ランドセルを背負った子供を見て、あんなに小っちゃかったんだ、と思う。
ふと耳にする会話を聞いて、ああ幼いな、と思う。
その子供たちと、ぼくたちが子供だったころと、差はそうないんだろう。
だけど、そのときの彼女には、いまでも敵わないと思っている。
その女の子はグランドの土手に座り、ほかの子供たちがボールを追いかけて遊んで
いる様子をつまらなそうに眺めていた。
日に焼けた肌。しなやかな体躯。意志の強そうな瞳。
頬杖をついた姿は、怠惰というより物憂げで、知性が感じられた。
遊びが一区切りしたのか、ひとりの少年が彼女に近づいていく。
「こーち、練習は?」
「ダルい」
「帰って寝てればいいのに」
「私がいないと、あんたらサボるでしょ」
「ちゃ、ちゃんとやるって!」
「やってないね。DFから逃げるだけじゃスペース作れないよ」
「わかってるよ!わかったから!きょうはもう終わりにしよう?」
講義が長引きそうなのを感じ、慌てて口を挟む。
少女は一睨みし、少年が後退ったのを見て、薄く笑った。
「今日は私がサボっちゃったし。じゃあまたあしたね」
「うん、またあした」
ぼくらの住んでるところはちっちゃい田舎町で、サッカークラブなんかなかった。
放課後の球蹴り遊びの仲間が唯一のチームだった。当然、弱っちかった。
それが、草サッカーの大会で優勝してしまった。
とんでもなく上手いやつが入ったから。
「……こーち、練習は?」
「ダルい……それに、あんたしかいないじゃない」
「きょうは、みんな、予定があるんだ」
「ふうん」
「ぼくもいまからちょっとあって」
「あ~あ。せっかく強くなったのに」
「あ!あしたは、ちゃんと、みんな来るよ!」
「そうかな」
「うん。約束する」
女の子だって知らずに、どっかのプロチームが見に来たことがあるらしい。
それを聞いてなんかスゴイ怒ってたのが意外だった。そういうの気にしないほうだと
みんな思ってたから。カッコは基本ジャージだし、シャワーとか着替えとかフツーに
ぼくらといっしょだし。
「こーち、練習は?」
「ダルい……それになに、みんなやる気あんのあれ?」
「や、約束通り、いちおう、集まったでしょ」
「約束?なんの」
「あ、ううん、なんでもない」
グランドの少年たちが遠巻きに見ていた。転がったボールには見向きもせず。
”こーち”は眉をひそめた。
「なにあいつら?おかしくない?」
「み、みんなこーちのこと心配なんだよ!練習しないのめずらしいから」
「そっか。じゃあやるか」
「え」
「ウソだよ。きょうはダメみたいだから帰る。またあしたね」
「うん。またあした」
上手いだけじゃなく、戦術や練習方法に詳しくて、ぼくらは知らないあいだに強くなって
た。だからみんなその子のことを「こーち」とか「かんとく」って呼んでた。
「きょうはどうしたらいい?」
「テキトーでいいよ」
「ちゃんと教えてよ」
「ダルくてなにもしたくない……」
「口は動くでしょ」
「おまえムカつく」
「ぼくはこーちのこと好きだよ」
上目遣いの怪訝そうな視線が、少年の顔を捉える。夕日の影で、表情は伺えなかった。
「いきなりなに」
「こーちは?」
「……帰る」
「ずるいよ。ねえ、こーちは?」
少女の姿はもうそこにはなかった。
県レベルの試合にも出られるようになって、そんでやっぱりボロ負けした。ほとんどなにも
できなかった。体格も大人と子供くらいの差があったし、みんなしかたないと思ってた。
こーちだけが泣いてた。負けた試合なんかいっぱいあったのに、いままでは泣いたりしな
かったのに。
そのとき、このひとはほんとうにすごいんだと思った。
「おまえらさ、上手くなったね」
「こーちのおかげだよ」
「そうじゃなくて、急に」
「そうかな」
「身長も、なんか……」
「こーちのオリジナルルーレット、ぼく、できるようになったよ」
「うそっ?」
少年はボールをアウトサイドに引っ掛け、ターンしてみせた。得意気に振り返る。
こーちはちょいちょいっと、突付くようなしぐさでその足元を指差した。
「右にまわってみ」
「そっちは無理」
「両方できないと意味ないよ。まだまだだね」
こーちは試合に出なくなったけど、ぼくらはけっこう上のほうまで勝ち上がるようになって
いた。こーちが見てることを、疑う仲間はいなかった。だってぼくが練習法とか、的確に
指示できるのは絶対におかしかったから。
雪がちらつく入学式。
きょうばかりは小学校のグランドにひとの姿はない。これまで一日たりとも、少年たちは休
まなかった。ずっと繰り返されてきた風景がいま途切れた。繰り返すことが重要だったが。
詰襟の少年が土手の下まで歩いてくる。
「あは、なんだそのカッコ」
「中学生になったんだよ、こーち」
少女はそれを聞いて、空を見上げた。雲の隙間から青空がのぞいていた。
「――ああ…そんなこと、ずっとさきのことだと思ってた」
「……いつから気付いてたの?」
「雪が降ったとき、真夏に雪なんておかしいなって。それで考えて。思い出さないように
してたこと思い出して。それから」
「けっこう、まえからだね。なんで知らないふりしてたの?」
こーちは、少年の視線を避け、頬を膨らませた。
「おまえが、ずるいから…だ」
「ぼくが?」
「こっちがどうせ忘れると思って、ふざけたことを言った」
少年には思い当たることがひとつだけあった。少女が忘れてしまうとわかっていなければ
おそらく、言わなかった想い。
「ふざけてないよ」
「ならもっと悪い。根性なし」
「うん。ごめん」
「私は、そういうのが大っキライだ」
「うん。だから言えなかったんだ。こーちが好きになるひとはさ、カッコよくて、頭がよくて、
大人で、サッカーが上手いひとだと思ってたから」
「よくわかってるね。…もう、ありえないけど」
「うん…ごめ…っ」
「すぐ泣くとこも大っキライだ」
「ず…っと、あのときのままでいられると、思ってたんだ。こーちが、気付かなかったら」
「無理でしょバカ」
「こーちと、いっしょにいられる、って……」
「おまえさ、さっきからすごく無神経なこと言ってるって気付いてる?」
少年は袖で涙を拭いながら、ううん、と首を振る。少女は深いため息をついた。
しばらく、ふたりのあいだに会話はなく、嗚咽が治まるのを待っていた。
「これから――私にはこれからはないけど」
「………………」
「ずっと見ててやるから」
「うん」
「――…ったら……」
「なに?」
「そしたら、考えてやる」
「なにを?」
「……バカ」
中学を卒業し、ぼくは県外の高校に行くことになった。
なにもかもが小さく見える小学校のグランドに立つ。
土手にこーちの姿を見ることは、もうできなくなっていた。
それでも、そこにいるのだと思って、いろいろなことを話した。
こーちができなかったこと、やりたかったことを、無神経にもいろいろ話した。
寮に入るからあんまり来れなくなるけど、休みの日には報告しにくるよ。
約束するよ。
ぼくはこーちのこれからだから。
最終更新:2011年03月04日 21:08