背後霊な妹


映画館の前で、ふたりの男女が言い争っている。
言い争い、というより、女のほうが一方的に激昂している様子だった。

「やっぱり、私、だめみたい。耐えられない」
「そうか」
「…ほかに言うことはないの?」
――あんたなんかに話すことなんかないってさ。この自意識過剰女!
「…デートにまでついてきてなんなの化け物!非常識にもほどがあるわ!」
――うわーこいつばかーw 幽霊に常識語ろうって?ばかにもほどがあるw
「この…っ!いままで我慢してきたけど」
「別れよう」

男のその言葉に、女は驚いたようだった。常に受身の態度を貫いてきた彼が
自分から意志を伝えるのは珍しいことだったからだ。
「は、そう。いい考えね、そうしましょうか。せいぜいふたり仲良くね!」
女はヒールの音に怒気を孕ませ、去っていく。

――ばーかばーか!あんた程度の女がお兄に釣り合うわけないでしょ!

一度。女は凄まじい形相で男のほうを睨み、あとは振り向きもしなかった。
取り残された男の表情に落胆の色はうかがえない。こうなることを、彼は
予想していた。

――ねえお兄。もう一本観てこうよ。アクションのほう!
「ああ」
なにごともなかったかのように、彼は出てきたばかりの映画館に足をむけた。

彼は無口でおとなしく、扱いやすい男に見える。じっさい女にとっては
その通りで、よく積極的な女につかまってしまう。彼は交際を申し込まれて
断ることをしなかった。そして、例外なく同じ理由で別れていた。

妹の霊が憑いていること。

そしてまた。
おなじ理由で、今度は泣かれた。
高校の後輩で、付き合ってひと月だった。

「う、あ、あたし、せ、先輩のこと、す、好き、だけど…けど…」
それは彼にもよく伝わっていた。
よく持ったほうだと思う。数限りない皮肉・罵声を浴びせられ、それでも
笑顔を絶やさなかった。今までは。
たぶん、これだけ自分のことを想ってくれる女性はもう現れないだろう。
そう評価していた。

――あーあー、泣けばいいと思ってんの?どこの小学生だよおまえw
「だ…って。な、なにも、わ、わるいこと、し、してないのに…っ!」
――悪いことしてないのに死ぬやつだっているよ。悪いことしてなけりゃ
悪いことが起こらないとでも? 甘いよばーか!
「あ、あなたさえい、いなかったら…!」
――やっと本音でた。ひとつ言っとくけど、あんたの愛想笑い、キモイよw
「う…ひどい。先輩?、なんとか、ならないんですか、これ」
――いきなりこれ扱いね。わかりやすくていいよね、お兄?
「別れよう」

即答だった。
「ど、どうして!?おかしいよこんなの!ほんとは先輩だって…」
――先輩だって、なに
茶化した口調が一変し、鋭い険をもって割り込む。
「――オレの妹は」
ふたりを制するように、彼は重々しく口を開いた。

「ギャンブル狂の親父に代わって生活費を稼いでいた。小学生のころからだ。
オレの新聞配達のバイトの数倍の稼ぎ、と言えばなにをやらされていたか、
想像がつくだろう。オレは――それを知っていた。知っていて、止められ
なかった。食うのに困らない生活をするためには、その金がなければやって
いけないと、耳を塞いだんだ。

高校の入学式の日、妹は行方不明になった。親父は出入りしていたチンピラに
はした金で身柄を売った。一週間後、妹は死体で発見された。なにが
あったのか、オレは知らないし、もう訊くつもりもない。
オレは、妹になにもしてやれなかったし、妹のおかげで生きてこれた。
だから今度は、妹のために生きていく。間違っていると言われても。
――付き合うことになったときの条件を覚えているか」

ぐ、と後輩の彼女は喉を鳴らした。
「…い、妹さんの…存在を…否定しないこと……」
「そう。それだけだ。オレ自身よりも大事な存在を否定しないこと」
「…………」
「さよなら」
なにもいえず、彼女は立ち尽くした。彼がいなくなってもしばらく、動く
ことができなかった。

帰り道。ふわふわと男の頭上を漂う姿があった。
――けっこう持ったね、今回。
「そうだな」
妹が二人でいるとき、女の話をしだすのは、口ほど彼女を嫌ってはいない
証だった。あるいは、兄にとって悪い女ではなかったときか、どちらか。
多少の自責の念がそうさせるのだろう。

――ごめんね、お兄。
「なんだ、珍しいな…」
――次は、さ。
「うん」
――う、ううん。やっぱ約束できないや。
「なんだよ」
――なんでもない。


  大好きだから。もう少しだけ。ごめんね、お兄――
最終更新:2009年09月29日 23:07