摂津国は、現在の大阪府の大阪市域とその北方の高槻市・摂津市・茨木市・吹田市・豊中市・箕面市・池田市・豊能郡の地域、および西方の兵庫県の尼崎市・伊丹市・宝塚市・川西市・西宮市・芦屋市・神戸市・三田市の地域を含んでいました。そしてそのなかには、島上・島下・豊島・能勢・西成・百済・住吉・河辺・武庫・菟原・有馬・八部などの諸郡が置かれていました。
古代からの日本の歴史を考えるに当たって、近代初頭までの国郡制はその各々の地域における独自の歴史(地域史)を知る根幹となる要素である。したがって、地域社会という生活共同体の歴史をたどることによって、日本史のなかにおけるその地域の果たしてきた役割を鮮明にできると同時に、国郡制に基づいた地域区分を何らかの理由によって取り違えると非常にゆがんだ形の地域史を形づくると考えるのである。明治維新政府は新しい政治理念を打ち立てるに際し、徳川幕府体制の軸であった大名領組織を政府直轄とし、いわゆる廃藩置県を断行するが、その実施に当たりほとんどの地域で最終的に国郡制下の一国ないし三国を統合して一府県に編成した。
大化の改新以後のわが国の国郡制度はそれ自体がすばらしい制度であったので、大きな政変が繰り返し生じたにも拘らず明治維新に至るまで連綿と1200年以上も受け継がれ、江戸時代にはその爛熟期とも考えられるものであった。それを明治政府は、明治4年7月29日(太陰暦)に廃藩置県の挙に出たのを機に全国的にそれぞれ隣接の他国同士を合わせて府県制度を確立させていく。この過程で明治維新新政府の試行錯誤はすさまじく、広範囲に府県の分合を繰り返していくのであるが、大阪府の場合は特にその傾向が強く明治20年11月に現在の地域としての大阪府ができ上がるまで、実にさまざまな形の大阪府を構成している。