安価『社長』

 お時間です、と崎元が扉越しに言った。
 時刻は7時20分。起きた時間はいつも通りなのに妙に体が重い。
 ガラスの向こうに見える空は白く、色の無いいつもの朝だった。
 崎元に聞こえないように、四季は小さくため息をついた。

「本日は15時45分ごろにお迎えに上がります。16時30分より経営会議、18時30分終了予定です。その後M社の専務と19時より会食となっております。申し訳ありませんがさらに22時から……」
「わかった。4時半からの会議の資料は丁寧に作らせろ。叔父貴はデータにうるさい。それからコーヒーだけじゃなく紅茶の用意も忘れるな。
 東の伯母には僕から断りの電話を入れておく」

 これが今の自分の日常の会話であることにも慣れた。
 殆どの移動を車に頼ることも慣れた。
 一分一秒を惜しんで、すきあらば脳を休めることも覚えた。
 家に父が殆どいないことに不満も持っていたが、今なら身をもって理解できる。

「四季様、もうすぐお誕生日ですが、」

 それでも父は激務の合間を縫って遊んでくれた。
 四季の誕生日には何があっても、何時になっても必ず家に帰ってきてくれた。翌朝四季が目の醒めるまでに必ず父は枕元にプレゼントを置いてくれていた。
 無理しなくてもいいと、遅れても構わないと何度か言ったこともある。だがそのたびに四季の父は「毎年の楽しみを奪ってくれるな」と笑った。
 だから、

「親父の命日だ」

 父も、母も、死んでしまった。



 四季が15歳になった日。誕生日おめでとう、とそのときの彼女が初めてキスをくれた日。
 父母を乗せた車が谷底に落ちた日。
 その日を境に四季の世界が変わった。
「崎元、この辺でいい」
 軽く寝ていたらしい四季は眠気を飛ばすように頭を振った。
 通学途中の生徒を邪魔するようにいつも校門前まで行くのは、あまり見た目のいい行為ではない。
だから毎朝崎元に学校の手前100mほどの公園で留めさせているのだが、崎元は一向にそれを習慣として受け付けない。
「それでは15時45分頃にお迎えに上がります。いってらっしゃいませ」
 殆ど強制的に車を止めさせて(信号待ちでドアを開けて)四季は車を降りた。
 時間がまだ早いからか生徒は少ない。とは言え、制服の無い学校であるから誰が生徒なのかという判別を付けるわけではない。
この道の先には四季の通っている学校しかないだけだ。
 黄色くなり始めた銀杏並木の緩い坂道を登っていくと、蔦の絡んだレンガの門が見えてくる。
 今日は午前中までに昨日提出されたフォーキャストをチェックして、ドラフトデータの作成を頼んで──。
 歩きながら今日の学校での予定を考えていた四季は唐突に立ち止まった。
「しまった……」
 四半期決算と被っていてすっかり忘れていた。
 だいたい毎回同じ時期になるのだが、今回ばかりは完全に失念していた。
 それでなくても出席日数が危ういというのに、今回こそはなんとかしなくてはならないというのに。
 参ったなぁと頭を抱えた四季の背後から声が飛んでくる。少し癖のある髪が一歩踏み出すたびに跳ねていた。

「ノート見せてって、また?」
 教室までの道すがら、両手を合わせて四季は千紘を拝んだ。
「忙しいのわかるけどさ、他に優秀な人もいるんだろうからもうちょっと学業をさあ」
 などとブツブツ言いながらも千紘は四季に見えるようノートを机に広げた。綺麗とはいえないが、統一感のある大きさの文字は
密かに几帳面な千紘の性格そのままだと思う。


 まだ始業まで30分もあるせいか校舎はまだ静かだった。
 四季がノートの上にシャーペンを走らせる音と、千紘が漫画雑誌をめくる音だけが妙に大きく聞こえる。
「あれ? 千紘、これおかしくないか?」
「え、どこどこ? ああこれか。おかしいの?」
「だって代入するもの間違ってる」
「おおっと。」
 些細な、高校生らしいやり取り。
 ふざけたり、笑ったり、怒ったり。
 崎元の前や家では決して出すことの無い四季という高校生の顔。 
 変わってしまった世界で唯一変わらないもの。
 一年前に壊れた世界の残骸は、このわずかなひと時にしか存在しない。
 だからこの場所だけは壊されたくない。この場所だけは失いたくない。


「おい、四季?」

 頭が、重い。

「四季!」

 体が、あつい。
 ぐらぐらと視界が。意識が、揺れて、揺れて。

「センセーっ!! 矢ケ瀬君が!」

 甘いような苦いような、苦しいような安らかになるような、そんな香りがしたんだ。



 最悪の席替えだったと日ごろからぼやいていたけど、四季の後ろで良かったと心底思った。
 朝はいつもどおりだった。強いて言うなら少しだけ顔が赤かったような気がする。
でも教室に入ってそれはわからなくなったから、特に問題はないと思っていたのが間違いだった。
 四季の少し延びすぎた髪が視界の端から消えて、考えるよりも早く手が四季にのびた。立ち上がった
拍子に椅子が音を立てて倒れる。机もノートと教科書とシャーペンと、いろんなものを撒き散らしながら
傾き倒れた。

「センセーーーーーーーーー!」

 誰かが最初に上げた悲鳴が広がっていく。
 何事かと集まった野次馬のせいで四季を保健室に連れて行くのも大変だった。
 中間試験前の自習中で教師がたまたま不在だったせいで騒ぎは大きくなったのだから、
いつも威張り散らしているあの数学教師にはいい薬だとか、女子生徒の叫び声に鼓膜が裂けるかと
思ったりしたあたり、ある意味で千紘は冷静だった。
 だからこそ、四季の異常の異常性に千紘は気づくことが出来た。

 なんだ、これ。

 ヒトは、ある一定の体温でしか生きることが出来ない。
 およそ27度から42度。それ以下であれば生命活動が徐々に低下し、それ以上なら体を構築する
たんぱく質が変質していく。どちらの場合も長時間続けば生体としての機能を失い、いずれ死ぬ。

 四季の体に触れた手と腕に痛みすらあった。

 なんだ、これ。

 苦しそうにも見えない、眠るように気を失った四季は、汗一つかいていない。逆に千紘のほうが
四季の熱で熱くて仕方が無かった。


 もう救急車が来るから大丈夫と保健室を追い出された後、携帯が振動した。
 こんな時間に携帯を鳴らすのはグループにすると一つしかない。千紘は着信画面を見て、
うんざりしながら通話ボタンを押した。

「今学校なんだけど」

 そう千紘が言った言葉に全く耳を貸さず、一方的に何を言っているのかはっきりとわからない早口は
少しは好きだった女の声だ。会話のための道具を使っておきながら、全く会話をしようという気が無いように
思える喋り方。こんな喋り方をし始めると大抵の場合面倒になる。
 特に今日みたいな日は最悪だ。

「悪いけど、もう会うつもりは無いから」

 金切り声のようなヒステリックな声が聞こえたような気がしたが、千紘は構わずに通話を切った。
ほんのすこしだけ、電話越しの女の髪を思い出して早まったかなと思ったけれど。
 どうせ自分の都合のいいように解釈して、千紘がすべて悪いと思い込むのだろう。それも別に
今に始まったことではないし、この女だけの話ではない。生活圏がまるで違う人間同士であれば
実害なんてあって無きが如しであるから風の噂で友人にそんな話が聞こえても、間に受ける奴は
そう居ない。

 現に学校内では彼女の存在など全く無いことになっている。
 四季ですら、たぶん知らない。誰に言うことでも無いだろうから言わずにいたら、他の男子からの
合コンの誘いが増え、さらにそれを断り続けていたらゲイ疑惑まで沸いた。
「お前がゲイなら、一緒にいる俺までゲイだと思われるかねん。せめてそれくらい訂正しろ」
 そう四季は冷たく突き放さしたつもりだったらしいが、基本的に天邪鬼なので少し困ったり寂しそうに
していると言葉が変わる。
「まあ……俺は女の子と遊んでる時間も無いし、どう思われてもいいんだが」
 お前が困るだろうと言う。


 高校入学当初から大会社のオーナー社長と言う肩書きを持った四季に対して、同級生はおろか
教師までもが一定のラインを引いている。四季も四季でそれを変えようとする気が皆無だから
状況が変わることも無い。
 勉強面は放っておいても特に問題ないレベルではあるのだが、人間関係に対する消極性は
自惚れと言われても仕方ないが、千紘がいなくては完全にクラス内で孤立しただろう程度くらいには
酷い。千紘が電話やメールをしても返すことも少ないし、来たとしても一言二言で会話やメールは終わる。

 あれで1万人を超える社員を抱える会社を動かしているとは到底思えないのだが、四季が社長
となってから見るようになった新聞の株価を見る限り、大きな失敗も無く、逆にさらに成長している。
 成功していると思ってもいいのだろう。

 だけど。
 もう10年も一緒にいるから心配になる。
 元々あまり肉のついてない体が更に細くなって、身長だけは今でも四季のほうが高いがそれももう
数ヶ月後には変わる。
 少しは休めと言っているつもりでも、四季はそれをマジメに受け取らない。
 もっと食えと言っても食事を増やそうという姿勢は全く見えないし、むしろ徐々に減っている。
 心配してるんだと言っても四季は大丈夫の一点張りだ。

 教室に戻るとあの数学教師ではなく担任が、千紘が席に着くのを待ってその時間の自習継続を告げた。

 ラインを引かれているのはたぶん千紘も同じだ。
 他の友人とは違う場所に引かれたラインは同じように千紘も拒んでいる。



 矢ケ瀬四季の意識が戻るのはそれから二週間後のことになる。



──………の……は…

   ──……す……んかが……残念ながら
──…………ベルは……り正常……

        ──………………………………ドクタ!!!


 ひかり。しろくて、まぶしい。ひかり。

「しきさま」

 なまえをよぶのはだれ?
 しろいかべのまえに、くろいひと。

「しきさま」

 どこかで、見た。
 ちかくに立っていたことも思いだせそうな。

 ちひろ?
 ちがう。

 違う。
 千紘じゃない。


 スーツ。
 ネクタイ。
 細いめがね。
 レンズの奥の眼はもっと細い。
 いつも殆ど無表情な顔が、殆ど開いているか閉じているかもわからないような目が
しっかりと開いて四季を見つめている。

「……さき、もと? ──え?」

 聞いたことの無い声がする。
 自分の言いたかった言葉を、自分の言いたいタイミングで知らない声が喋る。

「なんだこれ」

 崎元に目を走らせ、その表情を確かめると、四季は自分の手元に視線をやった。

「なんだなんだこれは」

 布団の上に流れ落ちるように視界に入り込んできた長い髪。 

「惚れたっ! たのむ、俺と結婚してくれぇ!!」
いつの間にか顔を真っ赤にしたこいつは、真剣な表情であり得ないことを叫びやがった。
え、なに? 俺に何をしてくれって?
突然のこの状況に思考が追い付かない。俺が朝おきたら女になっていたときより、混乱しているかもしれない。
そう、そうだ。俺は女体化した、そうしたら、こいつが惚れて、結婚を申し込んできた。
なるほど、そう言うことか。
うんうん。今の俺はなかなか可愛いから仕方ないな。
「ってなんでじゃあぁあぁぁぁぁ!!」
思わず一人ノリ突っ込み。うんやっぱり俺も混乱してるな。
「おかしいだろ? なんだお前いきなり結婚て。馬鹿か? ほんとに!
ここで付き合ってくれならまだしも、いやそれでも早いのに、それどころか結婚! ありえないから!
お前もっとこう、フラグたてようとは思わんのか? 好感度あげてやろうとは思わんのか?
恋愛をっナメるなあぁぁぁぁ!」



 ここ数年まことしやかに囁かれる噂のようなもの。
 曰く、両性体(両性具有)が増えているとか、童貞は行方不明になるとか、女児が減っているとか。
 確証など無いまま、わずかに現象の痕跡が残るそれは都市伝説の範疇に納まらない噂話として広く知られて
いた。

 四季が学校に来なくなって2週間ほど経った日のこと。

「矢ケ瀬君の見舞いに行ってほしいんだが」

 中間テストも終わってどことなく生ぬるい倦怠感みたいなものが教室全体に広がっている午後、そんなことを担
任が言った。
 一番仲がいいということでカンパで集めた4千円と、連絡事項のプリントやら宿題やらもろもろを持って、千紘は
四季が入院したらしい病院に向かった。


 千紘は少し苛立っていた。
 何度か四季の携帯に電話をかけて、秘書が二回か三回か出たのに、四季に会えるようになったら連絡をくれと
何度も言ったのに無視をされた。頭越しにされたのに少し腹を立てていた。
 だけどそう思うのは自分が子供だからか、とも思う。
 道すがらの花屋で適当に見繕ってもらった花をぶら下げて、ナースステーションのオバサンに愛想笑いで四季の
部屋を訊いた。
「そこ特別室なんだけど、面会許可はとってるのかしら?」
「すいません、僕担任に言われて来たので詳しくは知らないんです」
「あら。じゃあ訊いてくるから、そこのソファで待っててくれる?」
 年配のナースはソファというか草臥れたクッション付きベンチと言うべき代物を指差した。
 ありがとうございますとお礼を一応は言って、千紘は壁際のソファに座った。



 しばらくマガジンラックにあった新聞やら雑誌やらを眺めていた千紘だったが、余りに遅いことに窓の向こうに沈んで
いく夕日をみて気がつく。

──一時間、経ってる?

 急に容態が悪くなった、とか?
 それにしてはナースステーションが静か過ぎる。
 だとすれば面会拒否だとか、そういうことだろうか。
 だけどこれは見舞いに行って来いと担任が言うくらいだから、学校にもう大丈夫だと連絡が入ったと考えていいはずだ。
 では単純に社会的立場という意味で問題があるということか。
 それは十分にありうるが、どうせあの番犬のような秘書が張り付いているはずだ。一応あの秘書には面識があるし、
名前もたぶんあっちは知っているはずだ。もちろんあまり好意的に思われていないという前提でも、流石に見舞いを
無碍に断ることはしないだろう。
 それにあのナースも行って帰ってくる間に忘れるとかいうことも無いはずだ。
 じゃあなぜここまで時間がかかるのか。

──わからない。

 予測しか出来ないことを考えたところでしょうがない。
 とりあえず脳味噌を使ったから糖分摂取でもしようと、自販機でコーラのボタンを押したときだった。

 ふわりと何かが舞って、黒い帯が追随する。

「「あ」」

 オレンジ色の夕陽に濡れた病院の片隅で、少女が上から降ってきた。



 白い入院服の裾が広がった。
 絶世の美少女が追跡者を振り切るために飛び降りて、それをと颯爽と助けて逃げるヒーローとかそんな
漫画やなんかにありがちなシーン。そんな妄想が一瞬頭をもたげ、ファンタジーじみた天使の羽根なんぞ
が降ってもいいなと更に思っても、現実に響くのは

「ど、どけぇぇぇぇええええっ!」

 悲鳴みたいな声。
 スローモーションで見えればもう少しドラマティックになろうものだけど現実はそんなこともなく。
 躊躇えば完全に彼女の足あたりと正面衝突しそうで咄嗟に体を引いて、花束を捨てた手を伸ばした。
 軽そうに見えても実際は重力加速も伴った見た目以上の重量感。いくら部活で鍛えてるとは言っても流石に
人間一人を不動で受け止めたり出来るほどではないわけで。
 軸足のバランスを失った千紘は、コーラを買った自販機で背中を強打しつつ、みぞおちに少女の膝が入って
一瞬意識が飛びかけた。



-*-*




 予想の範囲をもう少し広げるべきだったと思う。
 だけどまさかこんな時間まで残っているとは思っていなかった。
 帰るように伝えてもらったはずなのにどうしてコイツはまだいるんだろう──?



-*-*





「大丈夫?」

 みぞおちのダメージで視界が白黒しながらも、一応少女に声をかけたのは、生来のレディーファーストと言うべきだ
(決して姉の言うようなタラシ根性ではない)。大きく上下する肩が気になっただけでそれ以外に特に考えていたわけ
じゃない。
 自販機の前に無様に倒れこんだ(座り込んだ?)千紘の上に落ちてきた少女は、どうしたことか千紘の質問に
何も答えない。先ほどの絶叫を聞いているので喋れないということは無いのに、いくつか質問を投げかけても
一向に答える様子は無かった。しょうがなく顔を覗き込んでみようとしたけれど、不自然なほど顔を背けたりもする。
 突然遭遇でいきなり嫌われたとか。しかも衝突みたいな状態で、殆ど不可抗力のような出来事でさっさと嫌われるとか
なかなかに事態はスパイシィだ。
 だからといって自分の上から移動するつもりは無いらしい彼女は、たぶん自分の変な妄想とは少し違っているが、
美少女というカテゴリーには納まっていた。
「ごめん、ちょっとどいてくれないかな?」
 色素の薄い皮膚に真っ黒の髪。なんとなく雰囲気が誰かに似ているような気がするけどそれが誰かもよくわからない。
たぶん付き合ってきた元カノのうちの一人に似てるとかそういうことに違いない。
 だけど髪の隙間から見える唇の赤さとか、睫の長さとか、長い黒髪とか。記憶の中に該当しそうな人は全くいない。
そもそも大和撫子然とした日本人形のような少女は千紘の好みから大きく外れている。相手はともかくとして自分は
切ることを前提にした付き合いしかしないのだから当然だ。
 艶のある墨みたいな髪が震えた。
 質問には答えないからお願いをしてみたけれど、反応は先ほどと変わらずに薄い。
 たださっきとは違って動こうとしようとしている様子はわかる。

 わかる、のだが。

「どこか打ったの?」

 さっぱり動けていない彼女にやっぱどこか痛めたのかと訊いてみるとようやく返答があった。



「……りして……しが……」
「え?」
「……力が入らないんだよ! 二度も言わすなっ!」

 ギンと千紘を睨み付けた少女は見た目とはかなり相反する言葉遣いをして、力が入らないとか言いながらも立ち上がった。
 どこかふらついてはいたが痛めたような感じでは無い。
「ごめん、ありがと」
 そのまま立ち去ろうとした彼女の手を咄嗟に掴んだのは、千紘に向かって睨み付けたあの目は確かに知っている目
だったから。自販機の中に何故か1本分しか金を入れてないのに2本出ていることに気づいたとか、そんなのは後付の
いいわけだ。
 どうやって引き止めたのかもわからないくらい適当なでっち上げをして、棘のようだった少女の態度が幾分か軟化した
のは、缶の中身が半分くらいになってからだった。


 沈黙に耐えれなくなったのか、それとも単純に千紘に興味を持ったのか、少女が口を開いた。
「見舞いはいいのか」
 さっきのドタバタで殆ど花びらが散った花束をゴミ箱に放り込んだ千紘は「今日は会えそうにも無いからいいや」と俯く。
 もう窓の外は夕闇だった。
 面会時間も終わりかけているし、一時間も放置プレイをされたのだから今日は会えないと考えるべきだ。
「なら見舞いは義理ということだな」
「そうじゃない。ただ、たぶん……しょうがないんだ」
 そう。しょうがない。
 四季は千紘とは違ってただの高校生とは絶対に違う。
 テストの点数だとか、どの女がかわいいとか、購買のパンの争奪戦とか、そんな自分にとってそれなりに大事なものよりも
あいつは大事なものがあって、その優先度はたぶん当人が思っている以上に高い。
 キャパシティの内80%が遊びで20%が学校関連と言う自分とは絶対に違う。
 そんな四季に関われる余地など、彼が学校にいる間くらいしか無くて、病院へ押しかけてきたのも四季にとったら迷惑な
ことなのかもしれない。



「病人相手だし、あっちの都合のほうが大事だしさ」
「随分物分りがいいな」
「違うよ。ただ、俺とは全然違う世界の人だからしょうがないんだ」
「そういうもんか?」
「そういうもんだよ」
 その後も他愛のない会話を続けていたら陽は完全に落ちていた。
 見た目の可憐さとはアンビバレンスな彼女の口調や雰囲気が、どことなく四季みたいで時間も忘れて喋っていた。
 入院服を着ているのだからこんな時間までベッドの外にいていいわけはないのに彼女は全く頓着してなさそうに見えた。
「じゃあまた来るよ」
 言いにくかった言葉を千紘がようやく言ったのは、面会時間もとうに過ぎた午後7時だった。 
 廊下の蛍光灯は階段の下までは届かず、なんとなく湿った薄闇のせいで彼女の表情は見えない。
 見えないけれど。
「千紘」
 温度感のない声。
 抑揚のないトーン。
 名乗ってはいない。名前も教えてはいない。
 なのに違和感も無く、まるで知っている声が知っている言葉を喋っているかのような既知感。
「連れて行ってくれ」
 顔を上げて千紘の眼に訴えるのは、姿こそ違えどどこかで見た。
 よく知っていた。
 頷こうとした千紘の頭上に複数の足音が響く。

「四季様!」

 わかっているのは白い入院服の女の子を連れて、バイクの後ろに乗せて走り出したことだけだ。
 入院していたはずの四季と後ろに乗っている少女の関係なんてわからない。
 でも連れて行ってくれと言った時のあの眼の強さと、震える小さい手を千紘は拾ってしまった。


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最終更新:2008年12月05日 00:42
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