小学校低学年くらいの年代だと、総じて女子のほうが発育は早くなる。
私と、幼稚園時代からの幼馴染である晃子は、たった2週間ほどしか
誕生日が変わらないにも関わらず、小学校3年当時で私が見上げるほどに
身長差がついてしまっていた。
もとより、私はクラスでも前から数えたほうが早いくらいのチビだったし、
活発に運動をこなす晃子と比べて屋内で本を読んだりすることのほうが
好きだった私とでは、そうした違いが生まれても仕方がなかったのかもしれない。
晃子はそんな私を「ジジむさい」「女々しい」「それでも男かよ」と
散々にバカにしてくれた。少なからず男子としてコンプレックスを抱えていた
私は、よくある幼馴染への恋心などは全く持つことなく、むしろ苦手意識を
感じるほどであった。
おとなしい性質の私であったが、それでも晃子に本当にキレた事がある。
読んでいた本を取られてからかわれたとか、今にして思えば本当に些細なきっかけだった。
本気になって殴りかかる私に、最初は笑っていた晃子も表情を変えた。
でも、悲しいぐらいに運動能力に違いがあった。
腕を振り回すだけの私は簡単にいなされ、周りは「もっとやれ~」と囃し立てる。
惨めだった、自分は男なのに、なんでコイツに勝てないんだろう。
「いい加減にっ……」と晃子が右足を軽く振るった。
彼女のハイ・キックは見事に私の顔面を捕らえた。そこまでは覚えている。
なにせ今でもぬぐえないトラウマなのだから忘れようがない。
今も悔しく思うのは、彼女にとってそれはハイ・キックではなく
ミドルくらいの感覚だったのだろうということだ。
私はそれから一念発起し、牛乳を飲み、魚を骨まで食べることにし、運動も始めた。
いつかあいつに一泡吹かせてやるんだ。もっと大きくなりたい。
まさに子供っぽい動機だったとは思う。
……でも、晃子に「一泡吹かせる」機会は二度とこなかった。
その年の夏、晃子はあっけなく死んでしまったからだ。
家の近くの道路は狭いにも関わらず、トラック運転手の抜け道になっていたようで
さんざ危険視されてきたのだが、晃子もそれの犠牲者になってしまったのだ。
そのときの感情がどういうものだったのか、今はよく思い出せない。
ずっと目の上のタンコブだった晃子がいなくなったことは、けっして嬉しくなかった。
いつも私は晃子を見上げていたから、うつむいているよりも、見上げればそこに晃子が
いるのではないか。私にとって晃子は憎らしい奴だったが、それよりも自分にとっての
目標であったり、超えたい壁であったり、そんな対象だったのかもしれない。
だから、あれから20年以上経過した今でも、私は上を向いて歩いていられる。
晃子が死んだときに、そう決めたことを守っているからだ。
『いつも本ばっかり読んで下を向いてるとね、猫背になって背が伸びないんだよ』
そんな風にからかわれたことが、今でもなんとなく思い出せる。
「良クンも大きくなったねえ」
そういって麦茶を出してくれたのは晃子のお母さんだ。
私は久しぶりに故郷に戻ってきていた。少ない盆休みを利用して帰省したはいいが、
これといってやることがない。
暇をもてあましてパチンコでもやりに行くかと思って家を出たら、ばったりと
遭遇してしまい、こうして家まで連れ込まれたといういきさつだ。
晃子の家に入るのは、なんだかノスタルジックな感覚があった。
自分の家も含めて、このあたりの町並みもあまり変化がない。
開発に目が向くような地域でもなく、近所の顔ぶれもあまり変わらない。
私は中学から全寮制の私立に進学し、大学、社会人と東京で暮らしていた
事もあって、まるで私だけが変に大きくなってしまっただけなのではないかという
錯覚をするくらいだった。
晃子の家の柱の傷も昔のままだ。
私の傷の15センチほど上にあるのが晃子のものだ。
今では、そのどちらも並んで比べなくてもわかるくらい低い位置にある。
その傷を感慨深げに眺めていることを気づかれたのか、晃子のお母さんは
しみじみと話し出した。
「ねえ良クン、晃子はずっと良クンのことが好きだったと思うのよね……」
『そんなことは』
私はいいかけたが、それはなんとなく今ではわかっていた。
「晃子はほら、背が大きくてお転婆で。でも良クンはあの頃はチビスケ
だったからね。」
「……そうですね、僕はどんどん置いて行かれるような気がして、嫌だったです。」
「晃子は、そんな自分がすごく嫌だったみたい。あの子ももっと女の子らしいことも
したかったでしょうに、そんなのが似合わない自分を嫌っていたわ。」
「はあ……」
晃子のお母さんも、変に悲しみを宿すようなことはない。
晃子のことは過ぎたこと。今は私と同じように、心の中にある
彼女のことを振り返っているのだろう。
「だからこそ、好きな良クンが小さいのがもっと嫌だったんでしょうね……
ふふ、思い出しちゃった。」
そういって晃子のお母さんは、下駄箱からなにやら箱を取り出してきた。
「あの夏、晃子は良クンを誘ってお祭りに行きたがってたのよね。
でも、足の高いのを履くと、もっと差が出ちゃうからって、
結局買ってあげたこれを履いてくれなかったわ。浴衣も着ないって。
せっかく揃えてあげたのにねえ……」
見せてくれたポックリは今でも真新しく、誰かが履いてくれるのを待っているかのようだった。
家をおいとました時には、もうすでに夕暮れになっていた。
道のあちらこちらには浴衣をきた人が歩いている。
そうか、今日がそのお祭りの日なんだ。
晃子が着るはずだった浴衣はどんなのだろう?
手を合わせた仏壇に飾られた晃子の遺影は、思い出にあるような
憎らしさはなく、とても幼く、可愛らしく思えた。
彼女がもし、もっと小さかったら?
いや、私がもっと大きかったら?
浴衣を着た晃子とこの道を、神社に向かって歩くようなこともあったかもしれない。
20年前のifは、決して形よくは頭に浮かばなかった。
そんなことを考えていたからだろう。
私は不意に視界に入ったヘッドライトにハッとした。
そう、この晃子が轢かれた道だって昔のまま。
トラックの鳴らすクラクションがなぜか遠く感じられるような気がした。
そのとき、私は背中を蹴られた。
決して強くはないが、呆然としている私を道端に転がすには十分な力で。
つんのめって転がった私の横を、数台の列を成したトラックが走り去っていく。
その、車列の隙間から見える向こう端に、彼女は立っていた。
決して見ることはなかった紫陽花の花のかかれた浴衣を着て。
彼女は私を見下ろしている。怒っている。
『何をボーっとしてるんだか』
『顔を上げて歩けって、いつも言ってたはずなのに』
そんなことを言っているのが、声も聞こえないのになぜだかわかった。
4台目のトラックが走りぬけたとき、そこには誰もいなかった。
ただ、私の背中にはじんわりと蹴られた感覚だけが残っている。
その痛さは、なぜだかとてもやさしく感じられる。
『そこまでしか届かなくなっちゃった』
『……おっきくなったね、りょう』
懐かしい声、ずっと聞きたかった言葉。
見回しても、やっぱり近くには誰もいない。
ただどこかで からん と
ポックリが鳴らす音だけがかすかに聞こえた気がした。
最終更新:2007年08月30日 17:04