日本国は某県。街の名を創尾【つくお】。明治期より海外との交流が盛んであり、数多くの移民がこの地に渡り、そして骨を埋めていった。
現在でもなお、彼らの子孫達の多くがこの場所で、それぞれの生活を営んでいる。言わば日本版『人種のサラダボウル』と言った所だ。ガイジンさんが歩いていても誰も驚かない。
大都会――とまではいかないが、かといって寂れているというコトもない。程よく栄え、程よくのどかで、トラブルも無い事は無いがそれなりに平和な街である。
時は夕焼けが映える頃――今日も創尾市の繁華街は人で賑わっている。
学校帰りにゲーセンで遊んだり本屋で立ち読みしたりする学生達、夕食の材料代を少しでも安く済ませようと東奔西走するオバちゃん――とにかく色々である。
そんな中を、力なく歩く一人の少年の姿があった。まだ幼さの残る顔に、大きな陰を落としながら。
それは決して時間のせいだけではなく、感情が酷く落ち込んでいる事も理由に含まれていた。
「はあぁ……」
こうやって溜息を吐くのは、今日だけで何度目だろうか。そう考えるだけで少年は憂鬱になる。
これから何が起こり、そして自分がどうなってしまうのかなど、出来れば想像したくもない。
「何でこー、いちいち足突っ込んじゃうんだろ俺ってば……」
少年は、自分の正義感の強さを少しだけ後悔した。今日も今日とて、言われ無き圧力に困っている人の頼み事を請け負ってしまったのである。
彼は昔から悪い奴や不正を許す事は出来ない性格だ。イジメられっ子を庇ってケンカになった事例など、両手両足では数え切れないほどだ。
しかし、それに見合う力が圧倒的に足りず、何度も痛い目を見てきた。「口先だけの弱虫」とバカにされ、悔しい思いもした。強くなろうとしても、才能が無いのだろうか、努力が実を結ばない。
それでも彼は今日に至るまで腐ることなく、己なりの正義を貫いてきた――だが、そんな彼にだって逃げ出したくなる時や、躊躇したくなる時だってある。
「は~あぁ、やっぱやめようかな……」
とうとう歩みを止めてしまう少年。これから起こりうる事で、まさか命を失うなんて事はないだろうが、何度経験しようとも、肉体的な痛みと言うものは慣れる事はない。
『逃げてしまおうか』――そんな考えすら、彼の脳裏をよぎった。
「いぃやダメだ!そんなんじゃ男が廃る!」
だがすぐ、迷いを断ち切るように首をブンブンと振る。その眼は闘士に燃え、真っ直ぐ前を見つめていた。
――だから、気付かなかったのだろう。彼の視界の外、真横の路地裏から逃げるように走り来る人物の存在に。
その後に待ち受ける事態と言えば――
「はわあっ!?」
「おぉっ!?」
――言うまでも無く、衝突あるのみである。
「あっ痛ぅ……」
強かに尻を打ちつけた少年。だが頭をぶつけなかっただけ、まだ幸いだったかもしれない。
だが、やはり怒りを納める事は出来ない。涙目で尻をさすり、その場に立ち尽くす人物の足を見やり食って掛かる。
「オイコラぁ!何処に目ぇつけて…やが、る……」
最初の勢いは何処へやら、視界を上に向ければ向けるほどに、その言葉は詰まっていく。
理由はその人物の体格にあった。身長はおよそ180cmはあるだろうか。しかも、肩幅を見るにタダのノッポではなく、相当鍛えている事が少年にも容易に想像できた。
その事が、彼に恐怖を覚えさせたのだ。ただ、その人物の顔だけはうかがい知る事が出来ない。逆光に加え、ボサボサの黒髪が目元を隠していたからだ。
「う、うぐ……」
巧く言葉が出ない少年。そんな彼の様子を知ってか知らずか、その長身の人物は言葉を掛けて来た。
「す、すす……すいません!だ、大丈夫ですかぁ?」
「……ほぇ?」
その風貌からはあまりに意外な言葉と共に、申し訳無さそうに歩み寄る男――声を聞くに、間違いないだろう――。
そんな男を見て少年は素っ頓狂な声を上げる。てっきり逆ギレでもされるのかと戦々恐々だったのに、これでは拍子抜けである。
「立てますか…?」
「ぅ……」
そう言って片膝立ちになり手を差し伸べてくる男。あまりに親切すぎて、不気味さすら覚えてしまう。
だが、断るのも何処かバツが悪いので、少年は渋々その手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
「その……本当に、すみませんでした。ちゃんと前見てなくて……」
「いや、大したことないから……まだちょっと痛いけど」
「はぁ……よかったぁ」
頭を下げる男に、少年はまだ尻をさすりながら答える。彼の言葉の通り、尻に若干痛みが残る程度で済んだのだから。
それに、これくらいの事でこんなに謝られてしまうと、逆にこちらが気恥ずかしいというものだ。
「じゃ、じゃあ……俺、ちょっと用事あるんで」
「あ、あのぉっ!」
言葉が見つからず、そそくさと立ち去ろうとする少年。だが、まだ何か用があるのだろうか、男に引き止められる。
会ったばかりの――それも、ただぶつかっただけの人間に、これ以上何を言う必要があるのだろう。怪訝に思ったが、とりあえず返事を返す。
「ぇと……まだ何か?」
「よろしければ、途中まででいいので……ご一緒させてもらってもいいでしょうか?」
「……はぇっ!?」
何の脈絡もない提案に、少年は再び素っ頓狂な声を――先程より声量は4割ほど増しているが――上げる。一体この男は何を考えているのだろうか。
「な、何で……?」
少々のオブラートに包みつつ、至極最もな疑問を声にする。
「その……僕はこれといって行くアテがないですし。これも何かのご縁、というコトで……どうでしょう?」
「……」
ぶつかっただけだというのに『縁』も何もあったモノではない。この男の思惑を探るつもりが、益々ワケが分からなくなってしまった。
そういった疑念を悟られてしまったのだろうか、男がやや引き下がった様子で続ける。
「あ、もしその用事というのが急ぎでしたら……」
「いや、そういうワケじゃ……ないけど」
「だったら……大丈夫でしょうか?」
「や、その……」
時間にはまだ余裕がある。だが、問題はソコではない。これは、第三者にはあまり関わって欲しくない『用事』なのだ。
下手をすれば、何の関係もないこの男にまで被害が及びかねないし、騒ぎ立てられてコトを大きくされると非常に厄介だ。
前者もそうであるが、特に後者だけは絶対に避けたい。よって少年は、可能な限り丁重に断ろうとした――が。
「そ、その……悪いんだけど……」
「ご迷惑はお掛けしませんので!どうかっ!」
「う……」
自らの眼前で両の手を合わせながら、頭を下げ懇願する男。その姿と声に、言葉を遮られてしまった。
連れて行けない事情があるにしても、ここまでされて断ってしまったら、まるで自分が悪者みたいではないか――そのまま動かない男を見て、そんな思考が少年の脳裏をよぎってしまう。
「だぁーっ!分かった!わぁーったよ!!」
「い、いいんですかっ?」
断るに断れなくなってしまった少年は、半ばヤケクソ気味にこの男の同行を許可するコトにした。
その言葉に、男は先ほどの姿勢を解き、安堵の表情を浮かべて少年の方を見る。表情と言っても、相変わらず目は隠れているので、唯一露出されている口元からしか推測できなかったが。
「……その代わり!」
「かわり?」
「アンタが最初に言った通り、途中で帰ってもらうからな!アカの他人がいると色々ややこしくなるから!」
無論、こちらの条件を呑んで貰う事を前提に、だ。語尾をオウムのように繰り返してきた男に対し、その条件を告げる。
少年の先刻の懸念と今の言葉の通り、どこの誰とも分からない者を今から起こるコトに同行させるのは色々なリスクを伴うのだ。
これでも大まけにまけてやってるのだ。この程度は承諾して貰わなければならない――あそこまで嘆願されてなければ断っていたのだから。
「は、はいっ!有難うございま……」
「いや、だからそこまでしなくていいってば……」
「す、すいません……は、はは……」
男が再び深々と頭を下げようとしたが、少年が制止に入った。いちいち大げさにリアクションを取られてはたまらない。
バツが悪そうに、男は力なく笑いながら後ろ頭をボリボリと掻く。
「……あ、そうだ!」
「……?」
「僕はウォルド。 ウォルド=オーツと言います。貴方は?」
「翔太……石川翔太」
「ショータさん……素敵な名前ですねっ」
「や……そんな」
互いに名乗り合う男と少年。少年はあまり乗り気では無かったが、名前を誉められてまんざら悪い気はしなかった――少々こっ恥ずかしく、頬をポリポリと掻いてしまっていたが。
「よろしくっ!」
「……ん」
差し出された手を、ゆっくりと握り返す少年。
この男との出会いが、自身にとって大きな転機になるとは、少年は知る由も無かった。
最終更新:2009年04月14日 23:50