良く晴れた朝は、縁側に座ってぼんやりと庭を眺める。
特に何がしたいわけでもない。慌てて何をしなければならないわけでもない。
仕事を張り合いにしていた人間は定年を迎えてから時間を持て余すという話だが、
最近ではそれが身に染みて良く理解できる。

「……退屈ってのは、辛いもんだね」

誰に聞かせるつもりもなく呟いたはずの言葉に、相槌が返ってくるのを期待している心があった。
愚かしいことだ。この家にはもう私以外誰も居ないというのに。
仏壇には先年病死した連れ合いの遺影が飾られている。
気丈で口が達者で私などより余程元気そうにしていたのに、全く人生というのは分からない。

「さて、と」

一人だろうが腹は減る。そろそろ食事を準備しなければならない。それが終わったら掃除と洗濯を。
ああ、そういえばトイレットペーパーが切れそうだった。食料品も買いに行かなければ。
些細で雑多な用事でも、何かすることがあるのは有り難いことだ。
……フライパンに向かいながら頭の中でメモをとっているうち、卵を焦がしてしまったが。

訪れたスーパーの、彩り豊かな生鮮食品売り場を歩きながら考える。
料理が得意だった妻は、どんな風に買い物をしていたのだろうか。
きっちりと献立を決めてから無駄なく売り場を回ったのだろうか。
あれこれと迷って店中をうろうろしたのだろうか。そのどちらも彼女らしい気がする。
連れ立って買い物に来たことなど数えるほどしかなかったせいか、
カートを押す妻の姿がうまく想像できない。

「………」

無意識的に足を動かすうち、青々とした胡瓜が山積みになったコーナーに差し掛かった。
隣にはこれまた艶々と色合いの良い茄子も。
不意に、悪戯を思いついた子供のような気持ちになった。

食料品や生活雑貨をキッチンに片付けてから、胡瓜と茄子を持って縁側に向かう。
短く切った割り箸を不器用に差し込んで、どうにか馬と牛らしい形にしてみる。
お盆だからといって自分で精霊馬などを作ってみたのは初めてのことだ。
迎え火もきちんと焚いてみるのも良いかもしれない。
ささやかながらも、真摯に敬虔に亡き人を偲ぶこととしよう。

「おやすみ」

遺影の中で微笑む妻にそう告げて、布団に潜り込み瞼を閉じる。
睡魔に意識が塗り潰される寸前に昔の夢を見たような気がした。

「……ふあぁ……」

目覚ましなどかけずとも朝6時に目が覚めるのは、会社員時代の名残だろう。
それでも流石に頭の中は夢見心地なようで、今ひとつ思考が定まらない。
熱い茶でも飲もうと寝床を這い出て台所へ向かい、引き戸を開けると――

「あら、おはようございます。まだご飯は出来てないけど、何か飲みます?」
「…………………………………………」
「お茶でいいわよね」
「…………………………………………」
「ほら、鳩が豆鉄砲くらったような顔してないで座って。邪魔邪魔」

――見慣れぬ少女がそこに居た

年の頃は14、5歳だろうか。
長い髪を無造作にひっつめて、ツバメのようにくるくると軽快に台所を歩き回る。
寝起きのままで混乱した思考がさらにかき乱され、数多くの疑問が湧いてくる。

疑問① こんなに堂々とした不法侵入者がいるのだろうか。
疑問② この娘さんは家を間違えてはいないだろうか。
疑問③ ならば何故、かいがいしく私の湯呑みにお茶を注ぐのだろうか。

「…………君は、どこの娘さんかな?」
「?」
「いや、そんなキョトンとした顔をされても困るんだが……」
「もしかして、分かりませんか?」
「分からない、って……一体……」

小首を傾げて私の顔を覗き込む少女。
切れ長の目がまっすぐこちらの視線とぶつかり、僅かながらたじろいでしまう。
こんな風に、いっそ無遠慮とも言える程の直視をする人物に心当たりは無い。
――ただ一人、死んだ妻を除いては

「………っ!?」

頭を殴られたような気分で、もう一度少女の顔を見直す。
数十年も前の記憶を辿って目の前の顔に重ねる。
……似ている。とても良く似ている。
一見して不機嫌そうな印象を与える、強い眼光と引き結ばれた唇。

――怒ってるわけじゃありません、元からこういう顔なんです

初めて会った日、腰の引けた応答をする私に妻が言った言葉。
出会った頃にはもう互いに二十代も半ばを過ぎていたが、確かに似ている。
あの頃の妻がもう十歳若返れば、この少女に瓜二つなのでは――

「………っ!?」

再度、頭を殴られたような気分――いやいや、気分ではない。現実に殴られた。
この少女にしゃもじで殴られた。べしっ、と。

「……痛いんだが」
「なんだか『れでぃ』に対して失礼なことを考えているような気がしたので」
「いや、しかしな……ばあさんや」

べしっべしっべしっ

「………しかしな、おぜうさんや」
「よろしい」
「何から聞くべきかも分からんが……一体、どうしてここに? その姿は?」
「まあほら、お盆でもありますし。折角なあなたが精霊馬をこさえてくれたんだから」
「ほ、本当に霊が乗ってくるのか……精霊馬侮りがたし」
「最終コーナーを回ってからの怒涛の差し足、あなたにも見せたかったわー」

競ってたのか。
何馬身差だったのか。
差してなかったら代わりに何が来たのか。

「しわしわのお婆さんよりはこちらの方が良いでしょう? 案の定驚いたw」
「驚きはしたし、その姿が可憐なのは確かだがね……別にしわしわでも嬉しさに変わりは無いよ」
「………あ、あなたは、ときどき真顔で恥ずかしいことを……」

テーブルにのの字を書きながらしゃもじで赤らんだ頬を隠す少女。
不覚にもその愛らしさにどぎまぎしてしまう。還暦越えて惑うな、わし。

「うふふふふ。あなたにろりこんの気があるとは知らなかったけど、その反応なら若返った甲斐もあるわ」
「ははははは。凄まじく失礼な断定はやめてくれんか。それよりもう一杯お茶を……」

夢でも幻でも、またこうして他愛も無い遣り取りが出来るのはなんと素晴らしいことか。
調理台に立つ少女の後姿が、なぜだか少し滲んで見えた。


一緒に墓参りに行こう、と言い出したのは私の方からだった。
元より一人でも行くつもりではあったが、数日前と現在では些か状況が異なる。
なにしろ墓に眠る本人(というか本霊)がここに居るのだ。彼女を置き去りで私だけが
墓参しても、魂の宿っていない墓を訪ねるようでなにやら物足りない。
妻自身はどういった心持ちなのだろうか。

「転居先の玄関を眺めるようなものかしら。特に嫌ということはありませんよ」
「身も蓋も無い言い方だが、分かり易いね」
「……生きている頃は、てっきり私があなたのお墓参りをするものと思っていたのに」
「………………」
「子宝にも恵まれなかったし、生活能力の低いあなたを一人にさせるわけには、と」
「うん」
「私は図太くできてるから……あなたがいなくてもそれなりに楽しくやれるだろうし」
「うん、ありがとう」
「なにがありがとう、なんだか……」

数歩先を行く華奢な肢体は、この陽射しの中でも地に影を落とさない。
スカートから伸びる折れそうに細い足は、玉砂利の上でも音を立てない。
喧しいほどの蝉時雨と、老体を痛めつける猛暑だけが現実感を伴っているようだ。
二人しばし無言のまま歩を進めて、やがて辿り着いた墓所の一角。
「自分もやる」と主張する妻をなだめながら墓石の周囲を掃除し、花と線香を供える。

「……せっかく二人いるんですから手分けすればいいのに」
「祈るのは君の冥福だ。私がやるのが筋というものだろう?」
「気持ちは嬉しいけど……手際が悪くて見ていられません」
「あ、相変わらず辛辣だなっ」

綺麗になった墓石に向かって手を合わせる。
「冥福を祈る、という意味合いからすればむしろ私に手を合わせるべき」
と囁く妻をやんわりと無視して、しばしの黙祷をする。
目を閉じて浮かぶのは、変わり者の妻と過ごした数十年の断片。
なんだ、つまり私は幸せ者だったのだな、と頬が緩んだ。


帰り道、言葉を忘れたように黙りこくる妻。こちらも無口になり、ただ機械的に両の足を動かす。
……それにしても今年の夏は、暑い。日中の酷暑を充分に吸収したアスファルトは、
夕刻を迎えても陽炎の如き熱気を立ち昇らせ、私の足取りを嫌でも重くする。心持ち呼吸も苦しい。

「……大丈夫ですか?」

いつの間にか左隣に寄り添って歩いていた妻が、心配そうな表情を見せる。
私はどうやらよほど疲れた顔をしていたらしい。言い訳のように言葉を並べる。

「この暑さだからね、老体にはきつい」
「老体を自覚しているなら無理に出かけなくても」
「君が居なくなって初めてのお盆だ。そういうわけにはいかない」
「ヘンなところで頑固なんだから……もう」

拗ねたように唇を尖らせる姿がなんとも可愛らしい。
ふと、思いついた疑問を投げかけてみる。

「君はいつまでこちらに居られるのかな」
「……お盆が終われば、それでお別れです」
「これからは毎年来られる?」
「…………」

答えを促すつもりで視線を向けると、妻はまさしく貝のように口を引き結んでいた。
経験上、この顔になった妻から無理に返答を引き出すことはほぼ不可能に近い。
まあ、死者には死者の都合があるのだろう。そもそも一度でも再会できたのが僥倖なのだ。
あまり多くを望むまい。

「……それにしても、暑いね」
「ええ、本当に」

こんなに暑いと、この大切な時間の記憶すら溶け流れてしまいそうだ。


日が落ちて多少なりとも涼しくなった頃、縁側に腰を下ろして星空を眺めた。
疲れが抜けず、身体が重くて食欲も無い。
せっかく妻が用意してくれた冷や麦も少ししか手をつけられなかった。
生前は食べ物を残すことを嫌っていた妻が、今日に限って神妙な顔で
「体調が悪いときは誰にでもあります」といって音のしそうな勢いで二人分を
平らげてくれたが。見た目良家のおぜうさん、桶一杯の冷麦を高速で完食。
……あの細い体のどこに入るのだろうか。霊体というのは便利そうだ。
雑多な思考に気を取られているうち、隣に妻が腰掛ける気配。
何気なく視線をやって、息を呑んだ。

「…………それは…」
「生きている時には見せる機会がありませんでしたから、今夜くらいは」

濡羽色の長い髪は丁寧に結い上げられて、朱い簪によって上品に纏められている。
華奢な身体を包むのは、濃紺の生地に良く映える鮮やかな紅梅織の浴衣。
こころもち首を傾げて得意気な顔でこちらを見る、見慣れない姿の妻。

「驚いた。正直、見違えたよ」
「男の人はこういう落差に弱いんでしょう? まったく単純なのね」

くすくすと笑う妻は、少女の容姿も相まっていっそあどけなくさえ見える。
しばらくして笑いを収めた妻も無言で空を仰ぎ、やがて静かな口調で私に問いかけた。

「……もう、分かってしまいましたか?」
「うん。なんとも君らしくない態度が多かったからね」
「普段は鈍かったくせに、こんな時には気が回るのね」
「ははっ、きついなあ」

先ほどから身体は石のように重く感じられ、不可思議な睡魔すら襲ってくる。
……だから、これはつまり、そういうことなのだろう。

そうだ、まったくもって彼女は「らしく」なかった。
若返った容姿が、ではない。
基本的に辛辣で容赦の無い言動が随分と鳴りを潜めていた。
猛暑の中、辛そうにしている私を心配そうに痛ましそうに眺めていた。
心尽くしの食卓を前にして、食欲が無いと訴える私に一言も文句を言わなかった。
勿論、いつもの態度や言動がどうであれ彼女は心優しい女性だ。
そんなことは長年連れ添った私が一番よく知っている。
だが、それを差し引いて考えても今日の彼女は「優しすぎた」

まるで――私に先が無いのを知っているように

「すまない。結局君に私の最期を看取らせることになるとは」
「……怒るわよ。あなただって私を看取ってくださったでしょう?」

そうとも。長年の伴侶である君の死を看取るのは悲しく、寂しかった。
それでもそんな思いをするのが自分だけなら、と痩せ我慢をしたというのに。
結局私は、死んだ妻にまで心配をかけてしまうような愚か者だった。

「あなたが精霊馬と迎え火でこちらへの道を作ってくれたから、ここに居られたの」
「なんでもやってみるものだね……おかげで珍しいものが沢山見られたよ」

少女時代の妻を、初めて見た。
浴衣姿の妻を、初めて見た。
なによりも――

「――君の泣き顔なんて、初めて見た」
「泣かせたのはあなたですっ! まったく、もう……」

涙滴は白い頬を伝い落ちて、浴衣に染みを作る。
ああ、どうせなら私も浴衣を着るべきだったかな、などと愚にもつかないことを考える。
やがて目元を拭った妻が、あの懐かしい直視で私を射抜いて告げる。

「……行きましょうか、あなた」

行くって、どこに? おや、なんだかひどく眠い 

「ねえ、あなた。わたしは、幸せでしたよ?」

うん、私もだよ 君には照れくさくてついぞ言えなかったが、ほんとうに――

「…………っ……。…」




良く聞こえない  意識が柔らかく    

                       溶けていくみたいだ



    ああ  そこに居たのか          それじゃあ 




              一緒に行こうか









―ええ、私と主人がお家の前を通りかかったら縁側に倒れてらっしゃるのが見えて…

―なるほど。それで通報した、と

―はい。主人が抱え起こしたときには、もう……

―この暑さです。お年寄りならこういうこともあるでしょう

―でも………なんだか不思議で

―不思議、とは?

―あ、いえ……なんだか、ひどく穏やかな顔をしてらしたから……それが不思議で

―………そうですね。お時間を取らせて申し訳ありませんでした、もう結構です


~おしまい~





書いてみたら「鉄道員」と「いま、会いにいきます」がファックしたような内容になった。
だがこれはパクリと呼ぶよりもインスパイアと呼ぶべき。嘘ごめん。いつでも謝る覚悟はある。
最終更新:2011年03月05日 21:02