「先輩、こんばんは」
「……………」

挨拶をしても先輩から返事が無いのはいつものことなので、特に気にしない。
自分が通う高校の、それも真冬の屋上なんかに夜遅く足を運ぶのは、ひとえに
先輩に会いたいがためだ。

「……………」
「……………」

そうして、いつもの沈黙が訪れる。
手すりにもたれて夜空を眺める僕と、少し離れた場所で街を見下ろす先輩。
別に先輩は、僕の部活の先輩というわけでもない。この学校の数年前の制服
を身にまとっていることから推測して、僕が勝手に「先輩」と呼んでいるだけだ。
こんな奇妙な状況になったのは、友達が話してくれた噂話がきっかけだった。
彼曰く

  • 屋上に幽霊が出る
  • 時間は夜9時~深夜0時くらい?
  • 女の子
  • 制服はデザイン変更前のもの
  • 屋上から飛び降りた? 

まあ、どこの学校にもありそうな噂話ではある。興味の薄い反応を示した僕に
「お前確かめてみ?」と薦めたのも彼だった。その理由は良く分かる。
僕の家は、学校から見て県道を一本挟んだ向かい側。家の玄関から校門までの直線距離、わずか80m。
「遅刻が許されない男」という異名を持つほど家が近いのだから。

「…………星、綺麗ですね」
「……………」



それでも、実際に確かめようとしてこうなったわけでもない。
ある夜、試験勉強の合間に新鮮な空気が吸いたくなって、窓を開けて学校の方角に深呼吸。
その時見えたのだ。屋上に佇む、夏服を着た女の子の姿が。暗闇の中に鮮明な白さで。


それからの行動は迅速だった。好奇心半分、怖いもの見たさ半分で家を出て、学校に向かう。
校舎裏手のフェンスを越えて非常階段を昇っていく。いまいち警備体制の甘い我が校は
各所が老朽化しており、その修繕も先延ばしになっている。
かくして鍵の壊れた扉は施錠されることもなく、屋上への道のりは容易く開けているというわけだ。
扉を静かに開けて、暗い屋上を見渡す。たしかあの人影は、給水塔近くに――
「いた………」

季節は冬。ダウンジャケットを着ていてすら冷気を感じるというのに、その影ははたして夏服だった。
ゆっくりと近づいていくにつれ、その姿がより鮮明になっていく。折れそうに細い体躯、脱色も染色も
していない黒髪はさっぱりとショートにまとめられ、清潔感がある。年は………僕より少し上だろう。

「…………?」
「……………あ、えーと…」

距離が5メートルをきったあたりで、街を眺めていた彼女がゆっくりこちらを向いた。
血が出ているわけでも顔がザクロのように割れているわけでもない。綺麗な顔だった。
どこか夢を見ているような瞳が、僕をじっと見据える。なんだか値踏みされている気分になる。

「……………こんばんわ」
「……………」

挨拶は返ってこない。彼女はただじっと僕を見て、やがてまた視線を街の方角へむける。
ホラー映画の霊のように生者への害意はなさそうだが、少なくとも歓迎はされなかったらしい。
彼女の白い横顔を眺める。澄んだ真冬の空気に劣らない透明感がある。



「あの……先輩、って呼んでいいですか?」
「……………」

それでもこちらの声は届いているようで、彼女がもう一度こちらを向く。
先ほどよりは長い時間僕を見つめて、また視線を戻す。勝手にしろ、と言わんばかりの素っ気無さだ。
だから僕は
「じゃあ、勝手に先輩って呼びますね」

勝手にして、いまだに勝手にそう呼び続けているというわけだ。


足しげく屋上に通ううち、無表情で無口な先輩からも少しずつ反応を引き出すことが出来るようになった。
相変わらず声は聞けないが、僅かな表情の動きや仕草が言葉代わりだ。
その日学校であったことを話している最中、先を促すように視線を向けてきたり。
最近の携帯の話が良く分からないらしく、小首をかしげてみたり。
先輩自身のことを聞こうとすると、気分を害したようにぷいっと顔をそらしてしまったり。
つまり、なんというか・・・。

―――先輩は可愛かった。

その後も、僕の学校においての日常は、多くの人がそうであるように特にエキサイティングでも
ドラマチックでもなかった。試験前に一夜漬け、友達との馬鹿なやりとり、気になる女の子と
ちょっといい雰囲気になったり、その子に彼氏が出来てガッカリしたり、ありふれた日常が巡っていく。
それなりに楽しくて、すこしだけ退屈な日々。

「……だから、この非日常が凄く大切だったような気がする」
「……………」

星の降ってきそうな屋上で、先輩にそう言った。僕が先輩と初めて遭遇してから約二年。
さすがに毎日会いにこれたわけではないにせよ、これだけ長い期間幽霊を目撃し続けた人間はいるのだろうか、
と考えて少し可笑しくなる。

「今日が卒業式だったから、きちんと挨拶しなきゃと思って」
「……………」
「先輩、いい思い出をありがとうございました」
「……………」

結局僕は、先輩について何も知らないままだった。彼女が誰で、何故ここにいるのか。
知りたい気持ちが無かったと言えば嘘になる。でも、雑多な噂や伝聞で先輩を決め付けるのは嫌だった。
長い期間、僕の愚痴や他愛も無い話をただ静かに受け止めてくれた、綺麗で可愛い先輩。それで充分だ。
今夜、僕ははわざわざ制服に身を包んでここに来た。先輩に、僕のキチンとした姿も見て欲しかったから。

「……多分、もうここには来ません。
 もし僕みたいなのがまた来たら、そいつの話も聞いてあげてくださいね」
「…………」
「それじゃ、さようなら先輩」
「…………」

別れを告げると、不意に先輩が動いた。ゆっくりと僕に歩み寄り至近で止まる。
それはほとんどキスのできる距離だ。幽霊も生者も関係無く僕の胸が激しく高鳴る。
これは――期待していいのだろうか?

「………先輩」
「……………」

距離が、更に詰まる。僕の制服の胸に先輩の細い指が触れて――

「あ、あれっ? 先輩?」

そのまま先輩が消えた。陽炎みたいに、消えた。

「……………えっ?」

状況が飲み込めない。消える寸前の先輩の表情を思い出す。
いつも通りの無表情。その顔の中、黒目がちな瞳だけが先輩に似つかわしくなく笑っていて。

「………なんだったんだろ」

首を捻りながら屋上を後にする。何を考えているのか分からない人だったが、今夜の先輩は特に謎だ。
一人になると急に寒さが堪えてきて、コートの前を締めようと目線を下げる。
そこに答えがあった。

「あれっ?」

制服のボタンが、一つだけ無くなっている。悲しいことに全て揃っていたはずのボタンが。
そこは消える寸前の先輩が手を添えていた箇所で。

「………言ってくれればいいじゃん。なんなら全部あげたのに」

頬が緩むのを止められないまま、僕は呟いた。
最終更新:2007年08月15日 03:17