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画家志望だった若い頃に暮らしていたぼろアパート。
ただでさえ安普請な造りの上、私の部屋は女の幽霊が出た。

白装束に、長い髪。顔立ちは整っているが、いつも無表情。
色彩の無い半透明な体は膝から下が完全に消えている。
典型的な日本幽霊スタイルの彼女。

幽霊が出てくる場所はいつも決まっていた。
部屋の一角にある押入れ。
襖がじわりじわりと音も無く開いていったかと思うと、
そこから若い女が無表情のまま現れ、部屋の中を徘徊する。

最初は恐ろしかった。
追い回され襲われるとかそういった直接的な干渉は無い。
霊障と言うのか、彼女が現れている間は空気だけではなく体も酷く重く感じ、
誤って彼女と接触した時は、触れた部分を中心に異常な冷たさと痺れに襲われた。
夜中に目覚めた際に、枕元に立つ彼女にじぃっと見下ろされていた時などは、
その後暫くはまともに眠れなかった。



慣れとは不思議なもの。
彼女の進路と交差しないように注意する以外は、
その存在を極当たり前のものとして受け入れるようになっていた。
時には彼女の姿を速写する事もあった。

彼女が最初に現れる押入れの襖には、人の形をした染みが浮き出ていた。
アパートに入る際に襖は全くの新品に差し替えられていたのだが、
気が付くと彼女の残像のように浮き出ていた。


その日ふと思い立ち、絵の具と筆を手に襖に向かう。
彼女の姿を思い出しながら、彼女の残像に色を乗せていく。

その晩いつものように現れた彼女は、
襖に描かれた色鮮やかな自身の姿を目にすると不思議そうにそれを眺めていた。

次の日からは、彼女は現れなくなった。

一人きりの部屋で過ごす私の心には、何故か虚無感に似た感情が生じていた。
微妙な気持ちのまま、それでも大事にしていた彼女の絵も、一日毎に色を失い、
やがて彼女と同様に、痕も残さず消えてしまった。

彼女の事は、消えぬ痛みとして心に刻み込まれた。
これ以降、女性を描く事が出来なくなった。



年月を経て、それなりに食べていける程度の絵を描けるようになっていた。
だがある時、不摂生が祟り大病を患い、結果失明すると宣告された。
死よりも目が見えない事に恐怖し、絵を描けない事に絶望した。
入院していた病室を抜け出すと、手探りに屋上まで行く。
外は雨が降っていた。
無意識に自殺を考えていたのだろうが、端に行き着く前に転んでしまった。
そのまま雨に全身を晒し、見えぬ天を仰いでいた。

暗く濁った闇の中に、鮮やかな色が見えた。
目の前に、あの日描いた色彩を伴った彼女が居た。
何時かの様に、黙ったまま私を見下ろす彼女は相変わらずの無表情。
だが、私は再会を心の底から喜んた。
私の望みがわかったのだろうか。
彼女は身を屈めると、私の体を上から下へとなぞるように手を滑らせた。
かつてと同様に、私の体を異常な冷たさと痺れが襲った。
私は黙って瞼を閉じる。
雨とは別の、柔らかく冷たい感触が、微かに頬を掠めた気がした。


結局私は死に切れなかった。
誰かが押した私の部屋のナースコール。
屋上で倒れていた私は、看護師によって発見された。

長期に渡ったものの、治療によって幸いにも失明は免れた。



今は時々彼女の姿を描く。
けれどその絵は長くは残らない。
あの日、襖に描いたものと同様に、ゆっくりと消えていく。

だからと言って彼女の姿が記憶から消える事は無い。
彼女の姿が己の想像で書き換えられる事も無い。

今、否、多分あの日からずっと。
私は彼女に取り憑かれている。

彼女が愛おしそうに撫でる度に、絵はゆっくりと消え、
そして彼女は鮮やかに色を得る。
何時か本物の肉体を得られるかもしれない。
私のそんな荒唐無稽な夢物語を聞いて以来、彼女は静かに現れる。
例のごとく無表情のまま。
私が描く彼女の姿を、
私が彼女を描く姿を、
すぐ隣で見ている。




柔らかな香りに目を覚ます。
カーテンの外は明るい。
首をめぐらせて、香りの源へ顔を向ける。
彼女が枕元で膝を折り、私の顔を覗き込んでいた。

彼女の髪が私の頬をくすぐっている。
真逆。
私は、確かめるために恐る恐る手を伸ばした。
手から逃げるように彼女が身を引く直前に、私の指はその頬に触れた。

怯えた様に揺れる瞳で、彼女は差し伸ばしたままの私の手を眺めていた。
今度は彼女が、恐る恐る細い指を私の手の甲に重ねる。
少しだけ冷たく、柔らかな感触。
彼女の頬が、徐々に紅潮していく。
私は静かに微笑みかけた。


何時かまた、離さなければならなくなるかもしれません。
だから、それまではずっと、手をつないでいて下さい。

私が最後に描いた彼女の絵。
それに何時の間にか、彼女が文を添えていた。
額に納められたその絵の前で、私達はお互いの手を握り直した。
その感触を、存在を確かめる様に。
最終更新:2011年03月06日 08:03