「茜」
「どうしたの、孝道?」
気持ちの良い青空の下、僕は呼ばれた方へと振りかえる。
ここ。
安満堂神社は、最近僕が訪れた中でもお気に入りの場所だ。大きい桜の木の下で寝転び、空を眺めている。
「茜がいるのだから、私もサボろうと思ってな」
「駄目だよ、孝道。 仕事はきっちりしてから来ること」
「そう言うな」
そういうと、孝道は僕の隣で寝転び、頭を撫でる。
その手の優しさと心地よさに、顔が赤くなっていき、思わず悟られないように眼を閉じた。
孝道は、そんな僕を見て、笑い声を上げる。なんとなくその笑い声が、僕に恥ずかしさを上乗せするような感じ。恥ずかしさに潰される前に、ここは反抗しておかないと思った。
「……そんなことよりさ、仕事はさぼっちゃ駄目だろ」
「仕事といっても、どうせ下らん会議に決まっている」
――仮にも君はその下らん会議する場所では議長にあたる役目だろうに。
そう思ったが口には出さなかった。言って変わるわけでもないのだから、言うだけ無駄だ。
ふと、目を上へと向ける。相変わらず空の上を、雲は流れている。しかし、その雲がどこか仄暗くなってきていた。そろそろ雨が降ってくるのだろうか。
「天候が怪しくなってきたな」
「僕は、君の心が怪しいよ」
「……浮気をするとか?」
「うん」
孝道が苦笑しながら、それはないと否定する。
僕だって、それは分かっている。まぁさっきの仕返しという奴だ。
「ほら、その証拠に」
「……んっ!?」
いきなり孝道が唇を重ねてくる。舌が、絡まり合う。
孝道を押すようにして、身を逸らして離れる。孝道が、してやったりという顔をしているのが、恥ずかしさを上乗せする。
こうなってしまうと、もう孝道のペースだ。僕には、どうしようもない。身を、流れに任せるしかない。
奥まで絡みついてくる舌に、息が荒くなる。手は、さりげなく腰へと回され、そして――
――馬鹿兄様という声とともに、孝道が吹っ飛ばされた。
「……痛いぞ沙羅」
「真っ昼間に外で、情事を愉しもうとする人がいるか!」
顔全体を、まるで熟れた林檎のように赤くして沙羅と呼ばれた女――孝道の妹――が言う。
「ここにいる。なぁ茜」
「……僕は外でされるのは好きじゃない」
「中ならいいのか」
「そ、それは」
「――兄様ッツ!」
まさに、ああいえば、こう言う。
沙羅がもう一撃、蹴りを入れようとしたが手で止められた。止めた手の先から現れた顔は、嬉しそうににやにやしている。
「……お前も、クロードとは」
最後までは言わせなかった。
沙羅のビンタが孝道の頬を狙って飛ぶ。しかし、それも防がれる。
孝道の顔は、相変わらず笑顔が張り付いたままだ。
「やれやれ」
これ以上言うのは、得策ではない。そう判断したのだろう。
孝道が、沙羅を弄るのに飽きたように立ち上がった。何故か、僕を、お姫様抱っこして。
沙羅が呆れたような目で、こちらを見ている。僕としては、なんとか言ってもらいたい。恥ずかしさで、スロット全開で壊れそうだ。
「ちょ、ちょっと孝道」
「何だ」
「降ろして」
「やだ」
満面の笑みで孝道が、そう口を開いた。
その笑顔は、まるで悪戯に成功した無邪気な子どものようで、とても可愛かった。また、僕の顔が赤くなる。
「あっきれた……もう、義姉様、ごめんね……将来の夫がこんなので」
「おっ……夫って」
確かに、孝道は僕を妻にするのは分かっていた。それも本気だということも。大佛家を捨ててもするだろうということも。
ただ、夫といきなり言われると、やはり実感が無かった。それでも、決まったことだ。僕自身も、後悔はしてない。
「……雨、か」
孝道が、顔を上に向けて、呟いた。
ぽつりぽつりと、頬に冷たい感覚がする。沙羅が慌てて家に戻っていく。洗濯物でも干していたのだろうか。
孝道も、僕を抱えたまま、家へと入っていった。
孝道の身体が密着する。その身体は、暖かい。思わず眠気が襲いかかってくるが、我慢する。
このまま寝てしまったら起きたときに、なにをされているか分かったもんじゃない。
少なくとも、自分の知る孝道は、絶対に何かする男だった。
「……そりゃあ」
孝道が言わんとしていることは理解できた。
優しい男だと思う。いつもふざけているように見えるが、それとなく人の心は把握している。
この男の魅力はそういうところからも出ているのだろう。あの、孝道が妻とした天狗の少女も、そこに惹かれ、妻となることを承諾したのだろうか。
「もう、お前は十分に苦しんだ。 そろそろ、また伴侶を探しても奥方と息子も許してくれるはずだ」
「俺は、良いんだよ。 独り身でな」
二人きりで、酒を飲むときはいつもこうだ。
表では主従として通ってはいるが、本当は、親友同士なのだ。こうして酒を飲んでいる間は、昔の仲に戻れる。
兼昌にとって嬉しいことでもあるが、煩わしい問題が来るということでもあった。
だから、煩わしい問題だけを避けるために、ここで話を打ち切ろう。そう思ったが、孝道がその意志を止めるように言葉を投げかける。
「いいや、良くないな。 お前の悪い癖だよ、兼昌。 どうしてそこまで拘る」
図星だった。視線を逸らしては駄目だと思ったが、意識せずに逸れてしまう。
「私とて、かつて親友……お前の兄である兼光と、澪を亡くしている。 それなのに、新しい女性を、茜を好きになり妻に迎えることに、何の抵抗もなかったわけではない」
孝道が一息つき、さらに言葉を続ける。
「それでも、私は茜を選んだ。 兼光も澪も、許してくれるだろうと考えた。 確かに、私がそう考えただけと言えばそうだろう。
だがな。 あの二人なら、そうしてくれるとも私は信じているんだ」
「それは良いことだよ。 でもな、俺には関係が――」
「――無いとは言わせん。 ようやく、私はそれで茜に告白して、妻になってもらうことを選んだ。間違ってはいなかったよ」
孝道の眼は、強い光をその瞳に宿している。
「今の私は幸せだ。 あの時、迷って茜に告白しなければ、この幸せは無かった。 そう考えるとぞっとする程にな」
「そりゃあ見てれば、分かる。 良い奥さんなんだろう?」
「ああ、料理も驚くほど美味かった。 どこで習ったと聞いても、恥ずかしがるだけで教えてくれなかったがな」
妻の事を語っている孝道の姿は、本当に嬉しそうだった。
この男の今の支えは、茜と家族だけなのだろう。長年連れ添ってきたから分かるが、大佛家の他の連中は、決して孝道のことを良い感情だけで見てはいなかった。
大佛家歴代の当主の中でも、随一の力を持った男。鬼子とすら言われたその力を恐れる者は、大佛家の中にもいたのだから。
馬鹿げている。兼昌はそう思っていた。仮にも、自分たちの主であり、護っている者を恐れるとはどういうことなのか。
連座――大佛家ではそれが会議を意味するのだが――に出てくる連中は、特にそうだった。老害と言うべきだろう。
その老害が命じたことによって、孝道は、兼光を、兼昌の兄を失った。澪も元々病弱だったのが、あの言葉にするにもおぞましい化物のもたらした毒から孝道を救うために、命を落とすことになった。
あの時から、孝道は老害どもに対しては、次にそういう措置に出たならば、首を切り落とすと公言している為、静まっている。
若い連中などが、『あの時』に助けられたことから孝道側につくようになったのも大きいだろう。
老害としては、そのまま死んでくれれば理想だったが、予定外の災いを引き込んだ形になったというわけだ。
「そりゃあ良かったな。夜はどうなんだ」
「胸がない。 そういうことを気にしていつも私に謝ってくる。 ……正直、その時の茜が実に可愛くて、そそるのだがな」
「あーあ。 良かったですねそれは」
「ああ、実に良かったよ。 ……だからとは、言わんが」
いい加減、あの事件は忘れろ。そして幸せになれ。
そういうことなのだろう。やはり、優しい男だった。
「分かったよ。 考えてはおく」
「お前という奴は」
「茜が待ってるぞ」
「……言われなくても」
孝道が自分の碗を片付けていく。
その後ろ姿を、兼昌は見送った。
「孝道」
「ん……どうした、茜?」
遠慮がちに、孝道の書斎のドアを叩くと、孝道が鍵を開けて、僕を部屋の中へと導いた。
部屋の中は相変わらず本の壁で覆われていた。これだけの本を、孝道は一通りは読んでいるらしい。
単なる女好きで尻軽な男に見られるが、誰よりも、実際に付き合っている僕が、それは違うと断言できる自信は、ここからだなと思う。
「……ほら」
「うん、美味いよ。 茜」
差し入れたコーヒーを美味そうに飲む孝道に、意識しなくても顔が赤くなる。
「珍しいな」
「いつも、この時間帯は本を読んでるから」
「なるほどな。私の為に、か」
嬉しそうに、孝道が微笑む。
この笑みが、たまらなく僕は好きだ。そんなことは、決して孝道には言えないけど。
今の時間帯は、夜遅く。沙羅も、孝美も寝ている時間なのは分かっていた。
「……もう、大分遅い時間だな」
「うん」
「孝美と沙羅は、寝ているだろう」
その言葉には、返事をしなかった。
孝道が、妖しげな笑みを浮かべてこちらを見ている。僕は、わざと視線をずらす。
その笑みが意味するのを、僕自身が幾ばくかの優越感と、不安とで知っているから。
孝道の手が、すっと伸びて僕はベッドに押し倒される。時々、ここで寝るのだろう。ベッドの清潔感のある匂いが僕の鼻をくすぐる。
「柔らかいな」
孝道の声に、反応しようとしたが、それは出来なかった。
明かりが消される。僕に孝道が覆い被さる。愛おしい気持ちが、僕のメーターを加速させる。
空に抱かれるような、そんな感情。
コーヒーはまだ少し残ってるのに。そんなことを考える前に、熱い熱気が、僕の身体を襲う。
僕は、それにはっきりとした幸せを感じていた。
願わくば、いつまでも続いて欲しい幸せを。
最終更新:2009年06月09日 22:27