学者とメイド、その2 ~2人のいる書斎~
何をするよりも学ぶことが楽しいんだ、と彼は言った。
その日の食事に困ることの無い方の言い分です、と彼女が返す。
君はもう食事を摂る必要がないじゃないか、と彼は言う。
一般論を私の身の上に置き換えられても困ります、と彼女は返した。
若き経済学者とその屋敷に住まう侍女の霊は、そんな風に毎日言い争っていた。
それはそれは仲睦まじく。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
街中が胎動するような、生々しい活気に満ち溢れた時代。
紡績工場が一つ増える度にどこかで血が流される。
悪徳と美徳の境界もあやふやなままに、ただ踊り続ける道化たち。
それらが演じるのは“産業革命”という演目だ。
紙の上を逃げ回るだけのようで、好きではありません
君が思うほど学問は無力ではないよ
あら、それでは“学問”が生活能力皆無の御主人様に食事や身の回りのお世話を?
いや、それは不可能だが……
私が以前お仕えしていた方々は、大層学識がございましたが
それでも自らの命を救うことさえ出来なかったのです
そして君はとばっちりを食ったわけだね
はい。因果なものです……その後このお屋敷に来たのが、似たような方だとは
となると、僕もいずれは怒れる労働者に……
その時は私が手引きいたしますのでご安心を
僕を逃がす手引きを?
いいえ、曲者の突入の手引きを
……………君とは一度良く話し合う必要がありそうだ
探求に耽る学者は、辛辣な侍女がとり憑いた屋敷を手放そうとはしなかった。
死せる侍女もまた、怪異や霊障をもって呑気な学者を追い出そうとはしなかった。
彼は、彼女の歯に衣着せぬ物言いをどこか楽しげに受け止めていたし、
彼女は、彼の知性が他者への攻撃性に結びついていないことを好ましく思っていたから。
もしかしたら、僕の学問が社会の役に立つかもしれない
そう信じるのは御主人様の自由かと
手厳しいなあ。実はね、ある資本家から経済的な側面でのアドバイスが欲しいと頼まれたんだ
……それは、どのような?
主に利益や賃金、地代に関することなんだけど。これはなかなかやりがいのある仕事だよ
……………
浮かぬ顔だね。何か問題が?
ははあ……君の持論である“学問は役立たず”が揺らごうとしているからかな?w
いえ………そういうわけでは
まあ見ていてくれ。僕は学問でもってこの社会に貢献してみせるから
はい。期待はしませんので、ご存分に力を振るわれるのがよろしいかと
い、いちいち手厳しいな……
結果から述べるなら、彼の学問はとても役に立った。
悪徳な資本家とブルジョワにとって、とてもとても役に立った。
彼はその知性に似合わぬ愚か者で、自らの緻密な理論が悪用されることによって
どのような結果を生むかという事に対して、甚だ無頓着だった。
巧言令色と高い報酬、名士扱い。
学ぶことが楽しいと無邪気に笑った学者は、少しずつ変質していって。
全く痛快だ。理論を実践に移せばいいだけのことだったんだよ
……実践、とはなんでしょう?
利益の追求だよ。他に何があると?
他には何も無いのですか?
突き詰めれば経済とはそれに尽きるんだよ
御主人様の仰りようは、まるで戯曲に出てくる商人のようです
……ふん。ああ、食事は要らないよ。豪勢なディナーに招かれているんでね
…………畏まりました。お気をつけて
朗らかな笑みの代わりに酷薄な冷笑が張り付き。
学問への探究心は守銭奴を肥え太らせる悪知恵に様変わりし。
膨大な額の報酬はそれに倍する敵を作った。
この屋敷を引き払う。君は何か不満があるかな?
私は既に死んだ身です。なぜ亡霊に対してそのような言い訳がましいことを?
……なんだかんだで長い付き合いだったからね。一応は、というだけさ
君はこれからどうするんだ? おそらくこの屋敷は取り壊されることになるが
御主人様は、これからどうするのですか?
君の身の振り方を話しているんだ。僕のこれからなんて……
これから、どうしたいのですか?
…………何が言いたい
どうして、なんですか?
う、うるさいっ! 消えろ亡霊め!!
もう学ぶことに使われなくなった書斎から飛び出し、肩をいからせて
屋敷の門から出た学者は、門扉の影から歩み寄る男に気付かなかった。
男が腰だめに構えるナイフを視認すると同時に、腹部に熱い衝撃が広がる。
薄汚れた服をまとった労働者風の顔が、引き攣った笑いを浮かべて叫ぶ。
ざまあみやがれ
これが報いだ、犬め
くたばれ
男は狂気じみた笑いを撒き散らしながら走り去り、学者は堪え切れずその場に突っ伏した。
腹部は焼けるように痛む。呼気には血が混じる。視界は徐々に霞んでいく。
おぼろげな視界の隅に、見慣れたつま先が映った。身をよじって顔を上げる。
いつからそこにいたのか。古びた屋敷を背にして侍女が立っていた。
…………僕を、笑いにきたのか
いいえ
じゃあ、恨み言か…?
いいえ
助かる……傷じゃないのは、わかる、だろ? 用があるなら、手短に……
……楽しかったことは、なんですか? それだけをお聞かせください
楽しいこと。
楽しかったこと。
かつて確かに、それはあった。
新しいことを知る。自分なりの解釈をする。論理の齟齬に気付く。振り出しに戻る。
そんなことをただ繰り返して、飽きることのなかった日々。
……だけど、それだけが楽しかったのか?
と、まあこれが最新の理論なんだ。つまり価値というものは……
御主人様、お茶が冷めてしまいます
価値というものは……ええと…… ああっ! 君が口を挟むから忘れてしまった!
冷めた紅茶に価値はありません。これが不変の真理です
古紙の匂いが漂う書斎に、紅茶とスコーンの香りが割り込んでくる。
思考の海に埋没した僕を、現実世界へ救い上げる皮肉な口調。
何をするよりも学ぶことが楽しいんだ、と僕は言った。
屋敷に越してくる以前、一人で暮らしていた時にはそんなことを言う
相手さえいなかったくせに。
あの書斎で、学んで、考えて、……君が居て、……うん、それが
……それが?
それが、楽しかったことだ
……私もです
ごめん、僕は、きっと愚かだった
存じております
ははっ……君は、まったく……………………………………………
…………御主人様?
…………御主人様、これからは……
楽しいことだけを、なさいませ。不肖ながらお供させて頂きます
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
利便性の欠ける立地ゆえか、その屋敷に買い手は付かず永く放置された。
持ち主が必ず殺害される屋敷、という風評が立った所為もあるのかもしれない。
ただ、時折奇妙な真実味を持って語られたのは
“夜、書斎に明かりが煌々と灯っていた”
ということのみ、らしい。
最終更新:2009年04月16日 21:51