1
年経ると、動物や自然物、人工物にも魂が宿ると言う。
彼女もそういった存在だ。日本刀に宿る魂、名を霞という。
縁あって、現在は隆弘という少年と行動を共にしている。
「…で、あれが信号。交差点で車や人がぶつからない様に、進めとか停まれとか合図するもの」
盆を過ぎたとある夏の朝。まだ日の出前だが、ウォーキングやペットの散歩など、出歩く人はそこかしこに見られる。
その中に、周囲からはやや浮き気味に、隆弘と霞の姿もあった。
少年はTシャツにトレーニングパンツという特におかしな所の無い服装だ。
一方傍らの凛とした美女は、着物に袴という時代劇から抜け出したような格好である。
だが誰一人として彼女に視線を向ける事はない。
その姿は少年にしか見えていないからだ。
少年が浮いている理由は、片手に携えた中身入りの太刀袋と、独り言にしてはかなり大きい声。
すれ違う際にあからさまに距離をとる者も少なくない。
2
『隆弘。何故そこかしこのものを一つ一つ説明しているのか』
「だって霞さん、まだ今の時代の事よく知らないんでしょ」
『うむ』
「だから説明しようかなって」
人のよさそうな笑顔の隆弘に対し、無愛想な態度で返す霞。実際は、彼女の方がかなり周囲を気にしていた。
『拙者は他人には見えぬ。もう少し声量を落とした方が良いと思われるが』
「…そう?」
今一わかっていない少年に、美女はやや困惑気味に柳眉をひそめた。それからふと思い出して言葉を続ける。
『それに、拙者は、同調すれば相手と記憶を共有する事もできる』
先頃はその同調――簡単に言えば憑依――によって共に強敵を退けた。だからこそ、それ程深くは考えずに思い付きを口にした。
「ふーん」
彼女の言葉にちょっとだけ意外そうに霞を見る少年。先ほどまでの笑顔は消えている。
「でも僕そういうの嫌だな」
『――!む、無論記憶云々はまず相手の同意があってからの話だ』
慌てて取り繕う。内心は後悔の嵐だが、武士たるもの無闇に感情を顕にしてはいけないと自制しているので、結局無愛想になるしかない。
「そう?」
『そうだとも。拙者は武人だからな。そのような無礼な振る舞いはせぬ』
それ程厚みのない胸を張ってみせると、納得したのか少年の顔に笑顔が戻った。
霞も、つられたように表情を緩めかけ、それに気付いて慌ててそっぽを向く。
『と、兎に角だ、説明は有難いのだが、もう少し周囲を気にした方がよい』
「んー、難しいなぁ。僕からすると霞さん、普通の人と変わらないから」
『そ、そうか』
無表情を装いつつも、少年が自分を
生きている人間と同様に扱ってくれる事が、経験の少ない霞には嬉しい反面非常に気恥ずかしい。
よく見れば、頬が朱に染まっているのがわかる。
のだが。
「あ、じゃあ、幸樹呼ぼうか。二人なら会話してるように見えるし」
『…え、と?』
思い付きを即行動に移す少年に、虚を突かれた霞は対応出来なかった。
「あ、これ、携帯電話。遠くの人と話が出来る道具。――あ、おはよう幸樹」
3
爽やかな笑顔の少年と仏頂面の連れ達は、揃って大きな家の門をくぐった。隆弘の生家、地元ではかなりの名家である。
「ああ、走るの久しぶりだったけど気持ちいいね」
「そうかい」
小一時間ほど汗を流し、そろそろ気温も上がり始めたので引き上げてきたところだ。
玄関を上がると、連絡を受けていた隆之の母親が苦笑交じりに出迎えた。
「あらあら幸樹君、何時も御免なさいね」
「慣れてるんで」
「朝ご飯食べてってもらうから」
「はいはい、準備してありますよ」
そのまま居間に移動した。暖かい純和風の食卓を囲んで三人が談笑しながら食事する間、霞は所在無さげに縁側に腰を下ろしていた。
霞の事は、母親には内緒にしてある。余計な心労をかけるだけだと霞本人が引き止めた。
自分で申し出た事とは言え、こういう状況は酷く孤独に感じてしまう。
やや俯き加減になっていたのだが、ふと、何か気配を感じて振り返る。
居間を挟んだ廊下の向こう側で、何者かがこちらを伺っていた気がしたのだが。
「幸樹君、どうしかした?」
母親の声に意識を戻す。霞と同じ方向を、幸樹も何故か不満げに伺っていたようだ。
「…いや、何でもないです」
そう言って食事を再開する幸樹。不思議そうに顔を見合わせたものの、親子は特に追究することもなく、再び世間話に戻った。
そんなこんなで食事が終わる頃になって、そうそう、と母親が切り出した。
「お願いがあるんだけど」
4
朝食が済むと、三人は敷地内にある蔵に向かった。
母親の頼み事――前日に隆之の従兄がTV番組に出場するのだと言って蔵の中を物色して行ったのだが、その後片付けをするためである。
確かに蔵の中は、事情を知らない者が見たら泥棒に入られたと思われる程に荒らされていた。
ぶつぶつと文句を垂れながら、床に乱雑に置かれた古民具等をひょいひょいまたいで奥に進む幸樹。
「くそ、とっとと片付けるぞ。お前ん家、長居すると碌な目に遭わないからな」
その言葉が終わらないうちに、ぱこん、と小気味いい音が響いた。どこからともなく降ってきたダンボール箱が、幸樹の頭に着地した音で
ある。
「…くっそー」
頭を押さえつつ空箱を蹴飛ばす親友を不思議そうに見ていた少年だが、傍らの美女は得心が行ったという風だ。
『どうやら幸樹殿は、霊媒体質のようだな』
「れいばい?」
『霊的な干渉を受けやすいと言う事だ』
「ふうん」
そんな話聞いたこと無いなぁと呟く少年を背に、霞は油断無く闇の向こうを睨みつけていた。
小さな影が一つ、闇の向こうに消えるのを見たからだ。
5
二時間で荒らされた蔵を片付けるのに、結局半日近くかかった。
幸樹の頭に、空箱や蛇や古本や古着が降った以外には特におかしな事はない。
「ご苦労さん」
「二度とやらん」
隆弘の倍は埃まみれになっている若者は、差し出された麦茶を受け取り、何故かそのまま固まった。
「幸樹?」
何事かと顔を覗き込むが、幼馴染の表情は完全に不機嫌な状態だ。
よく見るとグラスを握る腕はかなり力が入っているのか、筋や血管が浮き上がり小さく震えている。
霞には、その腕に幼い子供――ただし、額からは角が生えている――が二人、楽しそうにしがみつき、ぶら下がっているのが見えていた。
『これ、童。悪戯が過ぎるな』
呆れつつも手刀で薙ぐように払うと、幼児は威嚇の為か歯をむき出しつつも慌ててとび離れた。
と同時に突然枷を外された腕は勢い余って振り上げられ、グラスの中身を己の頭にぶちまけてしまう。
「糞餓鬼が」
壊れそうな勢いでグラスをテーブルに置く幸樹。だが何が起こったのか今一解らない親友に説明するつもりはないらしい。
『どうやらこの家には良くないものが居るようだ』
代わりに厳しい顔で霞は告げた。
6
先にシャワーでさっぱりとしてから、三人は隆弘の部屋に移動した。
ベッドには隆弘、幸樹は床に直接座り、霞は専用に用意されている座布団に正座する。
大まかに霞から説明を受けたものの、少年には今一実感がわかないらしい。
「視えるの?」
不思議そうに、幼馴染に問いかけた。
「視えん、聴こえん。触れられたり気配を感じたりはするが、いつもガン無視してやる」
アイスバーを頬張りながら、未だ怒り収まらないのか鼻息荒く言い切る幸樹。
「霞さんの事は?」
「同じだ。普通じゃないって感覚だけわかる」
『要するに常人より勘が鋭い程度で収まっておると言う事か』
霞がまとめたが、それでも納得がいかないのだろう。首を捻っている。
『それより今回の事象に心当たりは?』
「守り神様かなぁ?」
『何者だ?』
少年の呟きを、霞は鋭く聞き咎めた。
「守り神様は、家の守り神様だって聞いたよ」
「説明になってねぇ」
返す言葉を失った美女の代わりに突っ込む幸樹。
「だって、僕はそうとしか聞いてないからなぁ」
『幸樹殿は何か気付いた事は?』
天然についていけないのか複雑な面持ちで視線を移す霞。同様に隆弘が顔を向けた事で漸く、若者は自分が何か問われていることに気が付いた。
「説明を端折るな。聴こえねぇつったろうが」
7
広い屋敷の一角、普段は使われていない別棟にある廊下。雨戸も締め切られたままになっているため、かなり暗い。
「餓鬼の頃、ここで散々酷い目に遭わされた」
「ああ、家の中で神隠しに遭ったっけ」
思い出に耽る二人をさておいて、霞は辺りを伺った。
成る程、廊下の突き当たりに鬼門が口を開けている。そこから子鬼が出入りを行っているのも見えた。
『隆弘、同調してもらえぬだろうか』
「あ、うん」
少年は刀を鞘から抜き放つ。
親友に見守られる中、刀身から放たれたほんのりとした輝きは青いオーラとなり、炎のように少年の体にも移り、全身を覆う。
『視えるか』
「うん。凄いねぇ。大きな穴が開いてる」
『塞いでおこう。やり方はわかるな?』
「大丈夫」
返事をすると同時に少年から穏やかな雰囲気が消失した。代わりに放たれる心地よい緊張感に高揚したのか、白刃が微かに震える。
若武者は正眼に構え、鋭い呼気と共に一撃を放った。青い輝きが通り過ぎた直後、闇はにじむようにかき消える。
「ご苦労さん。じゃ次行くか」
『何!?』
「まだあるの!?」
「何故か知らんが、前来た時よりは増えてる感じだな」
面倒臭そうに頭を掻く幸樹。仕方ないねと嘆息しつつ、隆弘も刀を鞘に納めると、歩き出した。
もう一度鬼門のあった辺りを見やってから、霞も追従する。
と、幸樹の肩からきらりと流れる光の筋が見えた。近寄って確かめてみたが、蜘蛛の糸が風に揺れているだけだ。
『…まぁ無理もないか。ここも長い事手入れされておらぬようだし』
ほんの少し違和感を感じたが、気にするほどの事ではあるまいと、放置した。
8
幸樹の勘だけを頼りに回る為、三箇所目の穴を塞いだ頃には、太陽は西の稜線に差し掛かっていた。
「これで一旦帰るわ」
早朝から動き通しの為、さすがに疲労が顔に表れている幸樹。「泊まってく?」という隆弘に「嫌」と即答し、さっさと屋敷を後にした。
「幸樹でも疲れるんだねぇ」
『小鬼に絶えずちょっかいを出されておったし、余分に気を消耗したのだろう』
こういう時には妙に目端の利く少年は、美女の姿が何時もより朧げになっている事にも気付いていた。
「霞さんも今日はありがとう」
『む…別に、取り立てて礼を言われる程の事はしておらぬ』
が、彼女が慌ててそっぽを向く理由には何故か思い至らない。真っ赤になった顔を見られまいとしていただけなのだが。
「霞さんって幸樹に似てるよね、ぶっきらぼうなとことか」
『…ぅぁ…』
霞は言葉を失うしかない。意図通り顔は見られていないようだが誤解されるのもと言うか何故比較対象にあの男…と内心はかなり複雑だ。
だが、ふと嫌な気配を感じて顔を上げた。
ほぼ同時に玄関横の部屋の襖が開き、奥から人影が現れた。隆弘の母親だ。淡い色のスーツを身にまとっている。
「あれ、母さん。出かけるの?」
「ええ」
いつものやわらかい笑顔で、けれどどこかしら感じる違和感。
霞が警告するべきか悩む間も、母親は言葉を続けながら少年に近づいた。
9
「母さん婦人会に行くから」
「うん」
少年は、完全に油断していた。脇を通り過ぎる女性から、つ、と伸びた手に左手を掴まれても反応できなかった。
「『だカラ、アソボウ?』
勢いよく捻りあげられた腕から、ごきりと鈍い音が響く。
突然の激痛に思わず取り落とした刀を、母親は笑顔のまま玄関の三和土まで蹴り飛ばした。
「母、さ、ん?」
『違う!』
霞の声は、悲鳴に近い。
品の良い中年女性の華奢な体躯が内側から盛り上がり、弾けるように一瞬で掻き消えた。
代わりに現れたのは、廊下の幅一杯を占める程の屈強な巨体。頭に生えた緩やかに湾曲する角は、天井にこすれそうになっている。
にたにたと下卑た表情で嗤う鬼は、少年をそのまま宙吊りにすると、もと来た場所――玄関横の部屋へ戻るべく向きを変えた。
開いた襖の向こうには、光の届かぬ穴が口を開けていた。
『手を!』
短い言葉が示す意味を一瞬で理解し、少年は僅か先に立つ美女に向けて拘束されていない手を伸ばす。
触れれば、同調すれば、使用者の手を離れている刀でもある程度まで移動する事ができる。
だがそれより早く、闇の中から無数の手が伸びて少年を絡めとった。
『隆之!』
霞が必死に伸ばした手は、虚しく空を掴んだだけだった。
10
『どうしようどうしようどうしよう』
立ち竦み、唇を噛み締める。使用者が居ない今、霞はその場から動く事さえ儘ならない。
悔しさと不安と自身に対する怒り。零れる筈のない涙で視界がにじむ。
と、突然背後で玄関が開いた。残党がいたかと慌てて身構える。
「携帯忘れた」
『幸樹殿!』
先ほど帰ったばかりの若者の姿を捕らえ、美女の表情に光が差した。
何時もなら邪魔な存在としか思えないのだが、今回ばかりは唯一の助け手の登場に、僅かながらの安堵を覚えた。
一方の幸樹は、床に投げ出された刀に気付き、それから辺りを見回して親友の姿がないのを確認する。
どうやら自分が居ない間に良くない何かが起こったらしい。瞬時に理解し、盛大に溜息をついた。
若者が状況を知る為の手っ取り早い手段は、お互い良く理解している。
「触るけど怒んなよ」
『緊急だ、致し方ない』
幸樹は刀の柄を握ると、刀身を鞘から引き抜いた。
11
踏み込んだ時には既に襖の向こうに開いていた筈の鬼門はどこにも見当たらなかった。
『く、閉じられたか』
頭の中だけで響く声はかなり大きく、幸樹は顔をしかめた。
「俺等どんだけ相性良くないんだろうな」
『下らぬ事を言っておる場合か!』
怒りをあらわに幸樹を睨みつける美女だが、その姿はすぐ傍だというのに若者の目に映っていない。
『くう、厄介な』
ほぼ完全な同調状態――その気になれば使用者の体を霞の意思のままに動かす事も出来る――になっている筈だが、この男が言う通り余程相性が悪いらしい。
「そういやアイツ携帯持ってってるよな」
『何をしておるか!?』
屋敷奥へ向かう若者を制することすら出来ない。
「心配すんなよ、ちゃんと探してやるから…―とあったあった」
隆之の部屋に忘れていた携帯電話を見つけると、幸樹は早速ボタンを操作した。
「餓鬼の頃、携帯持ってりゃなー、と思ったもんよ」
通話口から続く呼び出し音。
ふと、聞きなれない音が微かに響いている事に霞も気が付いた。
「…仏間か?いや、あそこか…?」
『…?』
勝手知ったる何とやら、幼い頃から遊び場だった屋敷を迷うことなく進む若者。
微かだった音が次第にはっきりとした旋律を伴い、やがてある部屋の前に到達した。
「開かずの間。守り神様の部屋だからだとさ」
説明しながら襖を開けて中へ入る。
八畳ほどの部屋は手入れが行き届いていた。
明かりはなく、雨戸も締め切られているが、小さな光を伴いながら軽快な音楽を発する携帯電話はすぐに見つかった。
奥のほうに設置されている祭壇の前だ。
そして、そこにも鬼門が一つ、深い闇の口を広げていた。
12
上も下も塗りつぶされた闇の中を、二人は早足で進む。
この穴は鬼達に使われていないのだろうか、今のところ何の気配もない。
『守り神とやらが、手助けをしてくれているのだろうか』
我ながら楽観的な事を言っていると自嘲していたが、返ってきた返事は「そうかもな」というものだった。
『幸樹殿は守り神に会った事が?』
「…あれを神様と呼ぶにはちと抵抗があるが」
嫌な事を思い出したというように渋面になる若者だが、霞にとってはそれは隆弘が助かる可能性が高いという朗報だった。
『急ごう』
「…あんま期待しない方がいいぞ」
急かす霞だが、幸樹の方は今一足取りが重い。
やがて突然視界が開けた。より広い場所へ到達したのだ。
無数の鬼が思い思いに蠢いている様子から、どうやら鬼の住処らしい。
『まずいな、一旦退いて身を隠すべきだ』
その言葉が終わらないうちに、見張りだろう一頭の鬼がこちらに気づき、大声で吼えた。
鬼が、いっせいに振り向いた。
13
「おぅわっ!」
辛うじて体を捻るのが間に合った。風を切る音とともに、丸太のように太い腕が幸樹の脇をかすめていく。その風圧だけで体が流されそうになるが何とか踏みとどまった。
『体を貸せ!全て切り伏せる!』
「そんなほいほい貸せりゃ苦労しねえよ!」
襲い掛かってくる鬼に対してなりふり構わず刀を振り回す幸樹だが、剣術に関して素人なのはすぐに見透かされ、威嚇にもならない。
あっという間に取り囲まれてしまう。
『ならば、仕方ない』
(何だ!?)
声の響きに感じた違和感に、幸樹の背筋に悪寒が走った。戦いの最中だというのに手中に視線を走らせる。
刀身からゆらゆらと立ち上っていたオーラが、染み込むように消えていくのが見えた。
異変を好機と見たのか、鬼が数体まとめて襲いかかった。振り上げられた鋭い鍵爪が到達するまさにその瞬間。
凄まじい旋風のように白刃が閃き、赤い飛沫を伴いながら鬼の体を寸断した。
一瞬たじろいだ鬼達だが、すぐに数に任せて猛攻を開始した。それらを若者は先程までとは別人のような滑らかな動きで切り伏せる。
鬼を見据える瞳の奥で燃える青い輝きは、先ほどまで刀身から放たれていたものと同質だった。
(あー糞、冗談じゃねぇぞ)
頭の中で微かに響く声。
「許せ、隆弘を救うためだ」
幸樹の唇から紡がれたのは、女の――霞の声だった。
そのまま鬼の屍を越えて駆け抜けた。さざめく鬼の垣を切り払い、さらに奥へと向かう。
視線は少年の姿を求めて彷徨っていた。
14
完全に憑依した状態が負担をかけているのは明らかだった。若者の顔が見る見る憔悴していく。
「長くは保たぬか」
焦りは隙を生むとはわかっているものの、このままでは鬼の巣の中で力尽きてしまうのは明らかだ。
その前に隆弘を見つけ出したいのだが、肝心のその姿は何処にも見当たらない。
既に、鬼の手に掛けられてしまったのだろうか。
(もう少し冷静になれよ)
「わかっておる!」
不安を紛らわせるためか、ぎしりと音を立てそうな勢いで奥歯を噛み締める霞。
そのまま横に凪いだ刃は、鬼の体にめり込んだものの背骨を断ち切ることが出来ずに止まった。
引き抜く為に僅かに動作が遅れた。
鬼が、一斉に飛び掛ってきた。
突如上空から白い糸が降ってきた。投網のように中空で広がり絡み合い、あたり一面を覆い尽くす。
もちろん中心で暴れていた霞と幸樹とて例外ではない。だが、纏わり付こうとしたそれは、鬼に対して構えていた一刀で辛うじて切り払えた。
「これは…蜘蛛の糸、か?」
通常の数十倍の太さを備えるその糸は、高い粘度を備えていた。一度捕らえられてしまうと、逃れるにはかなりの時間を要するだろう。霊刀とは言えそれを切れたのは幸運に近い。
『暴れてるのは誰だろうねぇ』
上の方、糸が放たれた辺りから女の声が響いた。糸に絡め摂られた鬼達が、一斉に悲鳴を上げる。
『新手か』
身構えようとする霞だが、幸樹の反応は鈍い。より正確に言えば、再び自律行動を取り始めていた。
『幸樹殿?』
「来た来た来た来た」
顔を引きつらせてじりじりと後ずさる。
そうしている間にも、粘つく糸を音もなく伝い、声の主は現れた。
霞よりもやや年上の、肉感的な美女だ。
身に着けている色鮮やかな着物は胸元が大きく開いており、ただでさえ豊かな乳房がこぼれそうになっている。
同様にはだけているへその辺りから下は、八本の足と、黄と黒の縞模様の巨大な腹、巨大な女郎蜘蛛へと変わっていた。
15
『煩いのは嫌いだと、言っておいた筈だがねぇ?』
さも面倒臭そうに、長い黒髪を掻き揚げながら蜘蛛女は辺りを見渡していた。
『黙レ!此処ハ元々我等ノ住処!!我ノ封印ガ解カレタ今、貴様ノ好キニハサセヌ!』
女の言葉に反応したのは、少年を連れ去った大鬼だった。どうやら群れの頭らしい。網の範囲内からぎりぎり外れた場所に一頭だけで立っていた。
その姿を見た瞬間に飛び掛かろうとした霞だが、幸か不幸か既に体の主導権は幸樹が完全に取り戻している。
仮に霞の意思通りに動けたとして、周囲を覆う蜘蛛の糸に足を捕られて三歩も進めなかっただろう。
霞達を気に留める事も無く、鬼と蜘蛛女のやり取りは続いていた。
『アノ小僧ヲ殺セバ祭ル者ノ血ハ絶エル!サスレバ貴様モ力ヲ失ウ!』
『ふぅん、そう。で?』
『グゥ…!!』
鬼と蜘蛛女は対立しているらしく、そして優位に立っているのは明らかに蜘蛛女の方だった。
『隆弘は何処だ!?』
割って入る形で大声で霞が問いかけると、大鬼はすさまじい形相のままこちらを睨みつけてきた。
蜘蛛女の方も、何故か不機嫌そうに霞に視線を移す。
『何処だ!』
重ねて問いかけると、大鬼ではなく蜘蛛女の方が動いた。
右手を上げ、指先をちょいちょいと動かすと、糸に支えられた少年がおろされてきた。
妖艶な美女は、気絶しているのだろう、ぐったりしたままの少年を両手で受けとめ、胸元へ抱き寄せた。
『鬼共が嬉しそうにしてるんでねぇ、ちょいと横から拝借してやったのさね』
蠱惑的な笑みを浮かべて、少年の髪に白い指を絡める蜘蛛女。
「うあっつ!」
突然の静電気に、幸樹は思わず刀を取り落としそうになった。
気が付くと正面に、ぼんやりとした女侍の背が見えていた。
16
その場を支配する雰囲気は、先程とは明らかに変化した。
ぴりぴりと張り詰めた空気に、幸樹のみならず網から逃れようともがいていた鬼達さえも、息を殺して身じろぎすらしない。
唯一、空気に呑まれたのかやや遠慮気味にではあるが、主導権を取り戻そうと大鬼が声を上げた。
『ソノ小僧ヲ寄越セ――』
『黙れ』
『お黙り』
二人の美女に同時に睨まれ、慌てて口をつぐむ。
周囲の状況を他所に、美女達は再度向き直った。
『守り神とは貴女の事か』
一切の表情を消して蜘蛛女を見据える霞。
一方の蜘蛛女も、口元には笑みを浮かべているものの、瞳の底は底冷えするような冷たい光を帯びている。
『知らないねぇ。巣の端の上に住んでいる人間が、勝手に祭っているみたいだけど』
『では、其の者に用は無いな?ならばこちらに引き渡して頂こう』
『あんたに渡さなきゃいけない理由は何処にもないねぇ』
『いいや』
霞は決意を確かめるように一瞬目を伏せた後、真っ直ぐに、少年の姿を見つめた。
『拙者は隆弘の守護者だ。証明する者も居る。――…幸樹殿?』
「ああー、はいはい」
やや他人事風に返事を返す若者に微かに眉をひそめながら、霞は蜘蛛女に視線を戻した。
17
『…ふぅーん』
つまらなさそうに鼻を鳴らすと、蜘蛛女は名残惜しそうに指先を這わせつつも、素直に少年を地へ横たわらせた。
『何をしておる幸樹殿。早く隆弘を背負わぬか』
「俺疲れてるし、乳魔神に担いでって貰えばいいj」
『いいから早くせい!!』
(うわメンドクセー)
内心毒づきながら少年の元へ向かう。覚醒を期待して軽く揺すってみたが、それは叶わないらしい。仕方なく背負う。
その間も、二人の美女の対峙は続いていた。
『まだ随分とお若いようだけど?鬼如きにさえ遅れを取る様なお嬢ちゃんに、守護者なんて務まるのかねぇ?』
『ご心配無く。足元で騒がれて漸く気が付くご老体とは違います故』
『そうかい。それならここいらの土地の守護もお嬢ちゃんにお任せした方がいいかも知れないねぇ?』
『それ程には拙者は厚かましくはありませぬ』
(色々ツッコみてぇが口出したら死ぬだろうな)
『…ほほほ』
『…ふふふ』
表面上はにこやかな笑顔の美女達に挟まれた形で立つ若者は、ただ早く帰宅したいとそればかりを願っていた。
三人が鬼の巣を立ち去った直後。
『あんな小娘に、縄張りにずかずか踏み込まれてるなんて、あたしも鈍ってるわねぇ』
ぶつぶつと独り言ちながら、妖艶な美女は大鬼の前に降り立った。
『あんたもとっとと逃げればよかったのにねぇ』
細い細い、正しく蜘蛛の糸と呼べるそれで強靭な足を捕らえられ、逃げることが出来なかった大鬼が口を開く前に。
新たに放たれたしなやか且つ鋼を凌駕する強靭さを備えた糸によって、その場に居た全ての鬼は一瞬で絶命した。
18
翌日。
「霞さんから聞いたよ。幸樹、いつも迷惑掛けてごめん。後、ありがとう」
『今回は拙者からも礼を言う。かたじけない』
「って霞さんも言ってる」
『…わかったから、寝かせてくれ…』
外はまだ日の出前。前日の騒動の疲労もあり、幼馴染は着信には何とか応じたものの沈没寸前らしい。
「いいけど、携帯は切っちゃ駄目だよ。昨日言ったよね?霞さんと会話するの誤魔化さなきゃいけないんだから」
『…あー…んん……』
通話口から寝息が聞こえ始めた携帯電話をホルダーに納め、イヤホンマイクを装着し、少年は門をくぐって外へ出た。
『本当に、腕に異常は無いのか?』
「うん。ほら」
心配そうな霞に対して、少年はやや大げさにくるくると左腕を回してみせる。
先晩に鬼によってありえない方向へ捻じ曲げられた筈の腕は、全く問題なく動いていた。
『問題が無いならばそれで良いが』
「守り神様が治してくれたんだよ」
にこにこと無邪気な笑顔を浮かべる少年。
霞は、やや不満げな様子である。
『それで、隆弘はあの守り神…殿とは』
「そうそう、結局僕だけ見てないんだよね、僕ん家で祭ってる神様なのに。お礼言いたいのになー」
『そう、か。そうだな』
邪念など微塵も感じさせない少年らしい言動に、美女は無意識に頬を緩めた。
ふと気が付くと、少年がじっとこちらを見つめている。
『何か?』
「ううん、何でもないよ。ちょっと良い事あっただけ」
そう言ってにっこり笑う。霞は不思議そうに首を傾げていたものの、嬉しそうな少年に「そろそろ行こうか」と声を掛けられると、穏やかな笑顔で頷いた。
余分な19
「…彼女?」
幼馴染に向かって、漸くそれだけ言葉をつむいだ。
「殴っていいか?いいか?いいな?」
「うーん、嫌」
幸樹が怒っているのはいつもどおりだから、大した事は無いんだろうと、隆弘は勝手に納得する。
霞も、複雑な表情で二人を見上げていた。
『そこで何をしておるのか』
『ほほほ、確かでぇと?でぃえと?と言う、のよねぇ?』
「絶対違う!」
かさかさと音を立てる巨大な蜘蛛の足は、重力を無視しているかのように逆さになったまま信号機をしっかり捉えている。
早朝の薄暗がりの中、ランニング中の二人の前に現れたのは、身体の半分近くを糸で巻き取られた若者を両腕に抱えた蜘蛛女だった。
「これは当て付けという行動であqwsでrftgyふじこlp」
『ほ、ほほほほ、照れてるなんて可愛いわねぇ』
ちらちらと少年の方を伺いつつ、余計な事を言えないようにと抱きつく振りをして若者に更に糸を巻きつける蜘蛛女。
「…んーと」
困ったように霞と顔を見合わせる隆弘。
「放っといてもいいのかな?」
『でーととは仲睦まじい男女が行うのだろう?本人がそう言っておるのだから問題あるまい』
「うん、そうだね」
『あ、ちょ』
「あ、でも、他の人もびっくりするから、人間に化けられるなら下を歩いた方がいいと思うよ」
邪魔しちゃ悪いから、そう言ってさっさと立ち去る二人を蜘蛛女は未練がましくも見送るしかない。
(絶対殴る)
ぎりぎりと歯軋りしながら心に誓う若者。
遠くの山の頂が、朝陽を反射して明るくなりつつあった。
最終更新:2011年03月06日 07:28