安価『社長』

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安価『社長』 - (2008/11/02 (日) 21:19:49) の編集履歴(バックアップ)


 お時間です、と崎元が扉越しに言った。
 時刻は7時20分。起きた時間はいつも通りなのに妙に体が重い。
 ガラスの向こうに見える空は白く、色の無いいつもの朝だった。
 崎元に聞こえないように、四季は小さくため息をついた。

「本日は15時45分ごろにお迎えに上がります。16時30分より経営会議、18時30分終了予定です。その後M社の専務と19時より会食となっております。申し訳ありませんがさらに22時から……」
「わかった。4時半からの会議の資料は丁寧に作らせろ。叔父貴はデータにうるさい。それからコーヒーだけじゃなく紅茶の用意も忘れるな。
 東の伯母には僕から断りの電話を入れておく」

 これが今の自分の日常の会話であることにも慣れた。
 殆どの移動を車に頼ることも慣れた。
 一分一秒を惜しんで、すきあらば脳を休めることも覚えた。
 家に父が殆どいないことに不満も持っていたが、今なら身をもって理解できる。

「四季様、もうすぐお誕生日ですが、」

 それでも父は激務の合間を縫って遊んでくれた。
 四季の誕生日には何があっても、何時になっても必ず家に帰ってきてくれた。翌朝四季が目の醒めるまでに必ず父は枕元にプレゼントを置いてくれていた。
 無理しなくてもいいと、遅れても構わないと何度か言ったこともある。だがそのたびに四季の父は「毎年の楽しみを奪ってくれるな」と笑った。
 だから、

「親父の命日だ」

 父も、母も、死んでしまった。



 四季が15歳になった日。誕生日おめでとう、とそのときの彼女が初めてキスをくれた日。
 父母を乗せた車が谷底に落ちた日。
 その日を境に四季の世界が変わった。
「崎元、この辺でいい」
 軽く寝ていたらしい四季は眠気を飛ばすように頭を振った。
 通学途中の生徒を邪魔するようにいつも校門前まで行くのは、あまり見た目のいい行為ではない。
だから毎朝崎元に学校の手前100mほどの公園で留めさせているのだが、崎元は一向にそれを習慣として受け付けない。
「それでは15時45分頃にお迎えに上がります。いってらっしゃいませ」
 殆ど強制的に車を止めさせて(信号待ちでドアを開けて)四季は車を降りた。
 時間がまだ早いからか生徒は少ない。とは言え、制服の無い学校であるから誰が生徒なのかという判別を付けるわけではない。
この道の先には四季の通っている学校しかないだけだ。
 黄色くなり始めた銀杏並木の緩い坂道を登っていくと、蔦の絡んだレンガの門が見えてくる。
 今日は午前中までに昨日提出されたフォーキャストをチェックして、ドラフトデータの作成を頼んで──。
 歩きながら今日の学校での予定を考えていた四季は唐突に立ち止まった。
「しまった……」
 四半期決算と被っていてすっかり忘れていた。
 だいたい毎回同じ時期になるのだが、今回ばかりは完全に失念していた。
 それでなくても出席日数が危ういというのに、今回こそはなんとかしなくてはならないというのに。
 参ったなぁと頭を抱えた四季の背後から声が飛んでくる。少し癖のある髪が一歩踏み出すたびに跳ねていた。

「ノート見せてって、また?」
 教室までの道すがら、両手を合わせて四季は千紘を拝んだ。
「忙しいのわかるけどさ、他に優秀な人もいるんだろうからもうちょっと学業をさあ」
 などとブツブツ言いながらも千紘は四季に見えるようノートを机に広げた。綺麗とはいえないが、統一感のある大きさの文字は
密かに几帳面な千紘の性格そのままだと思う。


 まだ始業まで30分もあるせいか校舎はまだ静かだった。
 四季がノートの上にシャーペンを走らせる音と、千紘が漫画雑誌をめくる音だけが妙に大きく聞こえる。
「あれ? 千紘、これおかしくないか?」
「え、どこどこ? ああこれか。おかしいの?」
「だって代入するもの間違ってる」
「おおっと。」
 些細な、高校生らしいやり取り。
 ふざけたり、笑ったり、怒ったり。
 崎元の前や家では決して出すことの無い四季という高校生の顔。 
 変わってしまった世界で唯一変わらないもの。
 一年前に壊れた世界の残骸は、このわずかなひと時にしか存在しない。
 だからこの場所だけは壊されたくない。この場所だけは失いたくない。


「おい、四季?」

 頭が、重い。

「四季!」

 体が、あつい。
 ぐらぐらと視界が。意識が、揺れて、揺れて。

「センセーっ!! 矢ケ瀬君が!」

 甘いような苦いような、苦しいような安らかになるような、そんな香りがしたんだ。



 最悪の席替えだったと日ごろからぼやいていたけど、四季の後ろで良かったと心底思った。
 朝はいつもどおりだった。強いて言うなら少しだけ顔が赤かったような気がする。
でも教室に入ってそれはわからなくなったから、特に問題はないと思っていたのが間違いだった。
 四季の少し延びすぎた髪が視界の端から消えて、考えるよりも早く手が四季にのびた。立ち上がった
拍子に椅子が音を立てて倒れる。机もノートと教科書とシャーペンと、いろんなものを撒き散らしながら
傾き倒れた。

「センセーーーーーーーーー!」

 誰かが最初に上げた悲鳴が広がっていく。
 何事かと集まった野次馬のせいで四季を保健室に連れて行くのも大変だった。
 中間試験前の自習中で教師がたまたま不在だったせいで騒ぎは大きくなったのだから、
いつも威張り散らしているあの数学教師にはいい薬だとか、女子生徒の叫び声に鼓膜が裂けるかと
思ったりしたあたり、ある意味で千紘は冷静だった。
 だからこそ、四季の異常の異常性に千紘は気づくことが出来た。

 なんだ、これ。

 ヒトは、ある一定の体温でしか生きることが出来ない。
 およそ27度から42度。それ以下であれば生命活動が徐々に低下し、それ以上なら体を構築する
たんぱく質が変質していく。どちらの場合も長時間続けば生体としての機能を失い、いずれ死ぬ。

 四季の体に触れた手と腕に痛みすらあった。

 なんだ、これ。

 苦しそうにも見えない、眠るように気を失った四季は、汗一つかいていない。逆に千紘のほうが
四季の熱で熱くて仕方が無かった。


 もう救急車が来るから大丈夫と保健室を追い出された後、携帯が振動した。
 こんな時間に携帯を鳴らすのはグループにすると一つしかない。千紘は着信画面を見て、
うんざりしながら通話ボタンを押した。

「今学校なんだけど」

 そう千紘が言った言葉に全く耳を貸さず、一方的に何を言っているのかはっきりとわからない早口は
少しは好きだった女の声だ。会話のための道具を使っておきながら、全く会話をしようという気が無いように
思える喋り方。こんな喋り方をし始めると大抵の場合面倒になる。
 特に今日みたいな日は最悪だ。

「悪いけど、もう会うつもりは無いから」

 金切り声のようなヒステリックな声が聞こえたような気がしたが、千紘は構わずに通話を切った。
ほんのすこしだけ、電話越しの女の髪を思い出して早まったかなと思ったけれど。
 どうせ自分の都合のいいように解釈して、千紘がすべて悪いと思い込むのだろう。それも別に
今に始まったことではないし、この女だけの話ではない。生活圏がまるで違う人間同士であれば
実害なんてあって無きが如しであるから風の噂で友人にそんな話が聞こえても、間に受ける奴は
そう居ない。

 現に学校内では彼女の存在など全く無いことになっている。
 四季ですら、たぶん知らない。誰に言うことでも無いだろうから言わずにいたら、他の男子からの
合コンの誘いが増え、さらにそれを断り続けていたらゲイ疑惑まで沸いた。
「お前がゲイなら、一緒にいる俺までゲイだと思われるかねん。せめてそれくらい訂正しろ」
 そう四季は冷たく突き放さしたつもりだったらしいが、基本的に天邪鬼なので少し困ったり寂しそうに
していると言葉が変わる。
「まあ……俺は女の子と遊んでる時間も無いし、どう思われてもいいんだが」
 お前が困るだろうと言う。


 高校入学当初から大会社のオーナー社長と言う肩書きを持った四季に対して、同級生はおろか
教師までもが一定のラインを引いている。四季も四季でそれを変えようとする気が皆無だから
状況が変わることも無い。
 勉強面は放っておいても特に問題ないレベルではあるのだが、人間関係に対する消極性は
自惚れと言われても仕方ないが、千紘がいなくては完全にクラス内で孤立しただろう程度くらいには
酷い。千紘が電話やメールをしても返すことも少ないし、来たとしても一言二言で会話やメールは終わる。

 あれで1万人を超える社員を抱える会社を動かしているとは到底思えないのだが、四季が社長
となってから見るようになった新聞の株価を見る限り、大きな失敗も無く、逆にさらに成長している。
 成功していると思ってもいいのだろう。

 だけど。
 もう10年も一緒にいるから心配になる。
 元々あまり肉のついてない体が更に細くなって、身長だけは今でも四季のほうが高いがそれももう
数ヶ月後には変わる。
 少しは休めと言っているつもりでも、四季はそれをマジメに受け取らない。
 もっと食えと言っても食事を増やそうという姿勢は全く見えないし、むしろ徐々に減っている。
 心配してるんだと言っても四季は大丈夫の一点張りだ。

 教室に戻るとあの数学教師ではなく担任が、千紘が席に着くのを待ってその時間の自習継続を告げた。

 ラインを引かれているのはたぶん千紘も同じだ。
 他の友人とは違う場所に引かれたラインは同じように千紘も拒んでいる。



 矢ケ瀬四季の意識が戻るのはそれから二週間後のことになる。



──………の……は…

   ──……す……んかが……残念ながら
──…………ベルは……り正常……

        ──………………………………ドクタ!!!


 ひかり。しろくて、まぶしい。ひかり。

「しきさま」

 なまえをよぶのはだれ?
 しろいかべのまえに、くろいひと。

「しきさま」

 どこかで、見た。
 ちかくに立っていたことも思いだせそうな。

 ちひろ?
 ちがう。

 違う。
 千紘じゃない。


 スーツ。
 ネクタイ。
 細いめがね。
 レンズの奥の眼はもっと細い。
 いつも殆ど無表情な顔が、殆ど開いているか閉じているかもわからないような目が
しっかりと開いて四季を見つめている。

「……さき、もと? ──え?」

 聞いたことの無い声がする。
 自分の言いたかった言葉を、自分の言いたいタイミングで知らない声が喋る。

「なんだこれ」

 崎元に目を走らせ、その表情を確かめると、四季は自分の手元に視線をやった。

「なんだなんだこれは」

 布団の上に流れ落ちるように視界に入り込んできた長い髪。 


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