、師旦は答えた。
「二人は華麗な文章を作れますが、その礼は軽薄で、役人の器ではありません。もしもこれを出世させれば、後の人々もこれに倣い、ついには陛下の御政道を傷つけることになるかと危惧しました。」
 上は、その言葉を善とした。
 10壬辰,詔百司依舊啓事皇太子。
10.壬辰、百官へ、旧来通り太子へ仕えるよう詔する。
 11庚辰,上御翠微殿,問侍臣曰:「自古帝王雖平定中夏,不能服戎、狄。朕才不逮古人而成功過之,自不諭其故,諸公各率意以實言之。」羣臣皆稱:「陛下功德如天地,萬物不得而名言。」上曰:「不然。朕所以能及此者,止由五事耳。自古帝王多疾勝己者,朕見人之善,若己有之。人之行能,不能兼備,朕常棄其所短,取其所長。人主往往進賢則欲寘諸懷,退不肖則欲推諸壑,朕見賢者則敬之,不肖者則憐之,賢不肖各得其所。人主多惡正直,陰誅顯戮,無代無之,朕踐祚以來,正直之士,比肩於朝,未嘗黜責一人。自古皆貴中華,賤夷、狄,朕獨愛之如一,故其種落皆依朕如父母。此五者,朕所以成今日之功也。」顧謂褚遂良曰:「公嘗爲史官,如朕言,得其實乎?」對曰:「陛下盛德不可勝載,獨以此五者自與,蓋謙謙之志耳。」
11.庚辰、上が翠微殿へ御幸し、侍臣へ問うた。
「昔から帝王は中夏を平定しても、戎・狄を服従させることは出来なかった。朕の才覚は古人に及ばないのに、それ以上に成功したのは、我ながら不思議だ。諸公、その理由について各々の意見を率直に述べよ。」
 群臣は皆言った。
「陛下の功徳が天地のようですから、万物がその下に入らざるを得なかったのです。」
 上は言った。
「そうではない。朕がここまで成功できたのは、次の五つの理由にあるのだ。第一に、昔の帝王達は、自分より能力のある者へ嫉妬していた。朕は、人の長所を見れば自分にそれがあるかのように思う。第二に、人の行動は完全ではない。朕は常にその短所を棄て長所を取った。第三に人主は、往々にして賢人を出世させれば、これから尊敬されたがり、不肖者を斥ける時は、これを谷間に突き落としたがる。朕は賢人を見ればこれを敬い、不肖を見ればこれを憐れむ。だから賢人も不肖も、各々その所を得るのだ。第四に人主の大半は正直を憎み、密かに誅したり堂々と殺戮したり、そんなことが決してなくならない。朕は即位以来、正直の士が朝廷に肩を並べているが、未だに一人として黜責されたものがいない。第五に、昔から皆中華を貴び夷・狄を賤しんでいた。朕一人、同じように愛している。だからそれらの種落も朕を父母のように頼るのだ。この五つこそ、朕が今日の功を為した理由だ。」
 顧みて、褚遂良へ言った。
「公はかつて史官だった。朕の言葉は実を得ているか?」
 対して言った。
「陛下の盛徳は沢山ございますが、ただこの五つを自ら挙げられましたのは、けだし謙謙の志がおありになるからでございます。」
 12李世勣軍既渡遼,歴南蘇等數城,高麗多背城拒戰,世勣撃破其兵,焚其羅郭而還。
12.李世勣軍は遼を渡り、南蘇等数城を経た。高麗は大半は城を背にして拒戦したが、世勣はその兵を撃破し、その羅郭を焼き払って還った。
 13六月,癸亥,以司徒長孫無忌領揚州都督,實不之任。
13.六月、癸亥、司徒の長孫無忌を領揚州都督としたが、任地へは下向させなかった。
 14丁丑,詔以「隋末喪亂,邊民多爲戎、狄所掠,今鐵勒歸化,宜遣使詣燕然等州,與都督相知,訪求沒落之人,贖以貨財,給糧遞還本貫;其室韋、烏羅護、靺鞨三部人爲薛延陀所掠者,亦令贖還。」
14.丁丑、詔した。その大意は、
「隋末の騒乱で、辺境の民が大勢戎・狄へ掠奪された。今、鉄勒が帰化した。使者を燕然等の州へ派遣して、都督と相談させ、没落の人を捜し求めて貨財で贖い求め、本国へ帰国させよ。その室韋、烏羅護、靺鞨三部の人で、薛延陀から掠められた者もまた、贖い還せ。」
 15癸未,以司農卿李緯爲戸部尚書。時房玄齡留守京師,有自京師來者,上問:「玄齡何言?」對曰:「玄齡聞李緯拜尚書,但云李緯美髭鬢。」帝遽改除緯洛州刺史。
15.癸未、司農卿李緯を戸部尚書とした。
 この時、房玄齢は京師の留守を預かっていたが、京師から来た者が居たので、上が問うた。
「玄齢は何と言っていた?」
 対して答えた。
「玄齢は、李緯が尚書になったと聞き、ただ一言言いました。『李緯は髭が立派だ。』」
 帝はたちまち緯を洛州刺史へ左遷した。
 16秋,七月,牛進達、李海岸入高麗境,凡百餘戰,無不捷。攻石城,拔之。進至積利城下,高麗兵萬餘人出戰,海岸撃破之,斬首二千級。
16.秋、七月。牛進達、李海岸は高麗の国境を越えてから凡そ百余戦したが、負け知らずで、石城を攻め落とした。積利城下まで進軍すると、高麗兵万余人が出撃したが、海岸がこれを撃破して、二千の首級を挙げた。
 17上以翠微宮險隘,不能容百官,庚子,詔更營玉華宮於宜春之鳳皇谷。庚戌,車駕還宮。
17.翠微宮は険隘な場所にあり、百官を収容するには手狭だった。上は、宜春の鳳凰谷へ更に玉華宮を造営するよう詔した。
 庚戌、車駕が宮へ還る。
 18八月,壬戌,詔以薛延陀新降,土功屢興,加以河北水災,停明年封禪。
18.八月、壬戌、薛延陀が降伏したばかりで、土木工事も屡々起こし、加えて河北に水害が起こったので、明年の封禅を中止する、と、詔が降りた。
 19辛未,骨利幹遣使入貢;丙戌,以骨利幹爲玄闕州,拜其俟斤爲刺史。骨利幹於鐵勒諸部爲最遠,晝長夜短,日沒後,天色正曛,煮羊脾適熟,日已復出矣。
19.辛未、骨利幹の使者が入貢した。丙戌、骨利幹を玄闕州として、その俟斤を刺史とした。骨利幹は、鉄勒の諸部の中で最も遠い。その気候は、昼が長く夜は短く、日没後には空に余光が残り、羊の脾臓を煮ておくと適度に熟す。午前九時頃になると、再び日が出る。
 20己丑,齊州人段志沖上封事,請上致政於皇太子;太子聞之,憂形於色,發言流涕。長孫無忌等請誅志沖。上手詔曰:「五岳陵霄,四海亙地,納汙藏疾,無損高深。志沖欲以匹夫解位天子,朕若有罪,是其直也;若其無罪,是其狂也。譬如尺霧障天,不虧於大;寸雲點日,何損於明!」
20.己丑、斉州の住人段志沖が上封し、上が政務を皇太子へ委ねるよう請願した。太子はこれを聞くと憂いが顔に現れ、口を開くと涙が零れた。
 長孫無忌等が、志沖を誅殺するよう請うと、上は自ら詔を降ろした。
「五岳に雲が懸かり、四海は土に連なる。汚れを納め疾を蔵しても、それらの高さや深さを損なわない。志沖は匹夫の身でありながら天子を退位させようとしたが、朕にもしも罪があるのなら彼は剛直なのだ。朕が無罪なら、彼は狂人だ。一尺の霧が天にかかったとて、天の広大さを汚せはしない。寸雲が日の前にあろうとも、なんで明が損なわれようか!」
 21丁酉,立皇子明爲曹王。明母楊氏,巢剌王之妃也,有寵於上;文德皇后之崩也,欲立爲皇后。魏徴諫曰:「陛下方比德唐、虞,奈何以辰嬴自累!」乃止。尋以明繼元吉後。
21.丁酉。皇子明を曹王に立てた。明の母は楊氏。巣刺王の妃だったが、上から寵愛された。文徳皇后が崩御した後、上は彼女を皇后に立てたがったが、魏徴が諫めた。
「陛下の徳は唐、虞にも比肩しますのに、なんで辰嬴の真似をして自分を汚されますのか!」
 そこで、皇后には立てなかった。ただ、明へ元吉の後を継がせた。
 22戊戌,敕宋州刺史王波利等發江南十二州工人造大船數百艘,欲以征高麗。
22.戊戌、宋州刺史王波利等へ、江南十二州の工人を徴発して大船数百艘を建造するよう敕した。高麗を征服したがったのだ。
 23冬,十月,庚辰,奴剌啜匐俟友帥其所部萬餘人内附。
23.冬、十月、庚辰。奴刺の啜匐俟友が、その部落万余人を率いて帰順した。
 24十一月,突厥車鼻可汗遣使入貢。車鼻名斛勃,本突厥同族,世爲小可汗。頡利之敗,突厥餘衆欲奉以爲大可汗,時薛延陀方強,車鼻不敢當,帥其衆歸之。或説薛延陀:「車鼻貴種,有勇略,爲衆所附,恐爲後患,不如殺之。」車鼻知之,逃去。薛延陀遣數千騎追之,車鼻勒兵與戰,大破之,乃建牙於金山之北,自稱乙注車鼻可汗,突厥餘衆稍稍歸之,數年間勝兵三萬人,時出抄掠薛延陀。及薛延陀敗,車鼻勢益張,遣其子沙鉢羅特勒入見,又請身自入朝。詔遣將軍郭廣敬徴之。車鼻特爲好言,初無來意,竟不至。
24.十一月。突厥の車鼻可汗が使者を派遣して入貢した。
 車鼻の名は斛勃。もとは突厥と同族で、代々小可汗だった。頡利が敗北したので、突厥の余衆は彼を大可汗に奉じたがった。しかし当時は薛延陀が盛強で、車鼻はとても対抗できないと考え、衆を率いて薛延陀へ帰順した。
 ある者が、薛延陀へ説いた。
「車鼻は名門で、勇略があるし、衆から推戴されています。いずれ後患となるでしょう。今のうちに殺しましょう。」
 車鼻はこれを知り、逃げ去った。薛延陀は数千騎で追撃させたが、車鼻は兵を指揮して迎撃し、大いにこれを破った。そして金山の北へ牙帳を建て、乙注車鼻可汗と自称した。すると、突厥の余衆達が徐々に集まってきて、数年後には勝兵三万を数えたので、時々薛延陀から掠奪するようになった。薛延陀が敗北するに及んで、車鼻の勢力は益々強くなった。
 今回、子息の沙鉢羅特勒を派遣して、入見させ、自身も又入朝を請願した。そこで詔して将軍郭広敬を派遣して徴したが、車鼻はお世辞を言っただけで、来朝する気持ちなど最初から無かった。遂に、唐へは来なかった。
 25癸卯,徙順陽王泰爲濮王。
25.癸卯、順陽王泰を濮王とした。
 26壬子,上疾愈,三日一視朝。
26.壬子、上の病気は益々重くなったので、視朝が三日に一度となった。
 27十二月,壬申,西趙酋長趙磨帥萬餘戸内附,以其地爲明州。
27.十二月、壬申。西趙の酋長趙磨が万余戸を率いて帰順した。その地を明州とする。
 28龜茲王伐疊卒,弟訶黎布失畢立,浸失臣禮,侵漁鄰國。上怒,戍寅,詔使持節・崑丘道行軍大總管・左驍衞大將軍阿史那社爾、副大總管・右驍衞大將軍契苾何力、安西都護郭孝恪等將兵撃之,仍命鐵勒十三州、突厥、吐蕃、吐谷渾連兵進討。
28.亀茲王伐畳が卒した。弟の訶黎布失畢が立ったが、臣下としての礼がない上、近隣を侵略してまわった。上は怒る。
 戊寅、使持節・崑丘道行軍大総管・左驍衛大将軍阿史那社爾、副大総管・右驍衛大将軍契苾何力、安西都護郭孝恪等へ、兵を率いてこれを討つよう詔する。鉄勒十三州、突厥、吐蕃、吐谷渾へ、合流してこれを討伐するよう命じる。
 29高麗王使其子莫離支任武入謝罪,上許之。
29.高麗王が子息の莫離支任武を入朝させて、謝罪した。上は、これを許す。
二十二年(戊申、六四八)

 春,正月,己丑,上作帝範十二篇以賜太子,曰君體、建親、求賢、審官、納諫、去讒、戒盈、崇儉、賞罰、務農、閲武、崇文;且曰:「脩身治國,備在其中。一旦不諱,更無所言矣。」又曰:「汝當更求古之哲王以爲師,如吾,不足法也。夫取法於上,僅得其中;取法於中,不免爲下。吾居位已來,不善多矣,錦繡珠玉不絶於前,宮室臺榭屢有興作,犬馬鷹隼無遠不致,行游四方,供頓煩勞,此皆吾之深過,勿以爲是而法之。顧我弘濟蒼生,其益多;肇造區夏,其功大。益多損少,故人不怨;功大過微,故業不墮;然比之盡美盡善,固多愧矣。汝無我之功勤而承我之富貴,竭力爲善,則國家僅安;驕惰奢縱,則一身不保。且成遲敗速者,國也;失易得難者,位也;可不惜哉!可不愼哉!」
1.春、正月、己丑。上は帝範十二篇を作り、太子へ賜下した。この十二篇は、君體、建親、求賢、審官、納諫、去讒、戒盈、祟倹、賞罰、務農、閲武、祟文である。
 上は、言った。
「修身治国の備えはこの中にある。死んでしまっても、言うことはない。」
 また、言う。
「汝は更に古の哲王を師匠とするべきだ。我など、手本にするに足りない。だいたい、上を手本にして、ようやく中になれるのだ。中を手本にしたら、下にしかなれない。我は即位以来、不善が多かった。錦繍珠玉が前に絶えず、宮室台榭(台の上に建てる室)は屡々建造し、犬馬鷹隼は頻繁に行い、四方の行楽では供人を疲れ果てさせた。これは皆、我の深き過である。手本としてはいけない。顧みて、我の蒼生への政治は、益が多かった。中華の地位を高めた功績は甚大だった。利益が多く損失が少なかったから、故人は怨まなかった。功績が大きく過失が微小だったから、故業は墜ちない。だが、善を尽くし美を尽くした者と比べるならば、もとより心に恥じることが多い。汝は、我のような功業や勤労はないのに、我の富貴を継承する。力を尽くして善を為せば、国家は何とか安んじるだろうか、驕懦奢縦に流れるならば、一身さえ保てない。それに、成立には時間がかかるのに、アッとゆう間に滅亡してしまうのが、国だ。失いやすくて得難いのが、位だ。惜しまずにいられようか!謹まずにいられようか!」
 中書令兼右庶子馬周病,上親爲調藥,使太子臨問;庚寅,薨。
2.中書令兼右庶子馬周が病気になった。上は自ら薬を調合し、太子に見舞いに行かせた。
 庚寅、卒する。
 戊戌,上幸驪山温湯。
3.戊戌、上が驪山の温泉へ御幸した。
 己亥,以中書舎人崔仁師爲中書侍郎,參知機務。
4.己亥、中書舎人崔仁師を中書侍郎、参知機務とした。
 新羅王金善德卒,以善德妹眞德爲柱國,封樂浪郡王,遣使册命。
5.新羅王金善徳が卒した。善徳の妹の真徳を柱国とし、楽浪郡王に封じ、使者を派遣して册命した。
 丙午,詔以右武衞大將軍薛萬徹爲靑丘道行軍大總管,右衞將軍裴行方副之,將兵三萬餘人及樓船戰艦自萊州泛海以撃高麗。
6.丙午、右武衛大将軍薛萬徹を青丘道行軍大総管とし、右衛将軍裴行方を副官として、三万余の兵と楼船戦艦を率い、莱州から海を渡って高麗を討つよう、詔が降りた。
 長孫無忌檢校中書令、知尚書・門下省事。
7.長孫無忌を検校中書令、知尚書・門下省事とした。
 戊申,上還宮。
8.戊申、上が宮殿へ還った。
 結骨自古未通中國,聞鐵勒諸部皆服,二月,其俟利發失鉢屈阿棧入朝。其國人皆長大,赤髮綠睛,有黑髮者以爲不祥。上宴之於天成殿,謂侍臣曰:「昔渭橋斬三突厥首,自謂功多,今斯人在席,更不以爲怪邪!」失鉢屈阿棧請除一官,「執笏而歸,誠百世之幸。」戊午,以結骨爲堅昆都督府,以失鉢屈阿棧爲右屯衞大將軍、堅昆都督,隸燕然都護。又以阿史德時健俟斤部落置祁連州,隸靈州都督。
  是時四夷大小君長爭遣使入獻見,道路不絶,毎元正朝賀,常數百千人。辛酉,上引見諸胡使者,謂侍臣曰:「漢武帝窮兵三十餘年,疲弊中國,所獲無幾;豈如今日綏之以德,使窮髪之地盡爲編戸乎!」
9.結骨は、昔から中国と交流がなかったが、鉄勒の諸部が皆服従したと聞き、二月、その俟利發失鉢屈阿桟が入朝した。
 その国の人間は、皆、背が高く大きい。赤髪緑眼で、黒髪の者は不祥とされる。(「緑晴」は、「緑眼」の誤りだと考えました。)
 上は天成殿にて宴会を開き、侍臣へ言った。
「昔は、渭橋にて三人の突厥の首を斬っただけで(武徳九年)、大きな功績だと自負したものだった。今ではそれどころか、この人が我が国の席に就いている。なんとも怪奇ではないか!」
 失鉢屈阿桟は一官位を授けられることを請い、言った。
「笏を執って帰国したら、まことに百世までの幸いでございます。」
 戊午、結骨を堅昆都督府とし、失鉢屈阿桟を右屯衛大将軍、堅昆都督とし、燕然都護に隷属させた。また、阿史徳時健俟斤部落を祁連州に置き、営州都督に隷属させた。
 この時、四夷の大小の君長が争うように使者を派遣して貢ぎ物を献上したり謁見したりした。異国からの使者は道路に絶えず、元旦の朝賀には常に数百千人も列席した。
 上は諸胡の使者と謁見して、侍臣へ言った。
「漢の武帝は全兵力を挙げて三十年戦い、中国は疲弊しきってしまったが、何も得られなかった。今日のように徳を以て招聘して、窮髪の地でさえ悉く我が領土にしてしまったのと比べると、何とお話にならぬではないか!」
 10上營玉華宮,務令儉約,惟所居殿覆以瓦,餘皆茅茨;然備設太子宮、百司,苞山絡野,所費已巨億計。乙亥,上行幸玉華宮;己卯,畋于華原。
10.上が玉華宮を造営する時、全てを倹約させた。居殿のみは瓦で葺いたが、その他は皆茅や茨で葺いた。しかしながら、玉華宮には太子宮や百司の部屋があり、その広大さは山を包み野に絡む有様。建築費用は巨億を数えた。
 乙亥、上は玉華宮へ御幸した。己卯、華原にて狩猟をする。
 11中書侍郎崔仁師坐有伏閤自訴者,仁師不奏,除名,流連州。
11.中書侍郎の崔仁師は、自分を訴える者が居たのに握りつぶしたとして、除名となり、連州へ流された。
 12三月,己丑,分瀚海都督倶羅勃部置燭龍州。
12.三月、己丑。瀚海都督倶羅勃部を二つに分け、燭龍州を設置した。
 13甲午,上謂侍臣曰:「朕少長兵間,頗能料敵;今崑丘行師,處月、處密二部及龜茲用事者羯獵顛、那利毎懷首鼠,必先授首,弩失畢其次也。」
13.甲午、上が侍臣へ言った。
「朕は若い頃から戦上手で、敵の動向の予測が巧かった。今、崑丘へ出兵したが、處月、處密の二部とクチャで権勢を振るっているのは、羯猟顛と那利が筆頭だ。絶対、彼等の首が届いてから、次ぎに布失畢が来るぞ。」
 14庚子,隋蕭后卒。詔復其位號,謚曰愍;使三品護葬,備鹵簿儀衞,送至江都,與煬帝合葬。
14.庚子、隋の蕭后が卒した。その位号を復し、愍と諡される。三品の葬儀をして、歯簿儀衛を備え、江都へ送って煬帝と合葬した。
 15充容長城徐惠以上東征高麗,西討龜茲,翠微、玉華,營繕相繼,又服玩頗華靡,上疏諫,其略曰:「以有盡之農功,填無窮之巨浪;圖未獲之他衆,喪已成之我軍。昔秦皇并呑六國,反速危亡之基,晉武奄有三方,翻成覆敗之業;豈非矜功恃大,棄德輕邦,圖利忘危,肆情縱欲之所致乎!是知地廣非常安之術,人勞乃易亂之源也。」又曰:「雖復茅茨示約,猶興木石之疲,和雇取人,不無煩擾之弊。」又曰:「珍玩伎巧,乃喪國之斧斤;珠玉錦繡,寔迷心之酖毒。」又曰:「作法於儉,猶恐其奢;作法於奢,何以制後!」上善其言,甚禮重之。

15.上は高麗へ東征させ、亀慈を西討させ、翠微・玉華の二宮を相継いで建造させた。充容の長城の徐恵が上疏して諫めた。その大意は、
「有限の農力を無窮の巨浪へ充てる。まだ得ていない他国の民の為に既に臣民となった我が軍を失う。昔、秦の始皇帝は六国を併呑し、却って国の滅亡を速め、晋の武帝は三方を併せて覆敗の業を為した。それは、功績に矜り強大を恃んで、徳を棄て邦を軽んじ、利を図って危機を忘れ、欲望の赴くままに行動したからではありませんか!ですから、領土を拡張させるのは常安の術ではなく、人々をこき使うのは戦乱の源だと判るのです。」
 また言う、
「茅や茨で倹約を見せつけても、土木工事の疲弊はなお興ります。人を雇ったとても、和煩擾の弊害は避けられません。」
 また言う、
「珍玩伎巧は国を滅ぼす斧斤です。珠玉錦繍は心を迷わさせる酖毒です。」
 また言う、
「作法を倹約にしても、なお豪奢になるのを恐れるのです。作法を豪奢にしたら、その後どうやって制御するのですか!」
 上はその言葉を善とし、これを重く礼した。


翻訳者: 渡邊 省

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最終更新:2007年01月12日 11:18
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