巻第八十六

資治通鑑巻第八十六
 晉紀八
  孝惠皇帝下
永興二年(乙丑,三〇五)

 夏,四月,張方廢羊后。
1.夏、四月、張方が羊〔皇〕后を廃した。
 游楷等攻皇甫重,累年不能克,重遣其養子昌求救於外。昌詣司空越,越以太宰顒新與山東連和,不肯出兵。昌乃與故殿中人楊篇詐稱越命,迎羊后於金墉城。入宮,以后令發兵討張方,奉迎大駕。事起倉猝,百官初皆從之;俄知其詐,相與誅昌。顒請遣御史宣詔喩重令降。重不奉詔。先是城中不知長沙厲王及皇甫商已死,重獲御史騶人,問曰:「我弟將兵來,欲至未?」:騶人曰「已爲河間王所害。」重失色,立殺騶人。於是城中知無外救,共殺重以降。顒以馮翊太守張輔爲秦州刺史。
2.游楷らが〔秦州刺史の〕皇甫重を攻めたが、年を重ねても勝つことができなかった。重はその養子の〔皇甫〕昌を派遣して外に救援を求めさせた。昌は司空の〔司馬〕越のもとにいたったが、越は、太宰の〔司馬〕顒が新たに山東〔の越を中心とした勢力〕と和解しようとしていたので、出兵を承知しなかった。昌はそこで以前の宮殿の侍従だった楊篇とともに越の命令といつわり称して、羊〔皇〕后を金墉城に迎えた。宮殿に入って、皇后の命令により兵を発して張方を討ち、天子の御車を迎えたてまつった。あわただしく事が起こったため、百官ははじめみなこれに従った。にわかにそのいつわりが発覚し、ともに力を合わせて昌を殺した。顒は御史に依頼して〔秦州に〕派遣し、詔をのたまって重をさとし降伏させようとした。重は詔を受けなかった。これに先だって城中は長沙厲王(司馬乂)と皇甫商がすでに死んでいるのを知らず、重は御史に従った馬飼いを捕らえて、「わたしの弟が兵を率いて来るはずだが、今にもやってこないだろうか?」と訊ねていった。馬飼いは「すでに河間王(司馬顒)に殺されました」といった。重は顔色を変えて、たちどころに馬飼いを殺した。ここにいたって城中の人々は外からの救援がないことを知り、力を合わせて重を殺して降伏した。顒は馮翊太守の張輔を秦州刺史とした。
 六月,甲子,安豐元侯王戎薨于郟。
3.六月、甲子の日、安豊元侯の王戎が郟において亡くなった。
 張輔至秦州,殺天水太守封尚,欲以立威;又召隴西太守韓稚,稚子朴勒兵撃輔,輔軍敗,死。涼州司馬楊胤言於張軌曰:「韓稚擅殺刺史,明公杖鉞一方,不可不討。」軌從之,遣中督護氾瑗帥衆二萬討稚,稚詣軌降。未幾,鮮卑若羅拔能寇涼州,軌遣司馬宋配撃之,斬拔能,俘十餘萬口,威名大振。
4.張輔が秦州にいたり、天水太守の封尚を殺して、威権をうち立てようとした。また隴西太守の韓稚を呼び寄せようとしたが、稚の子の〔韓〕朴が兵を統率して輔を討ち、輔は軍が敗れて死んだ。涼州司馬の楊胤が、〔涼州刺史の〕張軌に「韓稚が刺史を勝手に殺しましたが、殿は征伐の権限を持っているのですから、討たないわけにはいかないでしょう」といった。軌はこれに従って、中督護の氾瑗を派遣して二万の部下を率いて稚を討たせたところ、稚は軌のもとにいたり降伏した。しばらくして、鮮卑の若羅抜能が涼州に侵攻したので、軌は司馬の宋配を派遣してこれを討ち、抜能を斬り、捕虜十余万口をえて、〔軌の〕威権と名声はおおいにふるった。
 漢王淵攻東贏公騰,騰復乞師於拓跋猗他,衛操勸猗他助之。猗他帥輕騎數千救騰,斬漢將綦毋豚。詔假猗他大單于,加操右將軍。甲申,猗他卒,子普根代立。
5.漢王〔劉〕淵が東贏公〔司馬〕騰を攻めたので、騰はまた拓跋猗他に援軍を求めた。衛操が猗他に騰を助けるよう勧めた。猗他の軍は軽騎数千で騰を救い、漢将の綦毋豚を斬った。詔により猗他を大単于とし、操に右将軍の位を加えた。甲申の日、猗他が亡くなり、子の〔拓跋〕普根が代わって立った。
 東海中尉劉洽以張方劫遷車駕,勸司空越起兵討之。秋,七月,越傳檄山東征、鎭、州、郡云:「欲糾帥義旅,奉迎天子,還復舊都。」東平王楙聞之,懼;長史王脩説楙曰:「東海,宗室重望;今興義兵,公宜舉徐州以授之,則免於難,且有克讓之美矣。」楙從之。越乃以司空領徐州都督,楙自爲兗州刺史;詔即遣使者劉虔授之。是時,越兄弟並據方任,於是范陽王虓及王浚等共推越爲盟主,越輒選置刺史以下,朝士多赴之。
6.東海〔国の〕中尉の劉洽は、張方が天子(恵帝)の御車(居場所)をうつして〔天子の身を〕おびやかしたので、兵を起こしてこれを討つよう司空の〔司馬〕越に勧めた。秋、七月、越は山東の鎮、州、郡に触れ文を伝えて、「義軍をひきいて悪をただし、天子をお迎えし、ふたたび旧都〔洛陽〕に帰りたい」といった。東平王〔司馬〕楙はこれを聞いておそれた。長史の王脩が楙に説いて「東海〔王司馬越〕は、宗室のうちでもあつい信望があります。いま義兵をおこし、殿が徐州〔の全権〕をあげて越に与えれば、難をまぬかれて、なおかつよく謙譲の美徳を示すことができます」といった。楙はこれに従った。越はそこで司空のまま徐州都督を引き受け、楙は自ら兗州刺史となった。詔によりただちに使者として劉虔が派遣され、これら〔の官職〕を授けた。このとき、越の兄弟はそろって地方の拠点にあって〔重職に〕任ぜられていたので、そこで范陽王〔司馬〕虓や王浚らはともに越をおし立てて盟主とすると、すぐに越は刺史以下の官を選んで配置し、朝士の多くはかれのもとに赴いた。
 成都王穎既廢,河北人多憐之。穎故將公師藩等自稱將軍,起兵於趙、魏,衆至數萬。初,上黨武郷羯人石勒,有膽力,善騎射。并州大饑,建威將軍閻粹説東贏公騰執諸胡於山東,賣充軍實。勒亦被掠,賣爲茌平人師懽奴,懽奇其状貌而免之。懽家鄰於馬牧,勒乃與牧帥汲桑結壯士爲群盜。及公師藩起,桑與勒帥數百騎赴之。桑始命勒以石爲姓,勒爲名。藩攻陷郡縣,殺二千石、長吏,轉前,攻鄴。平昌公模甚懼;范陽王虓遣其將苟晞救鄴,與廣平太守譙國丁紹共撃藩,走之。
7.成都王〔司馬〕穎はすでに廃され、河北の人の多くはこれをあわれんでいた。穎の旧将の公師藩らは将軍を自称して、趙・魏の地方に起兵し、人々は数万にいたった。かつて、上党〔郡〕武郷の羯人の石勒は、胆力があり、騎射をよくした。并州に大飢饉があり、建威将軍の閻粹が東贏公〔司馬〕騰に説いて、山東において諸胡族を捕らえさせ、売り飛ばして軍費に充てさせた。勒もまた捕らえられ、売られて茌平の人の師懽の奴隷となったが、懽はその顔かたちが普通でないと思ってこれを解放してやった。懽の家は馬の牧場と隣り合っており、勒は牧場主の汲桑と壮士の契りを結んで群盗となった。公師藩が起兵するにおよび、桑と勒は数百騎を率いてこれに合流した。桑はこのときはじめて石を姓とし、勒を名にするよう勒に命じた。藩は郡県を攻め落としては、地方の長官や官吏の頭だった人々を殺し、前進して、鄴を攻めた。平昌公〔司馬〕模は、はなはだしく恐れた。范陽王〔司馬〕虓はその将の苟晞を派遣して鄴を救わせ、広平太守の譙国の丁紹とともに藩を討ち、これを敗走させた。
 八月,辛丑,大赦。
8.八月、辛丑の日、大赦をおこなった。
 司空越以琅邪王睿爲平東將軍,監徐州諸軍事,留守下邳。睿請王導爲司馬,委以軍事。越帥甲士三萬,西屯蕭縣,范陽王虓自許屯於滎陽。越承制以豫州刺史劉喬爲冀州刺史,以范陽王虓領豫州刺史;喬以虓非天子命,發兵拒之。虓以劉琨爲司馬,越以劉蕃爲淮北護軍,劉輿爲穎川太守。喬上尚書,列輿兄弟罪惡,因引兵攻許,遣其長子祐將兵拒越於蕭縣之靈壁,越兵不能進。東平王楙在兗州,徴求不已,郡縣不堪命。范陽王虓遣苟晞還兗州,徙楙都督青州。楙不受命,背山東諸侯,與劉喬合。
9.司空の〔司馬〕越は琅邪王〔司馬〕睿を平東将軍・監徐州諸軍事とし、下邳にとどめて守らせた。睿は王導に依頼して司馬とし、軍事を委ねた。越は武装した兵士三万を率いて、西方の蕭県に駐屯し、范陽王〔司馬〕虓は許〔昌〕から出て滎陽に駐屯した。越は天子の命令をうけたまわって豫州刺史の劉喬を冀州刺史とし、范陽王虓に豫州刺史をおさめさせた。喬は虓が〔豫州に来るのは〕天子の命でないとして、兵を発してこれをはばませた。虓は劉琨を司馬とし、越は劉蕃を淮北護軍とし、劉輿を穎川太守とした。喬は尚書に上書して輿の兄弟の罪悪を並べたて、兵を引き連れて許〔昌〕を攻め、その長子の祐を派遣して兵を率いて蕭県の霊壁において越をはばませたので、越の兵は進むことができなかった。東平王〔司馬〕楙は兗州にあって、租税の取り立てに際限がなく、郡県は命令にこたえられなかった。范陽王虓は苟晞を派遣して兗州に帰任させ、楙をうつして青州を都督させようとした。楙は命令を受けず、山東の諸侯にそむいて、劉喬と合流した。
 10太宰顒聞山東兵起,甚懼。以公師藩爲成都王穎起兵,壬午,表穎爲鎮軍大將軍、都督河北諸軍事,給兵千人;以盧志爲魏郡太守,隨穎鎮鄴,欲以撫安之;又遣建武將軍呂朗屯洛陽。
  顒發詔,令東海王越等各就國,越等不從。會得劉喬上事,冬,十月,丙子,下詔稱:「劉輿迫脅范陽王虓,造構兇逆。其令鎮南大將軍劉弘、平南將軍彭城王釋、征東大將軍劉准,各勒所統,與劉喬并力;以張方爲大都督,統精卒十萬,與呂朗共會許昌,誅輿兄弟。」釋,宣帝弟子穆王權之孫也。丁丑,顒使成都王穎領將軍樓褒等,前車騎將軍石超領北中郎將王闡等,據河橋,爲劉喬繼援。進喬鎮東將軍,假節。
  劉弘遺喬及司空越書,欲使之解怨釋兵,同獎王室,皆不聽。弘又上表曰:「自頃兵戈紛亂,猜禍鋒生,疑隙搆於羣王,災難延於宗子。今日爲忠,明日爲逆,翩其反而,互爲戎首。載籍以來,骨肉之禍未有如今者也,臣竊悲之!今邊陲無備豫之儲,中華有杼軸之困,而股肱之臣,不惟國體,職競尋常,自相楚剥。萬一四夷乘虚爲變,此亦猛虎交鬭自效於卞莊者矣。臣以爲宜速發明詔詔越等,令兩釋猜嫌,各保分局。自今以後,其有不被詔書,擅興兵馬者,天下共伐之。」時太宰顒方拒關東,倚喬爲助,不納其言。
  喬乘虚襲許,破之。劉琨將兵救許,不及,遂與兄輿及范陽王虓倶奔河北;琨父母爲喬所執。劉弘以張方殘暴,知顒必敗,乃遣參軍劉盤爲督護,帥諸軍受司空越節度。
  時天下大亂,弘專督江、漢,威行南服。謀事有成者,則曰「某人之功」;如有負敗,則曰「老子之罪」。毎有興發,手書守相,丁寧款密。所以人皆感悅,争赴之,咸曰:「得劉公一紙書,賢於十部從事。」前廣漢太守辛冉説弘以從橫之事,弘怒,斬之。
10.太宰の〔司馬〕顒は山東に戦いが起こったのを聞いて、たいそうおそれた。公師藩に成都王〔司馬〕穎を起兵させた。壬午の日、穎を鎮軍大将軍・都督河北諸軍事とすると公表し、兵千人を与えた。盧志を魏郡太守とし、穎にしたがって鄴を鎮めさせ、これらの地方を安んじて治めようとした。また建武将軍の呂朗を派遣して洛陽に駐屯させた。
  顒は詔を発して、東海王〔司馬〕越らをおのおのの領国に落ち着かせようとしたが、越らは従わなかった。劉喬の上書に納得して、冬、十月、丙子の日、詔を下して「劉輿は范陽王〔司馬〕虓を脅迫して、造反を構えさせた。鎮南大将軍の劉弘、平南将軍の彭城王〔司馬〕釈、征東大将軍の劉准らに、おのおの率いる兵を整えさせて、劉喬とともに力を合わさせよう。張方を大都督とし、精鋭の兵士十万を率いさせて、呂朗とともに許昌に集まり、輿の兄弟を滅ぼそう」と称した。釈は、宣帝(司馬懿)の弟の子の穆王〔司馬〕権の孫である。丁丑の日、顒は成都王〔司馬〕穎に将軍の楼褒らをおさめさせ、前の車騎将軍の石超に北中郎将の王闡らをおさめさせて、河橋を拠点とし、劉喬のための後詰め援軍とした。喬を鎮東将軍〔の位〕に進め、旗印を貸し与えた。
  劉弘は喬と司空の越とに書を送り、〔互いの〕怨みを解いて戦いをやめるように使者をつかわした。同じく皇族たちにも勧めたが、みな聞き入れなかった。弘はまた上表して「ころより合戦はもつれあって乱れ、災いが起こるのを疑って軍隊を起こし、諸王の間で疑いあって仲違いをかまえて、災難はご嫡男(愍懐太子)に及んでいます。今日には忠義であるものも、明日には逆賊とされ、謀反の旗がひるがえって、互いに戦争首を作りあっています。有史以来、骨肉があい争う災いでいまだ今の時世ほどのものはなく、臣はひそかにこれを悲しむものです。いま国境にいざというときの備蓄はなく、中華は糸巻きの軸だけといったような困窮にあります。しかるに股肱の臣下は、国の手足であることを考えずに、ドングリの背比べに躍起となり、お互いに痛めつけ削りあっています。万一にも四方の異民族が虚をついて乱を起こせば、これまた猛虎がこもごも戦って自ら力を出しつくすこと〔春秋の魯の〕卞荘の話のようなものです。臣が思いますに、りっぱな詔勅を越らにお発しになり、両者の猜疑や嫌疑を解かせ、おのおのの仕事を分けて請け負わせたらよいでしょう。これから以後、詔によらずして、ほしいままに兵馬を起こす者があれば、天下はともにこれを討つことにしましょう」といった。ときに太宰の顒はちょうど関東〔の司馬越ら〕をはばみ、喬を頼って援助していたので、その言を聞き入れなかった。
  〔劉〕喬は虚をついて許〔昌〕を襲い、これを破った。劉琨は兵を率いて許〔昌〕を救おうとしたが、及ばなかった。ついに兄の〔劉〕輿や范陽王〔司馬〕虓とともに河北に逃れた。琨の父母は喬に捕らえられた。劉弘は張方が残忍暴虐な性格なので、顒が必ず敗れることを予見して、そこで参軍の劉盤を派遣して督護とし、諸軍を率いて司空の越の統制を受けた。
  ときに天下は大乱となったが、〔劉〕弘はもっぱら長江や漢水の流域の地方を監督し、威令が南方におこなわれた。はかりごとが成功したときは、すぐさま「だれそれの功績」といった。負けたり失敗したりしたときは、すぐさま「わたくしめの罪」といった。軍隊を起こし民衆を動員するごとに、手ずから太守や大臣たちに手紙を書き、丁寧で親密であった。このため人はみな感じいって、争ってかれのもとに赴いた。みな「劉公の一枚の書を得るのは、十人の従事〔の書を得るの〕にまさる」といった。前の広漢太守の辛冉が、弘に合従連衡のことを説くと、弘は怒って、これを斬った。
 11有星孛於北斗。
11.彗星が北斗七星の位置に現れた。
 12平昌公模遣將軍宋冑趣河橋。
12.平昌公模が将軍の宋冑を派遣して河橋におもむかせた。
 13十一月,立節將軍周權,詐被檄,自稱平西將軍,復立羊后。洛陽令何喬攻權,殺之,復廢羊后。太宰顒矯詔,以羊后屢爲姦人所立,遣尚書田淑敕留台賜后死。詔書屢至,司隸校尉劉暾等上奏,固執以爲:「羊庶人門戸殘破,廢放空宮,門禁峻密,無縁得與姦人搆亂。衆無愚智,皆謂其冤。今殺一枯窮之人,而令天下傷慘,何益於治!」顒怒,遣呂朗收暾。暾奔青州,依高密王略。然羊后亦以是得免。
13.十一月、立節将軍の周権は、〔司馬越の〕触れ文を受けたといつわって、平西将軍を自称し、再び羊〔皇〕后を立てた。洛陽令の何喬が権を攻めて、これを殺し、再び羊〔皇〕后を廃した。太宰の〔司馬〕顒が詔をいつわり、羊〔皇〕后がしばしば奸悪な人物に立てられるとして、尚書の田淑を派遣して留台にいましめ、〔皇〕后に死を賜ろうとした。詔書が重ねていたったので、司隸校尉の劉暾らが上奏して、「羊庶人は、その門戸がひどく破壊され、廃されて空っぽの宮に放り込まれ、門の出入りは厳しく禁じているので、奸悪な人物が乱をかまえるのとは無関係です。人々は愚かな者も知恵のある者もなくみな、彼女の冤罪であることを申しております。いまひとりの枯れきわまった人を殺して、天下のいたみ嘆きを買って、治政に何の利益がありましょう!」と固く主張して譲らなかった。顒は怒って、呂朗を派遣して暾を収監しようとした。暾は青州に逃れ、高密王〔司馬〕略を頼った。しかし羊〔皇〕后はまたこれによって〔処刑を〕免れた。
 14十二月,呂朗等東屯滎陽,成都王穎進據洛陽。
14.十二月、呂朗らが東は滎陽に駐屯し、成都王〔司馬〕穎が進んで洛陽に拠った。
 15劉琨説冀州刺史太原温羨,使讓位於范陽王虓。虓領冀州,遣琨詣幽州乞師於王浚;浚以突騎資之,撃王闡於河上,殺之。琨遂與虓引兵濟河,斬石超於滎陽。劉喬自考城引退。虓遣琨及督護田徽東撃東平王楙於廩丘,楙走還國。琨、徽引兵東迎越,撃劉祐於譙;祐敗死,喬衆遂潰,喬奔平氏。司空越進屯陽武,王浚遣其將祁弘帥突騎鮮卑、烏桓爲越先驅。
15.劉琨は冀州刺史の太原の温羨に説いて、范陽王〔司馬〕虓に対して〔刺史の〕位を譲らせた。虓は冀州をおさめ、琨を派遣して幽州にいたらせ、王浚に援軍を請わせた。浚は精鋭の騎兵でもってかれを助けさせ、河上で王闡を攻撃し、これを殺した。琨はそのまま虓とともに済河に兵を引き連れ,滎陽において石超を斬った。劉喬は考城より退却した。虓は琨と督護の田徽を派遣して、東のかた東平王〔司馬〕楙を廩丘に攻撃し、楙は逃れて〔東平〕国に帰った。琨と徽は兵を引き連れて東に〔司馬〕越を迎え、劉祐を譙で攻撃した。祐は敗死して、喬の麾下の人々はかくして潰え散り、喬は平氏に逃れた。司空の越は陽武に進み駐屯して、王浚はその将の祁弘を派遣して精鋭の騎兵の鮮卑・烏桓を率いさせ、越の先陣とした。
 16初,陳敏既克石冰,自謂勇略無敵,有割據江東之志。其父怒曰:「滅我門者,必此兒也!」遂以憂卒。敏以喪去職。司空越起敏爲右將軍、前鋒都督。越爲劉祐所敗,敏請東歸收兵,遂據歴陽叛。呉王常侍甘卓,棄官東歸,至歴陽,敏爲子景娶卓女,使卓假稱皇太弟令,拜敏揚州刺史。敏使弟恢及別將錢端等南略江州,弟斌東略諸郡,揚州刺史劉機、丹楊太守王曠皆棄官走。
  敏遂據有江東,以顧榮爲右將軍,賀循爲丹楊内史,周玘爲安豐太守,凡江東豪傑、名士,咸加收禮,爲將軍、郡守者四十餘人;或有老疾,就加秩命。循詐爲狂疾,得免,乃以榮領丹楊内史。玘亦稱疾,不之郡。敏疑諸名士終不爲己用,欲盡誅之。榮説敏曰:「中國喪亂,胡夷内侮。觀今日之勢,不能復振,百姓將無遺種。江南雖經石冰之亂,人物尚全,榮常憂無孫、劉之主有以存之。今將軍神武不世,勳效已著,帶甲數萬,舳艫山積,若能委信君子,使各盡懷,散蒂芥之嫌,塞讒諂之口,則上方數州,可傳檄而定;不然,終不濟也。」敏命僚佐推己爲都督江東諸軍事、大司馬、楚公,加九錫,列上尚書,稱被中詔,自江入沔、漢,奉迎鑾駕。
  太宰顒以張光爲順陽太守,帥歩騎五千詣荊州討敏。劉弘遣江夏太守陶侃、武陵太守苗光屯夏口,又遣南平太守汝南應詹督水軍以繼之。
  侃與敏同郡,又同歳舉吏。隨郡内史扈懷言於弘曰:「侃居大郡,統強兵,脱有異志,則荊州無東門矣!」弘曰:「侃之忠能,吾得之已久,必無是也。」侃聞之,遣子洪及兄子臻詣弘以自固,弘引爲參軍,資而遣之。曰:「賢叔征行,君祖母年高,便可歸也。匹夫之交,尚不負心,況大丈夫乎!」
  敏以陳恢爲荊州刺史,寇武昌,弘加侃前鋒督護以御之。侃以運船爲戰艦,或以爲不可。侃曰:「用官船撃官賊,何爲不可!」侃與恢戰,屢破之;又與皮初、張光、苗光共破錢端於長岐。
  南陽太守衛展説弘曰:「張光,太宰腹心,公既與東海,宜斬光以明向背。」弘曰:「宰輔得失,豈張光之罪!危人自安,君子弗爲也。」乃表光殊勳,乞加遷擢。
16.かつて、陳敏が石冰に完勝したので、自ら勇略無敵を称して、江東に割拠する志をいだいた。その父は怒って「我が一門を滅ぼす者は、必ずこの子である!」といって、とうとう憂死してしまった。敏は喪に服して職を去った。司空の〔司馬〕越が敏を復帰させて右将軍・前鋒都督とした。越が劉祐に敗れるところとなると、敏は東に帰って兵を集めさせてくれるよう頼み、そのまま歴陽を拠点として叛いた。呉王常侍の甘卓は、官職を捨てて東に帰り、歴陽にいたった。敏は子の〔陳〕景のために卓の娘をめとらせ、卓を仮に皇太弟令と称させ、敏のもとで〔卓は〕揚州刺史に任命された。敏は弟の〔陳〕恢と別将の銭端らに南のかた江州を攻略させ、弟の〔陳〕斌に東のかた諸郡を攻略させたので、揚州刺史の劉機や丹楊太守の王曠はみな官職を捨てて逃れた。
  敏がこうして江東に拠ると、顧栄を右将軍とし、賀循を丹楊内史とし、周玘を安豊太守とし、およそ江東の豪傑、名士たる人々はみなかき集めて任用され、将軍や郡〔太〕守となる者は四十余人であった。あるものは老病の境にあるのに、官職の任命が加えられた。循は精神を患ったように偽ったので、退職することができ、そこで栄に丹楊内史を兼任させた。玘もまた病気と称して、〔安豊〕郡に赴任しなかった。敏はもろもろの名士たちをとうとう自分のために任用することができなかったのを疑い、ことごとくかれらを処刑しようとした。栄が敏に説いて、「中原は乱れつくしているので、異民族たちはひそかにあなどっています。今日の情勢をみるに、〔中原が〕再び勢いを盛り返すことはなく、人民は残す種なき惨状に落ちようとしています。江南は石冰の乱を経て、人材はなお保全されているとはいっても、わたくし栄はいつも孫〔権〕や劉〔備〕のような君主がいないことを憂いてきました。いま将軍は世にまれなすぐれた武力をそなえ、勲功すでにいちじるしく、よろいを着た兵士は数万におよび、船のへさきとともが山と積まれています。もし君子をよく信任して委ね、おのおのすべてなつかせて、剛直な人物たちの嫌うところを除き、讒言やこびへつらいの口をふさぎ、すぐさま〔長江〕上流の数州に触れ文を伝えて平定するべきです。そうでないなら、ずっとしないことです」といった。敏は補佐役たちに命じて自分を都督江東諸軍事・大司馬・楚公とし、九錫を加え、尚書につらねるよう推薦させた。詔を受けたと称して、長江をさかのぼって沔水・漢水に入り、天子の車を迎え奉った〔と称した〕。
  太宰の〔司馬〕顒は張光を順陽太守とし、歩兵と騎兵合わせて五千を率いて荊州にいたらせ敏を討たせた。劉弘は江夏太守の陶侃と武陵太守の苗光を派遣して夏口に駐屯させ、また南平太守の汝南の応詹を派遣して水軍を率いてかれらの後詰めとさせた。
  侃は敏と同じ郡(廬江郡)の出身で、また同じ歳に官吏に推挙されていた。随郡内史の扈懐が弘に「侃は大きな郡にあって、強兵を統率しており、もしふたごころを抱いていれば、荊州は東門をなくしますぞ!」といった。弘は「侃の忠義で有能なこと、わたしがこれを得て久しいので、決してそのようなことはない」といった。侃はこれを聞いて、子の〔陶〕洪と兄の子の〔陶〕臻を弘のもとに派遣して自ら〔の立場を〕固めようとした。弘は〔ふたりを〕引きたてて参軍とし、金品を与えてかれらを送り出した。「敬愛する〔君の〕叔父上が出征するのに、君の祖母は年かさで〔心配で〕あるし、すぐに帰るべきだ。匹夫の交わりですら、〔つまらない言葉を〕心にかけたりしないのに、どうして大丈夫が気にかけたりするのか!」といった。
  敏は陳恢を荊州刺史とし、武昌を攻めさせたので、弘は侃に前鋒督護〔の任務〕を加えてこれを防がせた。侃は運搬船を戦艦としようとしたが、あるものがいけないといった。侃は「官の船を用いて官の賊を攻撃するのに、どうしていけないことがあろうか!」といった。侃は恢と戦って、繰り返しこれを撃破した。また皮初や張光や苗光とともに銭端を長岐で破った。
  南陽太守の衛展が弘に説いて「張光は太宰(司馬顒)の腹心ですが、あなたはすでに東海(司馬越)と同心していますから、向背を明らかにするためにも光をお斬りになったほうがよいでしょう」といった。弘は「宰相の功罪が、どうして張光の罪であろうか!人に危害を加えて自らの安泰をはかるのは、君子のなすことではない」といった。こうして光の殊勲を上表して、昇進の沙汰を加えるよう請わせた。
 17是歳,離石大饑,漢王淵徙屯黎亭,就邸閣穀;留太尉宏守離石,使大司農卜豫運糧以給之。
17.この年、離石で大飢饉が起こり、漢王〔劉〕淵は黎亭にうつり、駐屯して、食糧貯蔵庫にありついた。太尉の〔劉〕宏を離石の守りにとどめ、大司農の卜豫に食糧を運ばせて〔離石に〕供給させた。
光煕元年(丙寅,三〇六)

 春,正月,戊子朔,日有食之。
1.春、正月、戊子の一日、日食があった。
 初,太弟中庶子蘭陵繆播有寵於司空越;播從弟右衛率胤,太宰顒前妃之弟也。越之起兵,遣播、胤詣長安説顒,令奉帝還洛,約與顒分陝爲伯。顒素信重播兄弟,即欲從之。張方自以罪重,恐爲誅首,謂顒曰:「今據形勝之地,國富兵強,奉天子以號令,誰敢不從,奈何拱手受制於人!」顒乃止。及劉喬敗,顒懼,欲罷兵,與山東和解,恐張方不從,猶豫未決。
  方素與長安富人郅輔親善,以爲帳下督。顒參軍河間畢垣,嘗爲方所侮,因説顒曰:「張方久屯霸上,聞山東兵盛,盤桓不進,宜防其未萌。其親信郅輔具知其謀。」繆播、繆胤復説顒:「宜急斬方以謝,山東可不勞而定。」顒使人召輔,垣迎説輔曰:「張方欲反,人謂卿知之。王若問卿,何辭以對?」輔驚曰:「實不聞方反,爲之奈何?」垣曰:「王若問卿,但言爾爾;不然,必不免禍。」輔入,顒問之曰:「張方反,卿知之乎?」輔曰:「爾。」顒曰:「遣卿取之,可乎?」又曰:「爾。」顒於是使輔送書於方,因殺之。輔既昵於方,持刀而入,守閣者不疑。方火下發函,輔斬其頭。還報,顒以輔爲安定太守。送方頭於司空越以請和;越不許。
  宋冑襲河橋,樓褒西走。平昌公模遣前鋒督護馮嵩會宋冑逼洛陽。成都王穎西奔長安,至華陰,聞顒已與山東和親,留不敢進。呂朗屯滎陽,劉琨以張方首示之,遂降。司空越遣祁弘、宋冑、司馬纂帥鮮卑西迎車駕,以周馥爲司隸校尉、假節,都督諸軍,屯澠池。
2.かつて、太弟中庶子の蘭陵の繆播は司空の〔司馬〕越のお気に入りであった。播の従弟の右衛率の〔繆〕胤は、太宰の〔司馬〕顒の前の妃の弟であった。越が起兵すると、播と胤を派遣して長安にいたらせ、顒を説いて帝(恵帝)を洛陽に帰させ、顒ととともに陝(洛陽)を境に東西の諸侯の旗がしらとなることを約束させようとした。顒はもとより播兄弟を信用し重んじていたので、これに従おうとした。張方は〔恵帝の西遷にあたって〕自ら罪が重いと思っていたので、首斬られるのを恐れて,顒に「いま形勝の地を拠点として、国は富み兵は強く、天子をたてまつって号令すれば、誰もあえて従わない者はないのに、どうして手をこまねいて人から命令を受けようとされるのですか!」といった。そこで顒は取りやめた。劉喬が敗れるに及んで、顒はおそれて、戦いをやめて山東(の司馬越ら)と和解したいと思った。しかし張方が従わないのを心配して、先延ばしにして決められなかった。
  方はもとより長安の富豪の郅輔と親しくつきあっていたので、〔かれを〕帳下督とした。顒の参軍の河間の畢垣は、かつて方に侮辱されたことがあったので、顒に説いて「張方は長らく霸上に駐屯していますが、山東の兵が盛んなのを聞いて、ぐずぐずして進んでいません。〔かれの野心が〕顕在化しないうちに防がれたほうがよろしいでしょう。かれの親しく信頼している郅輔というものが、そのはかりごとをつぶさに知っております」といった。繆播と繆胤はまた顒に「早急に方をお斬りになって、示しをつけられたほうがよろしい。山東は労せずして定まるでしょう」と説いた。顒は人をさしむけて輔を召し、垣は輔を迎えて説いて「張方は謀反をたくらんでおり、人はあなたがこれを知っていると噂しております。王がもしあなたに問いただしたら、なんといって答えるおつもりですか?」といった。輔は驚いて「本当のところ、方から謀反の話など聞いていません。どうすべきでしょうか?」といった。垣は「王がもしあなたに訊ねたときには、ただはいはいと言っておきなさい。そうでなければ、必ず災いを免れないでしょう」といった。輔が入朝すると、顒は「張方が謀反するのを、おまえは知っているか?」とかれに問いただした。輔は「はい」といった。顒は「おまえを派遣してかれを取りおさえよう。できるか?」といった。また「はい」といった。そこで顒は輔に方への手紙を持たせて送り、そこでかれを殺させることとした。輔はすでに方と昵懇の間柄だったので、刀を持って入っても、警備するものに疑われなかった。方が灯りの下で手紙の箱を開いたところを、輔はその首を斬った。報告がかえってくると、顒は輔を安定太守とした。方の首級を司空の越のところに送って講和をもとめたが、越は許さなかった。
  宋冑が河橋を襲い、楼褒が西に逃れた。平昌公〔司馬〕模が前鋒督護の馮嵩を派遣して宋冑と合流させ洛陽に迫った。成都王〔司馬〕穎は西のかた長安に逃れ、華陰にいたり、顒がすでに山東と和親したのを聞いたので、とどまってあえて進まなかった。呂朗は滎陽に駐屯し、劉琨が張方の首をかれに示すと、とうとう降伏した。司空の越は祁弘・宋冑・司馬纂を派遣して鮮卑を率いて西に天子の御車を迎えさせた。周馥を司隷校尉とし、旗印を貸し与え、諸軍を都督させ、澠池に駐屯させた。
 三月,惤令劉柏根反,衆以萬數,自稱惤公。王彌帥家僮從之,柏根以彌爲長史,彌從父弟桑爲東中郎將。柏根寇臨淄,青州都督高密王略使劉暾將兵拒之;暾兵敗,奔洛陽,略走保聊城。王浚遣將討柏根,斬之。王彌亡入長廣山爲群盜。
3.三月、惤の令の劉柏根が反乱を起こし、万の数の人々を集めて、惤公を自称した。王弥が家の召使いたちを率いてこれに従い、柏根は弥を長史とし、弥の從弟の〔王〕桑を東中郎将とした。柏根が臨淄を攻めたので、青州都督・高密王〔司馬〕略は劉暾に兵を率いさせてこれをはばませた。暾の兵は敗れ、洛陽に逃れたため、略も逃れて聊城を守った。王浚が将軍を派遣して柏根を討ち、これを斬った。王弥は逃げて長広山に入り、群盗となった。
 寧州頻歳饑疫,死者以十萬計。五苓夷強盛,州兵屢敗。吏民流入交州者甚衆,夷遂圍州城。李毅疾病,救援路絶,乃上疏言:「不能式遏寇虐,坐待殄斃。若不垂矜恤,乞降大使,及臣尚存,加臣重辟;若臣已死,陳屍爲戮。」朝廷不報,積數年,子釗自洛往省之,未至,毅卒。毅女秀,明達有父風,衆推秀領寧州事。秀獎厲戰士,嬰城固守。城中糧盡,炙鼠拔草而食之。伺夷稍怠,輒出兵掩撃,破之。
4.寧州で毎年のように飢饉や疫病の流行があり、死者は十万をもって数えるほどとなった。五苓夷が強盛で、州の兵はしばしば敗れた。官吏や住民で〔南隣の〕交州に流入する者がたいへん多く、〔五苓〕夷はついに〔寧州の〕州城を囲んだ。〔刺史の〕李毅は病にかかっていたうえ、救援の道が途絶えていたので、そこで意見書をたてまつって「盗賊たちの暴虐をもっておしとどめることができず、座して全滅を待つのみです。もしあわれみをたれないなら、大使を派遣してください。臣がまだ生きていたときには、臣に重い刑罰を加えてください。もし臣がすでに死んでいたら、しかばねを並べて辱めてください」といった。朝廷は返事をしなかった。数年がたち、子の〔李〕釗が洛陽より安否をたずねるため向かったが、いまだ到着しないうちに、毅は亡くなった。毅のむすめの〔李〕秀は、道理に通じていて父の風格があり、人々は秀を推薦して寧州の行政をおさめさせた。秀は戦士を重んじて励まし、籠城して固く守った。城中の糧食が尽きると、鼠をあぶったり草を抜いたりしてこれを食べた。様子をうかがって〔五苓〕夷〔の軍紀や士気〕がようやくゆるんでくると、すぐさま出兵して奇襲し、これを破った。
 范長生詣成都,成都王雄門迎,執版,拜爲丞相,尊之曰范賢。
5.范長生が成都にいたったので、成都王の〔李〕雄は門に迎え、名刺のふだを取り、任命して丞相とし、かれを尊んで范賢といった。
 夏,四月,己巳,司空越引兵屯温。初,太宰顒以爲張方死,東方兵必可解。既而東方兵聞方死,爭入關,顒悔之,乃斬郅輔,遣弘農太守彭隨、北地太守刁默將兵拒祁弘等於湖。五月,壬辰,弘等撃隨、默,大破之。遂西入關,又敗顒將馬瞻、郭偉於霸水,顒單馬逃入太白山。弘等入長安,所部鮮卑大掠,殺二萬餘人,百官奔散,入山中,拾橡實食之。己亥,弘等奉帝乘牛車東還。以太弟太保梁柳爲鎮西將軍,守關中。六月,丙辰朔,帝至洛陽,復羊后。辛未,大赦,改元。
6.夏、四月、己巳の日、司空の〔司馬〕越は兵を引いて温に駐屯した。かつて、太宰の〔司馬〕顒は張方が死ねば、東方の兵はきっと解散させられるだろうと思っていた。すでに東方の兵は方が死んだのを聞いて、争って関中に入ったので、顒はこれを悔やんだが、しかたなく郅輔を斬り、弘農太守の彭隨、北地太守の刁默を派遣して兵を率いて祁弘らを湖においてはばませた。五月、壬辰の日、弘らは隨、默を討って、これを大いに破った。ついに西のかた関中に入り、また顒の将の馬瞻、郭偉を霸水において破ったので、顒は単騎で太白山に逃げいった。弘らが長安に入ると、麾下の鮮卑が大規模な略奪をおこない、二万余人を殺したので、百官は逃げ散って山中に入り、とちの実を拾って食べた。己亥の日、弘らは帝を奉じて牛車に乗り東に帰った。太弟太保の梁柳が鎮西将軍となり、関中を守った。六月、丙辰の一日、帝は洛陽にいたり、羊〔皇〕后を復位させた。辛未の日、大赦をおこない、〔光煕と〕改元した。
 馬瞻等入長安,殺梁柳,與始平太守梁邁共迎太宰顒於南山。弘農太守裴廙、秦國内史賈龕、安定太守賈疋等起兵撃顒,斬馬瞻、梁邁。疋,詡之曾孫也。司空越遣督護麋晃將兵撃顒,至鄭,顒使平北將軍牽秀屯馮翊。顒長史楊騰,詐稱顒命,使秀罷兵,騰遂殺秀,關中皆服於越,顒保城而已。
7.馬瞻らが長安に入り、梁柳を殺して、始平太守の梁邁とともに太宰の〔司馬〕顒を南山から迎えた。弘農太守の裴廙、秦国内史の賈龕、安定太守の賈疋らが起兵して顒を討ち、馬瞻、梁邁を斬った。疋は〔賈〕詡の曾孫である。司空の〔司馬〕越が督護の麋晃を派遣して兵を率いて顒を討った。鄭にいたって、顒は平北将軍の牽秀を馮翊に駐屯させた。顒の長史の楊騰は、顒の命令と偽って秀に戦いをやめさせ、騰はついに秀を殺した。関中はみな越に服従し、顒は〔長安〕城を保つのみとなった。
 成都王雄即皇帝位,大赦,改元曰晏平,國號大成。追尊父特曰景皇帝,廟號始祖;尊王太后曰皇太后。以范長生爲天地太師;復其部曲,皆不豫征税。諸將恃恩,互爭班位,尚書令閻式上疏,請考漢、晉故事,立百官制度;從之。
8.成都王〔李〕雄が皇帝の位につき、大赦をおこない、晏平と改元し、国号を大成とした。父の〔李〕特を追尊して景皇帝といい、廟号を始祖とした。王太后を尊んで皇太后といった。范長生を天地太師とした。またその軍隊の部隊は、みな税を取り立てるのを喜ばなかった。諸将は恩顧をたのんで、互いに席次を争ったので、尚書令の閻式が上疏して、漢や晋の故事にならって百官の制度を立てるよう請願した。〔李雄は〕これに従った。
 秋,七月,乙酉朔,日有食之。
9.秋、七月、乙酉の一日、日食があった。
 10八月,以司空越爲太傅,録尚書事;范陽王虓爲司空,鎮鄴;平昌公模爲鎮東大將軍,鎮許昌;王浚爲驃騎大將軍、都督東夷、河北諸軍事,領幽州刺史。越以吏部郎庾[豈攵]爲軍諮祭酒,前太弟中庶子胡母輔之爲從事中郎,黄門侍郎郭象爲主簿,鴻臚丞阮修爲行參軍,謝鯤爲掾。輔之薦樂安光逸於越,越亦辟之。[豈攵]等皆尚虚玄,不以世務嬰心,縱酒放誕;[豈攵]殖貨無厭,象薄行,好招權;越皆以其名重於世,故辟之。
10.八月、司空の〔司馬〕越を太傅・録尚書事とした。范陽王〔司馬〕虓を司空とし、鄴を鎮めさせた。平昌公〔司馬〕模を鎮東大将軍とし、許昌を鎮めさせた。王浚を驃騎大将軍・都督東夷河北諸軍事とし、幽州刺史をおさめさせた。越は吏部郎の庾[豈攵]を軍諮祭酒とし、前の太弟中庶子の胡母輔之を従事中郎とし、黄門侍郎の郭象を主簿とし、鴻臚丞の阮修を行参軍とし、謝鯤を掾とした。輔之は楽安の光逸を越に推薦して、越はまたこれを召した。[豈攵]らはみな老荘の虚無思想を尊んで,時勢に要請された任務を心にかけず、酒びたりの好き勝手をやっていた。[豈攵]は利殖に飽きることがなく、象はおこないが人情薄く、権力をふりかざすのを好んだ。越はみなの世間における有名さを重んじたので、このためかれらを召したのである。
 11祁弘之入關也,成都王穎自武關奔新野。會新城元公劉弘卒,司馬郭勱作亂,欲迎穎爲主;郭舒奉弘子璠以討勱,斬之。詔南中郎將劉陶收穎。穎北渡河,奔朝歌,收故將士,得數百人,欲赴公師藩,頓丘太守馮嵩執之,送鄴;范陽王虓不忍殺而幽之。公師藩自白馬南渡河,兗州刺史苟晞討斬之。
11.祁弘が関中に入ると、成都王〔司馬〕穎は武関より新野に逃れた。ちょうどそのころ〔荊州では〕新城元公の劉弘が亡くなったので、司馬の郭勱が乱をなし、穎を主として迎えようとした。郭舒が弘の子の〔劉〕璠をたてまつって勱を討ち、これを斬った。南中郎将の劉陶に詔して、穎を捕らえさせようとした。穎は北のかた黄河を渡り、朝歌に逃れて、むかしの将士を集めて、数百人をえた。公師藩のもとに赴こうとしたところ、頓丘太守の馮嵩がこれを捕らえ、鄴に送った。范陽王〔司馬〕虓は殺すにしのびず、かれを幽閉した。公師藩は白馬より南に黄河を渡り、兗州刺史の苟晞がこれを討って斬った。
 12進東贏公騰爵爲東燕王,平昌公模爲南陽王。
12.東贏公〔司馬〕騰が爵位を進めて東燕王となり、平昌公〔司馬〕模が南陽王となった。
 13冬,十月,范陽王虓薨。長史劉輿以穎素爲鄴人所附,秘不發喪,偽令人爲台使稱詔,夜,賜穎死,並殺其二子。穎官屬先皆逃散,惟盧志隨從,至死不怠,收而殯之。太傅越召志爲軍諮祭酒。
  越將召劉輿,或曰:「輿猶膩也,近則汚人。」及至,越疏之。輿密視天下兵簿及倉庫、牛馬、器械、水陸之形,皆默識之。時軍國多事,毎會議,自長史潘滔以下,莫知所對;輿應機辨畫,越傾膝酬接,即以爲左長史,軍國之務,悉以委之。輿説越遣其弟琨鎮并州,以爲北面之重;越表琨爲并州刺史,以東燕王騰爲車騎將軍、都督鄴城諸軍事,鎮鄴。
13.冬、十月、范陽王〔司馬〕虓が亡くなった。長史の劉輿は〔成都王司馬〕穎がもとより鄴の人になつかれていたので、〔范陽王の死を〕秘密にして喪を発せず、ある人を朝廷の使者に仕立てて、詔といつわり称させた。夜、穎に死を賜り、あわせてその二子を殺した。穎の属官は先んじてみな逃げ散ったが、ただ盧志のみが随従して、死にいたってもつとめをおこたらず、死体を回収してかりもがり(死体の安置)をおこなった。太傅の〔司馬〕越は志を召して軍諮祭酒とした。
  越が劉輿を召そうとしたところ、ある人が「輿はちょうどねっとりした脂肪のような人物です。近づけると人を汚します」といった。到着すると、越はかれを疎んじた。輿はひそかに天下の軍兵の記録と倉庫・牛馬・器械・水陸の形を見て、みな無言のうちにこれらを理解していた。ときに軍事と国政に課題が多く、会議があるごとに,長史の潘滔より以下、答えるところを知らなかった。輿は機会に応じてはかりごとを論じたてたので、越は膝を傾けて議論のやり取りをし、ただちにかれを左長史にして、軍事や国政の事務は、ことごとくかれに委ねた。輿は越に説いてその弟の〔劉〕琨を派遣して并州をしずめさせ、北面の重鎮とさせた。越は上表して琨を并州刺史とし、東燕王〔司馬〕騰を車騎将軍・都督鄴城諸軍事として、鄴を鎮めさせた。
 14十一月,己巳,夜,帝食餅中毒,庚午,崩於顯陽殿。羊后自以於太弟熾爲嫂,恐不得爲太后,將立清河王覃。侍中華混諫曰:「太弟在東宮已久,民望素定,今日寧可易乎!」即露版馳告太傅越,召太弟入宮。后已召覃至尚書閣,疑變,托疾而返。癸酉,太弟即皇帝位,大赦,尊皇后曰惠皇后,居弘訓宮;追尊母王才人曰皇太后;立妃梁氏爲皇后。
  懷帝始遵舊制,於東堂聽政。毎至宴會,輒與群官論衆務,考經籍。黄門侍郎傅宣歎曰:「今日復見武帝之世矣!」
14.十一月、己巳の日、夜、帝が餅を食べて中毒となり、庚午の日、顕陽殿において崩御した。羊〔皇〕后は〔皇〕太弟の〔司馬〕熾からみて兄嫁にあたるので、〔皇〕太后となることができないのを恐れて、清河王〔司馬〕覃を立てようとした。侍中の華混が諫めて、「太弟はすでに長らく東宮の地位にあり、民の信望がもとより定まっているのですから、今日はむしろ事どおりに進めるべきかと」といった。ただちに封のない手紙が太傅の〔司馬〕越のもとに早馬で届けられ、太弟が召されて宮殿に入った。〔皇〕后はすでに覃を召して尚書閣にいたっていたが、変事を疑って、病と称してとってかえした。癸酉の日、太弟〔熾〕は皇帝の位につき、大赦をおこない、皇后を尊んで恵皇后といい、弘訓宮に住まわせた。母の王才人を追尊して皇太后といった。妃の梁氏を立てて皇后とした。
  懐帝は、はじめ旧制を遵守して、東堂において聴政をおこなった。宴会するたびごとに、群官と衆務を論じあい、経籍を考証した。黄門侍郎の傅宣は感嘆して、「今日また武帝の世を見たか!」といった。
 15十二月,壬午朔,日有食之。
15.十二月、壬午の一日、日食があった。
 16太傅越以詔書徴河間王顒爲司徒,顒乃就徴。南陽王模遣其將梁臣邀之於新安,車上扼殺之,並殺其三子。
16.太傅の〔司馬〕越は詔書により河間王〔司馬〕顒を司徒として召し、顒はしかたなく出発した。南陽王〔司馬〕模はその将の梁臣を派遣して新安において顒を待ちうけ、車上で顒を扼殺し、あわせてその三子を殺した。
 17辛丑,以中書監温羨爲左光祿大夫,領司徒;尚書左僕射王衍爲司空。
17.辛丑の日、中書監の温羨を左光禄大夫とし、司徒の職務をおさめさせた。尚書左僕射の王衍が司空となった。
 18己酉,葬惠帝於太陽陵。
18.己酉の日、恵帝を太陽陵に葬った。
 19劉琨至上黨,東燕王騰即自井陘東下。時并州饑饉,數爲胡寇所掠,郡縣莫能自保。州將田甄、甄弟蘭、任祉、祁濟、李惲、薄盛等及吏民萬餘人,悉隨騰就穀冀州,號爲「乞活」,所餘之戸不滿二萬,寇賊縱橫,道路斷塞。琨募兵上黨,得五百人,轉鬭而前。至晉陽,府寺焚毀,邑野蕭條,琨撫循勞徠,流民稍集。
19.劉琨が上党にいたったので、東燕王〔司馬〕騰はただちに井陘より東に下った。ときに并州は飢饉にみまわれ、しばしば胡族の盗賊に略奪を受けて、郡県は自衛することができなくなった。州将の田甄、甄の弟の〔田〕蘭、任祉、祁済、李惲、薄盛らと官民一万人あまりが、ことごとく騰に従って穀物をえるため冀州に向かって、「乞活」を名乗った。残された家は二万戸にみたず、盗賊が横行し、道路は断ち切られふさがれた。琨は上党で募兵をおこない、五百人をえて、転戦してさらに進んだ。晋陽にいたると、役所は焼きこわされ,町や野はうらさびしくなっていたので、琨が〔人々を〕いたわりねぎらい励ましたところ、流民が少しずつ集まってきた。

  孝懷皇帝上
永嘉元年(丁卯,三〇七)

 春,正月,癸丑,大赦,改元。
1.春、正月、癸丑の日、大赦をおこない、〔永嘉と〕改元した。
 吏部郎周穆,太傅越之姑子也,與其妹夫御史中丞諸葛玫説越曰:「主上之爲太弟,張方意也。清河王本太子,公宜立之。」越不許。重言之,越怒,斬之。
2.吏部郎の周穆は、太傅の〔司馬〕越のおばの子であるが、その妹の夫の御史中丞諸葛玫とともに越に説いて、「主上(懐帝)が〔皇〕太弟となったのは、張方の意向です。清河王〔覃〕がそもそも〔皇〕太子でしたから、殿はかれを立てるべきでしょう」といった。越は許さなかった。重ねてこれを言上すると、越は怒ってかれを斬った。
 二月,王彌寇青、徐二州,自稱征東大將軍,攻殺二千石。太傅越以公車令東莱鞠羨爲本郡太守,以討彌,彌撃殺之。
3.二月、王弥が青、徐二州を攻め、征東大将軍を自称し、地方の長官たちを攻め殺した。太傅〔司馬〕越は公車令の東莱の鞠羨を東莱郡の太守として、弥を討たせたが、弥はこれを撃ち殺した。
 陳敏刑政無章,不爲英俊所附;子弟兇暴,所在爲患;顧榮、周玘等憂之。廬江内史華譚遺榮等書曰:「陳敏盜據呉、會,命危朝露。諸君或剖符名郡,或列爲近臣,而更辱身姦人之朝,降節叛逆之黨,不亦羞乎!呉武烈父子皆以英傑之才,繼承大業。今以陳敏兇狡,七弟頑宂,欲躡桓王之高蹤,蹈大皇之絶軌,遠度諸賢,猶當未許也。皇輿東返,俊彦盈朝,將舉六師以清建業,諸賢何顏復見中州之士邪?」榮等素有圖敏之心,及得書,甚慚,密遣使報征東大將軍劉準,使發兵臨江。己爲内應,剪髮爲信。准遣揚州刺史劉機等出歴陽討敏。
  敏使其弟廣武將軍昶將兵數萬屯烏江,歴陽太守宏屯牛渚。敏弟處知顧榮等有貳心,勸敏殺之,敏不從。
  昶司馬錢廣,周玘同郡人也,玘密使廣殺昶,宣言州下已殺敏,敢動者誅三族。廣勒兵朱雀橋南;敏遣甘卓討廣,堅甲精兵盡委之。顧榮慮敏疑之,故往就敏。敏曰:「卿當四出鎮衛,豈得就我邪!」榮乃出,與周玘共説甘卓曰:「若江東之事可濟,當共成之。然卿觀茲事勢,當有濟理不?敏既常才,政令反覆,計無所定,其子弟各已驕矜,其敗必矣。而吾等安然受其官祿,事敗之日,使江西諸軍函首送洛,題曰『逆賊顧榮、甘卓之首』,此萬世之辱也!」卓遂詐稱疾,迎女,斷橋,收船南岸,與玘、榮及前松滋侯相丹楊紀瞻共攻敏。
  敏自帥萬餘人討卓,軍人隔水語敏衆曰:「本所以戮力陳公者,正以顧丹楊、周安豐耳;今皆異矣,汝等何爲!」敏衆狐疑未決,榮以白羽扇揮之,衆皆潰去。敏單騎北走,追獲之於江乘,歎曰:「諸人誤我,以至今日!」謂弟處曰:「我負卿,卿不負我!」遂斬敏於建業,夷三族。於是會稽等郡盡殺敏諸弟。
  時平東將軍周馥代劉準鎮壽春。三月,己未朔,馥傳敏首至京師。詔征顧榮爲侍中,紀瞻爲尚書郎。太傅越辟周玘爲參軍,陸玩爲掾。玩,機之從弟也。榮等至徐州,聞北方愈亂,疑不進,越與徐州刺史裴盾書曰:「若榮等顧望,以軍禮發遣!」榮等懼,逃歸。盾,楷之兄子,越妃兄也。
4.陳敏は刑罰と政治にけじめがなく、優れた人々の支持するところとならなかった。子弟は凶暴で、いたるところで災いを引き起こした。顧栄や周玘らは、これを心配してふさぎこんだ。廬江内史の華譚は、栄らに手紙を残して「陳敏は呉や会稽の地を盗んで拠り、命脈は朝露のように危うい。諸君は、あるいはすぐれた郡に割り符を与えられ(地方官に任命され)、あるいは〔百官に〕列して近臣となっていながら、そのうえさらに悪人の朝廷に身を辱められている。反逆の仲間に節を屈して、なんとも恥ずかしいことではないか!呉の武烈(孫堅)父子はみな英傑の才能をもち、偉大な事業を継承した。いま陳敏は凶悪でずるがしこく、七人の弟はかたくなでしまりがないのに、桓王(孫策)の高尚な行いを踏襲しようとし、大皇(孫権)のすばらしい筋道を踏もうとしている。遠く諸賢にはかるに、やはり許されるべきではない。皇帝の御輿は東(洛陽)に帰り、才知のすぐれた立派な人々が朝廷に満ちていて、いまにも六軍を挙げて建業を清めようというとき、諸賢はどういう顔をして再び中原の士と会えるのか?」といった。栄らはもとより敏にくわだてる気持ちを持っていたので、手紙が届くと、たいそう恥ずかしく思い、ひそかに使者を派遣して征東大将軍の劉準に報告して、兵を発して長江に臨むようにさせた。自分は内応することとして、髮を切って約束のしるしとした。準は揚州刺史の劉機らを派遣して歴陽を出て敏を討たせた。
  敏はその弟の広武将軍〔陳〕昶に兵数万を率いさせて烏江に駐屯させ、歴陽太守の宏を牛渚に駐屯させた。敏の弟の処は、顧栄らにふたごころがあるのを知って、敏に勧めてかれらを殺そうとしたが、敏は従わなかった。
  昶の司馬の銭広は、周玘と同じ郡(呉興郡)の〔出身の〕人である。玘はひそかに広に昶を殺させ、すでに敏を殺したので、あえて動く者は父母兄弟妻子を殺すと州下(建業)で宣言させた。広は朱雀橋の南に兵を統御していた。敏は甘卓を派遣して広を討たせ、硬い鎧を着た精鋭の兵士たちをことごとく甘卓に委ねた。顧栄は敏の疑念をおもんばかって、敏のもとに行ってつき従った。敏は「おまえは四方に出て大きな町を守るべきであるのに、どうしてわたしにくっついているのだ!」といった。栄はそこで出て、周玘とともに甘卓に説いて「もし江東の事件を乗り切ることができるのなら、ともに成し遂げるべきです。しかしあなたはこの事のなりゆきを見て、すじみちどおりに乗り切るべきでしょう?敏はもはや凡才で、政令は朝令暮改のありさまで、計略は定まるところがなく、その子弟はおのおのすでにおごり高ぶって譲らないので、その敗北は必至です。しかるにわれらは安穏としてその官禄を受けており、こと敗れた日には、江西の諸軍に首を箱詰めされて洛陽に送られて、題して『逆賊顧栄と甘卓の首』といえば、これは万世の恥辱です!」といった。卓はかくして病気といつわって称し、娘を迎えにやり、橋を断ちきり、船を南岸におさめて、玘と栄、それと前の松滋侯の相の丹楊の紀瞻とともに敏を攻めた。
  敏が自ら一万あまりの人を率いて卓を討ったので、〔顧栄らの〕軍中の人が川をへだてて敏の部下たちに語って「もとより陳公(陳敏)に協力していた理由は、まさに顧丹楊(顧栄)と周安豊(周玘)がいたからというだけである。いまはみな別れてしまった。おまえたちはどうして〔陳公と〕別れないのか!」といった。敏の部下たちは逡巡して決めかねていたが、栄が白羽の扇をふるうと、部下たちはみな潰えさった。敏が単騎で北に逃れたので、追ってこれを捕らえた。〔敏は〕嘆いて「多くの人がわたしを誤らせたので、こと今日にいたったのだ!」といった。弟の処にたいして「わたしはおまえに背いたのに、おまえはわたしに背かなかった!」といった。かくして敏を建業で斬り、母や妻子を皆殺しにした。そこで会稽などの郡は、ことごとく敏の諸弟を殺した。
  ときに平東将軍の周馥が劉準に代わって寿春を鎮めた。三月、己未の一日、馥が敏の首を送って京師に到着した。詔により顧栄を召して侍中とし、紀瞻を尚書郎とした。太傅の〔司馬〕越は周玘を召して参軍とし、陸玩を掾とした。玩は、〔陸〕機の従弟である。栄らは徐州にいたり、北方がいよいよ乱れているのを聞いて、逡巡して進まなかったが、越は徐州刺史の裴盾に手紙を書いて「もし栄らが遠慮するなら、軍令を出してでも出発させよ!」といった。栄らはおそれて、逃げ帰った。盾は、〔裴〕楷の兄の子で、越の妃の兄である。
 西陽夷寇江夏,太守楊珉請督將議之。諸將爭獻方略,騎督朱伺獨不言。珉曰:「朱將軍何以不言?」伺曰:「諸人以舌撃賊,伺惟以力耳。」珉又問:「將軍前後撃賊,何以常勝?」伺曰:「兩敵共對,惟當忍之;彼不能忍,我能忍,是以勝耳。」珉善之。
5.西陽夷が江夏に侵攻したので、〔江夏〕太守の楊珉は軍の指揮官たちにたのんでこのことを相談した。諸将は争って方策を献じたが、騎督の朱伺はひとり何も言わなかった。珉は、「朱将軍はどうして言わないのか?」と訊ねた。伺は、「諸人は舌をもって賊を討つが、伺はただ力をもってするだけだからだ」といった。珉はまた、「将軍は前と後で賊を討つのに、どうやって常に勝てるだろうか?」と問うた。伺は、「両方の敵とともに向き合い、ただ耐えるべきだ。やつらは我慢できなくとも、おれは我慢できるから、これによって勝つだけだ」といった。珉はこれをよしとした。
 詔追復楊太后尊號;丁卯,改葬之,謚曰武悼。
6.詔により再び楊太后に尊号を追贈した。丁卯の日、これを改葬し、謚(おくりな)を武悼といった。
 庚午,立清河王覃弟豫章王詮爲皇太子。辛未,大赦。
7.庚午の日、清河王〔司馬〕覃の弟の豫章王〔司馬〕詮を立てて皇太子とした。辛未の日、大赦をおこなった。
 帝觀覽大政,留心庶事;太傅越不悅,固求出藩。庚辰,越出鎮許昌。
8.帝(懐帝)が親しく天下の政治をみて、さまざまなことを心にとどめるようになった。太傅〔司馬〕越はおもしろくなかったので、領国に出してくれるよう強く求めた。庚辰の日、越は出向して許昌を鎮めた。
 以高密王略爲征南大將軍,都督荊州諸軍事,鎮襄陽;南陽王模爲征西大將軍,都督秦、雍、梁、益諸軍事,鎮長安;東燕王騰爲新蔡王,都督司、冀二州諸軍事,仍鎮鄴。
9.高密王〔司馬〕略を征南大将軍・都督荊州諸軍事とし、襄陽を鎮めさせ、南陽王〔司馬〕模を征西大将軍・都督秦雍梁益〔四州〕諸軍事とし、長安を鎮めさせ、東燕王〔司馬〕騰を新蔡王・都督司冀二州諸軍事とし、鄴を鎮めさせた。
 10公師藩既死,汲桑逃還苑中,更聚衆劫掠郡縣,自稱大將軍,聲言爲成都王報仇;以石勒爲前驅,所向輒克,署勒討虜將軍,遂進攻鄴。時鄴中府庫空竭,而新蔡武哀王騰資用甚饒。騰性吝嗇,無所振惠,臨急,乃賜將士米各數升,帛各丈尺,以是人不爲用。夏,五月,桑大破魏郡太守馮嵩,長驅入鄴,騰輕騎出奔,爲桑將李豐所殺。桑出成都王穎棺,載之車中,毎事啓而後行。遂燒鄴宮,火旬日不滅;殺士民萬餘人,大掠而去。濟自延津,南撃兗州。太傅越大懼,使苟晞及將軍王贊等討之。
10.公師藩が死んだのち、汲桑は苑中に逃げ帰り、さらに人々を集めて郡県を攻めて略奪した。大将軍を自称し、成都王(司馬穎)の仇をうつと言いふらした。石勒を先鋒として、向かうところことごとく勝利したので、勒を討虜将軍に任命して、そのまま鄴に進攻した。ときに鄴の役所の倉庫はからっぽになっていたが、それなのに新蔡武哀王〔司馬〕騰は資金がたいへん豊かであった。騰は性格がけちで、ほどこしをすることがなく、危険がさしせまってからようやく、将士に米をおのおの数升、絹をおのおのいくばくかたまわったので、これによって人を働かせることができなかった。夏、五月、桑は魏郡太守の馮嵩をおおいに破り、長距離を駆け抜けて鄴に入った。騰は軽騎で出奔して、桑の将の李豊に殺された。桑は成都王穎の棺を出して、車中にこれを載せ、ひとつひとつ〔死者に〕報告して、しかるのちに出発した。そのまま鄴の宮殿を焼いて、火は十日ばかりのあいだ消えなかった。士民あわせて一万人あまりを殺し、おおいに略奪して去った。延津より黄河をわたり、南のかた兗州を攻撃した。太傅の〔司馬〕越はおおいにおそれて、苟晞と将軍の王賛らにこれを討たせた。
 11秦州流民鄧定、訇氐等據成固,寇掠漢中,梁州刺史張殷遣巴西太守張燕討之。鄧定等饑窘,詐降於燕,且賂之,燕爲之緩師。定密遣訇氐求救於成,成主雄遣太尉離、司徒雲、司空璜將兵二萬救定。與燕戰,大破之,張殷及漢中太守杜孟治棄城走。積十餘日,離等引還,盡徙漢中民於蜀。漢中人句方、白落帥吏民還守南鄭。
11.秦州の流民の鄧定、訇氐らが成固に拠り、漢中を攻めて略奪した。梁州刺史の張殷は、巴西太守の張燕を派遣してこれを討たせた。鄧定らは飢えに苦しんでいたので、いつわって燕に降伏し、かれを籠絡した。燕はこのため進軍をゆるめた。定は、ひそかに訇氐を派遣し成に救援を求めさせた。成主の〔李〕雄は、太尉の〔李〕離や司徒の〔李〕雲、司空の〔李〕璜を派遣して兵二万を率いて定を救援させた。燕と戦い、これを大いに破ったので、張殷と漢中太守の杜孟治は城を捨てて逃げた。十日あまりたって、離らは引き返し、ことごとく漢中の民を蜀にうつさせた。漢中の人の句方と白落は、役人や民衆を率いてもどり南鄭を守った。
 12石勒與苟晞等相持於平原、陽平間,數月,大小三十餘戰,互有勝負。秋,七月,己酉朔,太傅越屯官渡,爲晞聲援。
12.石勒と苟晞らは、平原と陽平の間で対峙し、数ヶ月で大小三十余回の戦いをおこない、お互い勝ち負けがあった。秋、七月、己酉の一日、太傅の〔司馬〕越が官渡に駐屯し、晞のための援軍となった。
 13己未,以琅邪王睿爲安東將軍,都督揚州江南諸軍事,假節,鎮建業。
13.己未の日、琅邪王〔司馬〕睿を安東将軍・都督揚州江南諸軍事とし、旗印を貸し与え、建業を鎮めさせた。
 14八月,己卯朔,苟晞撃汲桑於東武陽,大破之。桑退保清淵。
14.八月、己卯の一日、苟晞が汲桑を東武陽において攻撃し、これを大いに破った。桑は退いて清淵を保った。
 15分荊州、江州八郡爲湘州。
15.荊州と江州の八郡を分かって湘州とした。
 16九月,戊申,琅邪王睿至建業。睿以安東司馬王導爲謀主,推心親信,毎事咨焉。睿名論素輕,呉人不附,居久之,士大夫莫有至者,導患之。會睿出觀禊,導使睿乘肩輿,具威儀,導與諸名勝皆騎從,紀瞻、顧榮等見之驚異,相帥拜於道左。導因説睿曰:「顧榮、賀循,此土之望,宜引之以結人心。二子既至,則無不來矣。」睿乃使導躬造循、榮,二人皆應命而至。以循爲呉國内史;榮爲軍司,加散騎常侍,凡軍府政事,皆與之謀議。又以紀瞻爲軍祭酒,卞壼爲從事中郎,周玘爲倉曹屬,琅邪劉超爲舎人,張闓及魯國孔衍爲參軍。壼,粹之子;闓,昭之曾孫也。王導説睿:「謙以接士,儉以足用,用清靜爲政,撫綏新舊。」故江東歸心焉。睿初至,頗以酒廢事;導以爲言。睿命酌,引觴覆之,於此遂絶。
16.九月、戊申の日、琅邪王〔司馬〕睿が建業にいたった。睿は安東司馬の王導を謀主とし、心から信頼して任用し、ことがあるたびにかれに諮問した。睿は名誉と評判がはじめは低かったので、呉の人は支持せず、長らくこの地にいても、士大夫には仕官しようと来るものがなかったので、導はこれを心配した。ちょうどそのとき睿がみそぎを見せるために出て、導は睿を肩輿(輿の一種)に乗せて、〔その姿は〕威厳があり礼儀にかなっていて、導や多くの優れた人々がみな騎従していたので、紀瞻や顧栄らはこれに出会ってびっくりし、あい率いて道の左側であいさつをした。導はそこで睿に説いて「顧栄や賀循は、この地の名望家であり、これを引き立てて人心を結びつけたほうがよろしい。二子はすでに来ているのですから、来ないことはないでしょう」といった。睿はそこで導に循や栄のもとに我が身を運ばせたところ、二人はともに命令に応じていたった。循を呉国内史とした。栄を軍司とし、散騎常侍〔の位〕を加え、およそ軍府の行政のことは、みなかれと謀議した。また紀瞻を軍祭酒とし、卞壼を従事中郎とし、周玘を倉曹属とし、琅邪の劉超を舎人とし、張闓と魯国の孔衍を参軍とした。壼は〔卞〕粹の子である。闓は、〔張〕昭の曾孫である。王導は睿に説いて「士と接してへりくだり、つつましくして用を足し、静かに落ち着いて政治を行えば、新来のものも土着のものも不安がなくなりましょう」といった。こうして江東〔の人々〕は心から服従した。睿がはじめ〔江東に〕いたったとき、酒のために事をだめにすることがたいへん多かった。導は考えて〔酒をやめるよう〕言った。睿は〔それを聞いて〕さらに酌を命じ、〔一杯飲むと〕その杯を引いてひっくり返し、以後酒を断った。
 17苟晞追撃汲桑,破其八壘,死者萬餘人。桑與石勒收餘衆,將奔漢,冀州刺史譙國丁紹邀之於赤橋,又破之。桑奔馬牧,勒奔樂平。太傅越還許昌,加苟晞撫軍將軍、都督青、兗諸軍事,丁紹寧北將軍,監冀州諸軍事,皆假節。
  晞屢破強寇,威名甚盛,善治繁劇,用法嚴峻。其從母依之,晞奉養甚厚。從母子求爲將,晞不許,曰:「吾不以王法貸人,將無後悔邪!」固求之,晞乃以爲督護;後犯法,晞杖節斬之,從母叩頭救之,不聽。既而素服哭之曰:「殺卿者,兗州刺史;哭弟者,苟道將也。」
17.苟晞が汲桑を追撃して、その八つのとりでを破ったので、死者は一万人あまりにいたった。桑と石勒は残った人々を集めて、漢に逃れようとしたが、冀州刺史の譙国の丁紹が赤橋で迎撃して、またかれらを破った。桑は〔茌平の〕馬の牧場に逃れ、勒は楽平に逃れた。太傅の〔司馬〕越は許昌に帰り、苟晞に撫軍将軍と都督青兗〔二州〕諸軍事の位を、丁紹に寧北将軍と監冀州諸軍事の位を加えて、ともに旗印を貸し与えた。
  晞はしばしば強い盗賊たちを破ったので、威光と名誉はたいそう広まった。統治をよくしてこまごまと忙しく、法を用いるに峻厳だった。かれのおばがかれを頼ってきたところ、晞は孝養を尽くすのにはなはだ厚かった。おばの子が将となることを求めたが、晞は許さず、「わたしは王法を人に貸し与えたりしない(わたしは法を用いるのに妥協しない)。後になって悔いることはないか!」といった。〔なおも〕固くこれを求めたので、晞はそこでかれを督護とした。のちに法を犯したので、晞は与えられた権限をたてにしてかれを斬ろうとした。おばは頭を地面に叩きつけて〔懇願し〕息子を救おうとしたが、聞き入れなかった。その後まもなく、白絹の喪服姿で「おまえを殺したのは、兗州刺史です。〔従〕弟の死に哭礼をささげているのは、苟道将(道将は晞の字)です」と泣いていった。
 18胡部大張督、馮莫突等,擁衆數千,壁於上黨,石勒往從之,因説督等曰:「劉單于舉兵撃晉,部大拒而不從,自度終能獨立乎?」曰:「不能。」勒曰:「然則安可不早有所屬!今部落皆已受單于賞募,往往聚議,欲叛部大而歸單于矣。」督等以爲然。冬,十月,督等隨勒單騎歸漢,漢王淵署督爲親漢王,莫突爲都督部大,以勒爲輔漢將軍、平晉王,以統之。
  烏桓張伏利度有衆二千,壁於樂平,淵屢招,不能致。勒偽獲罪於淵,往奔伏利度;伏利度喜,結爲兄弟,使勒帥諸胡寇掠,所向無前,諸胡畏服。勒知衆心之附己,乃因會執伏利度,謂諸胡曰:「今起大事,我與伏利度誰堪爲主?」諸胡咸推勒。勒於是釋伏利度,帥其衆歸漢。淵加勒督山東征討諸軍事,以伏利度之衆配之。
18.胡の部大(部族の長)の張督や馮莫突らが、数千の部下を擁して、上党にとりでを築いていた。石勒はおもむいてかれらに従い、そこで督らに説いて、「劉単于(劉淵)は兵を挙げて晋を攻撃しており、〔君たち〕部大は拒んで従わないが、君たちの目算で最後には独立できるのか?」といった。「できない」と答えた。勒は「そうであればどうして早く所属を決めないのか!いま部落はみな自分が単于のほうびや官位を受けようと争っているのに、何回も議論をかさねているうちに、ひとたびそむいた部大として単于に帰順するはめになりたいのか」といった。督らはそれを認めた。冬、十月、督らは勒に従って単騎で漢に帰順し、漢王〔劉〕淵は督を任命して親漢王とし、莫突を都督部大とし、勒を輔漢将軍・平晋王として、かれらを統率した。
  烏桓の張伏利度は二千の部下を有していて、楽平にとりでを築いた。淵はたびたび招こうとしたが、招致できなかった。勒は淵から罪をえたようにいつわって、伏利度のところにかけこんだ。伏利度は喜んで、兄弟のちぎりをむすんだ。勒に諸胡を率いて攻めて略奪させ、向かうところ敵なく、諸胡はおそれて服従した。勒は人々の心が自分についたのを知って、そこで宴会〔の機会〕を利用して伏利度を捕らえ、諸胡にたいして「いま大事を起こすのに、わたしと伏利度とどちらが主君たるにたえる〔器量をもつ〕だろうか?」といった。諸胡はみな勒を推した。勒はこうして伏利度を釈放し、その部下を率いて漢に帰順した。淵は勒に督山東征討諸軍事〔の位〕を加え、伏利度の部下をかれに与えた。
 19十一月,戊申朔,日有食之。
19.十一月、戊申の一日、日食があった。
 20甲寅,以尚書右僕射和郁爲征北將軍,鎮鄴。
20.甲寅の日、尚書右僕射の和郁を征北将軍とし、鄴を鎮めさせた。
 21乙亥,以王衍爲司徒。衍説太傅越曰:「朝廷危亂,當賴方伯,宜得文武兼資以任之。」乃以弟澄爲荊州都督,族弟敦爲青州刺史,語之曰:「荊州有江、漢之固,青州有負海之險,卿二人在外而吾居中,足以爲三窟矣。」澄至鎮,以郭舒爲別駕,委以府事。澄日夜縱酒,不親庶務,雖寇戎交急,不以爲懷。舒常切諫,以爲宜愛民養兵,保全州境,澄不從。
21.乙亥の日、王衍を司徒とした。衍は太傅の〔司馬〕越に説いて「朝廷は乱により危うく、地方の監督官を頼みにすべきであって、文武の資質を兼ね備えたものをこれに任命するのがよいでしょう」といった。そこで弟の〔王〕澄を荊州都督とし、族弟の〔王〕敦を青州刺史とし、かれらに語って、「荊州は長江と漢水の固めがあり、青州は海辺の険しさがあり、おまえたちふたりが外にあって、わたしが中にいたならば、〔賢いウサギが用意しているという〕三つの洞穴とするのに十分であろう」といった。澄は〔荊州の〕町にいたると、郭舒を別駕として、役所仕事をまかせた。澄は日夜酒びたりになって、雑多な事務仕事には慣れ親しまず、盗賊や異民族が入れかわり立ちかわり迫ってきても、なつけようと考えなかった。舒は、人民を愛して兵を養い、州の境を保全するのがよいと考えて、いつも真心から諫めたが、澄は従わなかった。
 22十二月,戊寅,乞活田甄、田蘭、薄盛等起兵,爲新蔡王騰報讎,斬汲桑於樂陵。棄成都王穎棺於故井中,穎故臣收葬之。
22.十二月、戊寅の日、乞活の田甄、田蘭、薄盛らが起兵して、新蔡王〔司馬〕騰の仇に報いるため、汲桑を楽陵において斬った。成都王〔司馬〕穎の棺を古井戸の中に投げ捨てたので、穎の旧臣がこれを回収して葬った。
 23甲午,以前太傅劉寔爲太尉,寔以老固辭,不許。庚子,以光祿大夫高光爲尚書令。
23.甲午の日、前の太傅の劉寔を太尉とした。寔は老齢を理由に固辞したが、許されなかった。庚子の日,光禄大夫の高光を尚書令とした。
 24前北軍中候呂雍、度支校尉陳顏等,謀立清河王覃爲太子;事覺,太傅越矯詔囚覃於金墉城。
24.前の北軍中候の呂雍や度支校尉の陳顔らが、清河王〔司馬〕覃を立てて太子にしようと謀った。事が発覚したので、太傅〔司馬〕越は詔といつわって覃を金墉城に幽閉した。
 25初,太傅越與苟晞親善,引升堂,結爲兄弟。司馬潘滔説越曰:「兗州衝要,魏武以之創業。苟晞有大志,非純臣也,久令處之,則患生心腹矣。若遷於青州,厚其名號,晞必悅。公自牧兗州,經緯諸夏,藩衛本朝,此所謂爲之於未亂者也。」越以爲然。癸卯,越自爲丞相,領兗州牧,都督兗、豫、司、冀、幽、并諸軍事。以晞爲征東大將軍、開府儀同三司,加侍中、假節、都督青州諸軍事,領青州刺史,封東平郡公。越、晞由是有隙。
  晞至青州,以嚴刻立威,日行斬戮,州人謂之「屠伯」。頓丘太守魏植爲流民所逼,衆五六萬,大掠兗州,晞出屯無鹽以討之。以弟純領青州,刑殺更甚於晞。晞討植,破之。
  初,陽平劉靈,少貧賤,力制奔牛,走及奔馬,時人雖異之,莫能舉也。靈撫膺歎曰:「天乎,何當亂也!」及公師藩起,靈自稱將軍,寇掠趙、魏。會王彌爲苟純所敗,靈亦爲王贊所敗,遂倶遣使降漢。漢拜彌鎮東大將軍、青徐二州牧、都督縁海諸軍事,封東莱公;以靈爲平北將軍。
25.かつて、太傅の〔司馬〕越と苟晞は親しい間柄であって、表座敷に連れ立ってあがり、義兄弟のちぎりを結んだ。司馬の潘滔は越に説いて「兗州は軍事上重要な地点で、魏武(曹操)が覇業をはじめたところです。苟晞は遠大な志をもっており、忠義一途の臣下ではありません。長い間同じところに落ち着けておけば、もっとも大切な場所にわずらいを生じましょう。もし青州にうつし、その称号を多く加えてやれば、晞は必ず喜びましょう。殿は自ら兗州の牧(州の長官)をつとめて、中国を治めととのえれば、諸侯がいまの朝廷を守りましょう。これはいわゆる乱が起こる前に処置をするということです」といった。越はこれに同調した。癸卯の日、越は自ら丞相となり、兗州牧・都督兗豫司冀幽并〔六州〕諸軍事を兼任した。晞を征東大将軍・開府儀同三司とし、侍中・仮節・都督青州諸軍事を加え、青州刺史を兼任させ、東平郡公に封じた。越と晞との仲違いはここからはじまった。
  晞は青州にいたって、厳しく容赦のない統治によって威権をうち立てようとし、毎日斬り殺す刑罰を行い、州の人はかれを「屠伯」と呼んだ。頓丘太守の魏植が流民に迫られて、五、六万の人々を率い〔起兵して〕、兗州を大いに略奪した。晞は〔州城から〕出て、無塩に駐屯してこれを討った。弟の純に青州をおさめさせたところ、処刑による殺害はさらに晞よりもはなはだしかった。晞は植を討ち、これを破った。
  かつて、陽平の劉霊は、若いころ貧しく身分がいやしかったので、力は逃走した牛を制し、走っては逃げる馬にも追いつくほどで、時の人はこれを尋常でないと思ったけれども、〔かれを官員に〕推挙することはできなかった。霊は胸をなでて嘆いて「天よ、なんとも乱れるべきではないか!」といった。公師藩が起兵すると、霊は将軍を自称し、趙・魏の地を攻めて略奪した。おりしも王弥は苟純に敗れ、霊もまた王賛に敗れたので、そのままともに漢に使者を派遣して降伏した。漢は、弥を鎮東大将軍・青徐二州牧・都督縁海諸軍事に任命し、東莱公に封じた。霊を平北将軍とした。
 26李釗至寧州,州人奉釗領州事。治中毛孟詣京師,求刺史,屢上奏,不見省。孟曰:「君亡親喪,幽閉窮城,萬里訴哀,精誠無感,生不如死!」欲自刎,朝廷憐之,以魏興大守王遜爲寧州刺史,仍詔交州出兵救李釗。交州刺史吾彦遣其子咨將兵救之。
26.李釗が寧州にいたり、州の人々は釗をまつりあげて州の行政を担当させた。治中の毛孟がみやこにいたり、刺史を求めて、たび重ねて上奏したが、かえりみられなかった。孟は「主君が滅び、親を失って、いきづまった城に押しこめられて、万里のむこうに哀しみを訴えたのに、純粋な誠意を感じられないというなら、生きているより死んだほうがいい!」といって、自ら首をはねようとしたので、朝廷はこれをあわれみ、魏興大守の王遜を寧州刺史とし、交州が出兵して李釗を救うようかさねて詔を出した。交州刺史の吾彦がその子の〔吾〕咨を派遣して兵を率いてこれを救わせた。
 27慕容廆自稱鮮卑大單于。
27.慕容廆が鮮卑大単于を自称した。
 28拓跋祿官卒,弟猗盧總攝三部,與廆通好。
28.拓跋禄官が亡くなり、弟の〔拓跋〕猗盧が三部を合わせて統率し、〔慕容〕廆と好を通じた。
二年(戊辰,三〇八)

 春,正月,丙午朔,日有食之。
1.春、正月、丙午の一日、日食があった。
 丁未,大赦。
2.丁未の日、大赦をおこなった。
 漢王淵遣撫軍將軍聰等十將南據太行,輔漢將軍石勒等十將東下趙、魏。
3.漢王〔劉〕淵が、撫軍将軍〔劉〕聡ら十将を南方の太行に派遣して拠らせ、輔漢将軍石勒ら十将を東方の趙・魏の地方に下した。
 二月,辛卯,太傅越殺清河王覃。
4.二月、辛卯の日、太傅〔司馬〕の越が清河王〔司馬〕覃を殺した。
 庚子,石勒寇常山,王浚撃破之。
5.庚子の日、石勒が常山を攻めたが、王浚がこれを撃破した。
 涼州刺史張軌病風,口不能言,使其子茂攝州事。隴西内史晉昌張越,涼州大族,欲逐軌而代之,與其兄酒泉太守鎮及西平太守曹袪,謀遣使詣長安告南陽王模,稱軌廢疾,請以秦州刺史賈龕代之。龕將受之,其兄讓龕曰:「張涼州一時名士,威著西州,汝何德以代之!」龕乃止。鎮、袪上疏,更請刺史,未報;遂移檄廢軌,以軍司杜耽攝州事,使耽表越爲刺史。
  軌下教,欲避位,歸老宜陽。長史王融、參軍孟暢蹋折鎮檄,排閤入言曰:「晉室多故,明公撫寧西夏,張鎮兄弟敢肆兇逆,當鳴鼓誅之。」遂出,戒嚴。會軌長子寔自京師還,乃以寔爲中督護,將兵討鎮。遣鎮甥太府主簿令狐亞先往説鎮,爲陳利害,鎮流涕曰:「人誤我!」乃詣寔歸罪。寔南撃曹袪,走之。
  朝廷得鎮、袪疏,以侍中袁瑜爲涼州刺史。治中楊澹馳詣長安,割耳盤上,訴軌之被誣。南陽王模表請停瑜,武威太守張琠亦上表留軌;詔依模所表,且命誅曹袪。軌於是命寔帥歩騎三萬討袪,斬之。張越奔鄴,涼州乃定。
6.涼州刺史の張軌が中風を病んで、口をきくことができなくなったので、その子の〔張〕茂に州の行政を代行させた。隴西内史の晋昌の張越は、涼州で勢力のある一族であり、軌を放逐して取って代わろうとした。その兄の酒泉太守の〔張〕鎮と西平太守の曹袪とともにはかって、使者を派遣して長安にいたらせ、南陽王〔司馬〕模に軌は身体に障害があると告げて、秦州刺史の賈龕をかれに代えるよう願い出た。龕はこれを受けようとしたが、その兄が龕を責めて「張涼州(軌)は一代の名士であって、その声威は西方の州でいちじるしいものがある。おまえはどんな徳があってかれに代わろうというのか!」といったので、龕はそこでとりやめた。鎮と袪は意見書をたてまつって、さらに刺史を求めたが、まだ返事がなかった。ついには軌を廃するよううながす触れ文を各地に飛ばし、軍司の杜耽に州の行政を代行させ、耽に越を刺史とするよう意見書をたてまつらせた。
  軌は命令を下して、高い位にあることを避けて、宜陽に引退しようとした。長史の王融と参軍の孟暢が鎮の触れ文を踏み折り、宮中の小門を開いて入って「晋の王室が事件の多い中で、殿は河西の地の民をなだめやすらかにしてきました。張鎮兄弟がわざわざ非道なおこないを好き勝手にしていますので、軍鼓を鳴らして〔兵を起こし〕かれらを殺すべきです」といった。かくして出馬して、厳しく警戒した。おりしも軌の長子の〔張〕寔が京師から帰ってきたので、そこで寔を中督護とし、兵を率いて鎮を討たせた。鎮の甥の太府主簿の令狐亜を先行させて鎮に説かせ、利害得失を述べさせたので、鎮は涙を流して「人がわたしを誤まらせたのだ!」といった。そこで寔のもとにいたって罪に服した。寔は南の方角の曹袪を攻撃して、これを敗走させた。
  朝廷は鎮と袪の意見書をうけて、侍中の袁瑜を涼州刺史とした。治中の楊澹が長安にはせ参じ、大皿の上で耳を切って、軌が誣告されていると訴えた。南陽王〔司馬〕模が瑜の辞令をとどめるよう請願する意見書を提出し、武威太守の張琠がまた軌を留任させるよう意見書をたてまつった。模の意見書にしたがって詔が出され、なおかつ曹袪を殺すよう命じられた。軌はそこで寔に命じて歩兵と騎兵合わせて三万を率いて袪を討たせ、袪を斬った。張越は鄴に逃れたので、涼州はかくして定まった。
 三月,太傅越自許昌徙鎮鄄城。
7.三月、太傅の〔司馬〕越が許昌より鄄城に移り、駐屯した。
 王彌收集亡散,兵復大振。分遣諸將攻掠青、徐、兗、豫四州,所過攻陷郡縣,多殺守令,有衆數萬;苟晞與之連戰,不能克。夏,四月,丁亥,彌入許昌。
  太傅越遣司馬王斌帥甲士五千人入衛京師,張軌亦遣督護北宮純將兵衛京師。五月,彌入自轘轅,敗官軍於伊北,京師大震,宮城門晝閉。壬戌,彌至洛陽,屯於津陽門。詔以王衍都督征討諸軍事。北宮純募勇士百餘人突陳,彌兵大敗。乙丑,彌燒建春門而東,衍遣左衛將軍王秉追之,戰於七里澗,又敗之。
  彌走渡河,與王桑自軹關如平陽。漢王淵遣侍中兼御史大夫郊迎,令曰:「孤親行將軍之館,拂席洗爵,敬待將軍。」及至,拜司隸校尉,加侍中、特進,以桑爲散騎侍郎。
  北宮純等與漢劉聰戰於河東,敗之。
8.王弥は逃げ散った者たちを呼び集め、ふたたび兵威はたいそうさかんになった。諸将を分遣して青、徐、兗、豫の四州を攻めて略奪した。通り過ぎるところの郡県を攻め落としては、多くの太守や県令を殺し、数万の人々を集めた。苟晞はかれと連戦して、勝つことができなかった。夏、四月、丁亥の日、弥は許昌に入った。
  太傅の〔司馬〕越は司馬の王斌に武装した兵士五千人を率いさせて派遣し、京師(みやこ)を守るため入城させた。張軌もまた督護の北宮純に兵を率いさせて京師を守らせた。五月、弥は轘轅より入って、官軍を伊水の北で破った。京師は震撼し、宮城の門は昼から閉められた。壬戌の日、弥は洛陽にいたり、津陽門に駐屯した。詔により王衍を都督征討諸軍事とした。北宮純が勇士百余人を募って陣地に突入したので、弥の兵は大敗した。乙丑の日、弥が建春門を焼いて東に向かい、衍は左衛将軍の王秉を派遣してこれを追い、七里澗で戦って、またこれを破った。
  弥は逃れて渡河し、王桑とともに軹関から平陽に向かった。漢王〔劉〕淵が侍中兼御史大夫を派遣して郊外で迎えさせて、「わたしがみずから将軍の館に行き、お席を払いさかずきを洗って、つつしんで将軍をお待ちしたい」といわせた。到着すると、〔弥を〕司隷校尉に任命し、侍中・特進〔の位〕を加え、桑を散騎侍郎とした。
  北宮純らが漢の劉聡と河東で戦い、これを破った。
 詔封張軌西平郡公,軌辭不受。時州郡之使,莫有至者,軌獨遣使貢獻,歳時不絶。
9.詔により張軌が西平郡公に封ぜられたが、軌は固辞して受けなかった。ときに州郡の使者が〔晋の朝廷に〕到着することはない〔ほど乱れた〕状況だったが、軌ひとりが使者を派遣し貢ぎ物を献上して、いつも絶やさなかった。
 10秋,七月,甲辰,漢王淵寇平陽,太守宋抽棄郡走,河東太守路述戰死;淵徙都蒲子。上郡鮮卑陸逐延、氐酋單徴並降於漢。
10.秋、七月、甲辰の日、漢王〔劉〕淵が平陽を攻めたので、〔平陽〕太守の宋抽が郡を捨てて逃げ、河東太守の路述が戦死した。淵は蒲子に都を遷した。上郡の鮮卑の陸逐延や氐の首長の単徴がそろって漢に降伏した。
 11八月,丁亥,太傅越自鄄城徙屯濮陽;未幾,又徙屯滎陽。
11.八月、丁亥の日、太傅の〔司馬〕越が鄄城より濮陽に移り、駐屯した。まもなく、また滎陽に移り、駐屯した。
 12九月,漢王彌、石勒寇鄴,和郁棄城走。詔豫州刺史裴憲屯白馬以拒彌,車騎將軍王堪屯東燕以拒勒,平北將軍曹武屯大陽以備蒲子。憲,楷之子也。
12.九月、漢の王弥と石勒が鄴を攻め、和郁が城を捨てて逃走した。詔により豫州刺史の裴憲が白馬に駐屯して王弥をはばみ、車騎将軍の王堪が東燕に駐屯して石勒をはばみ、平北将軍の曹武が大陽に駐屯して蒲子〔の劉淵〕に備えた。憲は、〔裴〕楷の子である。
 13冬,十月,甲戌,漢王淵即皇帝位,大赦,改元永鳳。十一月,以其子和爲大將軍,聰爲車騎大將軍,族子曜爲龍驤大將軍。
13.冬、十月、甲戌の日、漢王〔劉〕淵が皇帝位につき、大赦をおこない、永鳳と改元した。十一月、その子の〔劉〕和を大将軍とし、〔劉〕聡を車騎大将軍とし、族子の〔劉〕曜を龍驤大将軍とした。
 14壬寅,并州刺史劉琨使上黨太守劉惇帥鮮卑攻壺關,漢鎮東將軍綦毋達戰敗亡歸。
14.壬寅の日、并州刺史の劉琨が、上党太守劉惇に鮮卑を率いて壺関を攻めさせ,漢の鎮東将軍の綦毋達は戦いに敗れて逃げ帰った。
 15丙午,漢都督中外諸軍事、領丞相、右賢王宣卒。
15.丙午の日、漢の都督中外諸軍事で、丞相を兼ねる右賢王〔劉〕宣が亡くなった。
 16石勒、劉靈帥衆三萬寇魏郡、汲郡、頓丘,百姓望風降附者五十餘壘;皆假壘主將軍、都尉印綬,簡其強壯五萬爲軍士,老弱安堵如故。己酉,勒執魏郡太守王粹於三臺,殺之。
16.石勒、劉霊が三万の部下を率いて魏郡、汲郡、頓丘を攻めた。人民はかれらになびき慕って、五十あまりのとりでが降伏した。とりでの城主はみな将軍や都尉の印綬を与えられ、強壮なもの五万人が任命されて軍士となり、老弱なものは以前のように落ち着かせた。己酉の日、勒は魏郡太守の王粹を三台で捕らえて、これを殺した。
 17十二月,辛未朔,大赦。
17.十二月、辛未の一日、大赦をおこなった。
 18乙亥,漢主淵以大將軍和爲大司馬,封梁王;尚書令歡樂爲大司徒,封陳留王;后父御史大夫呼延翼爲大司空,封雁門郡公;宗室以親疏悉封郡縣王,異姓以功伐悉封郡縣公侯。
18.乙亥の日、漢主〔劉〕淵は大将軍〔劉〕和を大司馬とし、梁王に封じた。尚書令の歓楽を大司徒とし、陳留王に封じた。皇后の父で御史大夫の呼延翼を大司空とし、雁門郡公に封じた。宗室は親疏の別によってことごとく郡県の王に封ぜられ、異姓〔の臣下〕は軍功によってことごとく郡県の公や侯に封ぜられた。
 19成尚書令楊褒卒。褒好直言,成主雄初得蜀,用度不足,諸將有以獻金銀得官者,褒諫曰:「陛下設官爵,當網羅天下英豪,何有以官買金邪!」雄謝之。雄嘗醉,推中書令杖太官令,褒進曰:「天子穆穆,諸侯皇皇。安有天子而爲酗也!」雄慚而止。
19.成の尚書令の楊褒が亡くなった。褒は直言を好んだ。成主の〔李〕雄がかつて蜀の地を得たとき、費用が不足していたので、諸将で金銀を献上して官を得たものがいた。褒は諫めて「陛下は官爵を設けられ、天下の英傑を残さずすくいとるべきであるのに、なんで官位を金で買うようなことがあるのですか!」といったので、雄はこのことをわびた。雄がかつて酔っぱらって、中書令を突き飛ばし、太官令をむち打ったことがあったので、褒は進んで「天子は威儀正しくうやうやしく、諸侯は大きくて派手なもの。どうして天子が酒に酔って暴れたりなさるのか!」といったので、雄は恥じいってやめた。
 20成平寇將軍李鳳屯晉壽,屢寇漢中,漢中民東走荊沔。詔以張光爲梁州刺史。荊州寇盜不禁,詔起劉璠爲順陽内史,江、漢間翕然歸之。
20.成の平寇将軍の李鳳が晋寿に駐屯し、しばしば漢中に侵攻したので、漢中の民は東の沔水が荊州に入るあたりに逃げた。詔により張光を梁州刺史とした。荊州は強盗を取り締まっていなかったので、詔により劉璠を順陽内史とすると、長江、漢水の間はいっせいにこれになびき従った。

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最終更新:2007年01月08日 10:36
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