今日も美しいピアノの音が校舎を駆けぬけていく。
ピアノに向かった彼は、繊細な指使いと大胆なタッチで、抜けるような透明な音を奏でている。

(トオル先輩…)

智子は、それだけをつぶやくのにもかなりの努力を必要とした。


ひとつの部屋で皆の憧れの先輩と二人きり…
この高校の女子生徒ならば、10中8人までが想い焦がれるシチュエーションだ。
しかも卒業を控えて忙しいはずの3年生と。

だが智子は他の女の子より一歩だけ進んでいるのかもしれない。
いま彼が弾いている曲も、智子が後輩の誕生日のために作曲したものなのだ。

トオルはふと、智子のほうに目をやると、椅子から立ち上がりこちらへ近づいてきた。

智子の目前まで来ると前かがみになり、そっと手を伸ばしてきた。



 ― その手は智子の体を透りぬけ、智子の背後にあった鞄を開けた。


そう、すでに智子はこの世の者ではないのだ。

二ヶ月ほど前のある日曜日、月に二度ある校外練習の日だった。
可愛がっている音楽部の後輩から、出掛けに唐突に頼まれたおつかいが、
年末でごったがえす商店街を抜けるのに予想外に手間取ってしまい、智子は自転車で道を急いでいた。
(まぁったく、なんだってのよ美香のヤツ。自分で注文したものなら自分で取りに行きなさいっつーのよね。
  …まぁでもかわいい甘えんぼのためだ、仕方ないかw)

そのかわいい後輩の美香が先生に事情を説明してくれているので特に急ぐ必要もないのだが、
根が真面目な智子には部長の自分が練習に遅れたということがプレッシャーに感じられたのだった。

(ふふふっ美香のヤツ、一緒に誕生日プレゼントを渡したら、どんな顔するんだろw)
予定より三日遅れてしまったが、美香のために精魂込めて作曲した楽譜。
体が勝手に急ぐのは、美香にそれを早く渡したいからかも知れなかった。

(この陸橋を越えたら交差点をあと三つ。左折・直進・直進で、すぐ左の建物。)
距離にして1kmとちょっと。健康で快活な智子には、たとえ全ての信号で止められたとしても15分もかからない近さだった。

その陸橋を降り、一つ目の交差点にさしかかろうとした時、
角にあるケーキ屋から小学校低学年くらいの男の子が智子の自転車めがけて飛び出してきた。
「あっっ!ごめなしゃ…」
間一髪で双方が身をかわした時、男の子はとっさに叫んだ。

「大丈夫?!気をつけて~」
接触すらしなかったし自分は急いでるしで、
男の子の無事をちらっと見やった智子は、自転車を走らせながら声をかけた。
(なによびっくりしたわね、ちゃんと周り見て歩きなさいよ!ったく…
   …でもあの子、「あっごめなしゃ」だって。ふふっかわいい♪)


左折しながらもう一度安否を気遣って振り向いたとき、進行方向から大きなクラクションが聞こえた。


校外練習場の中に入ると、もうみんな発声練習を終えて整然と並んでいた。

「(…すみませぇーん…遅刻しましたぁ…)」
誰に聞こえるかすら怪しい小声で遅刻の報告をしつつ列に並びながら、この遅刻の元凶である美香を軽く睨んだ。
(まったくぅ、美香ったら「関係ありません」みたいな顔しちゃってさ…
   …トオル先輩もムッとしてるみたぁい…落ち込みぃ~↓↓)
普段は柔和だが練習には厳しい先生の右後ろで、ピアノに向かいながら眉根をひそめているトオルの姿が見えた。
つい先日、某有名音楽大学に推薦が決まったので、ボランティアで練習に参加してくれているのだった。

ひととおり通して練習した後、先生が細かい指導をしようとしたときだった。
備え付けの黒電話がけたたましく鳴り、いままでの緊張した空気を少しほぐした。

先生が電話に出ている最中、生徒達は小声で談笑していた。
(いまどき黒電話ァ?この練習場も古っ臭~いw)
いまどきの女子高生としては至極当然の感想を抱きながら、美香の頼まれものを渡し忘れていた事に気付いた智子は
そっと列を離れ、鞄を取りに行った。
(あの楽譜も一緒に渡してあげよう―)

小さく練習するトオルのピアノの音が、どこか物悲しく聞こえたのは気のせいだったろうか?
「皆さん…今の電話は…とても重要な…お知らせでした。」
いつの間にか電話を終えた先生は、静かに、しかし毅然として皆に注意を促した。
普段と明らかに異なる雰囲気をたたえたその口調に、自然と皆が押し黙った。

自制を失わないためか、無用なショックを与えないようにとの配慮からか―
一言、一言、区切りながら、なるべく感情を抑えたようなその口調はむしろ、
尋常ならざる事態が起こったことを伝えるに充分過ぎるほどであった。

「悲しいことですが、今日…先ほど、部長の…伊吹…智子さんが、…自転車でこちらに向かっている途中に…
 トラックに撥ねられ……ッ…お亡くなりになりました……!」


体を失ったことが判ってから、ショックが和らぐまでさほど時間はかからなかった。
悲鳴や嗚咽が洩れ聞こえる練習場内で、下に弟妹を二人持つ長女の智子はいち早く自分を取り戻せていた。

(まったくこの子達ったら、あたしが居ないとホントにだらしないんだからっ。)
ショックのせいか原因と結果とを混同しながらも、持ち前の面倒見の良さで、智子は自分に出来ることを探し始めた。

だが体がないことがこんなにも不便だなんて、夢にも思わなかった。
美香の髪を撫でようとしても、先生に話しかけようとしても、実体の無い智子の努力は全て徒労に終わった。


とりあえずここには出来ることが無いと悟ると、自宅が心配になってきた。
(何もできなくてもいい、弟や妹の近くに行ってあげなきゃ)
そんな気分だった。どこかに、(肉親なら通じ合えるかな?)という考えがあったからかもしれない。


警察で面会を終えた家族に付き添うように自宅まで戻ってきた智子は、そのやりきれなさにしょげ返っていた。
頑固(石頭?)な父には期待していなかったが、理解があったと思っていた母にも、
ましてや感受性豊かとされる世代の弟妹にすら智子の存在を気付いてもらえなかったのだから。



前向きな性格、そう自分で言い切ってしまえるほど今は吹っ切れていた。

まぁ検死時の自分の「抜け殻」を見たときのその壮絶さに蘇生の望みを見出せなかったこととか、
現世の物に触れることすら出来ない、そのある種の心地よい潔さが背中を押してくれたのは幸いだった。



だが唯一心残り…というか激しく自責の念に襲われた瞬間はあった。

急な事故ゆえに二日後に行われた通夜で、美香が智子の鞄 ―事故当日にプレゼントの楽譜を入れていた― にすがり付いて
この世のものとも思えない形相で号泣していた。
(美香、みか、あんたのせいじゃないよ……
   そんなに泣かないでよ… …ほら…あんたの涙がせっかくの楽譜を…汚しちゃうじゃない……ばか…)

生前、感情が無いのじゃないかと思っていた父の涙が、当たり前だと思える幸せにも驚いた。

  ― 視界の片隅では、うつむきながら両手を固く握り締めたトオルの姿も見えた。





初雪は智子の涙を受け止めてくれなかった。


事故から一月。


自宅と学校とをなんとなく行き来する以外、特にすることも出来ることもなかったし、
智子はいつ天に召されてもいいな、と思っていた。


 ……が……四十九日を過ぎても何の変化も無かった。

(あれれ?まさか…親不孝をしたから…じ、地獄行きぃ?)
そう思って萎縮した時も度々あった。

だが悪魔とか天使とか、かつて死後の世界で会うと聞かされたどんな存在にも逢う事は無かった。

(何よ、あたしは浮遊霊になったって…コトぉ?)

そういえばたしか、強い「未練」がある人間の霊はこの世に残ってしまうとも聞いた気がする。

(あたしの未練…って……?
   …まさかッ!…トオル先…輩…っ?!)




トオルと智子とは、音楽部で双璧を成す音楽家だった。

声楽家の父・ジャズピアニストの母を持つトオルは、生まれ持っての才能と幼少からの英才教育で類稀なる楽才を発揮していた。
彼は両親の弟子に揉まれた事で、一人っ子の悪癖にあげられる傲慢さとか甘えとかは感じさせない少年だった。

ドイツ中世文学専攻の父とバレエで国体にもでた母との間に生まれた智子は、
秀でたリズム感と優れた音楽理論を身につけ、二年生ながら主に作曲・編曲、技術指導のリーダー格に成長していた。

二人は互いをライバルと認め、部活が終わった放課後に暗くなるまで討論することもザラであった。


二人とも純粋に音楽が好きなだけで、周囲の口さがない噂とは違って異性を意識する必要もなかった…

…と智子は思っていた。いや、思いたかっただけなのかも知れない。

快活で世話好きなので周りにいつも誰かがいる智子とは異なり、
トオルはその孤高を感じさせる風貌とあいまってごく少数の男子生徒としかつるまない。
彼に憧れる女子生徒は数え切れないほどいたが、彼女達は智子との関係を邪推したのか
トオルを遠くから見守るだけの様だった。
それでもトオルが一人のときに突撃する勇気のある娘たちもいた様だったが。

(あたしはトオル先輩とは、別に何にもないんだけどなー^^;)
彼女達の恋路を邪魔する気持ちが無いことを、近しい友人にも頻繁に漏らしていた。
(トオル先輩とは音楽の話しかしたことないし、第一、お互い意識したことなんてないわよw)
友人の冷やかしも大人ぶって笑い飛ばしていた。

 ……だが……


トオルが部活中に勇敢な女子生徒達に呼び出されたとき―

    智子は彼を無意識に目で追ったりしていなかったか?

クリスマスイブの美香の誕生日に送る予定だった自作曲を、放課後トオルだけに評価してもらったとき―

    それはただ美香に内緒にするためだけだったか?

放課後の二人だけの討論会中、廊下から女子生徒がトオルを待っている気配を察したとき―

    知らず感じた優越感や高揚感を、無理に音楽の情熱に昇華させようとしてはいなかったか?

何度も違う女子生徒に告白を受けているのにどうして誰とも付き合ったりしないのかと、智子が友人から聞かれた夜―

    自分の存在がそうさせているのかも…と風呂に浸かりながら照れたこともあったではないか。



混沌とする自分の感情をもてあましながら、この二週間ほどは音楽室にずっと漂っていた。

智子というよきライバルを亡くしたトオルは、もうすっかり引退して部活動には関係ないのだが、
智子の事故から毎日、結果的に智子の遺作となってしまった美香への誕生日プレゼントであるあの曲を弾いていた。

智子を頼れる副部長とも姉とも慕っていた美香は、あれだけ熱心だった部活動そのものに滅多に出なくなってしまっていた。
智子の死後、両親が智子に代わって楽譜を渡してくれていたが、
もう少し気持ちが落ち着くまで弾くことが出来ないからと、一時的にトオルに楽譜を預けたようだ。
(美香…あなたにあげたんだからずっと持ってて欲しかったな…)
智子はすこしがっかりしたが、美香の性格を考えると無理もないと思い直した。


3月3日金曜日 生徒のいない放課後―

今日も美しいピアノの音が校舎を駆けぬけていく。
ピアノに向かった彼は、繊細な指使いと大胆なタッチで、抜けるような透明な音を奏でている。

トオルは智子の背後にあった鞄から楽譜に書き込むための専用のペンを取り出すと、
ピアノの前に戻り、楽譜の1p目の上の方になにやら書き足した。


ガラガラ、と音がして音楽室の引き戸が開いた。

美香だった。

トオルは少し意外そうな顔をしたが、この楽譜を預けられたいきさつを思い出し、そっと楽譜をしまおうとした。
美香は無言でそれを押しとどめ、無言のままトオルに弾くように促した。


最初、高音部のトレモロで始まる優しい音色は、左手の温かい音色の低音部と融和して、
あまくやわらかに旋律を歌い上げる。


決して奇を衒いはしないが、飽きさせることもないその曲調は、自ら作曲した智子をすら思い出の世界に引き込んでいった。


思い出していたのは美香やトオルとの小さな出来事だった。


音楽部の女子生徒の間で冗談交じりでトオルとの関係を囃されると、最後に美香は
「でもホントはトオル先輩のこと好きなんじゃないんですかぁ?」
とニヤニヤしながら聞いてきたものだ。


一年前に美香たち一年生が入ってきたとき、普段なら人を苦手とか嫌いとか評価しないトオルがぼそっと
「あの美香…っていう子?あの子にはなんだか近寄りたくないなぁ…」と言ったのを聞いたことがあった。
理由は、言動が他力本願にしか見えないし、他人に媚を売っているように見えるから、とのことだった。
まぁ智子にも多少は思い当たる節があったが、当時部長だったトオルを軽くたしなめたりもした。


夏休み恒例の二泊の合宿で、毎年一年生に企画させるキャンプファイヤーが見事にグダグダになったのだが(w)、
トオルの機転で事なきを得たことも―



突然、ガダンッという大きな音と共に曲が止み、智子は強制的に思い出から引き戻された。

見ると、漆黒のグランドピアノの傍らで俯いて小刻みに震えている美香と、
椅子を足元に転がしながら驚いた表情で美香を見つめているトオルの姿があった。

俯く美香の顔の下には、小さく輝く液体があった。


美香を慰めようと右手を差し伸べた ―正確には差し伸べようとして固まった― トオルを見て、
智子はこの世に残した「未練」の正体をはっきりと悟った。


いつからそれに気付いていたのか、そして気付かない振りをしようとしていたのか。
そんなことはもうどうでもよかった。

トオルは美香に、美香はトオルに惹かれている。

そしてお互いに意識しながらも、共通する奥手さ故か智子への遠慮からか、ぎこちない関係になっていたのだ。

(…ふぅ…なぁにやってんだかw
   これじゃあたしが邪魔だった…って訳でも無いみたいね)
幼い子を見守る親のような気持ちで、二人の距離をもどかしく思う。
(このまま銅像みたいにずぅっと突っ立ってるつもりなのかしら?
   こういうときはオトコから行動するもんでしょっ)



「あっっ!ご、ごめん…」
トオルはいきなりバランスを崩し、美香を抱きすくめるような格好で謝罪を口にした。

一瞬、ビクッとした美香だが、トオルの目に浮かんだ感情を確かめると、
トオルの背中に手を回し小さく声を上げて泣き始めた。

「…うん……うん…」
美香はトオルの腕の中で何事かを訴えているのだろう、トオルの慈しむ様な相槌だけが智子には聞こえた。



もうすでに長くなった日が、音楽室の中にまで差し込んできている。

ひとしきり泣いて落ち着いた美香とトオルは焼けはじめた空をバックに、並んで窓際で談笑していた。



(ふふっおふたりさん、すっごくお似合いよ♪
   桃色の屏風に飾られて、まるでお雛様みたい)


智子はなんとなく、穏やかな純白の光が近づいてきているのを感じていた。


トオルは、あの時よろめいた理由(ワケ)を知ることは永遠にないだろう。
美香は、もう悲しみでピアノに近づけないことも、涙でピアノを濡らすこともないだろう。


それでいいのだ。

(あたしはなんにも出来なかったけど、でもいいの。
   少なくとも形見はこの世に残せたんだしね。
      その楽譜、大切にするのよ、二人とも。)


消え行く視界の中で、トオルが最後に書き込んだ曲の題名がにじんでいった。 @wikiへ
最終更新:2007年12月09日 22:26