ぼんやりと天井を眺めながら、はたしてあの人は幸福だっただろうか、と考えてみた。
23歳で結婚。そのわずか一年後に旦那さんは職場の事故で死亡。二人の間に子供は無く、
以来再婚することも考えていないかのように仕事の鬼と化した、バリバリのキャリアウーマン。
敏腕故に多くの部下を持つようになったやり手の女課長は、出張先で交通事故に巻き込まれ――

「………なーに呆けてるかね、この子は」

――現在は俺の上空で呆れ顔をしている。
享年32歳。近所に住む伯父の娘さんで、つまりは俺の従姉である。

「佳織さん、頭上に居られると凄く気になるんだけど……」
「男が小さなこと気にするもんじゃないの」
「…………」

初七日の法要後自室に戻ると、死んだはずの従姉がソファーでくつろいでいた時の衝撃は忘れがたい。
ドアを開けたままの姿勢で固まる俺に対して、にんまりとした笑みを浮かべながら
「ありゃ。よし坊には私が見えるんだね」と事も無げに言い放ったのがつい三日前。

「……ヘンなことになっちゃったよなあ」
「そんなことより勉強でもしなさい、このグータラ学生。前期試験そろそろじゃないの?」

以来、彼女はこの部屋を拠点として悠々自適のゴーストライフを満喫している。

「少しは部屋片付けたらどうなの? あーあー、洋服も脱ぎ散らかしっぱなしで」
「母さんみたいなこと言わないでくれよ……」
「言われる前にさっさと片付ける! ほら!」
「はいはい」
「はい、は一度で結構。……怒るよ?」
「……はい」

母に言われた時よりは素直に部屋の片付けを始める。
なんだかんだ言いつつも生前から頭の上がらなかった相手である。
実年齢より随分と若く見える佳織さんは、幼い頃には年の離れた姉のような存在として。
その後思春期を迎え、彼女がそこらを探しても滅多に見かけない美人だと気付いてからは
仄かな憧れの対象として俺の精神野に君臨していた。

「キチンと綺麗になさいよ? 私はその間、よし坊のマニアックな性癖を検分してるから」
「うわああああああああっ!!?? そ、その本どこから引っ張り出してきたんだよっ!!!」
ベッドの下なんていうベタな隠し場所は避けなさい。……うわー、このモデルめっさ縛られてる」
「返せっ! 返せよーっ!!」
「小さい頃はあんなに可愛かったよし坊が、今やこんな淫獣に……」
「それ以上言ったら泣くぞっ! ホントに泣くからなっ!」 

彼女の行動拠点が俺の部屋、という弊害は日々顕著になっていく。
ああ……この人にだけは知られたくなかった俺の恥部が次々と……。 
ライブ○アじゃあるまいし、これ以上株を下げるわけには………!

「……アンタのパソコン起動して jpg.ram.mpeg.wmv.avi.あたりで検索かけてみたいわねえ」

底値になる。そんなことしたら。

霊となった佳織さんは、時折どこかに出かけていく。
それは例えば自分の勤務していた会社であったり、親しい友人の家であったり。

「うん。まあどうにか仕事は順調にいってるみたいで良かった」
「見えないと分かってはいるんだけどね。『心配しないでね』って伝えたくてさ」

ふわふわと漂いながらてへへ、といった感じの笑いと共にそんなことを話す
佳織さんの姿は、俺の目には新鮮だった。
小さい頃はともかく、ここ数年はどこか近寄りがたい雰囲気を発していた彼女の姿しか
記憶に無いからだ。わけても旦那さんを亡くした直後の佳織さんは――

「なんか……懐かしいな」
「ん? 何が?」
「いや、肩の力が抜けた佳織さんを見るのって久しぶりな気がするから」
「あっはっは。まあ、死んだ後までせかせかしても仕方ないしねえ」
「……まだしばらくはここに居るの?」
「どうなんだか。霊の決まりごとってのは良く知らないけど、まだ御呼びがかからないみたい」
「ふーん」

こんな風に気軽には話せなかった。
ふと、八年前に旦那さんの葬儀に参列した日のことを思い出す。
初恋の相手だった佳織さんを“奪われた”ように感じていた馬鹿餓鬼の俺は、
死者を悼む気持ちなど申し訳程度にしか持ち合わせておらず、むしろ残された
佳織さんのことだけが気がかりだった。父や母と一緒に見よう見まねの焼香を
済ませ、遺族に一礼する。

その時に見たのだ。佳織さんの目を。

機械的に返礼する佳織さんの目には何も映っていなかった。
いつも生気に溢れていた大きな瞳は、ガラス玉を思わせる無機質さで俺の姿を反射していた。
一体どれだけ泣いたのだろう? 化粧でも隠せないほど腫れた瞼、ひび割れた唇。
死人よりもっと死んでいるように見える佳織さんが、そこに立っていた。


「……どうしたの? なんだか思いつめた顔しちゃって」
「い、いや……なんでもないよ」

それから、この人はどこか捨て鉢とも思えるひたむきさで仕事に取り組んでいき
偶に顔を合わせてもろくに話をすることも無かった。
それを寂しいと思う反面、彼女のあんな顔を見続けるよりは余程いい、と
自分を誤魔化して等閑な付き合いをしてきた。
だが、今にして考えると……

「……俺って馬鹿な餓鬼だなあ、と思ってさ」
「なにそれ。今更だね?」
「少しはフォローが欲しい……」
「私、自己憐憫に浸るような気持ち悪い男は嫌いだから」
「……ごもっともです、ハイ」
「そこで言い返せないような腑抜けも嫌い」
「どうしろとっ!?」

カラカラと笑う佳織さんといつまでこうしていられるかは分からないけど。
大事なものは無くしてから気付く、なんていう陳腐なフレーズがやけに胸に刺さる。

佳織さんは暇に飽かせてどこにでも現れる。
大学の講義中に、いつのまにか隣席に座っていたときは心底驚いた。
彼女曰く「授業参観w」だそうだが、試験前に必死でノートの貸し借りをする程度には
不真面目な学生である俺の姿勢に佳織さんはいたく御立腹の様子。

「よし坊……あんたね、御両親が高い学費払ってんのにその態度は何?」
「わ、悪かったから……うん、今後はちゃんとするから……」
「あんた昔っからそーだったでしょ! 
 算数のドリル全然終わってなくて私に泣きついてきた頃から全然進歩が無い!!」
「はい、その節はお世話に……」
「真・面・目・に・聞・け……このボンクラ学生が!」
「sir! yes sir!!」

鬼軍曹と化した佳織さんにガン付けられながら板書に精を出す。
遠い昔の夏休みにもこんなことがあったなあ、と不似合いな感傷に浸りながら。

「ニヤけてんじゃないわよ! ほら、次の講義は!?」
「……全部付き添うつもりかよ」

だから、こんなのも楽しいな、とそう思った。

「よし坊、ちょっとこれからデートしようか?」

四十九日の法要が終わったその夜、佳織さんが出し抜けにとんでもないことを言った。
鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で宙を見上げる俺に構わず、彼女はさっさと部屋を出ていく。
訳も分からず上着を着込み、慌てて玄関へ。訝しげな顔の母に「ちょっとコンビ二行ってくる」と
言い訳をしてドアを開けると――

――そこは異世界だった。

時刻は確かに夜10時をまわっていた筈だ。ならば、この穏やかに降りそそぐ陽光は何だ?
季節はまだ冬だった筈だ。だったら、この辺り一面満開の桜並木は一体どういうことだ?
理不尽で非現実的で……とても美しい光景が広がっている。
ぽかんと口を開ける俺の耳に、背後から馴染み深い声が少し違ったトーンで響いた。

「私も知らなかったんだけど……気が利いてるね。
 ここさ……いつだったか、結婚前にあの人と歩いた道だよ。うん……記憶と同じ」
「佳織さん…………だよね?」
「あははっ、いかにも。どうやら『一番気に入ってる記憶』が迎えに来てくれたみたいね」
「……………」

振り向いた先にいたのは、確かに俺の知っている佳織さんだ。
――ただし、10年近く前の。俺と殆ど変わらない年齢の彼女がそこにいた。
まじまじと無遠慮な視線を送る俺に、恥じらうような表情を見せている。

「なによ。なんかおかしい?」
「……いや、おかしくなんか、ないけど……」
「じゃあ行こうか。この道を歩いていって、それで終わりだから」
「終わり?」
「よし坊や皆とお別れってこと」
「……そっか」

そうして、薄桃色の花びらが舞う中を二人で歩き始める。ゆっくりと、でも確実に。
右隣には眩しいものを見るように目を細める佳織さんがいて。
この時間が終わらなければいい、と未練がましく願ってしまう。

「ねえ、楽しい?」
「何が?」
「生きること。……楽しい?」
「……良くわかんないよ」

突然の問いかけは、俺みたいな餓鬼には難しすぎる質問だった。
歌うような声が続く。

「私はね、楽しかった」
「…………」
「あの人と出会って、死に別れて、自分も死んで。……それでも楽しい人生だったよ」
「…………だろうね」
「この風景がその証拠。この道はきっと、良いところに続いてる」

ああ、それは間違いないだろう。
だってこんなにも綺麗で優しい風景で。
おまけに――

「佳織さん。じゃあ、俺はここまで」
「……?」
「あとは“あの人”のエスコートでしょ? 俺はもうお呼びじゃないよ」

俺が指し示す先を見て、佳織さんが息を呑んだ。

「………っ…………」

彼女が呟いた名は、折り良く吹いた風にかき消されてよく聞こえなかった。
一際立派な桜の大樹にもたれて、彼は立っている。
佳織さんが駆け出した。彼の名を、大切な名を呼びながら駆け出した。
……少しだけ妬けるけど、まあ脇役の出番はここまでだ。

「じゃあね、佳織さん! ………さんも!!」

子供じみた嫉妬心から、一度も呼ぶことのなかった名前。彼女の夫であった、彼の名前。
寄り添った二人は同時にこちらを向いて微笑んだ。やがて、一際強い風が花霞を作り――

「……お幸せに、ってか」

冬の夜道に立ち尽くす俺。
先程の風景はそれこそ夢のように消え去り、古びた街灯がスポットライトのように
道化役の俺を照らしている。ふと、視界の隅に違和感を覚えて視線を巡らすと
右肩の上に小さな白いものが乗っていた。そっと手にとってみる。
こんな季節にあるはずもない、桜の花びらがひとひら。
家の方角を目指して歩きながら、はたしてあの人は幸福だっただろうか、と考えてみた。

――そんなの、考えるまでもない

掌中の花びらを強く握りこんで、俺は走り出した。
最終更新:2007年11月06日 18:28