1
しとしとと雨が降っている。
既に辺りは暗闇に包まれている。傘を差し、矢上綾は一人、家路を急いでいた。
明かりを借りてくるべきだったかと多少後悔はするものの、両手を塞がれる事に逆に不安を覚えるのは、彼女の生業が多少なりとも関わっている。
女が夜道を一人で歩くなど無用心だと眉をひそめる者もあろうが、腕には自信があるからこその行為である。
綾は剣道場の師範代を努める程の実力を持っていた。
堀沿いの道を急いでいると、ふと先程話題に上った他愛の無い噂話を思い出した。
曰く、雨の夜に、堀の側を歩いていると、化け物に心の臓を喰われる。
自宅までは、もう少し堀に沿って進まねばならない。この時刻にこの天気では、出歩く者も無いだろう。
綾を知る者なら、彼女が怪談など恐れるような性格ではないと知っている。
そんな彼女でも、いや、たとえ男であっても、怪談を聞いた後で一人夜道を行けば心細くなるものだ。
(昨今は譲位だ開国だと騒がしいが、人心乱れれば物の怪も跳梁しやすいのやも知れぬな)
そう考え、ふ、と苦笑に似た笑みを浮かべる。
小藩だが、お国の行く先を案ずる血気盛んな者は多数いる。門下生達にも最近は剣の指南よりも説得や議論、時には喧嘩の方に時間をとられる事が多い。
2
色々と考えながら角を曲がる。このまま直進し、突き当たりでもう一度曲がれば自宅はすぐだ。
と、そこで、足が鈍る。
柳が並ぶ堀沿いの道。ここから突き当りまで距離にすれば一町程だが、その丁度中間あたりに、人影が見えた。
傘を握り直す。いつでも刀に手を伸ばせるように。
暗闇に加えて雨に煙る中、その男の姿は、距離があるにも関わらずはっきりと見えている。それが異常な事だというのは明らかだ。
道を引き返そうかとも思ったが、それは自尊心が許さなかった。
幼い頃から、女だてらに剣を振るうと嘲弄を受けてきた。
奇異の目に晒されても、常に真っ直ぐに顔を上げ背筋を伸ばして生きることで自身を確立してきた彼女には、誰が見ていなくても怪談ごときで恐れ退く事は許されない。
顔を上げ、平常心を装い、歩みを進める。
男は年は二十を半ばに差し掛かった頃か。着流しをやや着崩し、一見すれば遊び人にも見える風体だ。
長身で程よい筋肉質の体、顔立ちも整っている。これで全身が透けていなければ、女達が放ってはおかないだろう。
綾が近づいても動く様子は無い。腕を組み、柳に背を預けるようにして、堀の水面を眺めていた。
すれ違う。背を向ける事に抵抗はあったが、それでも綾は速度を緩めることなく、通り過ぎた。
振り返らずに突き当りまで進み、曲がるついでに後ろを伺う。幽霊が動いた様子は無い。
堀から離れ、自宅の塀を横に確認してそこで漸くふう、と息を漏らした。
3
霧のような雨が降る。
十日程経っていた。
前回と同様夜道を急ぐ羽目になり、内心うんざりとしているのだが、世話になっている人相手に不躾な事は言えない。
ただ、顔を合わせる度に縁談話を持ち出されるのだけは勘弁してもらいたいものだと腹の底で嘆息する。
気が付くと、あの道に丁度差し掛かろうというところだった。幽霊の出る道。
あれから何度か噂話を耳にしたのだが、現れるのは化け物というだけで、それがどういうもの、ましてや幽霊に関しては全くといっていい程情報はない。
ただ、噂通り心の臓を失った死人が堀に浮いたことがあるのは確からしい。
尤もそれも綾が生まれる前の話だったが。
果たして幽霊は、同じ場所に佇んでいた。綾の方も予想していただけあって前回よりは余裕がある。
気を許すまではいかないが、前より詳細に観察することが出来た。
格好は前回と変わらない。堀に顔を向けているのも同じだ。ただ今回気が付いた事もある。
幽霊の脇を一旦行き過ぎたのだが、思い直して引き返す。
「幽霊でも、雨に濡れるのだな」
まるで
生きている人間にするように声を掛けてみた。
得体の知れぬものにわざわざ自分から近づく愚行に綾自身苦笑を覚えていたのだが、幽霊もそうだったのだろうか。
意外な事に、少々煩そうにこちらを一瞥した。
「ここには近づくな」
にべもない態度で一言だけ告げると、再び水面へと視線を戻す。まるで何かを見張っている様だ、と思う。
「邪魔をしたな」そう謝罪を口にしたが、今度は反応は無い。軽く会釈をして綾はその場を後にした。
4
どうやら本降りになってきたようだ。すっかり闇に包まれた空を伺いながら、綾は嘆息した。
そろそろ入梅を迎える頃である。ここの所天気がすっきりしないのも仕方ないのだが、どうにも気が滅入って仕方が無い。
庭に植わる青い紫陽花が雨に濡れる姿を眺めているうちに、同じく雨に濡れる男の姿を思い出した。
あれから何度か夜道を行く機会があったが、幽霊とすれ違う事はなかった。恐らく雨と言う条件がそろっていなかったせいだろう。
今夜は雨が降っている。
悪戯を思いついた子供のようににんまりと笑みを浮かべると、彼女は急いで外出の準備をした。
男は相変わらず雨に濡れながら堀を睨み付けていた。水面は暗く、ただ雨を受けて波紋を浮かべるのみだ。
雨が落ちる度に男は確かに濡れていく。柳の下では、雨を防ぐ事も難しい。
筈なのだが、急に雨が遮られ、驚いて顔を上げる。
「使うがいい」
生真面目な顔で傘を差し出す女性を確認し、眉根に微かな皺を寄せる。
「柳の下に幽霊とは、風流なことだ」
「近づくな、と言った筈だが」
相変わらず無愛想な男の様子に、綾は苦笑するしかない。
「傘を貸しに来ただけだ。流石に風邪を引く事は有るまいが、雨に濡れる者を放っておくのも気分が悪いのでな」
「必要無い」
「まあそう言うな」
宥める様に穏やかに制しながらも傘を差し出してみたのだが、男は再び堀の方へ顔を向けてしまった。
暫く待っても受け取る気配が無いのを察すると、開いたままの傘をそっと足元へ置き、静かに立ち去った。
翌日も雨は続いている。
綾が道場へ向かう為に朝通った時には既に幽霊の姿は無く、ただ傘だけが彼女が置いたままの状態でそこに残されていた。
嘆息し、傘をたたみ、それでもと思い直して、柳の陰にそっと立てかけておいた。
5
あれから二日が過ぎている。その間雨は殆ど降り止む事はなかったが、何や彼やと忙しく、夜に様子見に行く事が出来なかった。
今日は道場での稽古が終わった後で、師範に呼び出された。
何事かと急ぎ師範宅へ向かうと、そこには師範の他に、藩の重役を務めているある門下生の父親も同席していた。
師範によると、門下生の父親の紹介という形で綾と名家の子息との縁談を取り纏めようという話があるらしい。
以前道場の代表として御前試合に出た事があったのだが、その際に相手先が見初めたのだとか。重役は綾の腕だけではなく、器量にも惚れたのだろうと暗に伝えてくれた。
確かに良縁だとは思うのだが、今一気が進まない。脳裏によぎった姿を打ち消し、身分違いを理由に丁寧に辞意を伝えた。
屋敷を出る頃には既に日は落ちすっかり暗くなっていた。雨が降りしきる中、家路を急ぐ。
今日は例の道を通る必要は無い。無いのだが、どうにも心落ち着かない。
あの男の事を意識している自覚はある。
自分も若い娘なのだと自嘲に似た思いを抱くものの、幽霊に思いを寄せるなど常人ではまずありえない感覚が可笑しくもあった。
自宅の門が見えてきた。さてどうするかと思案する。
男が「近づくな」と言うならば、それなりの理由も有るのだろう。理性はそう思い至っていたが、感情はままならない。
塀の影から様子を伺うだけにしよう。言い訳じみてはいると思いつつもそう結論を出し、門の前を通り過ぎた。
角からそっと顔を覗かせてみて。頬が緩むのが分かる。
男は何時もの様に柳の下に立っている。相変わらず遠目でもはっきりと分かるその姿だが、今夜は傘を差していた。
最終更新:2011年03月05日 23:53