プロポーズ
天井にあるスタンドグラスから降り注ぐ月の光が室内を照らす。
目の前にいる彼女ははにかみながら上目遣いで見つめてくる。
彼女に出会ったのは雪の夜だった。
仕事帰りに突然聞こえた甲高い急ブレーキの音。
好奇心に駆られて野次馬に行った現場で見たのは、
血みどろで路上に伏した女性と、すぐ側に佇みそれを見下ろす女性。
途端に周囲のざわめきが消え、直感が目の前の危険を警告する。
立ちすくむ女性がゆっくりと視線を上げる。
早く逃げなければ、焦る気持ちとは裏腹に身体はまったく言うことを聞かない。
最後に覚えているのは彼女の哀しげな両の瞳と左手に嵌めた指輪の光だった。
自慢ではないが、私は生まれてこの方幽霊などというものとは無縁の生活を送ってきた。
それなのに、彼女に出会ってからの二週間はそんな私の常識を覆すものだった。
なによりも私を驚かせたのは、寂しい
一人暮らしだとばかり思っていた私の部屋が、
実は大変賑やかな大所帯であったということだ。
格安の家賃は古くボロボロの造りのせいだけではなかったのか。
毎晩聞こえる恨み言。いつの間にか移動する食器。
気にしだすと壁の染みすら人の顔に見える始末。
「……出ていけ」「……くるしい」「……イタイ」
今日も始まったか。うるさくて眠れやしない。
実害はないからいいものの、こう毎晩では精神衛生上よろしくない。
……ここはやはり一言言ってやるべきか。
「あー君たち、言いたいことはわかるが、私に言われてもなにもできないんだ。
私はできるだけ君たちの邪魔はしない。だから君たちも私の邪魔はしないでくれないか。
具体的には夜は静かにしてほしいのだが……」
「……五月蝿い」「……しね」「……クルシメ」
どうやら彼らの機嫌を損ねてしまったようだ。
飛んできたのが辞書ではなく文庫本だったのはまだ彼らにも良心が残っているということか。
「クスクス」
窓際から楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「……見てないでなんとかしてくれよ。君が来るまではこんな部屋でも平和だったんだ」
「あら、私のせいだって言うの?」
「どう考えても原因は君しかありえない」
「この人たちは私が来る前からここに住んでたのよ?
それにあなたにも元々素質があったのよ。彼らの声を聞く素質がね」
「幽霊じゃなくて外国人の声が聞こえる素質なら私の人生ももっと違っていただろうな」
あの事故の日から、彼女は私の部屋にいる。
特になにをするというわけではない。ただそこにいるだけだ。
別に害があるわけではないので放っておいたら、
本来の家主である私よりも家主らしい顔で振舞うようになった。
「ねえ~、ビール無くなったよ~」
当たり前のように冷蔵庫を覗き込み催促する。
「おつまみ用意しとくからさ~、ビール~」
どうも最初の対応を間違えたようだ。
月日は流れたが私と彼女の生活に変化はない。
賑やかな同居人たちも相変わらず騒がしい。
「ただいま」
「お帰りなさ~い、あなたご飯にする? お風呂にする? それともワ・タ・」
「ご飯にしよう、昼食べる時間なくて腹ペコなんだ」
なにやら妙にハイテンションの彼女にかまわず食卓につく。
給料が安い割りに仕事はキツイ。いつもの様に彼女の相手をする気になれなかった。
彼女はなにか言いたげだったが、夕食の支度を済ませるとさっさと消えてしまった。
なんだったんだ?
ふたりで暮らすようになって結構経つが、いまだに彼女のことはわからないことだらけだ。
結局、彼女はその夜戻ってくることはなかった。
こんなことは初めてだ。しかし、幽霊を心配するというのも妙な話だな。
「……可哀想」「……かわいそう」「……カワイソウ」
……なんなんだ。ここ最近大人しくしていたと思ったら可哀想?
可哀想とは彼女のことなのか? こいつらでも他人の心配をするのか。
「……冷蔵庫」「……れいぞうこ」「……レイゾウコ」
冷蔵庫になにかあるのか。また勝手に食い散らかしたんじゃないだろうな。
ところが扉を開けた私の目に意外な物が飛び込んできた。
白いクリームと黄色いスポンジと茶色のチョコレート。
その茶色い板に「Happy Birthday!!」の文字。
そうか、今日は私の誕生日だったのか。
夜の街を闇雲に走る。
彼女とふたりで訪れた場所を一ヶ所ずつ捜して回る。
ここ最近うんざりするほど悩まされた霊の気配というものが、
今はまったく感じられない。
ほら見ろ、やっぱり彼女が側にいたからだったじゃないか。
結局、彼女を見つけることはできなかった。
なにか見落としていることがあるのだろうか?
とりあえず一旦部屋に戻ろう。
私の住むアパートへの途中に古びた教会がある。
管理する者もなく荒れ果てていく一方の建物は、
近所の子供たちの遊び場になっている。
特に理由があったわけではない。
神頼みのつもりでもない。そもそも神様なんて信じていない。
ふと思い出したのだ。彼女の左手の薬指に光る指輪のことを。
古びた教会の中央、天井のスタンドグラスから降り注ぐ月の光の中に、
彼女はひとり佇んでいた。
「あー、なんて言えばいいのか……とにかく悪かった。
もうずっと誕生日なんて祝ってもらった事がなかったから」
ゆっくりと振り向く彼女の瞳はいつか見たあの哀しみを湛えていた。
「私はきっと君に甘えていたんだ。誰かが側にいることに慣れすぎて、
いつの間にかそれを当たり前みたいに思うようになってた」
今、私ははっきりと理解していた。
私は彼女に伝えなければならない。
決して後悔するようなことがあってはいけない。
「やっとわかったんだ。私には君が必要なんだ。
もう一度、私にチャンスをくれないか」
「……今日はずいぶんと殊勝なのね。らしくないじゃない」
いつもと違い弱々しく微笑む。
私は焦っていた。嫌な予感がする。
「もしかして、このまま私が消えてしまうんじゃないかとか考えてる?」
「……違うのか?」
「ついさっきまでそう思ってたの。どうしてあんなとこにいつまでもしがみついてるんだろうって。
最初はね、まだ私に未練があるせいなんじゃないかって思ってたわ。
――もう気付いてるでしょうけど、これね」
そう言って左手を上げて見せる。薬指の指輪に月の光が煌めく。
「婚約者がいたの。いい人なのよ。
ちょっと気弱なところがあって、どこかあなたに似てるのかもしれない」
もう戻れない過去を懐かしむように、そしてどこか哀しげに。
「あなたの部屋に世話になるようになってからもちょくちょく様子を見に行ったりしてたのよ。
……彼には私の姿は見えなかったけどね
初めのうちはずいぶんショックがあったみたい。彼も私も。
当たり前だよね。でも……人間って結構強くできてるのね
ちょっとずつ時間が経つごとに私の中で何かが変わっていくのがわかった。
彼もそうだったみたい。お互い新しい生活の中で新しい自分を見つけて……、
そして新しい幸せも見つけて」
そこで言葉を区切るとじっと私を見つめる。
「あなたはどうだったの?」
「私は……そう、私も同じだ。君と暮らした日々は私にとって幸福だった。
とても幸せだったんだ。」
「それで?」
なにやら嬉しそうな彼女を見てると、彼女の思惑通りに進んでいることを思い知らされる。
少し悔しい。
「私は君を愛している。これからも私の側にいてくれないか」
もうここまできたら隠す必要もないだろう。隠せていたかどうかはわからないが。
そうして、私はすべてを打ち明けた。
「……」
「どうした?」
私が見つめる中、彼女の頬がみるみる朱に染まる。
「う、あう、そんなこといきなり言うな!」
「君が聞くから答えただけじゃないか」
「アンタのキャラじゃないでしょ」
「大切なものを失くしたくないだけだ」
「う~、だからそういう恥ずかしいセリフを言うな」
「君の答えを聞いてない」
これは面白い。ここぞとばかりに攻めに転じる。
「それは、ほら、なんていうか……もう! 言わなくてもわかるでしょ!」
「ちゃんと言ってくれなきゃわからないよ」
「だからさ、私も好きでもない人の部屋にいつまでもいないって」
「それで?」
恨めしそうに私を見つめる。
「だから……私も、あなたのこと、好きよ」
一言一言吐き出すように言い終えると、上目遣いに見つめてくる。
言葉もなく立ち尽くすふたり。まったく、これではまるで小学生のようではないか。
意を決して彼女の腕を取り、胸の中に引き寄せる。
「あっ」
彼女は抵抗することなく私の腕の中に納まった。
「これからはずっと一緒だ」
「ええ、ずっと……ずっと側にいるわ」
淡い月の光の中で、ゆっくりと唇を重ねる。
ふたりを祝福するかのように、どこかでゴングがなった。
最終更新:2010年02月01日 21:52