ある山の話


これは私がサークルの仲間三人と、N県にあるT山に山登りに行ったときの話です。

当時、私たちは長期の休みのたびに全国各地の山に登りに行って、登山には慣れているつもりでした。
そのため油断もあったのでしょう。その日、私は途中で仲間とはぐれ、山道で迷ってしまいました。

やがて日も暮れ、辺りに霧が漂いはじめて私はいよいよ焦りました。
しかし、このような状態で闇雲に動き回ることの危険を知っていたので、
その日のうちの下山は諦め、横になれる場所を探し、夜を乗り切ることにしたのです。

念の為に持ってきていた携帯食で空腹を満たし、いざ寝ようとしたとき、
ふと誰かに見られているような気がして顔を上げました。
すると私のいる場所からほんの4、5メートル先の繁みに一人の女が立ってこちらを見ていたのです。

私は思わず出そうになった悲鳴を必死でこらえました。
どう考えてもおかしい状況でしたが、万が一ということもあり彼女を無視することもできません。
仕方なく女に声をかけました。

しかし、女は私の言葉を無視するかのように私に背を向けて歩き始めました。
下手に動き回ってはいけないということはわかっていたものの、
女一人で山の中に入っていくのを黙って見ているわけにもいかず、私は慌てて後を追いました。

女は時折私の方を振り返りながらどんどん先に進んでいきます。
このときには私はもう完全に彼女がこの世の存在ではないことを確信していました。
女は足音ひとつ立てず、辺りを覆う霧は1メートル先も見えないほどなのに、
彼女の姿だけはやけにはっきりとそこに見えていたのです。

どれほどの時間が過ぎたのか……私はこんなところまでついてきたことを後悔しはじめていました。
どうしよう、今からでも歩くのをやめて少しでも休息をとろうか……
そんなことを考えはじめたとき、女は不意に歩みを止め、私の方に向き直りました。

どうしたんだろう? そう思って私も立ち止まり様子を伺っていると、
それまで辺りを包んでいた霧が急に晴れ、月明かりに周囲の様子が浮かび上がってきました。
そして私の目に、この山に入ったときに見た立看板が飛び込んできたのです。
助かった、私は安堵の溜息を漏らすと、登山道を下り、
夜も明けかけた頃になってようやく麓の町に辿り着きました。

町では私の捜索に消防団が集合し、これから山に入ろうかというところで、
無事帰還した私は恥ずかしい思いをすることになりました。
そして、宿に帰った私は仲間たちにその夜の出来事について語って聞かせました。
その話を聞いた宿の主人から、私たちはあの女について聞かされることになります。

10年程前、ふらりと町にやってきた一人の女がいたこと。
10日程町に滞在した女が急に姿を消したこと。
最後に女を見かけた者の証言によると、女がT山に入山するところを見たということ。
そして、それ以後女を見た者は一人もいないということ。

翌日、私たちはもう一度女と出会った場所に向かうことにしました。
無事に私を山の入り口に導いてくれたことの礼を言いに行くつもりでした。
しかし、そこで私たちは思いもよらぬ光景を目にすることになります。

女と出会った場所までは、途中途中に残した目印を頼りにして辿り着くことができました。
そんなものは気休めにもならないと思いつつ、万が一を考え残したものが思わぬ形で効果を発揮しました。

そして、女が現れた繁みを発見した私は、花と線香を供え、彼女の冥福を祈りました。
しかし、下山するために昨夜女の後を追って歩いた道を進むために繁みを越えた私たちは、
その先の光景にすっかり血の気を失ってしまうことになるのです。

昨夜私が歩いてきたはずの道は、とても道と呼べるような代物ではなく、
1メートルあるかないかという幅しかない上に、一歩足を踏み外せば
急斜面を真っ逆さまになるような、そんな危険な場所だったのです。

さらに、山を降りるにはそこしか道がないわけではなく、
少し遠回りをすればもっと安全な登山道に出ることができる場所でもありました。

私たちは急いで山を降り、その足で帰ってきました。

あれから三年が経ちますが、あのときの仲間内でこのことが話題に上ることはありません。
ただ、こんなことを言うと変に思われるかもしれませんが、
私は彼女に対して怒りとか恐怖といった感情を持ったことがないのです。
無事に助かったから言っているわけではありません。
上手く言えないけれど……あの夜、別れ際の彼女の瞳の中に
深い哀しみを見たからかもしれません……。


最終更新:2009年04月16日 21:32