酔いの朝

おい、孝道、いるんだろう」

 じめじめと不快な気分にさせてくれる夏の梅雨明けの時期、男が一人神社へと続く長い階段を登り切り、汗をかきながら神社の縁に声をかけた。
 しかし、その声はただ響くだけで誰も出てきはしない。昔からの付き合いであるこの男には、すぐにそれが知り合いの悪巫山戯であることが予想できた。

「出てこい、今度はなんだ、また頭から水か、パチンコ玉か、それとも」
「……なにもないよ、兼光。騒々しい男だな。」

 神社の縁からゆっくりと孝道と呼ばれた男が顔を出す。気怠げで、どこか、退屈そうに兼光を見ている。
この男がこのような状態の時は大抵女を抱いた後だということを、兼光は嫌というほど知っていた。以前から朝に平然と女を抱いていたのだからこんなことは容易に想像できる。
 こんな男が、かの名門である大佛家の当主を引き継いだという話を聞いたときは、ついに自分が耄碌しはじめたかと思った程だが、実際に会い話し始めると不思議と人を惹きつける魅力があった。自分でも不思議なくらいに、この男に、孝道に気付かぬ間に惹かれ心酔しきっていた。

「珍しいな。いつもなら大抵なんかあるから警戒したんだが」
「澪を抱いた後に悪戯を用意するほど、私は体力をもってないよ。それに」

 孝道の視線が縁の奥の方へと移り、兼光の視線も釣られてそちらへ動く。

「今お前を怒らせたら、澪が起きるだろう。今日は気持ちよく起きさせてやりたいんだ」
「成程な。つまり、お前は朝から抱いたんだな」
「まぁそうだな、好きな女が出来たら何度でも抱きたくなる。その気持ち、お前も分かるだろう」

孝道が白い歯を見せながら笑いかけてくる。兼光はこの笑顔がたまらなく好きだった。

「で、ただ雑談をしに来たわけではあるまいよ。どうせ面倒な話だろう」
「俺の話は、面倒な話ばかりじゃあないぞ」
「嘘をつけ。お前ほど平然と嘘をついている悪漢はそうみないぞ」

 軽く馬鹿にするような目つきで、こちらを見られる。大体の人間は、その視線を不快に感じたりするようだが、自分はもう、気にするようなものでもない。孝道は、ひとしきりぶつくさと文句を言いながらも、すぐに飲み込んだのか、渡り廊下を通って自室の方へと向かっていた。こういうことに関しては気配りが出来るところはありがたかった。
その後をついて行くように、自分も靴を脱いで縁から奥の方にある孝道の自室へと向かう。

「で、何の用だ。兼光。どうせ面倒なことだろうが」

 孝道の言葉を前から聞き、やたらと頑丈そうなドアを開けて、部屋の中に置いてあるソファーに兼光は腰をかける。いつも部屋に入る度に思うのだが、孝道の部屋は本だらけである。足の踏み場もないとか、そういうわけではない。
 むしろ綺麗に纏められており、部屋自体も綺麗なのだが、奥の方に詰められている分厚い本の行列には、やはり慣れない。
 自分はあまり頭が良くないので表現できないが、綺麗な部屋の中で、そこだけ異質というのだろうか、触れてはならないものであると考えられてしまうのである。仮に触れる事が出来たとしても、兼光には理解できないような内容に違いない。
 孝道が読んでいる書物は大抵そうなのである。妖怪などについて纏めた諸説や刀の起源に始まり、挙げ句の果てにはいかにも怪しいとしかいえないような洋書まで置いてある。これだけの書物だけでも充分怪しいのだが、兼光の目をもっとも強く惹きつけたのは、赤い本だった。
 特に理由があるわけではない。端に置いてあるそれは、他の分厚すぎる書物たちに比べれば、薄いといっても過言ではない。
だが、それが放つ妖しさは他の書物とは、比べものにならないものだった。
 なんと言えばいいのだろうか、匂い立つ女のようといえばいいのか。赤い本は、たまらなく兼光には魅力的に思えるのだ。決して駄目だといわれたら、ますますやりたくなってしまうような。例えるなら、開けてはいけない箱のような――

「お前は何しにきたんだ。ただここに居座りに来ただけか」

 ふっと意識が戻ってきた。自分は何を考えていたのだと、慌てて思考を現実へと引き戻す。
 どうせまた下らないことを考えていたんだろうと、孝道が冷めた目つきでこちらを見て言うが、それに反論は出来なかった。
現に、自分はその通りと答えるしかできないのだから仕方がない。あそこにある赤い本が気になって仕方ないなどと、言ったところでこの男は嗤うだけだろう。

「いや、悪い悪い。それで用事があるんだ」

用事。その言葉を聞いた途端に孝道が眉をつり上げた。不機嫌であるということだ。

「また、用事か。お前の用事は面倒なことばかりで嫌なんだ。私は」

「そう言うな。俺から回す仕事のほうが主にお前の本来の仕事だろう」

 孝道の仕事は、表向きは神社の神主ということで通っているが実際は違う。
本来の仕事というのは、妖怪退治である。このご時世に妖怪など馬鹿馬鹿しいと言い張る者もいるだろうが、実際にいるのだから仕方ない。
そう言うことしか兼光には出来ない。実際にその現場に携わり、何度も孝道が妖怪を打ち払ってきたのを見てきた身としては、信じてもらうしかないというのが事実だ。
 そして、それは兼光にとっても貴重な体験になったと言っても過言ではなかった。妖怪というのは悪であり残酷。その見識をあっさりと打ち砕かれたと言っても良い。今の兼光は、そう思っていた過去の自分を恥じるほどに実感していた。妖怪とて、人にむやみやたらと危害を加えるわけではない。先に人が手を出し、それで住処を追われ、仕方なく動かざるを得なくなった妖怪達。過去にその力で助けられたことを忘れ、存在すら忘れていく人々に憤りを感じて、復讐する妖怪。
 いずれも、孝道が討伐はした。人々からも感謝はされているが、孝道はそれで良い顔をしたことは一度も無かった。今でも、討伐した時の孝道の一言は覚えている。

「忘れすぎている」

 兼光の心に、水が地面に吸い込まれていくように入っていた呟き。それは、兼光自身に影響を与えたのはいうまでもなかった。
そう考えながらも、ずっと考え込んでいる孝道の顔に視線を移す。それに気付き、孝道が言葉を返した。

「それは否定はしないがな」

「なら良いだろう。 さて、仕事の内容を話すぞ」

「まぁ、まて」

「何だ」

「俺も、面白い話があってな」

 話の腰を折るように、孝道が口を挟み込んだ。

「……なんだ」

「美人の天狗が来ただろう」

この男はそういうことにしか反応しないのか。

「どっから仕入れたんだ、その話は」

「見にいった」

「見にいった?」

「青笹茜というのか、あの天狗。 空を飛んでいる姿が、実に美しかったな」

 ああ、あいつか。そう口を合わせて兼光は頭を回した。
ムラマツ航空会社に、美人の子が入ってきた。そいつがまた凄腕のパイロットで、腕前に惚れ惚れしそうだと。ついでにちょいと幼児な感じがあってなお良し。
 一緒にムラマツを見てきた友人の言葉に、返事代わりのビンタを一発くれてやったことを思い出しながら、その茜の事も思い出した。
確かに、幼い感じがあったが、どうもその歳のようには見えなかった。達観しているというか、世捨て人のような気配を発していたのだ。

「天狗、なのか?」

「巧妙に隠していたがな。 相当長い間生きてるだろうさ」

 孝道が、頬を僅かに吊り上げる。その笑みが意味するのを、兼光は読み取ろうとしたが、無駄だった。
よくよく考えてみれば、この男が考えていることを自分が見抜いたことは、あったのだろうか。いつも見透かしてるつもりで、逆に、その考えが見破られていることがしょっちゅうだった。

「そうなのか、天狗か」

「天狗だ。 まぁあの様子なら、私には関わらんはずだ」

 確かに、孝道の仕事には関わらないだろう。
孝道の顔に、初めて穏やかな笑みが浮かんだ。

「嬉しそうだな」

「まぁな……どれ、ついでだ。面白い話をもう一つしてやろう」

「なんだ、孝道」

「呪だよ」

 呪。その言葉を聞いた途端に、背中にぞくりと、百足が走るような感覚に襲われた。
どちらかと言えば、中性的な顔の持ち主である孝道が、妖しい笑みを湛えている。それがまた、兼光の恐怖感を煽る。
 部屋の空気まで、変わってきたような気がする。息が、苦しい。

「例えば、そうだな。お前は兼光だな」

「ああ、そうだよ」

「ほら、そう答える時点でお前はもう掛かっているのだ」

「おいおい、何でだ」

「お前には今『兼光である』という呪が掛かっている」

 どういうことなのだ。それが呪なのか。

「待て待て、なんだそれは」

「その呪によって、お前は兼光であろうとしなければならない。 そういうことだよ」

「まて、意味がわからんぞ」

「宿題だな」

 そう言うと孝道は、立ち上がる。
なんだそれは。言おうとしたが、孝道の視線がそれを黙らせてきた。
 理不尽な男だ。

「どうしても、知りたいなら宮原の所にでもいけばいい。少なくとも、卿なら教えてくれるだろうよ」

「……へいへい」

「まぁ、また仕事については後でだ」

 孝道が、今度は普通に、微笑んだ。

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最終更新:2009年08月15日 16:57
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