欧州からこの創尾市にやってきたのは、長期の雨が降る季節だった。日本は四季がはっきりと感じ取れる土地であり、比較的冷たい気候に慣れていたその人物にとっては、肌にまとわりつく水気は不快感よりも先に関心が向いた。
その人物の格好は、手にした現代風のキャスター付のボストンバックと開いている雨傘がなければ、中世の時代から迷い込んできたと思われても不思議ではない時代錯誤なものだった。ゴシック調のフリルとレースがふんだんにあしらわれたドレスに、白百合の造詣の飾りをあしらったヘッドドレス。これらは白を基準とした色合いで構成されている。雨によって霞んだ視界の中でも砂金を溶かし込んだような、ほのかに輝く尻あたりまで届くウェーブのかかったウルトラロングヘアはその存在感をかもし出している。その肌は陶磁器のように滑らかな色白で、彼女の容姿は人形のように整っている。ただ、人形とは思わせない瞳の輝きは生気と神秘性を両立させていた。さながら春の湖面を想起させる碧眼だ。
創尾市に通る交通機関からでてきた彼女はそっと郊外のほうへと歩みを進めていた。少なくない街の住人は見かけづらい容姿を持った彼女を目線で追い、その美しさにため息を吐く。露にぬれたカサブランカの色香のごとく艶やかな彼女に、いろいろな妄想を掻き立てられるのだった。文字通りの物語から飛び出てきた姫のような存在は、何を目的にこの地にやってきたのだろうか、と。
一方の本人はというと、ここに来た目的を脳裏に想起していた。
極東で行われた創尾連続女性殺人事件。血を抜かれて殺害された痕跡から、巷では吸血鬼事件として取り扱われているのだが、実際は文字通り吸血鬼がおこなった犯行であるという情報を得たのだ。ほぼ同時期に創尾市にて放浪していたとある高名な吸血鬼が出現したともいう未確認情報もある。もしも彼女が追いかけている対象が犯人であったのならば……と、降り注ぐ雨をにらむように目を細めた。その先には、郊外へと続く道が山のほうに続いている。
彼女こと、
ヒルデガルド・エーデルシュタインは対魔師……吸血鬼を始めとした人でない存在や超人といった人で無くなった存在を狩る殺し屋である。欧州ではキリスト教系列の異端狩り専門の神父やシスターがその役割をになってたり、ヒルデガルドのようにフリーで政府や企業から仕事を請け負うことで、人の世に仇する人外に対しての抑止力を担っている。中には人でない存在そのものが悪だと断ずる極端な考え方をする人もいるが、彼女の場合はそう考えない。人にだって犯罪を犯すのだし、人でなかったとしても、温かい心を持っているヒトもいる。
彼女の探す存在もまた、ヒルデガルドが知っている心を持ったヒト。
郊外に向かうと、雨でぼやけながらもなだらかな斜面にそびえる洋館が見えてくる。おおよそ2階建ての大きめの建造物には、古き良き伝統の中にところどころ文明の気配を漂わせる。そこに露にぬれた植物が発する青々しい、自然の香りが満ち溢れる。
館の隣に併設された車庫に、買出しに用いるだろう乗用車は日本製、玄関にはドアノッカーではなくインターホンが木製の扉の横に備わっていた。インターホンのボタンを押してから数秒後に、中から赤い瞳に蜂蜜色の頭髪を白いフリル付キャップで纏めたお仕着せの女性が玄関から顔を出した。膝下まで届き、袖もまたしっかりとボタンで留めれる黒いワンピースに仕事の邪魔にならない程度のフリルとレースのあしらわれたエプロンという格好をした彼女は、この館に勤めているメイドの一人だ。
背筋がしっかりと伸びた、清楚で瀟洒な雰囲気を持ったメイドが微笑を浮かべて、
「ようこそいらっしゃいましたエーデルシュタイン様。我が主がお待ちです」
★
館の一階に存在する応接室に招かれたヒルデガルドを、紅茶と甘いジャムのついたスコーンの香ばしい香りが出迎えた。黒い燕尾服を綺麗に着こなした青年が淹れたての紅茶をソファーに座りながら優雅に楽しんでいる。ヒルデガルドを案内したメイドは一礼すると部屋からでていった。日本人のような黒い瞳に髪を有するが、顔の造詣は西洋人のものだが中性的で、色白というよりやや病じみた白の肌は首や顔以外は服や手袋によって隠されている。服装や格好次第では男性とも、女性とも捉えることができる容姿だ。
「久しいねヒルデガルド」
「元気そうだね。シャーテン」
中性的な声には親しみが込められている。座りなよと席を勧められたヒルデガルドは着席した。その仕草は洗練されていて、貴婦人か王侯の女性だといわれれば納得できそうなほど様になっている。ソーサラーにカップを載せたシャーテンは苦笑しつつヒルデガルドを見つめた。
「まあ、君が来た理由は凡そ察しているよ。この創尾市で発生した殺人事件についてだね」
「うん」
「あれば僕じゃないさ。といっても信じてくれるのは君ぐらいだろうけどね」
そうね、とヒルデガルドは欧州で初めてシャーテンと出会った時の、彼からの言葉を思い出していた。礼服を着こなした美青年という姿をした彼は、まだ対魔師としては新人だったヒルデガルドに出会って早々、まるでダンスを誘うような様子で、
──そこのお嬢さん。僕に血を分けてくれないだろうか?
と低姿勢に頼み込んできたのだった。
「──貴方はそう。対魔師といった裏の関係者以外を巻き込まないし、同意を得た人からしか吸わない。それに……」
「いやいいよ、恥ずかしってば」
これ以上言わせるとどうなるか、とシャーテンは中断させる。病的な白が赤からもとに戻るのと同時に、真剣な眼差しを浮かべている。ヒルデガルドもまた、きりっと表情を引き締める。
「──心当たりがないわけではないさ。僕と同時期にやってきた大陸出身の吸血鬼がこの地にいるんだよ」
「同じ街に……複数の?」
ヒルデガルドの抱く常識では普通考えられないことだった。怪奇が出没するようになれば人に察知されることになる。現にこうしてヒルデガルドといった対魔師がやってくるのがいい例だ。頭の働く存在なら、まず巻き添えを嫌ってこの地に近づかないに違いない。
「驚いただろ? それだけじゃないんだ。……なんとこの地には日本の妖怪やら、自動人形、さらには宇宙からの来訪者までいるということさ! ビルぐらいの光り輝く人や、カートゥーンでしかでてこないようなロボットまで! いやぁすごいね」
子供が自慢話を披露するように得意げに、ややオーバーなアクションを交えながら、本当に楽しげに語る。事実、彼は楽しいのかもしれない。今までの彼の常識を崩してしまいそうな、面白い街にたどり着けたということに。こうして陽気にしゃべる様子をただ圧倒され気味に聞くに徹していたヒルデガルドは、ぎこちない頷きを返すだけで精一杯だった。
「とまぁ。きっとこの土地は人成らざる者にとって住み心地がいいんだろうね。けどその分悪い連中も来やすいわけだ。
そろそろ、動かないといけないかなと思ってたところに、君が来てくれた」
「シャーテンが動くと、面倒になるからね」
「正式に貴族返上したんだけどね。未だに僕は火種扱いだよ」
肩をすくめながら、話題を変えることにした。
ヒルデガルドが懸念していたことは杞憂に終わりそうで、その分気持ちも軽くなるのは当然だ。誰しも好き好んで友人に危害を加えることは良しとしないのだ。
手ごろな話題がないものかとめぐらした先に、見慣れない小冊子があった。ヒルデガルドの目線がソレに注がれたのをみて、シャーテンはやばっと明らかに動揺の色を露にしていた。薄っぺらいにかかわらず、A4用紙の大きさのそれは。
「これは?」
「あー、そのあれだよ。この国の文化さ」
「18? それに、いかがわしい表紙……、ねぇ、シャーテン」
「……ナンデスカ?」
「スケベ」
ぺらりとページを捲りながら、ヒルデガルドは不気味な笑顔を見せながら、言葉の杭で眼前の吸血鬼の心臓を穿った。
★
結局のところ夕食を頂いてから帰路にたったヒルデガルドは、都市部のほうに戻ろうと歩いていた。雨は上がっており、夜空には僅かに梅雨の雲の名残を?き分けるように輝く月。その光は郊外と都市部へと続く道を照らし出している。そんな人気の少ない場において、ヒルデガルドは背筋にピリピリとしたものが走るのを感じ取っていた。
「こんばんは。旅のお嬢さん」
「……こんばんは」
後ろを振り返りながら、蜃気楼のように前触れもなく現れた彼を見据える。黒いコートを着込み、帽子を目深に被るという出で立ちの美丈夫。一見すれば背が高く肩幅も広い、けれど優男のようでもある容姿。若いのに見事な銀色の頭髪をした彼のことを、聞く人にすれば二十代とも三十代とも、はたまた四十代と答えるかもしれない。総じて言えば温和な紳士という表現がしっくりきそうな姿形をしていた。女心をくすぐる甘い声色に美男子といえる顔つき。仮に暗い夜道を送って差し上げようといわれれば是非と答えそうな雰囲気だった。
その瞳には妖しい光が爛々と輝いていることを知らずに乗せられれば……きっとヒルデガルドは哀れな犠牲者になっていただろう。
「今日は月が美しい。まるで君のように──」
「それで、私の血が欲しいの? ウィルフレッド・モリアーティー」
何気ないように告げられた言葉に、温和な笑みを獰猛な肉食獣のソレに変えた彼は赤い瞳の輝きを隠さずに、近くの木の枝まで跳躍ではなく……浮遊によって移動した。映画のセットでワイヤーを用いた演技ではない。彼自身の能力でソレを成したのだ。
明らかに人間ではない──彼もまた、吸血鬼なのだ。
ウィルフレッド・モリアーティー。彼もまた大陸出身の吸血鬼であり、シャーテンから伝えられた他の吸血鬼の一人だ。そして今回の事件の犯人であるとも。
「成程、君は対魔師なのか。やれやれ、折角私は存分に楽しんでいたというのに水を注さないでくれないかね」
「そういうわけにいかない。貴方のような存在は、野放しにできない」
「ばれてしまったからにはしょうがないな。では君の血を啜り、恐怖と彷彿に歪ませてやろう」
高笑いと共に自分の体を霧と変ずるウィルフレッド。彼は吸血鬼としてはまさにオーソドックスな能力を有している。大抵の人間が考える、吸血鬼の特徴をほぼ完備した彼の能力は実に多彩だ。
一方のヒルデガルドは懐から小さな金属製のアクセサリーを取り出す。鍵を模したそれを虚空に突き刺し、回すことで……空間に波紋が広がっていく。そこに迷わず右腕を突っ込んだヒルデガルドは、ソレを掴んで引きずり出す。
全長は1メートルと80センチ。彼女の身長より長く、シャープな印象を与える槍だった。その先端には冷たい輝きを放つ刃が付属していた。
霧から戻ったウィルフレッドが、指先をそろえて手刀として突き出す。人外の膂力を乗せたソレの鋭さは、掠った頭髪が音もなく数本散っていくほどで、柔らかなヒルデガルドの肌はたやすく貫かれるだろうことは容易に想像できた。故に彼女はゴシックドレスを翻しての回避に専念する。ただ攻撃を受け流すだけでなく──攻撃途中で体勢の崩れた一瞬を狙ったなぎ払いを繰り出した。霧のする隙を与えず放たれた一閃に本能の危機を予感したウィルフレッドは大きく飛び下がり……掠った腕を激痛が走るのを悟った。傷は切られただけにあるはずが、その傷跡は火傷のように爛れていた。
「銀の槍だと……!」
吸血鬼は銀に弱い。対魔に携わる者であれば誰しも知ることで、一般人ですらフィクションを通じてしっているぐらいに有名な話だ。それ故に対魔師の装備は銀である……中には銀の弾丸を撃ち込む人もいるぐらいだ。ウィルフレッドは顔を憤怒に歪ませて、眷属たる蝙蝠を召喚した。数百もの黒い翼を持った獣がヒルデガルドのほうに殺到していく。
「よくも私に銀の刃など向けてくれたな小娘ぇ!」
「くッ!」
銀の槍を振るうことで数匹を叩き落すが、焼け石に水だった。瞬く間に白いドレスが黒く染まったかのように集られ、牙や鉤爪による攻撃に防御をとらざるを得ない。そこに背後から霧を経由して出現したウィルフレッドの手が、彼女の槍を持つ右手首と首を掴んだ。すさまじい握力と筋力とで槍を封じられ、首に掛かる手を退けようと左手で掴むが、振りほどけない。
「はぁぁ……」
ヒルデガルドの首を横に仰け反らすと、べろりと白く綺麗な項を舐め上げる。粘着質な唾液が肌を滑る感触に彼女は悲鳴を上げかける。ここから先は容易に想像ができた。彼は彼女の血を吸おうとしているのだ。背後でほくそ笑むウィルフレッドの犬歯が一際大きくなる。
「無駄だ」
「あぁっ、あっ……」
鋭い牙が柔肌へと食い込み、一瞬の苦痛と同時に迫る快楽の怒涛の波は、ヒルデガルドの体から力みを奪う。内股になった足は生まれたばかりの小鹿のように震え、振りほどこうとする手に宿る力は些細なものとなる。噛まれた相手から血を吸う際、送り込まれる唾液には、神経を麻痺させるのと同時に快楽を与えるものが含まれている。噛まれただけで、痺れと浮遊感に似た彷彿とで被害者は抵抗できずに吸われるだけになるのだ。
どく、どくと吸い上げられていく命。無理やり与えられる快楽の熱に彼女の肌は上気する。こぼれる吐息は熱くて、艶やかだ。
勝負は決したとばかりに彼女の血の味を堪能するウィルフレッドの顔に、唯一自由だった左手が、力なさげに乗せて、
──太陽と錯覚するほどの、まばゆい光が閃く。
彼女の放ったのは、秘術だ。あるいは奇跡と呼ばれる神秘だった。人が人でない存在と渡り合うために開発された術の一つがこれだった。僅か一瞬とはいえ、太陽の光とほぼ同質の輝きを放つ秘術。それは吸血鬼にとっての劇薬だ。衣服によって日差しを遮ることはできても……肌に直接押し当てられれば防ぐことは適わない。
「ギャァァァ!?」
「油断大敵、だよ?」
顔面を人工の陽光で大火傷を負わされ、思わず両手で顔を覆うウィルフレッドが、その指の隙間から見た光景は。銀の槍を自らの心臓を貫いているものだった。心臓を銀の武器で抉れば、再生も適わず灰となって散っていく。
「……」
しかし突き刺した槍の手ごたえに、ヒルデガルドは顔を顰めた。ソレを証明するように、己の心臓を刺されているのに関わらずに吸血鬼は嗤う。嗤う間にも、体は灰になっているにも関わらずだ。それは圧倒的に有利な立場からくる余裕に他ならない。
「残念だな。──この体は分身だ」
「そうみたい」
「いずれ決着をつけよう……この借りは必ず返すぞ」
灰が飛び散った後に残ったのは、干乾びた女性と思しき人の成れの果てだ。仮初の体に自分を重ね、自らの血を用いて生み出した分身体。本当の彼はどこかに潜んでいるのだろう……安全な場所で。犠牲者を効率よく非道の術だ。
「……」
残された彼女の次の行動は、名も知らない彼女の為に墓を作ることだった。
★
それから1ヵ月後。
創尾市の一角に新しいゴシック調の趣の喫茶店ができた。店名は『Weiβ Lilie』という。
ドイツからやって来たと言うゴシックドレスの店主が振舞う紅茶は本物で、いっしょに出されるケーキもまた絶品だという。
最終更新:2011年09月18日 21:52