明治4年7月14日の廃藩置県時の大阪府は旧来の大坂三郷とその隣接地の幕府天領というごく限られた地域であり、同年11月20日の府県改廃時においても旧摂津国のうちの旧大坂三郷を含む東成・西成の両郡および住吉・島上・島下・豊島・能勢の5郡を大阪府域とするにとどまりました。それに反し従来は摂津国の一部であった川辺・武庫・菟原・有馬・八部の5郡は、この日以後、永遠に大阪というエリアに戻らなくなりました。
しかも、明治14年2月7日には堺県と統合されて広大な大阪府が成立します。当時の堺県は国郡制下の和泉国・河内国・大和国のすべてであり、大阪府には現在の奈良県を含む広域行政が求められました。広域行政はその後6年9ヶ月に及び、ようやく明治20年11月4日にやっと現在の大阪府域となりました。
兵庫県もまた当初は。摂津5郡による成立にすぎなかったのですが、明治9年8月21日には、飾磨県であった播磨国、淡路県であった淡路国、豊岡県であった但馬国の全域と丹波国の一部を編入し、日本海と瀬戸内海の両方、いな太平洋にも面する唯一の県となりました。
ここで注目すべきことは、旧摂津国が2つの府県に分割されていることです。2つの府県として真っ二つに分割された国の例としては、他に武蔵国と肥前国がありますが、東京と埼玉も長崎と佐賀の場合も真っ二つに割かれたとはいえ、島嶼部に属する地域を除いては陸続きの他国を合わせることはありませんでした。 しかし、摂津国は真っ二つに分割された上に文化風土の違う陸続きの他国との結びつけを意図的になされています。明治初頭、新政府は、天下の台所であった大坂の、財力を伴う実力が怖くて、資金力のある大坂と酒造りなどの生産力が温存されている灘五郷・伊丹・西宮を引き裂く、いわゆる「摂津国分断」の挙に出たものと考えることができます。
明治維新までの国郡意識の中では、有馬の湯はもちろんのこと、灘の酒も三田の松茸も名塩の和紙も、すべて「摂津国」の特産品、すなわち摂津一国の国内生産物であったのに、明治期以後の府県区分の中で徐々に大阪との関係が薄められていくのです。
江戸時代、諸大名の蔵屋敷を通じて行われた米の買い付けと両替金融によって築き上げた大坂の資本は、二次生産物であるお酒を国内(灘・伊丹・西宮など)で生産することにより二重に富を得ることができ、さらにその酒を調合して江戸に出荷して、日ならず大坂を「天下の台所」とうたわしめたのですが、明治維新政府への御用金の調達と明治初頭の四大経済改革(蔵屋敷の廃止・銀目貨幣停止・株仲間解散・旧藩債処分)により大坂の経済力は急激かつ極度に疲弊するに至りました。