モノローグ
人生は長い。
時に若くして死ぬ者も有るが、そうでないなら人生は長い。
先の見えぬ長さに不安を覚える事も少なくない。
それでいながら終わってしまった後に顧みると余りに短かった様に思える。
彼は、今日死んだ。
78歳、十分に生きたのだろうと思う。
私の知る最も若い彼は、17歳、高校を中退したばかりの彼だ。
その頃の彼は日中から夜まで独り呆然として過ごし、時折声を殺して嗚咽していた。
自身の先行きに絶望し切っていたのだろう。
ふらりと外出し、ロープを買って帰った事もあった。
天井から吊るした輪をやはり呆然と見詰め彼は泣いた。
陰気を振りまく彼に嫌気が差していた私は、彼が躊躇う内に背中を押してやる積もりだったが、
実際には彼が輪に首を通す前にその背中を蹴飛ばしてしまっていた。
彼は腰を痛め、それを口実に自殺を諦めたのだが、
驚くべき(或いは馬鹿げた)事にこの時から彼は私を許容し、度々私に話し掛ける様になった。
彼は自殺を思う程根暗である癖に、私に向かって愚痴を零す事は無かった。
テレビを見、或いはゲームをしながら、殆ど返事もしない私に毎日下らぬ事を話した。
そんな時に浮かべる空虚な笑みが不快で、苛立ってテレビを壊してしまった事もあったが、
彼はそれについて一言たりとも文句を言いはしなかった。
それどころか私に謝り、数年間はテレビの無いまま暮らした。
(後に、態々私に伺いを立てた上で新しいテレビを購入するのだが)
彼は少しずつ外出をする様になった。
バイトを始め、同時に通信制の高校にも通い出した。
彼は元々出来の悪い人間では無かったらしく、その両方をそれなりにこなしていた。
(高校を中退などする事は無かっただろうにと思ったものだ)
高校卒業後、三流企業にではあるが彼は就職する事が出来た。
働き始めて直ぐの彼は沈む事も多かったが、
以前の、日々何もせずに過ごしていた彼と比べると余程ましだった。
少しばかり仕事の愚痴を言う様にもなったが、愚痴と呼ぶには控えめ過ぎる程で、
偶に労ってやるのも悪くないと思えた。
彼は明るくなった。空虚な笑みを浮かべる事は無くなった。
幾らか友人が出来、飲みに出かける事も多くなった。
それでも他の誰に対するよりも私を相手にして話す時の方が彼の舌は滑らかだった。
彼は根が暗いから、あまり返事をしない私の方が気安かったのかもしれない。
それを面白くないと思い、しばらく彼を完全に無視してみた事もあったが、
彼は私を怒らせたのかと何やら私に謝り(それも悉く的を外した物だった)、
余計に煩くなったので再び相手をしてやる事にした。
彼は仕事の関係で出会った女と交際を始める事になった。
私はその暫く以前から彼がその女を好いている事を知っていたが、
(かつ、相手の女も彼を憎からず思っている事を、私は知っていた)
愚かな事に、彼はその女と私とを同じ天秤に掛け悩んでいた。
私は彼を罵倒し、それで漸く彼は女との交際に踏み切ったのだった。
2人の関係は概ね順調に進んでいった。
彼が結婚したのは29才の時だった。
収入は彼の妻の方が多かったが(私がそれを嘲うと彼は苦笑したが、
余り気にしてはいなかった)女は彼の事を信頼していた。
2年経って長男が、更に3年後次男が生まれた。
父親となった彼は、非常に頼もしくなった様に見えた。
それからの彼の人生は、順風満帆であったと言って良いと思う。
高卒の彼とは違って2人の息子は大学を出、彼よりも余程大きな企業に就職した。
2人とも妻を娶り彼は5人の孫に恵まれた。孫達は皆、優しい彼を好いていた。
しかし彼は、愛に満ちた、と言って良い程の家族の中に有りながらも、
毎日態々独りになる時間を作っては私と会話した。
彼が病に臥せって入院してからは、彼の主な話し相手は私だった。
同室の者に気味悪がられぬ程度に、独り言を装って私に話し掛けるのだった。
(それでも彼が呆けているのではないかと心配する者も有ったが)
彼も私も、彼がもう長くは無い事を知っていたが、彼は呑気な物だったし、
私も別段以前と変わらぬ様に振舞った。
愈々彼が危なくなって、息子家族が駆けつけた。
妻と、2人の息子とその妻たち、そして5人の孫に囲まれた彼の表情は、穏やかな物だった。
最期の直前まで意識は有り、苦しみを感じていない訳は無かったろうが、
家族に言葉を遺す彼は、非常に穏やかな様子だった。
幸せな最期だったろうと思う。それなのに、
それなのに愚かな彼が遺した最期の言葉は、
私に宛てた物だった。
人生は長い。
彼が私に言った礼を数えていたならばどれ程の数になったろう?
けれど、思い返してみると、とても短かった様な気がする。
彼は今日、逝ってしまった。
向こうで、彼は妻を待つのだろうか。それとも――
私には最早、此処に留まる理由は無い。
また当て所も無く彷徨う事になるのだろうか。そうだとしたら、
私の先にはそれこそ何も見えず、嗚呼、
私は昔の彼の様に死のうとする事も出来ない。
逝ってしまった彼を羨んでみても仕方が無いが、
そうせずにはいられない私を、私は自覚していた。
~エピローグ~
私が辿り着いた先には、
17歳の姿の、馬鹿な男が居た。
最終更新:2010年02月01日 22:21