メールが来た。幼なじみからだった。
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件名:デートしようぜえ☆
本文:明日の日曜、代乃木公園行かない?
お猿さんをウォッチングするのさ。
日本お猿さんを見る会会長より!
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俺は薄いベッドの上で横になりながら、メールの返事を手早く打ち返した。
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件名:
本文:はいはーい(汗)
待ち合わせは駅前で、一時からでいいよな。
日本お猿さんを見る会会員より。
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メールを打ち返すと、横になって読みかけだった少年誌を開いた。
休載していた漫画が再開するというので、久しぶりに買った少年誌。
昔は夢とか、情熱とか、勇気とか、そういうありふれた言葉がキーワードだったのだが、
今時の漫画にそういったものは無く、オシャレな雰囲気やキャラの魅力で売れている
ような気がしてならない。これも時代の流れだろうか。
と、昔を十分に懐古する暇も無く、メールが返ってきた。
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件名:了解しました!
本文:待ってるよダーリン!
じゃあね~。
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「なーにがダーリンだよ……」
携帯を閉じると、少年誌をわきに置いてベッドに仰向けに転がった。
高校生になってから自分の部屋が出来た。
姉さんが大学生になり、家を出て一人暮らしを始めたから、姉さんの部屋を使えるようになったのだ。
最初は自分の部屋が出来たことに感動していたのだが、この天井にも見慣れた頃、
もうそんな感情は無くなっていた。
高校生になった俺に、大して変化は無かったような気がする。
憧れの電車通学は、二週間で飽き、ただの労働になった。
ブレザーだって学ランを着ているときはあんなに格好良く見えたのに、
着慣れた今ではもはや学ランと何も変わらない、学校という名の刑務所の囚人服だ。
高校生になれば何か変わると思っていた。何か手にはいると思っていた。
しかし俺が手に入れたのは、一層色あせた退屈な日常だった。
日曜日、駅前の噴水前で、幼なじみを待っていた。
中学を卒業する直前、TSS(TransSexual Syndrome)が発症し、女になったやつだ。
生まれた時から無気力症候群にかかっている俺に対して、生きているだけで幸せだと
のたまうようなやつだった。
俺とそいつを足して2で割れば、バランスの取れた人間が生まれることだろう。
「ごっめーん! 待った?」
噴水のふちに座って携帯をいじっていた俺は、
短いスカートとクリーム色のカーディガンによって視界を奪われる。
顔を上げると、少し息を切らせている女がいた。
「今日は十分の遅刻か。好タイムだな」
「でしょ?」
「遅刻には変わりない」
「んーまあそれは言いっこなしで!」
そう言いながら幾度となく俺にため息をつかせた笑顔で、女は笑う。
何があっても、こいつは笑顔ですますことだろう。
昔からそういうところは変わっていない。女になっても、その性格は依然健在だ。
「早く行こうぜぃ。お猿さんが山に帰っちゃうよ?」
「お猿さんは檻から出ません」
「いいから早く! はーやーく!」
俺の腕を引っ張って声を張り上げる。
周りの”このバカップルが……”という視線が非常に痛い。
ご通行中のみなさま、わたくし泉堂誠(せんどう まこと)はこの恥ずかしい女と
交際をしているという事実は一切ありませんので、どうか睨み付けるのをやめて下さい。
「はーやーくーはーやーくー!」
「わかったから少し静かにしなさい」
「はーい」
片手を上げて間延びした返事を返す様は、小学校の授業風景を思い出すようだ。
いつまで経っても、こいつは変わらないままなんだろうな。
ちょっとうざったいけど、何だか嬉しい気もした。
与乃木公園はカップルの名所だ。
数十個置いてあるベンチの半分はカップルで占められている程だ。
枯れ葉の歩くと、カシャカシャと小気味よい音がする。
麻衣子はそれが楽しいらしく、わざと枯れ葉の上を選んで歩いていた。
「マコっちゃんもやってみる?」
楽しそうに笑う麻衣子には悪いが、俺は普通に歩きたかった。
代乃木公園は春には桜が満開になるのだが、今の時期に何か目的があってここに来るやつは少ない。
せいぜい金の無い学生カップルが時間つぶしに来るくらいであって、猿目当てでここに来る麻衣子は
変わっていると言えよう。代乃木公園には猿のいる檻や猿山がいくつかある。
しかし猿なんて見て何が楽しいのか、俺にはさっぱりわからん。
「見てマコっちゃん。あのお猿さん毛繕いしてる」
「ああ、してるな」
「リンゴ食べてる! かわいい」
「ああ、かわいいな」
「あのお猿さんがここのボスなのかなあ?」
「ああ、たぶんな」
「むー」
癖のあるショートヘアの間から、膨らんだ頬が見えた。
こういういかにも子供らしい反応を高校生になってもやってのけるところに、尊敬さえ感じる。
その時、真っ赤になっている麻衣子の耳に気が付いた。薄着なので寒いのだろう。
俺は自分のマフラーをそっと麻衣子の首にかけてやった。
身長が百五十も無い麻衣子だから、このマフラーで耳まで隠せるはずだ。
マフラーを巻いてやると、麻衣子はやっぱり笑って、「ありがとう」と俺に言った。
こういうときだけ笑えば、普通の可愛い女の子なんだけどな。
流石にそろそろ猿にも飽きただろうと思って、公園を出て喫茶店にでも入ろうと俺が言いかけた時、
低い声のトーンで、麻衣子がぽつりと呟いた。
「お猿さん、かわいそう……」
「え?」
いつだって明るく、笑ってはしゃいでいる麻衣子の、初めて聞く寂しそうな声だった。
「あ、聞こえてた……かな?」
「え……ああ。かわいそうって、どういう意味だ?」
麻衣子は一瞬顔を伏せて、それからまたいつもの笑顔に戻った。
「だってさー、一生ここで過ごす訳でしょ? 私だったら退屈で死んじゃうよー」
「……そりゃお前ならそうだろうな」
「でしょー? お猿さんも苦労してるんだね。自由に野山を駆け回れれば、もっと楽しいだろうにね」
「まあ、きっとこの中にだって楽しみはあるさ」
麻衣子はまだ猿山を見つめていた。表情はわからない。
俺がさっさと喫茶店に行こうと言うと、麻衣子は軍隊の敬礼のポーズで、
「イエッサー!」と言った。近くのカップルに笑われたので、短く叱っておいた。
「ほら、行くぞ」
俺が猿山に背を向けて歩き出したとき、後ろから麻衣子の声とは思えない程小さな声が聞こえた。
「本当に、かわいそう……」
振り返ると、麻衣子はまだ猿山を見続けていた。
喫茶店で麻衣子は自分の高校の話ばかりしていた。
中学を卒業すると俺は地元の公立校に、麻衣子は私立の進学校に入った。
俺の中学のやつらの三分の一が俺と同じ高校に進学したので、中学校のときとあまり変わらない。
しかし麻衣子の入った進学校は県でトップの偏差値を誇る秀才高校で、頭の悪い奴が多い俺の同級生で、
そこに入ることが出来たのは麻衣子を含め、たった四人だった。
「それでね、この前の球技大会なんかぶっちぎりの優勝だったんだよ!
私はソフトテニスだったんだけど、同じクラスの潮崎さんていう子と一緒に対戦相手をぎったんぎったんに……」
「あーその話前に聞いた」
「えと、野菊さんていう子がお弁当作ってきたんだけど、あまりの不味さにお弁当をひっくり返し……」
「それも聞いた」
「んーんー、じゃあ水泳嫌いの甲斐さんが、水泳の時間をずっと生理で通して結局泳がなかったていう話は?」
「それは聞いてない」
麻衣子の話には必ず友達の名前が出てくる。中学校のときもこいつには友達が多かった。
運動神経抜群で頭も賢ければそりゃあ人も寄ってくるだろうが、一番の理由はやはりこの笑顔だろう。
どんな時でもこいつは笑うもんだから、つられて笑ってしまうそうだ。
まあ俺の場合、保育園の頃から見てるからもう見慣れてしまったのだが。
「それでさ、先生も流石に怒って最後の体育の時間のあと、甲斐さんを呼び出して説教したんだけど、
最後まで生理で通したんだって!」
麻衣子が一通り話し終わるまで、俺は相づちだけをうっていた。
俺のことを聞き上手だと麻衣子に言われたことがあったが、俺としては一番力を使わない会話を選んでいるだけだ。
それに、麻衣子の笑顔が見られるのなら、ずっと聞き手にまわっているのも悪くないと思っていた。
喫茶店を出る頃には日が落ちていた。最近日が出ている時間が急速に短くなってきている。
麻衣子といえど一応は女の子なので、家まで送っていった。
家につくまでの会話は、俺が話す方にまわっていた。
俺が話すことと言えば麻衣子に負けず劣らず下らないことばかりだが、麻衣子はやっぱり笑顔で聞いてくれた。
本当に聞き上手なのは、麻衣子の方だと思う。
「じゃあねマコっちゃん。今度はキリンさんを見に行こう!」
「どこに行く気だお前は。じゃあな」
麻衣子は俺の方を向いて、手を振りながら玄関の方に歩いていったので、玄関の扉に頭をぶつけていた。
苦笑する俺と目が合うと、麻衣子も笑って頭をさすった。
自分の家に帰ると、夕食の準備がまだだったので自分の部屋に向かった。
ベッドの脇には昨日読まなかった少年誌が置いてある。
他に読み物が無いので、それを読んで時間を潰すことにした。
オシャレな雰囲気やキャラの魅力だけの漫画でも、読んでみると中々面白いことに気がつく。
時間が経つのも忘れ、漫画に夢中になった。
その時マナーモードにしたままになっている携帯が、俺のポケットの中で震えた。
取り出し開いてみると麻衣子からだったのだが、その内容は奇妙なものだった。
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件名:お金の事なんですが
本文:ごめんなさい。
用意できませんでした。
来月まで待ってもらえませんか?
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……なんだ、これは? 麻衣子に金を貸した記憶なんて無い。
おそらく誰かと間違えて送ってしまったメールだろう。
敬語を使っているから、部活の先輩あたりだろうか?
流石に先輩相手になると、麻衣子も礼儀正しいんだな。
その後すぐに麻衣子からメールが入った。
さっきのメールはやはり間違いだったらしい。
俺は”わかった”とだけ返した。
「誠ー! ご飯出来たから、下りてらっしゃい」
「いまいく!」
携帯を閉じ、机の上に無造作に置いた。
さっきのメールのことは既に頭に無く、俺は限界まで達している空腹を満たすことしか考えていなかった。
最終更新:2008年09月17日 20:53