難波津

難波津




古代の大阪湾岸地域において、政治・経済などの中心として最も重要な位置を占めていたのは、現在の大阪市中央区・東成区・天王寺区の一部にあたる「ナニワ(難波)」と呼ばれる地域でした。

瀬戸内海の東端に位置し、水陸交通の要衝であった難波地域の発展において、港津は重要な役割を演じていました。

国家的港津としての難波津が発展する大きなきっかけは、5世紀代と推測される、大阪湾とその内陸に入り込んだ河内潟をつなぐ「難波堀江」の開削にあると考えられています。

『古事記』『日本書紀』にみえる難波地域に関する記録によれば、この港は、国内交通における要衝として機能しただけでなく、隋・唐・高句麗・百済などの外国使節の来日の際にもしばしば利用されており、国際的にも重要な港でした。

このように国家的な重要港津であった難波津には、すくなくとも6世紀ころには、朝廷によって屯倉が設定されていました。そして、その屯倉を中心に、外交の施設である「難波館」「大郡」などをはじめとする多くの朝廷の出先機関がしだいに設置・整備されていきました。

また、諸豪族にとっても、難波津は、西日本各地に領有する土地や人民を統制し、そこからの貢納物を確実に収取するために重要な港津でした。そのためこの港には、蘇我氏・物部氏などをはじめとする多くの豪族たちが、倉庫をもった「宅」を置いていました。「大化の改新」の一環としての難波遷都も、このような素地のうえに行われたものでした。

難波津の所在をめぐっては、これまで二つの有力な説が対立しています。一つ目の説は、この港の位置を現在の大阪市中央区三津寺付近に比定する説です。二つ目の説は、この港の所在地を現在の大阪市中央区の高麗橋付近に比定しています。現在のところ難波津の所在地を確定するだけの文献・考古データは蓄積されておらず、その比定地は不明とするしかありません

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最終更新:2011年04月12日 03:16