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『闇の中の白』(中編) - (2008/07/21 (月) 02:58:53) の編集履歴(バックアップ)
ベッドの上で膝を抱え、座ったままストーブの中、燃える炎を見つめる。
黒い檻の中でゆらめく炎。
檻の中で静かに凍りつく、私の炎。
と、ノブの回る音がして、ゆっくり隣の部屋へ続く扉が開く。冷たい空気が吹き込んできて、足先を凍えさせる。かすかな血のにおいをまとって、男はやってくる。
「・・・飯だ」
入ってきた男の手には、食事の盆が載せられている。ナイトテーブルにそれを置くと、男は背中を向ける。
「後で下げに来る」
「・・・欲しいのはお金ですか」
背中に向かってそう声をかけると、男は動きを止める。振り返ったその顔は、無表情だった。
「だったら無駄ですよ。私のために使うお金なんて、あの人たちは学費以外一円も持ってないはずですから」
「金に興味は無いさ。お前に興味があった。これから自殺しようっていうお前にね」
男の顔に冷たい笑みが浮かんだ。
「じゃあな」
男はもう振り返らなかった。
「風呂に入れ」
そう言われ、部屋を連れ出される。歩く間、男はずっと逃げないように私の腕を掴んでいた。
部屋の外は部屋と部屋を繋ぐ廊下になっていて、壁はやはりコンクリートの打ちっぱなしになっている。風呂場へ向かう途中いくつかの部屋があり、その一つ一つに木製の扉がついていた。しかし、そのほとんどは板を打ち付けて塞いである。異常な光景だった。塞がれていない扉が、男が生活空間として使用している部屋なんだろうか。
そうこうしているうちに目的の扉の前へ辿り着き、男が扉を開く。そこが脱衣所だった。薄暗い部屋を蛍光灯が煌々と照らしている。
「終わったら呼べ。ここで待ってる」
当然だろう。変な気を起こしてここから逃げられては、彼の目的は達せられなくなるのだから。
何者かもわからない男に全てを監視される生活。しかしあちらは私の多くを知っていて、しかしこちらには何の情報も無い。監視は、全ての行動に及ぶ。入浴も、排泄に至るまでも。流石に風呂場やトイレまで男が入ってくることは無かったが、扉越しに聞き耳を立てられているような不安は拭い去れなかった。
正直、重圧に耐えられるかどうか、辛いところだった。
「私に、何か変なことするつもりなんですか」
ドア越しに、その向こうに居るはずの男へ問いかける。
「だったら期待しても無駄ですよ。私、元男ですから」
「・・・お前、馬鹿だな。俺もそんなに餓えちゃいない。お前みたいな子供には元男だろうが元から女だろうが興味ない」
男は忌々しげに吐き捨てる。そこまではっきり言われると、私も服を脱ぎながら流石に腹が立ってきた。
「だったらなんのつもりなんですか。それとも、私をこ、殺すつもりですか。だったら随分奇特な方ですね。これから殺す相手に食事や風呂まで用意して世話を焼くなんて」
言いながら、膝が震えてくるのが判った。もし、自分が言ったとおりだとしたら・・・
「・・・お前をどうこうするつもりは無い。直接的にはな」
「だ、だったら、どうするつもりなんです?私なんか見てて何の面白みも無いと思いますけど」
「面白いよ」
底冷えしそうなほど冷たい声だった。
「お前、もう生きてる気も無いんだろう?だったら好きなときに死ね。見ていてやる」
この男はやっぱり、異常だ。
何時間かぶりの熱いシャワーを全身に浴びる。目を細めるほどの心地よさは、男と扉二つ隔てた空間にいることも関係しているかもしれない。浴室に運よく据えつけられていた内鍵は締めている。男が変な気を起こして押し入ってこないようにする為の保険でもあるが、もしものとき、ここに立てこもるという手もあるかもしれない。しかし、そうするには外との連絡を取る手段を得ておく必要がある。連絡手段のポケットベルは当然、既に取り上げられている。どうにかして、取り戻さなければならない。
しかし、男が変な気を起こして押し入ってくることを心配しなければならないなんて、少し前までは考えられなかった。男とは違った意味での身の危険を意識しなければならないとは、なんだか不思議だ。
ほんの少し前まで死ぬことを考えていたのに、今はなんとか自分の身を守ろうとしている。なんだか滑稽な気がして、シャワーの雨の中で段々笑えて来た。
だが、いくら滑稽だろうと、あの男に負けてここで死ぬつもりは無い。何とかして生き抜いて、あの男に勝つ。そのためには、どうにかしてここを抜け出さなければならない。
・・・ ガチャッ
「!!」
すりガラスのドアの向こうで、脱衣所の扉が開き、黒い影が入ってくるのが見える。呆然と硬直した後、気がついてすぐにドアへ向かい、ノブを両手で押さえる。そう、浴室には内鍵があったが、脱衣所に鍵は無かったのだ。
影はかがみこんで、私の脱ぎ捨てたパジャマの入っている籠に向かって何事かしている。緊迫したひと時。一秒一秒が酷く長く感じられる。そうしていると影がゆっくり立ち上がる。一瞬こちらを向いたような気がして、すりガラス越しに自分があちらに見えている事に気付いて、足の方だけ壁の側に隠れるように無理な体勢になる。
影が何事も無く出て行ったあと、私は身体の泡を洗い流すこともそこそこに、湯の満たされた浴槽に飛び込む。改めて、自分が囚われの身で、あの男の機嫌一つでどうとでもなる立場なのだということに気付いた気がした。
男が脱衣所に入ってきたのは、パジャマを交換する為のようだった。